第九夜 銀幕のファンファーレ
9-1 聖戦の真実
「“ルーチェモン”……!?」
期せずして声を揃えた私とインプモンに、賢者・ワイズモンはこくりと頷いてみせた。私たちは思わず顔を見合わせ、眉間に深いしわを寄せる。インプモンは賢者に詰め寄るように手元の本を目線の高さまで上げて、
「魔王の役目がルーチェモンの封印って、そのルーチェモンこそ魔王だろう?」
「それに、魔王って天使たちの敵なんでしょう? だったら何で……」
インプモンに次いで私。口々に問えば賢者は落ち着きたまえとでも言わんばかりにそっと手を挙げて、その視線が静かに私とインプモンを撫でる。
「光の化身にして闇の王。光と闇を統べる魔王・ルーチェモンが生まれたのは、新生十闘士との戦いの折だ。古代十闘士との戦いにおけるルーチェモンは、闇の側面を持たない純粋な光の天使だった」
「……何の話だ?」
「“真の闇”の話さ。古代十闘士に敗れダークエリアに封印されたルーチェモンは、その深淵に“闇”を見た」
それが何処で生まれ、何時からそこに在ったのか、それが何者なのかは誰にも分からない。と、賢者は続ける。
「あるいは“黙示録の怪物”に列なるものか……いずれにせよ推測の域は出ないがね」
そう語る賢者に、インプモンが少し苛立ったような声を上げる。気持ちは分からなくもないのだが。
「さっぱり話が見えてこねえ。解るように話せよ」
「失敬。つまりはその“闇”こそがルーチェモンを、ひいては君たちを魔王たらしめた始まりだということだ」
「その“闇”を七つに分けたのが七大魔王なんでしょう?」
「そうであるとも言えるが、そうでないとも言える」
首を傾げて問い返す私に、賢者は小さく首を振る。
「ルーチェモンは“闇”のすべてをこの世に解き放った。七つに分かつことなどせず、ありのままに」
それこそが“傲慢”の王たる由縁。自らを絶対者と信じて疑わず、他者の手を借りることなど決してない。
「ダークエリアの深淵に在って“闇”とルーチェモンは一つとなった。元来自我など持たないそれはルーチェモンそのものになったのだ。そうして“闇”はルーチェモンとともに地上へと現れ出る――はずだった」
「はずだった……って?」
「“闇”が七つに分かたれたのは地上への進出を果たした、正にその時。ルーチェモンの復活を手引きした“裏切りの天使”の手によって」
彼方の空を仰いで、賢者は語る。
「それが意図したことか、はたまた偶然だったかは分からない。何せ本人に幾ら問うたところで、はぐらかされるばかりでね」
かつて側近としてルーチェモンに仕えた最上位天使。天より堕ちたる者。あるいは、天より降りたる者。
賢者の言葉に、ふと“その顔”が過ぎる。それはインプモンも同じだったのだろう。私とインプモンが声を上げたのは、ほぼ同時。
「リリスモン……」
と、呟くような声には、どこか確信にも似た響きが混じる。賢者は小さく頷いた。
「ルーチェモンとともに解き放たれ、ルーチェモンより切り離された“闇”は、六つの器へと分けられた」
「その器とやらが俺たち、ってわけか」
インプモンは自嘲めいた笑みを浮かべる。気付いているのかいないのか、そんなインプモンにも構わず賢者は、けれどと言葉を続ける。
「仮にリリスモンの行動がルーチェモンへの忠誠心故とするなら、それ自体は誤算以外の何物でもなかったろうがね」
「誤算?」
「ルーチェモンの身を案じるが故、強大過ぎる闇がルーチェモンの光すら飲み込むことを危惧したか、あるいは万が一のバックアップか」
ぴくりとインプモンの眉根が揺れる。確かに何やら軽く流せる言葉には思えなかったが、しかし賢者はなおも語る。
「どちらにせよ、いずれルーチェモンの敵となるであろう魔王の存在は想定外だったはずだ。リリスモンがルーチェモンの忠臣だと仮定した場合、だがね」
それだけ言うと賢者は大きく息を吐く。なるほどね、とは到底いくわけもない内容だったが、いや、あるいは端からこちらの反応を待っているのか。ならばと問うてみる。
「敵、って?」
愉快な七人の仲間たち、などとは微塵も思っていなかったけれど、それでも同じ魔王ではないのか。そう問えば賢者は私を指差して、
「そう、正にそれが答えだ。かつてのルーチェモンを知る者ならば誰もがそう考えるだろう」
ゆっくりと、賢者のその指先がインプモンを指す。
「同じ時代に在らば間違いなく君たち魔王の敵となった。何故ならルーチェモンは……」
賢者はそっと瞳を閉じる。一拍を置いて語るその言葉に、私とインプモンは思わず目を丸くする。
「誰よりもこの世界を愛し、その行く末を憂い、確かな正義を以って平和を為そうとしたのだから。でなければ、天を二分するほどの大戦など起こるはずもなかったろうからね」
それが世界から疎まれ、憎まれるような存在であったなら、話はどれほど単純だったろうか。
世界を愛し、世界に愛された光の天使・ルーチェモン。その理想と正義に、天の軍勢の三分の一にも上る天使たちが付き従い、世界を分かつ大戦が勃発した。ルーチェモンの築き上げる平和なる世界か、十闘士の切り拓く自由なる世界か。未来を選ぶ、大戦が。皮肉にも終戦の英雄は、英雄であるが故に開戦の火種となったのだ。
「清廉潔白を絵に描いたような聖人君子。それがルーチェモンだよ。想像とは違ったかい?」
そう言って笑う賢者に、私とインプモンはただただ困惑するばかり。
「え……ええ、随分と」
傲慢不遜を絵に描いたような悪逆暴君。というのがリリスモンの話から抱いた印象だったけれど。それがルーチェモンの真実であるとするならつまり、
「つまり、アポカリプス・チャイルドは……」
「そう。ルーチェモンの信奉者だ」
と、賢者が私の言葉を継ぐ。
「三大天使と袂を分かった背信の天使たち――彼らにとっては十闘士に組した三大天使こそが裏切り者だろうがね」
「目的はルーチェモンの復活。その手段が、俺たち魔王の抹殺か」
「その通りだ。君を封印に留めたのは恐らく、ダークエリアの調査に何らかの形で利用するためだろう」
そう言って賢者は地面を指す。
「ダークエリア?」
「そう。闇は世界の深淵・ダークエリアにおいて再び一つになる。と、されている」
「なんだ、されているって」
「ダークエリアとは死したデジモンを取り込み、その破損した肉体の構成データを最小単位まで分解し、世界そのものに還元する循環装置だ。本来生きたまま進入することなどできはしない」
賢者は小さく首を振る。世界の不可侵領域、ブラックボックス……知ることの代償は命というわけだ。が、賢者はけれどとインプモンを指差す。
「ダークエリアに適応することで進化を果たした者、闇の領域で生まれた闇の眷属であれば話は別だ。その中でも最上位の七大魔王、それも……」
「おまけに一番の青二才なら絶好のカモ。とか言いてえのか」
「そこまで言うつもりはなかったが、まあ、そんなところだ」
こくりと頷く賢者に、インプモンは不機嫌そうに眉をひそめる。自分で言っておいて、と私は肩を竦めて溜息を一つ。
そんな折だった。遠く、空を裂いて地を揺らす轟音が鳴り響いたのは。
「な……なに? どうしたの?」
突然の轟音と震動。岩肌からぱらぱらと砂埃が舞う。私は岩壁に手をついて、岩の窪みの外へと目を遣る。視線の先でレイヴモンはただ一言。
「空を」
そんな言葉に私は、断続的な地鳴りに足を取られながもよろよろと、覚束ない足取りで数歩を進んで、そうして絶句する。
「“生命の木”――アポカリプス・チャイルドの本拠地だ」
そう語る賢者に私は、空を見上げたまま半ば呆然とその名を繰り返す。
「生命の……木?」
「通称、だがね。その真の名を……」
空に鎮座する様はまるで、月でも落ちてきたかのよう。それはどこまでも巨大な球体。その表面は一部を除いてのっぺりと無機質で。どこをどう見ようがとても“木”などには見えない異形のそれを、賢者はこう呼んだ。
「“セフィロトモン”」
と、どこか淡々とした口調で。
無機質なその姿形の中にあって異彩を放つただ一点。ぎょろりと不気味に覗くその、巨大な目玉が私たちを値踏みするかのようにゆっくりと動く。
私は思わず半歩後退り、か細く言葉にならない声を漏らす。
「デ……デジモン、なの?」
こくりと喉を鳴らし、一呼吸を置いて絞り出すように問えば、賢者はああと頷く。
「残念ながらそのようだ。あれは“鋼のセフィロトモン”。紛れも無い、十闘士の一人だよ」
「じゅ……え? それって」
「ストップ。これ以上は後にしよう。こうなってはここも安全とは言い難い。僕としてはこの小世界からの即時脱出を提案したいのだが」
天にうごめくその規格外の化け物を目の当たりに、そう言われては一も二もあろうはずがない。私は窪みの奥を振り返り、
「ベヒーモス、動ける?」
そう問えば内燃機関の小さな唸り。ベヒーモスは歩くような速度でゆっくりと私の真横までやって来る。まだ本調子ではなさそうだが、仕方がない。後は、とインプモンへ目を遣る。
「ああ、しょうがねえな」
声を掛けると返ってくるのは意外に素直な即答だった。いや、それほどの状況ということか。インプモンは一度だけ戦場を、自らの肉体があるであろう遠境を見遣って、小さな舌打ちを零しベヒーモスに飛び乗る。私もまたベヒーモスに跨がり、先行して周囲を警戒するレイヴモンを追って、おもむろに走り出す。
一難去って何とやら、か。思えばその連続なのだけれど……嗚呼、悪夢だ。
9-2 金生の水軍
「隊列を乱すな! 制圧するぞ!」
幻獣・グリフォモンの号令に、エルドラディモンを包囲する聖獣部隊が砲撃の構えを取る。いまだ空中でクロスモンに追い縋る暴竜・カオスドラモンを横目に。その特攻には驚かされたが、それ自体は好機に外ならない、と。ダークドラモンがミラージュガオガモンに抑えられ、暴竜が自ら飛び出した今、エルドラディモンの守りは指揮官不在の陸軍のみ。
「構えっ!」
規律正しい編隊を組み、聖獣部隊は各々の武器を構えて狙いを定める。――そんな光景を、暴竜に陣形を崩されたが故に客観視できたクロスモンは、ようやくその違和感に気付く。
何故こうも容易く包囲できたのか。簡単だ。“奴ら”が攻撃の手を緩めたからだ。
「待て、グリフォ――」
「撃てえぇーーー!」
クロスモンの制止は、ほんの一歩遅く。幻獣の号令がその引き金を引く。
クロスモンたちとは別ルートからこの小世界に進行する手筈であったグリフォモン指揮の聖獣部隊。それを見越したゼブルナイツの別動隊により足止めを食らい、遅れてやって来た彼らは先の奇襲を見ていない。到着と同時に戦闘となり、それを聞かされる猶予もなかったのだ。いや、そもそも目の前で交戦していた敵の存在など、わざわざ伝えるまでもないこと。
けれど、智将はそんな戦場の混乱に乗じ、自分たちの存在を秘したのだ。一時とはいえ守りを手薄にしてまで。肉を切らせて、骨を断つがため。
一斉に放たれる聖獣部隊の砲撃。同時にそれを真下から迎撃するのは氷の矢。と、水面を裂いて、再び湖が逆巻く。
「メタルシードラモン!?」
グリフォモンがその存在に気付いた時、そこは既に大竜巻の渦中。
不覚、としか言いようがない。ゼブルナイツが空軍・陸軍・海軍の三軍団で構成されていることは知っていたはずなのに。海軍の存在を失念するなど。足止めのために別動隊を捨て駒にする非道、暴竜の挑発にまんまと乗せられ冷静さを欠いたのだ。あるいはそれすらも計算の内か。恐るべきは思い込みと偶然、この混乱を巧みに利用するその手腕。三将軍随一の切れ者とさえ評される“静かなる深海の智将”――メタルシードラモン。
大竜巻の中で怒りと悔恨に顔を歪ませる幻獣。激流に軋む四肢。どうにか逃れようともがき、そんな時。
「あーあ。やっぱあたしがいないと駄目ね」
溜息混じりに、彼女はそう言った。
ぱちん、と彼女が指を鳴らすと、途端に大竜巻の一部が弾け飛ぶ。激流が中程で穿たれて、不自然に開いた穴の中には幻獣の姿。すぐさま幻獣は翼を広げてその場から離脱する。直後に穴は消え、捉えたはずの標的を失った竜巻が、虚しく空へと立ち昇る。
「今のは……」
幻獣は辺りを見渡す。そうして眼下にその小さな姿を見付け、理解する。その真横で幻獣を取り逃がした竜巻が次第に収縮し、やがて霧消する。
飛沫散る中、空より舞い降りたそれは湖へと“降り立つ”。水面の上に、まるでそれが当たり前であるかのように佇んで、そっと、片腕を上げる。
周囲のデジモンたちに比べ余りにも小さなその姿。身の丈も、その体つきも顔立ちもまるで人間の少女のよう。けれど人ならざる翡翠の肌に、頭部や腕は水棲生物を思わせる青の流線型。人外の少女は顔の高さまで上げた手、その指を再び打ち鳴らす。
一拍の静寂。そして水面が爆ぜる。激しい水飛沫と、次いで水中から次々に飛び出す、否、弾き出される、長蛇に似た碧の竜。数にして十と少し。それは先の氷の矢の射手、ゼブルナイツ海軍の兵士たち。
「邪魔しないの。海は苦手なんだから、あの子たち」
青の少女はおどけるように、立てた一本指をちっちと揺らす。その足元で水面に影が揺らめく。小さな影は瞬く間に大きくなって、
「どーしても、って言うならぁ……」
そう言って少女が無造作に水面から跳躍した、その直後。今の今まで少女のいた場所を、巨大なあぎとが一瞬に飲み込む。少女は宙でくるりと反転し、その姿を視認する。少女を食い殺さんと水中から襲い掛かった金のあぎとの海の竜。それは、ゼブルナイツ三将軍の一角・メタルシードラモン。静かな殺意を燃やす海竜に、少女が叫ぶ。
「だったらこのあたし! “水のラーナモン”が遊んであげる!」
そう、青の少女――古の英雄のスピリットを継ぐ者、十闘士が一人、水の闘士・ラーナモンは高らかに名乗りを上げる。と同時に右腕を海竜に向けて突き出す。“水”の二つ名は王なる者の証。その意に応え、湖がうねる。
けれどそんなラーナモンの姿を横目で捉え、海竜は水上に飛び出した勢いそのままに、長い体で弧を描いて即座に身を翻す。再びそのあぎとがラーナモンへと迫る。ラーナモンもまた怯むことはなく、
「湖の藻屑になんなさい!」
そして二人の水の王が、激突する。
水流が無数の蛇のように海竜を襲う。鉄をも穿つと自負するラーナモンの水の矢。けれど、超金属クロンデジゾイドに覆われた海竜を傷付けるには至らない。水圧に僅か顔を歪めながらも、それがどうしたと言わんばかり、ラーナモンに迫る海竜の額の刃がぎらりと閃く。
ち、と舌打ちを一つ。ラーナモンは水流を自らに向け、その身を海竜の攻撃の軌道から逸らす。またも獲物を取り逃がし、海竜は歯列を鳴らす。その歯牙の一本よりもなお小さいラーナモンは、海竜にとって羽虫を捕らえるようなものだろう。
「硬っ! 何こいつ意味わかんない!」
などと喚く羽虫に、苛立ちはお互い様だと海竜は牙を打つ。とは言え、形勢まで互角かと言えばそうではない。回避力と防御力、先に消耗するのがどちらであるかなど火を見るより明らかだ。あれだけ勇んで出て来ておいて、このまま分の悪すぎる消耗戦などするはずもないだろう、と。目に見える優勢に海竜が警戒を強めた、そんな時。
「少し落ち着き給え、ラーナモン」
声はすれども姿は見えず。どこからともなく聞こえる声に、ラーナモンの眉根が歪む。その不可解に、ではなく、その正体を知るが故だろう。
「うるさい、もう! わかってる!」
海竜を見据えたままにラーナモンは叫ぶ。と同時、無造作に片腕をふるえば、応えるように水面が弾ける。ラーナモンを中心に立ち上る、オーロラを思わせる水の膜。攻撃にも防御にも役立たないであろうそれに、海竜は顔をしかめ、追撃のために構えた体を一瞬硬直させる。それが単なる目眩ましだと気付いたのは直後。
ぎり、と牙を噛む。即座に水の膜へ攻撃を仕掛けるも、既にラーナモンの姿はない。海竜は攻撃の勢いそのままに湖へと潜行する。この場でどこへ消えたかなど考えるまでもない。
「おおぉ……――――!」
海竜は瞼を閉じ、あぎとを開いて喉を鳴らす。唸りは高く高く音を上げ、高周波の音波となって湖を震わせる。泥に濁る水中で頼るべきは視覚ではない。音速で拡がる波、その反射に、視覚を遥かに超える精度で聴覚が水中を見通す。水中においては千里眼にも等しいそれ。その、はずなのに。
海竜がはっと目を見開く。ラーナモンと思しき敵影は湖のどこにもない。代わりに捉えたのは似ても似つかぬ異形。その正体を海竜が理解したのは、一拍を置いてから。僅か届かず、異形に出し抜かれた、その直後だった。
水面が逆立ち、影がうごめく。ラーナモンとメタルシードラモンが水中へ姿を消して僅か数秒。再び水上へ現れたそれはしかし、そのどちらとも違う異形。白蛇に似た何か。その一部が水上でアーチを描く。波紋が揺れ、波風が散って、波濤が逆巻く。アーチが鞭のようにしなり、その先端があらわになる。
それは触手。白くのっぺりとした、巨木のように長大な触手の先にゼブルナイツ海軍の兵が搦め捕られ、苦しみに呻く。ぎぎ、と筋肉と骨子が一際大きく軋む。そうしてもはや呻きも漏れなくなった兵を無造作に放り出し、触手は水面を叩き付けるようにして再び潜行する。
海竜がその残像を薙いだのは、僅か一瞬の後。
ぎりと牙を鳴らし、海竜もまた水中へ取って返す。直後にその場から一直線に次々と水面が爆ぜ、立ち上る水柱とともに海軍の兵たちが水中から弾き出される。海竜の攻撃をかわしつつ着実に兵力を削ぐ、その手際は当のメタルシードラモンをして怒りの中に思わず感心の念さえ混じるほど。遊泳速度一つとっても、海で随一を自負する海竜と少なくとも同等。いや、ともするとそれ以上か。
縮まらぬ彼我の距離に苛立ちながらも海竜は触手の主を追う。ただ、その位置だけは音波のソナーに頼るまでもなく容易に捉えられた。触手の主が通り過ぎたその後には水が渦を巻いていたのだ。恐らくはドリルのように水圧をえぐり貫いて進んでいるのだろう。海竜は音波を信号に、配下の兵と連携して攻撃を仕掛けるも、攻撃と防御を兼ね備えたその特異な遊泳方法の前にはいたずらに兵を浪費するだけにしかならない。
触手の主は潜行と浮上を繰り返しなおも次々と兵力を削いでいく。海軍は拠点防衛の要だ。それが僅か一騎にこうも掻き乱されようとは。と、海竜が海軍の手の回らなくなった水上の戦況を憂いた、正にそんな時だった。戦場の上空に浮かぶ“生命の木”より、それが現れたのは。
ゼブルナイツ海軍を水中に引き付け、陸空軍を防衛のみに注力させる。そうして邪魔物を排除した後、悠々と“生命の木”より降下を始めるのは、アポカリプス・チャイルドの更なる援軍だった。守ることで手一杯の陸空軍にそれを止める術はない。触手の主で手一杯の海軍がそれに気付いた頃には疾うに手遅れ。
水中戦に特化したと見られる聖獣部隊の追加戦力とともに、アポカリプス・チャイルドのもう一つの戦力――天使たちが、舞い降りる。
9-3 銀幕の天使
“生命の木”の巨大な瞳が瞬いて、姿を見せる白妙の天使たち。そして彼らとともに降り立つのは水棲生物を模した神の獣、アポカリプス・チャイルド聖獣部隊の水軍。雨あられと降り注ぐように、天使たちは空の部隊と合流し、水軍は湖へと着水・潜行する。
「勝負あり……かな? ふふふ」
そんな様子を“生命の木”の内部より、遥か眼下に見下ろして彼は笑う。鏡の表面に口紅で描いたような唇を笑みの形に歪めて。その声はつい先程、眼下に遠い戦場でラーナモンに語り掛けた声だった。
「ラーナモン一人で十分か。我々の出番は今のところなさそうだが」
そう続ける、その身は至る所に鏡、鏡、また鏡。姿見のような体、唇だけの鏡の顔、両腕にも大きな円形の鏡。それでいて立ち振る舞いはどこか優美で。鏡の貴人、といった風貌だった。
貴人は顎を撫で、ふむと唸って後ろを振り返る。
「君はどう思う、レーベモン?」
貴人の視線の先で、獅子を模した黒き鎧を纏う武人が閉じていた目をそっと開く。腕を組み、眼下に向けるその目はどこか冷めて見えた。レーベモンと呼ばれた黒の武人は、鏡の貴人と目を合わせることもせぬまま素っ気なく、
「お前がそう思うのならそうなのだろう、メルキューレモン」
とだけ言って、また目を閉じる。鏡の貴人――メルキューレモンが他人の意見を自らのロジックに組み込むことなど端からありはしないのだと、レーベモンは知っていた。
メルキューレモンは肩を竦めて小さく笑う。
「ふふ、相変わらずつれないな」
「楽しいお喋りがお望みか?」
「いやいや。ふふふ、詰まらないことを言ったね。忘れてくれ」
なんて、おどけるように首を振る。レーベモンは小さな小さな溜息を一つ零す。そういうお前こそ相変わらず人を小馬鹿にしたような態度だなと、言葉なく冷めた視線だけを流す。そんな無言の非難には気付いているのかいないのか、メルキューレモンは「それより」と眼下を指差す。
「嗚呼、見給えよ。ふふ」
その指の先はなおも降下を続ける白の天使たち、それを指揮する銀の天使へと向けられて。
「誰かと違って勤勉なことだ。いやはや、まったく頭が下がる」
雄々しき姿は歴戦の猛者。その身を覆う銀の甲冑の下に、いまだ浅くない傷を残すことなどまるで悟らせないほど、凛と。断罪者なる剣の天使――スラッシュエンジェモンが、天に舞う。
その腕は差し延べる手ではなく、斬り裂く刃。銀の鎧の背に負う翼もまた刃。かしゃりと鳴らして風を切る。勇ましき剣の天使は刺すような闘志をたぎらせ戦場へと翔ける。
曇り無きその戦意は、あの時と何も変わりはしない。魔王が二つに分かれたあの時――想定外の事態に仲間たちが出遅れる中、魔王の片割れを追って唯一開いたゲートへの侵入を果たした、あの時と。抱く信念と正義に疑いは無く、臨む戦いに迷いは無い。それは間違いなく彼の強さでありながら、どこか危うくもあった。
「重傷と、聞いていたが」
「ふふ、私もそう聞いていたよ」
次第に遠ざかる剣の天使の背を見据えたまま、レーベモンとメルキューレモンはそう言って肩を竦める。メルキューレモンは小さな溜息を一つ、
「違ったかな、クラヴィスエンジェモン?」
なんて、わざとらしく首を傾げて振り返る。視線の先には重厚な白の甲冑を纏う天使が、手に巨大な鍵を携え静かに佇んでいた。鍵の天使・クラヴィスエンジェモンはがしゃりがしゃりと鎧を鳴らしてゆっくりとメルキューレモンたちへ歩み寄る。そうして視線は眼下、剣の天使へ。
「いまだ完治とは言い難いが……」
「言って止まる訳もないか。ふふ」
リアルワールドへ逃れた魔王の片割れをデジタルワールドへ連れ戻すべくゲートへと引きずり込んだ際、魔王はゲート自体を攻撃することでアポカリプス・チャイルドの手から再び逃れてみせた。ゲートに横穴をこじ開け、無理矢理に。空間の転移はただでさえ大きな危険を伴うのだ。破損したゲートなど、命あって帰って来れただけでも僥倖と言える。
魔王との戦いで負った傷に加え、デジタル空間からの侵食によって危うく分解されかかった剣の天使の体は、見た目以上に重傷。の、はずなのに。
「よくもまあ、あんな体に鞭を打てるものだ」
やれやれとでも言わんばかりに首を振るメルキューレモンに、鍵の天使はぎりりと歯列を鳴らす。門番と戦士。役割が違うというだけで、魔王を取り逃がしたと自責に苦しむ友の手助けもしてやれない、と。
そんな鍵の天使にメルキューレモンは肩を竦めて溜息を吐く。
「君も負けず劣らずだな。だが、ふふ、そう心配することもあるまい。既に勝ち戦だ」
そう、戦局は明らかに優勢。だというに、何故だろう、不安が拭えないのは。鍵の天使はぽつりと呟く。
「だと、いいのだがな……」
「ここから戦況が覆ると?」
「いいや。ただ……」
メルキューレモンの問いにも鍵の天使の視線は変わらず眼下。喉元まで出かかった言葉を飲み込むように口を真一文字に結び、僅かの沈黙を置いて首を振る。それは、あるいは自らの思考を振り払うためか。その表情はどこか雲って見えた。
「最後まで、油断はできまい」
とだけ言って、鍵の天使は再び戦場を見遣る。メルキューレモンは小さく肩を竦めて唇を笑みの形に歪める。言いたいことがあるなら――とは、言わなかった。
「ああ、確かにその通りだ。ふふ。抜かりはないよ」
そう微笑するメルキューレモンが指をタクトのように振ると、どこからともなく宙に丸い鏡が現れる。その鏡面には延々と列ぶ0と1とが右へ左へと流れて浮かぶ。メルキューレモンは鏡のディスプレイを撫で、ふむと唸る。
「七割といったところかな。君の出番も近いな」
振り向く視線の先は、レーベモン。メルキューレモンが声を掛けるとレーベモンは腕を組んだまま、目を閉じたままに静かな口調でただ一言。
「それまで持てばな」
そしてまた、口を閉ざす。
「ふふ、まったくだ。だが……そうそう、油断大敵、だそうだからな」
鏡のディスプレイと眼下の戦場へ交互に目をやって、メルキューレモンは肩を震わせからからと笑う。何もかも、誰も彼もが愉快だとでも言わんばかりに。
鏡に浮かぶ0と1の文字列――この小世界の組成を表すデジコードの羅列はさながら盤、戦場にひしめく有象無象は駒といったところか。升目で区切られた盤上を進む無数の駒。それはまるでボードゲームか何かのように思えて、嗚呼、何とも壮大な遊戯ではないか、と。それを遥かな高みから見下ろすこともまた爽快で、気付けば笑みが零れる。
趣味が悪いな。なんて、自嘲する。そんな自分がご大層な英雄の“魂”とやらを受け継ぐ選ばれた闘士であることもまた滑稽だった。
「どうかしているな。ふふ」
独り言のように呟くそれは、果たして誰に向けた言葉か。メルキューレモンはもう一度だけ宙に浮かぶ鏡を撫で、ぱちんと指を打つ。鏡は陽炎のように虚空に溶けて、音も無く消失する。
その様を一瞥し、レーベモンはまたそっと両の目を閉じる。そうして――
そうして遥か遥か、小世界の果て。水源からも遠くいまだ枯れた森の面影を残す荒野で、影なる黒き騎士が、目を開く。
9-4 暗幕の騎士
「ねえ、さっきの話だけど」
疾走するベヒーモスの上で視線だけを後ろにやって、風の音に紛れぬよう声を張る。後部座席のインプモンが抱える魔術書から浮かぶホログラムの賢者は嗚呼と応えて、
「十闘士であるセフィロトモンが何故アポカリプス・チャイルドの――ルーチェモンの側についているのか、かな?」
「ええ、だって十闘士は……」
「ルーチェモンを倒した張本人。だったな」
ぽつりと呟くようにインプモンが私の言葉を継ぐ。そう、確かにリリスモンはそう言っていた。私は眉をひそめて上空に浮かぶセフィロトモンを一瞥する。賢者は小さく息を吐き、静かに語り出す。
「古代の英雄たる“初代”十闘士は、戦いの中、ルーチェモンを討ち滅ぼすことができなかった」
「確か、封印って言ってたっけ」
「そう、ルーチェモンの力は余りに強大だった。命を賭してなおダークエリアに封じることが精々。“初代”十闘士たちは死の際に、いずれ避けられぬであろうルーチェモンの復活に備え自らの力を“スピリット”と呼ばれるアーティファクトに結晶化し、後の世に託したのだよ」
それが一度目の戦い。リリスモンは確か、その数百年後に二度目の戦いが起こったと言っていたか。
「スピリットは“初代”十闘士の盟友・三大天使の手によって後世の新たな闘士たちに受け継がれた。それが“二代目”の十闘士だ。そして……」
一拍を置いて、賢者は言う。
「恐らくあれは“三代目”」
「じゃあ……前の戦いの時とは別人ってこと?」
「嗚呼、戦いの末“二代目”十闘士は勝利を収めるも、けれど彼らが討ち取ったのはルーチェモンの“光の半身”に過ぎなかった。残る“闇の半身”を、彼らは自らのスピリットを以ってこの地上から排したのだ。そうして“闇”とともにスピリットもまた失われた。はずだった」
賢者の言葉にインプモンは空を仰ぐ。
「失われてねえじゃねえか」
「そのようだね。スピリットは世界の深淵・ダークエリアに“闇”を留める楔として打ち込まれていたのだろう」
「それがあいつらに奪われて、逆に利用されちゃった訳ね」
「スピリットは、乱暴に言ってしまえば武器に過ぎないからね」
つまりは善も悪も使う者次第。今は、彼らもまた私たちの敵か。どこもかしこも敵だらけね。なんて大仰に溜息を吐いて、そうして――私はおもむろに視線を上げる。
「ねえ、レイヴモン」
私の呼び声にベヒーモスの僅か前を先行するレイヴモンは、宙で器用に半身を捻って振り返る。
「如何なされましたか」
問うレイヴモンの声に、視線に、愚直で不器用な音を感じ取り、思わずくすりと笑う。そう、この響きこそが今の私たちに必要な、確かな真実だった。
私は戦場に一瞥だけをやり、首を傾げるレイヴモンに向き直る。
「今は、少しでも味方が必要な時だと思うの」
ぴくりとレイヴモンの眉根が揺れる。
「聞かせて、あなたの仲間のこと」
「それは……」
私の言葉にレイヴモンは明らかに戸惑い、返答に詰まる。そんなレイヴモンに代わって声を上げたのはインプモンだった。
「おいヒナタ、何考えてんだ?」
「何って?」
「俺たちはその両方に命を狙われたんだろ」
嗚呼、そんなことは分かっている。分かっているとも。けれど、
「まだ生きてるじゃない」
と言ってやればインプモンもレイヴモンも目を丸くして絶句する。そんな中で唯一ワイズモンだけが小さく笑う。
「確かにその通りだ。いや、君の言わんとしていることは分かるよ」
「ちょ……何の話だよ」
「あの青い鎧のデジモンよ。ミラージュガオガモン、って言ったっけ」
「俺を殺しかけたあいつか?」
後部座席から首を伸ばして問うインプモンを、私はハンドルから離した片手でびしっと指差す。
「そう、それ。本当に死にかけたの?」
そう問えば、私の意図を察しインプモンは眉をひそめる。
「わざと見逃したってのか?」
「だって、私は見付けただけでしょう?」
つまりインプモンは生きていた。生かされていた、ということではないのか。
「あるいは実は死んでいたか、だね」
私の問いに賢者は言う。って、死んでいた?
「どういうこと?」
「正確には限りなくそれに近い状態、死の間際から君が辛うじて命を引き戻したとするなら、ホウオウモンが探知できなかったことも納得がいく。まあ、あくまで一つの可能性だが」
あ、と。言われて気が付く。いや、思い出す。失念していた。私があの時、インプモンは死んだのだと思ったのもそれが理由だった。
「なら、やっぱり……」
視線で問う。レイヴモンはただ首を振る。自分の浅慮に思わず溜息が漏れた。
けれど、そんな時――
「手なら俺が貸そう」
突如として虚空より響く声は、そう言い放つのだった。
そこに在ることがさも当然と言わんばかり、それは悠然と佇んでいた。けれどその存在は私たちにとってはまるで予期せぬもの。慌ててハンドルを切ればベヒーモスの前輪が横這いに地を掻いて、けたたましいブレーキ音が耳を衝く。
レイヴモンが腰の刀を逆手に構え、インプモンが指先に炎を点して、それに対峙する。
「誰だ」
ただ一言、インプモンが問えば佇むそれ――不気味な黒い鎧を纏う騎士もまた、ただ一言をもって返答とした。
「ダスクモン」
とだけ。
デジモン、なのか。何か他のデジモンとは一線を画した、異質を感じて私は眉をひそめる。
身の丈は人間と変わらない。所々に目玉のような装飾をあしらった、薄気味悪い黒色の鎧で全身を覆う。対照的な長い金の髪をなびかせて、黒の騎士・ダスクモンは私たちを見据えていた。
「ねえ、今どこから……」
しばしの沈黙を置いて、ベヒーモスにしがみついたまま、状況も飲み込めず私は問う。
突然声がして、気付けば騎士はそこにいた。インプモンとレイヴモンの反応からして、彼らでさえも完全に不意を衝かれたのだろう。不甲斐ない、とでも言わんばかりのレイヴモンの横顔が、それを如実に物語っていた。
「闇の中からだよ」
そんな時、答えたのは当人でも、インプモンやレイヴモンでもなく、ワイズモンだった。賢者の声に私は振り返る。そうして思わず、あ、と声が漏れる。
咄嗟に臨戦態勢に入ったインプモンが放り出してしまったのだろう。私はベヒーモスから飛び降り、荒野に転がる魔術書を拾い上げる。
「ワイズモン、知ってるの?」
「嗚呼、知り合いかという意味ならノーだが、彼が何者かは知っているよ」
書を抱えて、もう一度視線を黒騎士へ。
「十闘士の一人“闇のダスクモン”。闇こそが彼の領分――闇に姿をくらますことなど造作もあるまい」
そう続ける賢者に、インプモンとレイヴモンの目の色が変わる。
「それって……!」
空気が張り詰める。一触即発、とはこのこと。けれども黒騎士は変わらず棒立ちのまま、
「敵意はない」
とだけ言って肩を竦める。
「手を貸すと、そう言ったはずだ」
「何?」
「じきにエルドラディモンは捕縛される。そうなれば肉体を取り戻す機会はもはや無い」
そう語る黒騎士の眼差しに、曇りはない。
「決断しろ。信じるか否か。退くか、進むかを」
>>第十夜 蒼天のコマンドメンツ