第七夜 灰燼のフロンティア
7-1 運命の交錯
「ミラージュガオガモン!」
「……大丈夫だ」
駆け寄る天使をただれた腕で制し、騎士は搾り出すような声で言う。片腕は地に着いたまま、膝は折れたままに。虚勢であることは火を見るより明らかだった。だというのに、
「先に行ってくれ。すぐに追う」
なんて物言いも嗚咽混じり。何を言っているのだと天使は手を貸そうとするも、それでもなお騎士は毅然と、
「まだ終わってなどいない」
と、そんな言葉は彼方の空を仰いで。天使は一瞬の躊躇い。しかしこくりと頷き翼を広げた鳳凰に、倣うように踵を返す。嗚呼そうだ。ようやく見付けた奴らの本拠地を、奪われた魔王の肉体を目前に、立ち止まる隙などない、と。天使は言い聞かせるように奥歯を噛む。
そうして天使と鳳凰は地を蹴り、じきに戦いが始まるであろう戦場へと飛び立った。残された騎士はその後ろ姿を見送ると、荒い息を整え、おもむろに立ち上がる。
灰から爪を引き抜く。見上げた空、天使と鳳凰の姿はやがて見えなくなる。爪を見遣り、こぼれ落ちる灰を静かに見詰め、騎士はゆっくりと目を閉じる。
この裏切りに、後悔など許されない。贖罪など許されない。道は、ただ前にしか無い。
ゆっくりと目を開き、騎士は次なる戦場へと発つ。
――と、そんな姿を横目に、私は震える手を口元からゆっくりと下ろす。
天使を、鳳凰を、騎士を、その背を黙して見送り、そうしてようやく私は深く息を吐く。
「行った……?」
「の、ようで」
恐る恐る問えば、レイヴモンはそう言って姿隠しを解く。私は数歩を進み、灰色の空を仰いだ。どうやら最後の最後まで私たちには気付かなかったようだ。とは言っても、私たちが辿り着いたのも今し方。天使と鳳凰が飛び立った、その直後のこと。
ふらりと、膝を着く。遅かった。余りにも、遅すぎた。
「インプ……モン……」
鳳凰は私たちに気付かなかった。インプモンと別れた時もそう。それは鳳凰の言う微かな邪気とやらが、魔王の化身であるインプモンのことであったがゆえ。つまり、
「死んだ……の?」
私を逃がすために囮となって、私を逃がすために傷ついて、私を逃がすために――。知らず、体が小さく震えた。レイヴモンは何も言わなかった。
嗚呼、頭が痛い。悪夢の元凶がいなくなったというに。耳鳴りがする。気分は最悪。まるで……悪夢のようだった。
雑音が聞こえた。小さくか細く、けれども強く。それは死の瀬戸際で足掻く、か弱い虫けらの羽音のようで――
不意に耳を衝いたノイズはどこか聞き覚えのあるような……嗚呼、気分が悪い。頭は熱を帯びたよう。焦点も今一つ定まらない。
「……ミラージュ……ガオガモン」
空を見上げて零すそんなレイヴモンの呟きも、言葉自体は嫌にはっきりと聞こえているというに、まるで頭の中を素通りしていくかのよう。私はそのまま、頭を抱えてうずくまった。
そんな様子に気付いたか、駆け寄るレイヴモンの声と気配を背中に感じる。ものの、どこか感覚は希薄で、どこからか響くノイズだけが次第に大きく強く、私の世界を満たしていく。
ぎゅ、と、震える体を自ら抱きしめて。もはや頭だけじゃない。全身を満たすようなそれは、時に規則的に、時に変則的に、どこか不器用な旋律を刻むよう。そう、それはまるで、
「音、が――」
「っ! 今、何と?」
「音楽――メロディが、聞こえる」
「まさか……?」
強く、弱く、速く、遅く、遠く、近く。まるで掴み所がなく、まるで現実味がなく、それでも確かなそのメロディ。俺はここにいる。俺はここに生きていると、底の無い闇の中から叫ぶような。
「あ……う、あぁ……!」
「これは……! お気を確かに!」
頭が痛い。頭が割れる。頭が痺れて――助けを求めるように、求める助けを確かめるように。闇へ手を伸ばし、闇に揺れる蜘蛛の糸を手繰るように。ふらふらと、夢遊病さながら足は荒野を彷徨って。
「インプ……モン?」
足が止まる。ちょうどそれは騎士のいた辺り、騎士の爪が造った小さなクレーター。
地に手を伸ばす。まるで空気のように抵抗なく手は灰の荒野へと沈み――“それ”へと届く。きゅ、と、力弱く私の手を握り返す“それ”。その名を呼んで、私はゆっくりとその手を引き揚げた。
傍らでレイヴモンが息を呑む。まるで信じられぬとでも言いたげに。掬い上げた“それ”を抱え、私は深く息を吐く。私の腕の中で“それ”は――インプモンは眠るように静かにただ黙し、微動だにしない。それでも確かな命のリズムが腕を伝い、私は、意図せず笑みを零した。耳鳴りは、いつの間にか止んでいた。
「命の旋律……デジメロディ。やはり貴女は――」
そんなレイヴモンの言葉はどこか遠く。私の意識は、まどろみへと沈んでゆく――
7-2 灰色の盟友
開け放たれた扉のその先、無人の暗がりへ置いた視線をゆっくりと下ろす。足元へ落とした視線が石畳に穿たれた穴を一瞥し、そうして竜は――ダークドラモンは静かに息を吐く。
「追わぬのかえ?」
問う声に、竜は目もくれてやらず大袈裟な溜息を一つ。
「追う、だと?」
なんて不機嫌に返せば声の主、氷柱に浮かぶ色欲の魔王・リリスモンはさも楽しげに笑う。
「ほほほ、詰まらぬことを聞いたのう」
音もなく、姿もなく、気配もない。そんな相手を追うなど愚の骨頂。労力の無駄でしかない。そんなこと、ようく知っているとも。
ち、と舌を打つ。竜はゆっくりとその視線をリリスモンへ、そうして忌ま忌ましげに、
「何を吹き込んだ……いや、何をした?」
「おや、それは何の言い掛かりかえ?」
リリスモンの言葉に竜は眼光鋭く、槍を携えた右腕は吹き上がる怒りをかろうじて留めるように小さく震える。
「惚けるな……! レイヴモンに――我らが盟友に何をしたのかと問うているのだ!」
でなければ何故、どうして奴はあの人間を助けるのだ、と。あるいはその真意を、知った上でのそんな問い。ふふと、微笑むリリスモンはまるですべてを見透かしたように竜を見据える。
ぎり、と歯軋り。竜はその右腕を怒りのままに眼前の氷柱へ叩きつける。振動と轟音が波紋のように広がり闇に溶ける。
「おやおや……“護る”ために連れ去ったのではないのかえ?」
反響する音の余韻の中、リリスモンは眉一つ動かすことなく問う。同様に、何事もなく佇む氷柱を、眠る蝿の王を一瞥し、竜はゆっくりと頭を振る。
「……護る? ああ、そうだとも。だがこれは守護ではない、保護だ。不甲斐ない魔王などこうしてオブジェにでもなっていたほうがよほど世界のためだ」
それは静かな、怒号。自らの正しさを主張するように、確かめるように。
「じゃが、あ奴はそうは思っておらぬようじゃのう?」
だからこそ、そんなリリスモンの言葉は耳に刺さるようで。竜は歯噛み、沈黙。しばしを置いての問いはどこか穏やかですらあった。
「一つだけ、嘘偽りなく答えてくれ」
「おや、何かえ」
「あれはすべて、レイヴモンの意志か」
「ほほほ……心身とも、あれほどの猛者を傀儡になどできようか」
リリスモンの言葉にまた僅かの沈黙。そうか、とだけ返し竜は、冷たい眼で彼方を見遣る。
ごおん、ごおんと。響く地鳴りは四方に反響し、闇の中で渦を巻く。踊る重低音、追走する鳴動が幾重にも絡み合い、獣の咆哮にも似た旋律を織り成していた。
「……来たか」
揺れる石壁にそっと手を置いて、ダークドラモンは誰にともなく小さく零す。槍を携えた右腕に力が篭る。
「どうやら、“生命の木”が動いたようじゃのう」
ぱらぱらと落ちる粉塵に、揺れる視界。ぽつりと呟くようなリリスモンの言葉に竜は視線だけを寄越す。
「噂に聞く奴らの居城か……いよいよ本気だな」
「その要塞も見付かってしもうたようじゃのう」
「見付けさせてやったんだ。機は熟した。もはや待つ理由もなくなった」
言うが早いか踵を返し、重く静かに歩を進め、冷たい鉄の扉に手をかける。そうして、後一歩。不意に竜は足を止め、視線もやらず、いまだ背後の氷鏡に佇むリリスモンへ意識だけを向けて、
「リリスモン、貴様は……」
言葉には一瞬の躊躇い。けれどそれも刹那に呑み込んで。
「魔王となる以前の貴様は……本来ルーチェモンの配下に名を連ねる高位の天使であったと聞く」
そんな言葉に当のリリスモンはただ微笑。今や神話の如く語られる太古の史実。古き天より堕ちた裏切りの天使は、黒く染まった自らの翼をどこか愛しげに撫で、両の目を閉じる様は懐古するようで。
僅かの沈黙を置き、竜はその右腕に力を込めて、意識だけが射殺すようにリリスモンの幻影を刺す。その裏切りの、堕天の真実を知るはただ当人だけ。だからこそ、
「蝿の王を手に入れた今、貴様の安否などもはや憂いの外。貴様の目的は知らんが……」
扉にかけた腕を無造作に奮う。巨大な鉄塊はまるで積木の山を崩すように砕け散って。
「邪魔立てするなら容赦はせんぞ」
「おお怖い怖い。ほほほ、肝に命じておこう」
そんな嘲りにも似た返答は半ば想定内。竜は舌打ちを一つ。自ら砕いた扉の破片を踏みしだき、石壁に重い足音を響かせ暗がりを進む。
「安心せい」
遠ざかる竜の後ろ姿に掛かるリリスモンのそんな声は、不自然なほど明晰で。
「敗れた折は下男として頤で使うてやるゆえ。敗残兵共々、のう。気楽に臨むがよい」
と、この場には不釣り合いな笑みを浮かべてさも楽しげに。竜はただ二言だけを吐き捨てて、地上を、戦場を目指して飛翔した。
「お心遣い痛み入る。……反吐が出るほどな」
7-3 灰色の戦場
灰の荒野にぽっかりと口を開ける暗がり。それは天に唾吐く“ならずもの”――“ゼブルナイツ”の本拠地である地下要塞へ続く大穴。開け放たれた入り口の周囲には佇む数百の異形。騎士団を名乗ろうとその姿形は騎士には程遠く、剥き出しの牙と殺意はまるで理性なきケダモノ。
さて、と。異形の一つ、毒々しく陽光に照る闇色の竜が声を上げる。その足元で赤い骸骨がおもむろに竜を見上げ、周囲のケダモノたちも視線を寄越す。
「誇り高き反逆の騎士たちよ、時は満ちたようだ」
見上げる空と見渡す地平の彼方、小さな影がぽつぽつと浮かぶ。
「不条理への義憤は足りているか? 自由を求む反逆の意志は充分か? 足りぬ腑抜けはよもやおるまいな!?」
ずずん、と、右腕の槍を荒野に突き立てれば、沸き起こるのは鬨の声。
「さあ出陣だ! 狼煙を上げろ! 我らが同胞たちも待ちくたびれていよう! その怒りを、鉄槌を! 愚かなる神の家畜どもに振り下ろせ!!」
吐き捨てるような怒号は波紋のように広がって。そうして――戦いの幕は切って落とされる。
「……本当にこれでよかったのか?」
開戦を告げる火柱が上がり、荒野を震わす行軍の足音が轟き、そんな折。
響く怒声の間を縫うようにぽつりと赤い骸骨が問う。竜は前線を見据えたままに静かに返す。
「不服かね」
「いいや。だが……」
「名実ともにこの俺がリーダーとなった。それだけのことだ」
相も変わらず視線も寄越さず、そんな竜の言葉に骸骨は僅かの沈黙と、思考。手にした杖を握り直し、その目を地平の敵影に向ける。
「くく……ああ、そうだな。そのとおりだ」
思えば簡単なこと。幾ら大義名分と大層な名を掲げようと我らの本質はならずもの。ケダモノの群れを率いるはケダモノの王が相応しい。何より、
「何も変わらんさ」
竜が言えば骸骨はこくりと頷いて。
そう、何も変わりはしない。誰と敵対しようが、誰と轡を並べようが。
「さあて、それでは俺も行くとするか」
「大将自らか。先が思いやられるな」
「いやなに、戦とはいえ礼儀は必要だろう。少し挨拶を、とな」
おどけるように肩を竦め、竜は翼を広げる。骸骨は溜息を一つ、
「程々にな」
なんて言えば竜はくつくつと笑い、不意に振り返るその顔には凶悪な笑みを湛えて。空を震わす咆哮を一つ。竜は、彼方へと飛翔する。
灰に濁る空のその彼方より、風を切り裂き飛来する敵影に、アポカリプス・チャイルドの飛行部隊は迎撃の構えを取る。予測よりも早いがここは既に敵地。手荒な歓迎は当然――ただ予想外と言えば一つ。
「ぐるるぅおおおぉぉーーっ!!」
予想を裏切る歓迎ぶりは、為す術もないほどに、部隊はその身を次々に塵へと変えてゆく。後に残るはその荒々しき雄叫びの余韻。嗚呼、よもや誰が想定しえようか。開戦早々、御大将自ら最前線で単騎駆けなど、奇策とも呼べぬ愚行を。
灰色の空を我が物顔で翔ける闇の竜・ダークドラモンの一挙一動に破壊と殺戮が追従し、規律立っていた編隊はもはや見る影もなく、さながら烏合の衆。
「やってくれる……!」
舌打ち。眼光鋭く、噴き上がる怒火を具現するような黄金の炎を纏い、巨鳥が混乱の渦を掻き分け飛翔する。狙い定めるはただ一点。
「やれやれ、ようやく――」
迫り来る脅威に巨鳥の標的たるそれ、ダークドラモンは雑兵を薙ぎ払うその手を止め、宙に留まり右腕の槍を静かに構える。そうして、刹那。
「お出ましか!」
竜の槍と巨鳥の爪が火花を散らし、甲高い金属音が大気を揺らす。
「会いたかったぜぇ、クロスモン。ちぃっと遊んでもらおうか?」
「相変わらずふざけたことを……っ! 舐めるな!」
交える槍と爪。一、二、三撃と秒の間の攻防。巨鳥はちらりと横手を一瞥し、かと思えば後退するように後方へ距離を取る。すかさず追い縋る竜。その追撃を寸でのところで避け、またも後退。――嗚呼、分かっている。分かっているが、やはり、
「つまらんな」
「……何?」
随分と距離の空いた編隊を一瞥、竜は溜息とともに吐き捨てる。
「心配せずとも通してやるさ、お望み通りな」
「っ! 貴様……!」
目には目を。指揮官である自らを囮に仲間を進撃させる。そんな思惑はとうに見透かして、それでもなお竜は不気味に笑う。巨鳥は舌打ちを一つ。
「パロットモン! 指揮を取れ!」
互いが互いの指揮官を封じる。元よりそれが狙いか。いいだろう、乗ってやるともその愚策。巨鳥の言葉に待ち侘びたとばかり深緑の翼のデジモンが雄叫びを上げ、再び統率を取り戻した部隊は竜と巨鳥の横合いを構わず進撃する。そんな様子に竜は慌てる風もなく、
「さあ、パーティーを始めようか……ミスター?」
そう、不敵に笑うばかり。
東の空より進撃するはパロットモン率いる白蛇・クアトルモン、雷鳥・サンダーバーモンの混成部隊。西の空より迎え撃つはスカルサタモン率いる悪魔竜・デビドラモン部隊。兵力差は、十対一といったところ。
――妙だ。
今まさに激突する両陣営、その様子を遠目に、クロスモンは違和に顔をしかめる。奴らの兵力はこちらの一割程度。多勢に無勢、余りにも。
襲い来るダークドラモンの一撃を避け、再度前線を一瞥する。奴らの空軍戦力は見たところスカルサタモンとデビドラモンのみ。地上にはスカルサタモン同様、眼前の竜の片腕と目されるデスメラモン。と、そしてその配下たる炎の怪人・メラモンの歩兵部隊。数は空の部隊と同程度か。つまりは、合わせてもこちらの二割程度。それも戦力の一部でしかない先行部隊と比べて、だ。
不自然なほどの優勢。出来過ぎたほどの勝ち戦。
奴らはこの本拠地を隠すためか、戦線を各地に展開し、戦力を分散させていた。こちらの速攻が功を奏し、各地の幹部クラスはこの戦いに間に合わなかった。――と、そう思いたいが。
言い知れぬ不安。けれどそうしている内にも戦局は動き――
パロットモン率いる先行部隊に僅か遅れ、陸軍の歩兵部隊が前線に到達する。鋼鉄の天使・シャッコウモン率いる巨象・エレファモンと鎧獣・ライノモンの混成部隊はデスメラモンたち陸軍戦力と接触。こちらも兵力差は歴然。開幕から幾らも経たぬ内、早々に侵攻を許すほどに。
陸に比べ空はまだ僅かばかり粘っているようだが、それでも少しずつ、確実に奴らの本拠地へ――そこに隠された蝿の王へと近付いている。
――本当に、このまま。
「上手くいくと、思ったか?」
「っ!?」
不意に、巨鳥の内心を、その不安を見透かしたように竜が笑う。
「潮時だ」
何を、と問うが早いか、灰の荒野が鳴動を始める。――地鳴り? 何だこれは……! 震える大地はまるで生き物のように、時に隆起し、時に陥没し、あちらこちらに亀裂が走る。地の裂け目からは重く低い唸り。
刹那の静寂。そして天地を揺らす咆哮が雷鳴のように耳を衝く。枯れた大地は砕け散り、瞬間、この地より奪われた――否、この地に封じられていた全てが解き放たれる。
「こんな……馬鹿な……」
地の底より枯れ野を、侵攻する陸軍ごと呑み込むそれ。一変する情景を前に、巨鳥は半ば呆然と呟いた。
渇いた大地を地底よりえぐり、貫くように噴出したそれは瞬く間に辺り一面を満たして広がる。
「枯れた森――そう呼ばれる以前の名を知っているか?」
竜の言葉に、巨鳥は半ば呆然とただ沈黙。
今や数万もの小世界が点在するデジタルワールド。ましてこんな辺境。隅から隅まで細大漏らさず把握しろというほうが無理な話。だからこそ、彼らはこの地を選んだのだ。初めから、今日この時、決戦の舞台として。
その名を“水の森”。
地底より溢れ出した激流は荒野を、侵攻する歩兵もろとも飲み込み、一帯を巨大な湖へと――渇いた地を本来の姿へと戻してゆく。そして、
「ヴォ……ゥオオォーー……!」
水面を揺らす目覚めの咆哮。姿を現すは“ならずもの”――“ゼブルナイツ”の本拠地。それはこの地を枯らした、水源を地底よりせき止めた張本人。大地を引き裂き水流を掻き分け、その雄々しき巨体が激流のただ中にそびえ立つ。
「城……これは、まさか……!」
荘厳に建つは巨大なる古城。それを背に、悠然と立つは巨躯なる大亀。古き伝承に語られるその存在は、数百年を生きるアポカリプス・チャイルドの幹部たちとて目にするのはこれが初めて。生きた伝説、歩く城塞――
「“エルドラディモン”……だと……?」
「ほう、よく知っているな」
巨鳥の驚愕に、竜は眼下の大亀・エルドラディモンを見下ろし笑う。大亀の頭の上にはデスメラモンたち歩兵部隊の姿が見えた。どうやら半数近くが、あるいは先の戦闘で、あるいは大亀への退避が間に合わず犠牲になったようだが……上出来だ。お陰で敵方の歩兵を先行部隊は一掃、逃れた後続の部隊も進攻は食い止めた。後は――
瞬間、水面から伸びるそれ。のっぺりとした青白い触手が一つ、二つと。突然のことに思わず呆けていたパロットモン率いる飛行部隊の幾らかを捕らえ、水中へと引きずり込む。はっ、と我に返るように飛行部隊は臨戦の構え。が、一拍を置いて飛来する第二撃はまるで別方向からの氷の矢。
「援軍……地下水脈か……!」
舌打ち。巨鳥は竜から距離を取るように高度を上げる。上空から見渡した戦場、陸はほぼ制圧されたとはいえ、空軍戦力だけでも数の上での優位は変わらない。だが、
「おやおや。ショータイムはまだ、これからだぞ?」
余裕を湛えたそんな竜の笑みには、戦局の混迷を予感せざるを得なかった――
7-4 対岸の情景
暗い暗い水底から体がゆっくりと浮き上がるような感覚。心地良い浮遊感。暗がりと静けさの中で私の意識はおもむろに覚醒する。ふらふらと彷徨う視線が薄暗い岩肌の壁を撫で、やがて傍らで膝をつく翼の騎士を半ば朧げに捉える。
「お目覚めになられましたか」
「……レイヴモン?」
眉をひそめて体を起こし、辺りを見渡せばそこは小さな洞窟――いや、奥行きほんの数メートル、高さも私の背より少し高い程度。岩壁をくり抜いた大きめの窪みといったところか。外に目を遣れば茜の空。どこからか水の滴る音がする。“枯れた森”ではなさそうだが一体なにが……。
記憶を辿る。混濁する頭の中を掻き分けるように。そうして、はっとなる。
「イ、インプモンは……!」
息を呑み、慌ただしく視線は右へ左へ。あ、とレイヴモンが声を上げるとほぼ同時。振り返ったそこで視界に飛び込むその姿、横たわるインプモン。
恐る恐る手を伸ばす。指先に感じる確かな体温と、小さく聞こえる寝息。私は深く安堵の息を吐く。隣にはベヒーモスとおぼしき黒鉄も見て取れた。
「ベルゼ――インプモン様はご無事です。ヒナタ様こそお体のほうは?」
「え……ううん、大丈夫。……私どれくらい寝てた?」
「ほんの数時間……いえ、順を追ってお話し致します」
そう言うとレイヴモンは立ち上がり、視線は茜の空へ。釣られて目を遣れば微か、遠方でチカチカと瞬く光が見えた。
「あそこが、先程まで我々のいた場所。今はゼブル・アポカリプス両軍の戦場と化しております。ヒナタ様がインプモン様を見付けられた後、戦域から離脱すべくここまで皆様をお連れ致しました」
立ち上がり、目を凝らす。相変わらず小さな光しか見えない、が、恐らくそう離れてはいないだろう。
「ここ、って……」
「枯れた森にございます」
「え?」
「せき止められていた水源が解放されたのでしょう。かつてこの地は、水の森と呼ばれておりました」
「水の森……」
見渡す周囲は岩山。今いるここはその中腹辺りだろう。下へ目を向ければ湖に沈む青々とした森。まるでマングローブだ。数時間で随分と様変わりしたものだが……相変わらず訳の分からない世界だ。
戦場を見遣る。頭は幾分冷静さを取り戻し、私は深く息を吐く。そうしてレイヴモンへ視線を移し、ねえ、と掛けた声に彼はゆっくりと振り向いた。
「聞いても、いい?」
私の言葉にレイヴモンは一瞬の沈黙。その面持ちはどこか意を決するように僅か強張り、やがて騎士はおもむろに片膝をつく。頭を垂れるその様からは、いかなる謗りも裁きも受け入れんとする覚悟が見て取れた。
「何なりと」
戦場を一瞥する。再びレイヴモンへ振り返り、私はゆっくりと膝をつく。眼前にその顔を見据え、そうして、
「あの青い鎧のデジモン……ミラージュガオガモン、って呼んでたっけ。それに、ダークドラモン。あれは貴方の……」
脳裏に浮かぶ、記憶。去り行く獣頭の騎士の名を呼ぶ彼、去り行く彼に何故と問うた闇の竜。
レイヴモンはこくりと頷いてみせた。
「ご想像の通り。我々はかつて、志を共にした盟友。そして……我らこそが神に弓引くゼブルナイツ、その始まりの三騎士にございます」
始まりは、小さな火種。
各地で暗躍する天使たち、水面下で進む軍拡。その不穏な動きを察し、立ち上がったのが予てよりの同志であった獣騎士と、レイヴモン。
そこで語る口を一度止め、レイヴモンは私を見遣る。
「そのゴーグルに、御召し物……あの村にお立ち寄りになられたのでしょう」
「え? ゴツモンたちのこと……」
「ミラージュガオガモンとは、幼少の砌を共にあの村で過ごした同郷の士にございます」
リリスモンの城から程近いあの小さな村は、リリスモンの領地に点在する幾つもの集落の一つ。とはいえ、彼らは魔王の支配下にあるわけではない。そもそもリリスモンがあんな荒野のど真ん中に居城を構えたのは、語り継ぐ記録も記憶も残っていないほどの大昔。後からやって来た彼らは、自らの意思でそのお膝元に“住まわせて戴いている”のだ。
それは誰が、いつ頃、どのような経緯で始めたか定かではないが、確かなのは彼らが、魔王の“庇護”を求めて集まった弱者であるということ。無論リリスモンが彼らのために動くことなどありえないのだが、そこに目的も実力も未知数の魔王がいるというだけで、彼の地はこれまで一度も戦火に晒されることなく平和を保ってきたのである。
そんな平和の形を知るがゆえ、レイヴモンたちは魔王と敵対する天使たちの思想に疑問を抱いたのであろう。
「だから、インプモンのこと……」
これほど多くを敵にしてなお。問えばしかし、レイヴモンは口端に小さな笑みを浮かべてゆっくりと首を振る。
「それも一つ。しかし某は――」
「真贋の見極め――」
思いを馳せるは幼きあの日。畏れと憧れ。色褪せることなき鮮烈なる記憶。
「某がこの役目を任されたのは偏に、ベルゼブモン様と面識があったがゆえのこと」
「面識?」
不意に流す視線はインプモンを撫でる。顔見知りであったようには見えなかったけれど。眉をひそめた私にレイヴモンは苦笑を浮かべる。
「それも無理からぬこと。某もあれから三度の……いえ、元よりベルゼブモン様にとっては瑣事にございましょう」
無力な幼子であったあの頃。鉄の獣が村に現れたあの日。運悪く逃げ遅れ、短い命の最期を悟ったあの時。天災の如き鉄の獣を容易く制した勇姿は、幼子の目にまるで英雄の如く焼き付いて。ありがとう。そう言った自分に振り向きもせず――
「は……何を寝惚けてやがる」
追憶と現実とが重なるような、そんな言葉。レイヴモンは思わず息を呑む。
「イ、インプモン! 大丈夫なの?」
はっ、と慌てて振り返る。小さく笑うその姿を目に、つい声を張る。そんな私にインプモンは気怠そうに身を起こし、いつもの調子でやれやれと肩を竦めてみせた。
「ヒナタこそ大丈夫か。俺の心配するとか。頭打ったか?」
なんて毒吐く。私は溜息を一つ。安堵だか、呆れだか。軽くインプモンを小突いてやる。
「目の前で死なれちゃ寝覚めが悪いの」
「目の前じゃなきゃいいのか」
「私のために出口をこじ開けた後なら、いつでもどこでもご自由に」
「ははは。それでこそヒナタだ」
ひとしきり笑い、そうしてインプモンは息を吐く。移す視線は膝をつく翼の騎士を見据える。知るか、なんて吐き捨てて。
「俺ぁな、ベヒーモスが欲しかっただけだ。つーか誰だてめえ」
ふいと、冷たくあしらう様はけれど、記憶にあるまま。あの時のままで。嗚呼、やはり間違ってなどいなかったのだ。だからもう、構わない。この命は士道の果てに。
「インプモン様、此度の――」
「うるせえ」
片膝をついて頭を垂れる。決意と覚悟はしかし、そんな一言に遮られ。それもやむなしと押し黙れば――けれど、
「罰だ。てめえにはヒナタのお守りを課す」
「……ちょっと?」
「精々お姫様にこき使われろ」
「インプモン!」
意地悪く笑うインプモン。拳を振りかざす私。そして、頭を垂れる騎士。その返答は清々しい程に迷い無く。
「恐悦……至極にございます」
>>第八夜 金色のアポカリプス