第六夜 青銅のリベリオン

6-1 邀撃の緑青


 闇が形を持って受肉した、とでも形容すべきか。阿鼻叫喚を背負う破壊と殺戮の権化、闇の竜。その一挙一動に大地がえぐれ、大気が震え、命が消し飛ぶ。
 さながら地獄の底より這い出て天に唾吐くようなその様は、ならずもの、と称するには余りに役が足りぬように思えた。

「あれが彼らの長。名を、ダークドラモンと」

 敵も味方もない、とさえ思えるほどに暴虐の限りを尽くす眼前の破壊者。言葉を失う私に、レイヴモンが言う。あれこそが、自分たちの目的なのだと。
 ああ、確かにそうだ。私は彼に会いに来た。来たけれど、あんな無茶苦茶な奴を相手にこんな状況で何をどうしろと……。

 そんな私の困惑もお構いなしに戦いは続いて――

 闇の竜が右手に携えた槍を以って破壊を撒き散らす。と、そこへ。戦場の空を翔け、竜へと迫る閃光。咄嗟に繰り出された竜の槍とぶつかり合い、鋭い音とともに火花を散らす。瞬間、その姿があらわになる。あれは……確か行軍の先頭にいた、

「クロスモンか」

 地の底から響くような声は、ダークドラモン。槍を構え、狂気に似た笑みとともに続ける。

「よう、随分好き放題やってくれたな。愛すべき同胞がゴミ屑みてえになっちまったじゃねえか」
「……好き放題は貴殿とて同じこと」

 そして閃光の主、クロスモンと呼ばれた黄金の鎧をまとった巨鳥が答える。両者の視線が矢のように鋭く飛び交い、竜が再びにやりと笑う。

「なら……お互い弔い合戦といくかぁ?」

 戦意がたぎり、殺意が燃える。一触即発。息苦しいほどに空気が張り詰めて……しかしその緊張を破ったのは、当のクロスモンだった。ふう、と溜息を吐いて、

「否、止めておこう。これ以上はいたずらに兵を浪費するだけ」

 そう言って羽ばたき、上空へ距離を取ると、クロスモンは笛の音に似た咆哮を上げ、その全身を発光させる。撤退の合図であろうその一連の所作に、周囲のデジモンたちは次々に飛び立ち、戦場を後にしていく。残された“ならずもの”たちにそれを追う様子はなかった。

「やれやれ、今日も痛み分けか」
「余り挑発するな。肝が冷えたぞ」
「全くダ」

 竜が肩をすくめ、咎めるように言ったのは赤い骸骨と青い怪人。反省しているのかいないのか、竜はくつくつと笑い、さて、と空を仰いで、

「いい加減出てこい。いるんだろう?」

 そう、私たちに言うのであった。




6-2 追撃の青藍


「サモン!」

 ベヒーモスに逆向きに跨がり、インプモンは掲げた魔法陣から次々に火炎を射出する。追撃する編隊は咄嗟に回避行動を取るものの、ベヒーモスによって巻き上げられた砂に砲手の姿は紛れ、タイミングも射線もロクに読めぬとあっては避けるも容易ではない。おまけにこの間合い。つかず離れず、同じ方向に同じ速度で進むなら、相対的な速度はほぼゼロ。静止しているに等しい標的、狙い撃つなど、容易なこと。
 結果、撃ち出される炎は僅かずつではあるものの、追撃者を確実に削り、消耗させてゆく。――の、だが。

 ち、と舌打ちはお互いに。

 インプモン最大の技である“サモン”。この技の欠点は、その速射性・連射性の無さにある。あらかじめ魔法陣を用意する必要があることと、一度使った魔法陣は自らの技の反動に原形をほぼ留めず、再利用がまず不可能であるという、その二点。

 つまり――消耗は、お互い様。

「ホウオウモン!」
「ああ、分かっている」

 そんな短いやり取りと一瞬のアイコンタクト。天使と残る兵はそのままインプモンを追跡し、鳳凰だけが突如進路を変える。その様子はインプモンからも窺い知ることはできたが……ただでさえ視界の悪い灰の荒野。ベヒーモスが巻き上げる灰が拍車をかけ、鳳凰の姿は瞬く間にインプモンの視界から掻き消える。

 二度目の舌打ちは、インプモン。天使は僅か口角を上げる。表情なんて見えはしないものの、途切れた砲撃が逃走者の動揺と焦燥を如実に表す。

 分かっているぞ魔王。先程から撃ち出される炎、その特性も欠点もほぼ把握した。真正面からまともに放ち、我ら究極体を死傷させるほどの弾速と火力は、ない。となれば、

 天使はちらりと後方を一瞥する。鉄の獣の足跡は緩やかな曲線を描き――そう、これはただの逃走ではない。奴はこの地に我らを足止めしている。これは、時間稼ぎだ。恐らくは姿を消した奴のテイマーが、援軍を連れて戻るまでの。――浅はかな。

 援軍はこちらとて同じこと。第一、

「逃がさん」

 そんな言葉はインプモンの背後、つまりは進行方向、前方から。

 遠く離れてしまえば援軍の到着も遅れる。奴はこの地に、この周辺に留まり続けなければならない。自律稼動する鉄の獣、その行動パターンの予測――先回りは、そう難しくない。

 前門の鳳凰、後門の天使。この挟撃、もはや逃げ場はない!


 後方から迫り来るは青い鎧の天使。前方に立ち塞がるは金色の鳳凰。そして左右に展開する雑兵ども。前後左右からの包囲網。もはや逃げ場はない――とでも?

 馬鹿が。

 思い違うな。見くびるな。この俺を、この魔王を。一体誰が、

「逃げるって?」

 不敵に笑い、インプモンは天を指すように片腕を掲げて。
 少しだけ、ほんの僅か遅かった。ここだ。この場所が終着。ここで、完成だ。さあ……一緒に地獄を見やがれ!

「サモンっ!!」

 吠えるその手に魔法陣はない。残弾はゼロ。けれど“それ”はそこにある。たった今、この場に、描き出されたのだ。
 眼下に走る光の筋。追撃者ははっと息を呑み、その正体に気付くも、もはや遅い。先の言葉が己へ返る。もはや、逃げ場はないのだ。

 灰の大地をぐるりと回るようなベヒーモスの走路、その軌跡。ベヒーモスが刻むわだちは、描く紋様は――

 閃光。否、光と見紛う程の業火。鉄の獣の足跡が灰の大地に描き出す巨大魔法陣が瞬いて、地の底より喚起される炎が天を衝かんばかりに立ち昇る。

 ごう、ごうと。灰を削り、空を焦がし、命を焼き払う――

「……っ、っはぁ!?」

 息を深く吸う。急激に供給された酸素にむせ返る。喉が痛い。肺も痛い。肩で荒い息を吐き、霞む目で辺りを見渡して、インプモンはずきずきと痛む頭を抱える。何が……、

「ベ、ヒーモス……か?」

 奴らを魔法陣の内側に誘い込むため、自らを囮に。避ける間も術もない。自分もろとも、自爆覚悟の一撃。の、はずが。
 体中ちりちりと煙を上げ、内蔵までこんがりと焼かれた気分だが、どうやら、まだ生きているらしい。ベヒーモスでも間に合うとは思えない絶望的な間合いだったが、

「……あのババア」

 不意に視線を落とす。目に留まったのはベヒーモスの車体。その黒鉄にうっすらと浮かぶ幾何学模様。自分が扱うものとは式も言語も違い、恐らく、程度にしか読み解くことは叶わなかったが、これは、紛れも無く魔法陣だ。
 単純に考えて防壁の魔術。洗車はこれを仕込むためか。いや、何にせよ、

「借り一つだ……」

 げんなりと呟く。何にせよ、これに助けられてしまったことは確かだ。

 ふう、と息を吐き、辺りを見渡す。さて、ともかく今は奴らの――

「どこを見ている」

 巡る視線が凍る。聞き慣れぬそんな声は冷たく、灰の空より降った。


 仄暗いこの空にあってなお、その青藍はまばゆく。微かな陽光を照り返し、ぎらりと強く、されど静かな光を湛える。青く、碧く、蒼く。広がる深き海の如く、凍てつく寒空の如く。青の甲冑をまとうその姿は騎士のようでありながら、頂に抱くは獣のそれ。

「魔王ベルゼブモン殿とお見受けする。私の名はミラージュガオガモン。以後、お見知り置きを」

 そう言ってゆっくりと、空より降り来る獣頭の騎士。その両腕には痛々しい火傷にまみれた天使と鳳凰。ああ、生きてやがったか。どうやら倒せたのは雑魚どもだけ。自嘲の笑みを浮かべ、インプモンは軋む体に鞭を打つ。

「……随分と、遅い登場だな」
「余り喋ると傷に障るぞ」
「舐めるな。かすり傷だ」

 灰の荒野に降り、インプモン同様、否、それ以上に傷を負った体で、天使と鳳凰はおもむろに立ち上がる。口を衝くのが虚勢に過ぎぬことなど誰の目にも明らかだったが、それでもその眼差しは強く、戦意など微塵も失ってはいない。

 インプモンは溜息を一つ、精一杯の力を振り絞るように声を張った。

「よう、無事で何よりだ。かすり傷は痛むかい?」
「……挑発のつもりか? それとも時間稼ぎか?」
「意気がるな魔王。もはや手は無かろう」

 口々に言う天使と鳳凰。インプモンはそれでも余裕たっぷりの笑みを浮かべ……る、ものの。さて、どうしたものだろうか。こうしてただ喋るだけでも呼吸が荒くなる。頭は針でも刺さったように痛み、四肢は末端から徐々に感覚が薄れていく。
 残る手は、今しがた吹き飛んだ魔法陣を修繕してみる、くらいか。先程のような速度に今の自分の体がついていけるか、奴らが同じ手にもう一度まんまとはまってくれるか、というクリティカルな問題点に一抹の不安を覚えるが。

 思考、そして決意。インプモンは覚悟を決めるようにその目に火を点す。撤退や援軍などという言葉ははなから抜け落ちていた。
 生も死も、勝利も敗北も二の次。そこにあるのはただ戦い。それは過程ではなく、手段ではなく、それこそが結果であり、目的なのだ。それが魔王ベルゼブモン。その本質――で、あるはずが。

「やはり、お前は」

 呟きは天使や鳳凰の耳にさえ届かぬほど小さく。だが、と続けた言葉は音にすらならない。獣頭の騎士は眼前に在る魔王を見据え、その手に力を込める。選択の時。選ぶべきは、求めるべきは過去か、未来か――




6-3 鏡像の魔王


「ようこそマドモアゼル」

 そう言って闇の竜・ダークドラモンはぺこりと馬鹿丁寧な礼をする。礼儀正しい、というよりはどこかおどけた風に。

「ど、どうも」

 地上に降り立ち、礼を返す。見上げたその巨体は建物で言えば優に三階には届こうか。私は思わず後退るも、お構いなしに重低音は頭上から降り、

「俺はダークドラモン。“ゼブルナイツ”のリーダー。の、代理だ」
「ゼブル……代理?」
「まあ、詳しい話は後だ。まずはアジトへ案内しよう。スカルサタモン、デスメラモン、ここは頼んだぞ」

 首を傾げる私に、竜はくっくと人の悪い笑み浮かべ、こちらの返答も待たず踵を返す。後ろで見送るように赤い骸骨と青い怪人が頷いた。
 何だこれ。私たちのことを知ってる? 信用していいのだろうか?
 傍らのレイヴモンに視線をやれば言葉なくただ頷いて。……ああ、もう!

「どうした? 来ないのか?」
「い、行きます、から。レイヴモン!」

 がしがしと頭をかき、半ば吐き捨てるようにそう言って。もういいや。考えても仕様がない。レイヴモンに再度抱えられ、私は竜の後を追った。

 そうして、僅かも行かぬ内。

 竜が降り立ったのは相変わらず何もない灰色の荒野。ここがアジト? キョロキョロと辺りを見渡す、と、不意に地面が鳴動し、かと思えば蟻地獄のように灰が沈み、地面が割れ、ぽっかりと大きな穴が現れる。成る程、地下か。

 竜に続き、深い穴の底へと降りてゆく。よくよく見ると円周には螺旋階段。翼を持たぬデジモンたちのためのものだろう。竜のような大型のデジモンが飛んで出入りするために中心の吹き抜けは非常に大きく、比例して長くなった階段は徒歩で上り下りするには骨が折れそうだった。

 深さにして地下十数階、と言ったところか。穴の円周より一回り大きな広間に降り立つ。頭上でごごごと重い音が響き、出入り口が再び閉じられる。

「先の軍は様子見のようなものだ。その内あれの数倍の規模の本隊がやって来る」

 ぽつりぽつりと松明の点る薄暗い廊下を、竜に先導されながら進む。程なくして、大きな扉の前で立ち止まり、振り向きもせず竜が言う。

「できるなら本人に直接、と思ったが……時間がない。それに、物は試しだ」

 そんな竜の言葉には相も変わらず疑問しかない。そして漏れ出す冷気とともに開かれた扉の奥、姿を表したそれにもまた――


 冷たい風が肌を刺す。開け放たれた重い扉のその先に、冷気の源とおぼしき“それ”が姿を見せる。

「何……誰なの?」

 燭台に照らされた薄暗い部屋へ恐る恐る足を踏み入れる。見上げたそれはぴくりとも動かず黙し、ただそこに在るだけ。
 暗がりに少しずつ目が慣れてくる。だだっ広い地下室の中には、闇の竜より高くそびえる氷の柱。その円周には燭台が並び、それ以外は何もない。そして氷柱の、その中に浮かぶのは、

「デジモン……?」

 黒のボマージャケットに濃紺の仮面。額の目や尾を除けばその姿、造形は人のそれに近い。だと言うのに、猛々しく吠えるように双眸を見開き、牙を剥く様はまるでケダモノのよう。

「そう、これこそが奴らの狙い。我々が奪い去ったこれを取り戻そうと奴らは躍起になっているのだ」
「……生きてるの、これ?」

 そろりと問えば、返ってくるのは小さな溜息。ややを置いて、竜は静かに言う。

「我々も、それが知りたいのだがな」
「え?」
「どう思う?」

 と、私を見下ろし竜が問うも、どうって……はい?

「あの……え? それは、どういう……」

 戸惑う私に竜は視線を氷柱へ、そこに眠るデジモンへ向け、ぽつりと言った。

「ベルゼブモンだ」

 なんて、そんな言葉に一瞬思考が止まる。告げられたその名を記憶から探る。知っているはずのそれを思い出すのに数秒を要したのは、知っていたから故。

 蝿の王。暴食の魔王。そう呼ばれたそれは、

「インプモン……なの?」

 元に戻れた? どうしてここに? 一体、何が……?

 疑問符が頭に躍る。眉をひそめて竜を見上げれば彼はゆっくりと首を振る。

「奴なら今頃、天使どもとまみえていよう。結論から言うなら、“これ”と“奴”は別個に存在している」
「どういうこと……?」
「さて……封印された物言わぬ魔王に、自らを魔王と名乗る謎のデジモン。何がどうなっているのか、知りたいのは我々のほうだ」

 肩を竦め、深い溜息。ここにいるのがベルゼブモンで、ここにいないのもベルゼブモン。嗚呼、もう訳が分からない。
 氷柱に近づきそっと手を触れる。言われてみればどこか見覚えのある、インプモンにも似た面影。混乱。困惑。頭の芯が震え、耳鳴りがする。――と、

「ではここよりは、わしが語るとしようかのう」

 そんな声は不意に、薄暗い地下室の内から響いた。


 突然の声は闇の中から。地下室に反響するその声色と口調には聞き覚えがあった。はっと、眼前に立つ氷柱を見上げる。音源は氷柱に眠る魔王、ではなく、氷柱そのものの表面から。映写機で投影したように薄く氷に浮かぶその姿は、

「リリスモン」

 呟くように名を呼ぶは竜。半ば呆れ、半ば不機嫌そうに、竜はやれやれと肩を竦める。

「それが噂に聞く氷鏡の幻術か。喰えん女だ」
「ほほほ。どこで聞いたか知らぬが……安心せい、ただの交信魔術じゃて」
「どうだかな。どこに貴様の傀儡が紛れているか分かったものではないわ」

 宥めるようで、どこか小馬鹿にしたようなリリスモン。吐き捨てるように竜は毒づく。そんな二者の掛け合いはしかし、第三者である私にはまるで意味の分からないことばかりだったが。眉をひそめる私にリリスモンはふふと妖しげな微笑を投げ掛けて、意味深な視線は言外に何かを訴えるようだった。

 あ、と。私が口を開くか開かぬかというところで、リリスモンは視線を竜へ戻し、遮るように言葉を続けた。

「まあそれはさておき……それより今は、他に気を遣るべきことがあるのではないかえ?」

 くいと首を傾げ、微笑。竜の反応からしてさておけるような話でもなさそうだが、正論と言えば正論。時間がない、とは竜の言葉だ。
 竜は舌を打ち、溜息を一つ。

「ふん。まあいい。先ずは用件を聞こうか。いや、察するに――」
「“これ”の正体、かえ?」

 手にしたキセルで指すのは真後ろ。氷に眠る蝿の王。

「やはり初めから知っていたな」
「おやおや、それは買い被りが過ぎるえ? 未だ推測の域も出ぬよ。それさえ当人とまみえてようやく、のう」
「なら――」

 言葉を促すように竜。と、ただただ困惑する私。リリスモンはふうと紫煙を零し、

「恐らくは、エイリアス」

 そう言って彼方へ目をやって。リリスモンの言葉に、竜はさして驚く様子もなくただ小さくふむと唸る。

「……エイリアス?」

 思わず漏れた言葉は私の口から。エイリアス――確か「別名」なんて意味だったか。それが正体?

「要は、不出来な偽物に過ぎんということだ。あの、インプモンとはな」

 呟きに答えたのは竜。言うが早いか槍を振り上げて。何を……え? 偽物、って――

「つまり……嗚呼、残念だが、やはりここで死んでくれ」

 そして狂気は、私の頭上より降る。




6-4 静動の反逆


 走り、跳び、駆けて。
 吠え、叫び、轟いて。
 車軸が軋む。骨子が軋む。黒鉄が血に染まり、指先が炎に黒ずむ。

「この程度の技で……舐めるな!」

 疾走するベヒーモスの上からインプモンの乱れ撃つ、小さな火球はそのことごとくが天使の剣に、鳳凰の爪に掻き消される。騎士に至っては意に介してもいない。“ナイト・オブ・ファイアー”――握り拳大の火球を指先から放つこの技は、“サモン”のように魔法陣を必要とはせず、現状でインプモンに残された唯一の攻撃手段。であるが、速射性という利点は低火力という欠点があるゆえ。

 ち、と舌打ち。それでもインプモンは手を止めない。例え意味はなかろうと、悪あがきにさえなっていなかろうとも。例えそれが、満身創痍の我が身に鞭を打つだけであろうとも。

 目が霞む。意識が薄らいで、小さな火球の制御すらままならない。もはや狙いも定まらず、火の粉は自らへ返る。それでも、それでも――

 未だこの命があるのは、ベヒーモスの回避能力とリリスモンの防壁ゆえ。自身の命というに、自身の誇りというに。僅かも己の手には委ねられぬというのか。無力……なんて無力。俺は、なんて無力だ……。

「――捉えた」

 鳳凰の火炎を辛くも避け、腕を掠める天使の剣から逃れ、そうして、獣頭の騎士のその腕に捕われる。
 騎士の左腕がインプモンの小さな体を握り潰さんばかりに締め上げる。同時にふるわれた右腕の爪に、宙を舞ったベヒーモスは鉄屑のように荒野に転がり、異音を立てながら煙を吹く。

 万策尽きた。のは、元よりか。

 思わず零れた笑みは自嘲。灰色の空を見上げ、やれやれと溜息を吐く。

 嗚呼、何をやってるんだろうなぁ俺は。戦って、戦って、戦い抜いて。戦いだけが生きる喜びで、戦いだけが生きる意味で、戦いだけが――生きることそのもの。だったはずが。

「ヒナタ」
「……何?」

 どうなったろう。無事だろうか。無事……無事かって? どうして俺は……?

「貴様は……」

 なんだこれは。この感情は。俺はどうした。どうなった。

 ずきりと、頭の芯が痛む。頭蓋を割って撹拌棒でも突っ込まれたようだ。電脳核がノイズを立てる。気分は最悪。焦点の定まらぬ目がふらりと彷徨い、不意に眼前の騎士を捉える。嗚呼、そうだ。気分だけじゃあなかったな。ヒナタの言葉を借りるなら、そう――

「悪夢だ……」


 伸ばした腕に力を込める。後少し、ほんの少し。たったそれだけでこの小さな体は容易くへし折れてしまうだろう。けれど、

「一つ、質問がある」

 インプモンを捕らえるその手を緩めることなく、獣頭の騎士は静かに問う。眉をひそめたのはインプモン、と、天使や鳳凰もまた同様に。騎士は僅かを置いて言葉を続ける。

「貴様は、自分が何者かを知っているのか?」
「なに、を……?」

 そんな質問の意味はまるで分からぬと、問われた当人は疑問符を浮かべて。

「何を言っている、ミラージュ――」

 その意図は何だと天使が口を挟む。しかし騎士はそれを遮るように、

「倒して仕舞いであればとうに終わっていた。違うか?」
「それは……」
「前轍を踏み続ける訳にもいくまい」

 そんなやり取りにインプモンは眉間に深いしわを寄せるばかり。何言ってやがるこいつら。何者? 俺が何者かって? 分かり切ってるからこうなってるんだろうが。一体、何を……。

「答えろ。貴様は……何者だ?」

 インプモンの困惑も余所に、獣頭の騎士はその腕を高く高く掲げて、射殺すような視線が真っ直ぐにインプモンを貫いた。天使と鳳凰もまた各々の武器を構えたまま、返答を待つように黙してその様を見守る。

 けれど――当人にしてみれば待たれたところで返せる答えなどあるわけもなく。だから、何がどうなってやがる。俺だけほったらかしで話進めんじゃねえよと、毒づく声さえ掠れて消えて。頭が痛い。意識が朦朧とする。頭の奥からノイズがかった声が響く。いよいよ幻聴まで聞こえだしたか。

 ――ンプモン――
 ――くは――リアス――

 嗚呼、いやにはっきりとした幻聴だ。よりにもよってあのババアと、ヒナタの声まで聞こえやがる。
 霞の奥から雑音に紛れて響くような声は、一つ、二つ、三つと、まるで聞き覚えのない声まで混じり――電脳核がイカれだしたか。死の兆しだろうか。俺は……死ぬのか。

 頭が焼ける。耳が裂ける。目が爆ぜる。臓器が混ぜ返り、体の中から自分が違うものへと変わっていくよう。眼前にいるはずの騎士たちの声も姿ももう定かでない。

 何だこれは。どうして俺は――。どこだここは。今はいつだ。俺は……誰だ。

 ――――っ!

 途端に頭が冴える。視界が澄んで、心は昂って。目の前には狼狽する敵、この手には滾る炎。そうして荒野が、光に溺れる。


 瞬間、時が凍てつく。
 虚空に走る光の筋が瞬く間に芒星を描いて、喚起されるは無尽にすら思えるほどの火と熱と、力の奔流。

 咄嗟に獣頭の騎士はその腕を振るう。
 神経が逆立って、生存本能が雄叫びを上げる。全神経、全筋力が一つ所に集まるような錯覚。殺せ、逃げろ、壊せ、避けろ。野性が理性を凌駕する。

 咆哮。閃光。そして戦慄。
 渦巻く炎熱は消失するように収束し、代わり、芒星の魔法陣から生まれ落ちた混沌の火種が小さく弱く瞬いて、儚げに燃える。見るからに頼りなく、見るからに不格好で……だと、いうのに、

「オ……オオオオォーー!!」

 喉が張り裂けんばかりの絶叫は、生きろと叫ぶ魂への返答。火種ごと、魔法陣ごと、そしてこの小さな魔王の化身ごと、できるなら今、この瞬間、我が目前より消えて失くなれと、渾身の一撃が理性の制御を振り切り放たれる。

 そして刹那、小さな火種は閃き弾け――炎熱と閃光、滅びと綻びの激流が荒れ狂う。

 握る手綱もない、暴虐と混沌の落とし子。だからこそ、

「っ……ぐぅ……!」

 避けた、のではなく、逸れた。激流は騎士の爪を砕き、腕を焼き、思わずのけ反った左半身を僅かに掠め、そのまま遥か後方の荒野へと落ちる。一瞬の静寂。そして耳をつんざく爆音。天地を繋がんばかりの火柱が空と大地を照らす。

 はっ、と。我に返るように騎士は息を飲み、眼光鋭く、その足で灰の荒野を踏み締める。のけ反る体を半ば無理矢理に前へと引き戻し、健在な右腕に力を込める。

 見据えるのは眼前のそれ。激流の射手。淡い光の粒の中、宙に浮かぶその様は水面に漂う木の葉のようで。まさに精根尽き果てたといったところか。

 深く息を吐く。心を鎮め、振り下ろす一撃にもはや躊躇はない。――心は決まった。

 騎士の爪が風を切る。大振りの刃のその軌跡が、インプモンの小さな体を飲み込む。勢い余り、灰の荒野に突き立てられた爪が鈍い音を刻む。

 沈黙。静寂。
 少しを置いての問いは恐る恐ると。

「倒した、のか?」
「……邪気は消えた」

 天使が問い、答えたのは鳳凰。騎士はただ小さく頷いて、荒野に突き立てた爪もそのままにゆっくりと膝をつく。

 流れ落ちるは大粒の汗。焼け焦げた左腕には血が伝う。天使と鳳凰の声が遠く聞こえた。

 嗚呼、これでいい。心のまま。この選択に後悔など、微塵もない――



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