第三夜 黒鉄のナイト・メア

3-1 孤独の疾走


 孤独だった。

 貴方ならそれを孤高と言ったろうか。強く、誇り高く、隷属することなど決してない。そんな貴方が去ってから、私は幾つの夜をさ迷ったことか。

 走り続けた。求め続けた。探し続けて、迷い続けた。

 草原を駆け、砂漠を駆け、荒野を駆けて、夜闇を駆けた。

 咆哮。鉄の牙が噛み合う不協和音。大地を削る足音に、巻き上がる砂塵。

 嗚呼――

 王の名と力を与えられ、騎士の命と姿を与えられた。その身は矛盾を湛えて、心は解けないパズルに迷い込むよう。

 貴方は――あるいはそんな私の、最後のピースであったろうか。

 乾いた空気を切り裂いて、渇いた大地を踏みしだく。

 嗚呼――

 遠境の空に閃く光の筋は、立ち昇る雷の如く。貴方であろうはずがないそれ。ならば――私はどうしてこの荒野を駆け抜けるのだろう。どうしてこの胸は高鳴るのだろう。

 ただそこへ、行かねばならぬと私の知らない私が告げる。

 貴方ならそれを運命と言ったろうか。

 嗚呼――

 嗚呼―― 

 嗚呼――!

 荒野の空に、獣の叫びがこだまする。どこかで誰かが、同じ空を見上げた気がした――




3-2 落日の疾走


 走る。走る。嗚呼――思えば今日は走ってばかり。きっと明日は筋肉痛だ。

「イ、インプモン! どこまで走んのこれ……!?」
「逃げ切るまでだ!」

 言い切りやがった。だからそれがどこまでだこの野郎。
 と、言ってやりたかったが息も既に絶え絶え。言葉の代わりにおかしな声が漏れる。

 逃げ切るって? 行けども行けども代わり映えのしないこの荒野で? 空を飛んで追い掛けて来るあの軍勢から走って?

 ははっ、ウケる。

 ああ、そうだ、ひっぱたこう。万が一逃げ切ったらこの悪魔をひっぱたこう。何の解決にもならないけどひっぱたこう。

 決意を胸に私は――超走る。

 多分酷い顔してるから正面からは来ないでください天使さん。

「もう……嫌あぁ……!」
「あ、おい! ヒナタあぶねえ!」

 フラフラの体を引きずるように走る。と、不意にインプモンが声を上げ私を突き飛ばす。察した私はされるがままに横合いに吹き飛ぶ。うん。慣れたもんだ私。……泣きたい。

 そして一拍を置いて響く鋭い音。ちらりと一瞥だけをやれば一瞬前まで私のいた場所を閃光が穿つ。
 やはり狙いは私。あるはずのないデジヴァイスを、いるはずのないテイマーを狙って。

 テイマー……テイマー?
 そう言えばテイマーってなんだ。まだ聞いてなかったっけ。
 テイマー、というと調教師? 猛獣使い、ならぬデジモン使いということか。

 インプモンを付け狙う天使たちが、なぜかインプモンと同等かそれ以上に危険視するもの。察するに恐らく……デジモンをより強く成長、いや、インプモンの言葉を借りるなら“進化”させるもの、というところか。

 ……そんなことができるならとっくにやっていると、彼らは微塵も考えないのだろうか。

 溜息を吐きながらゆっくりと立ち上がり、私たちを空から取り囲む天使たちを見上げる。

「やれやれ……困ったなこれ」
「その割に冷静そうね……」

 ぐるりと私たちを包囲する天使はおおよそ十数人。一人を除いて皆一様に同じ姿。先程の――エンジェモン、と言ったか。そして。
 ばさりと、一人姿の違うデジモンが腕と一体となった翼で風を打つ。最前で真正面から私たちに対峙するこいつが、恐らくこの場でのリーダー。

 見上げた遠方の空には、まだ豆粒ほどにしか見えないがわらわらと。これはまた大所帯で。

 嗚呼――悪夢だ。


 細く甲高い音を立て、風が唸りを上げる。白い羽毛に覆われた両腕が陽炎のように揺らめいて、大気のうねりは形無き龍の如くとぐろを巻く。

「シルフィーモン――完全体か」

 インプモンが呟くように言う。
 シルフィーモン、か。見上げたその姿はさながら鳥人と言ったところ。完全体というと、また初めて聞く単語なわけだが、

「レベルは……Ⅴ?」
「せーかい。冴えてるなヒナタ」

 鳥人から目を逸らさぬまま、茶化すように言うインプモン。ただの消去法だけど。
 しかし、となると当然周りの天使たちより強いわけだ。

 ちらりと辺りへ目をやる。と、天使たちの構えた拳が光をまとう。

 ロックオン。みたいな?
 ……どうしようこれ。

 ごうんごうんと、唸り、唸り。
 うおんうおんと、轟き、轟き。

 目前で唸るはずのそれはどこか遠くで響くようで。遥か遥か、彼方より雷鳴のように荒野を走り――

「いいタイミングだ」
「……え?」

 ぎゃりぎゃりと、荒々しく大地を削る。
 ぐおんぐおんと、猛々しく内燃機関が吠える。

 天使……鳥人? じゃない! 何が……!

 鳥人の操る風の唸りに紛れて、否、今やそれさえ呑み込んで。彼方の地平より瞬く間に、荒野を疾走し戦場に割り込む闖入者。

「え? え……なに!?」

 がおん、と。地を蹴る車輪の轟音はまるで歓喜の咆哮。

「そのまま突っ込めぇ!」

 インプモンの叫びに応えて、黒鉄の車体が跳躍する。傾陽に照る漆黒はぎらりと、神々しいほどに黒く黒く。空を切る分厚いタイヤは凶悪な唸りを上げて舞い上がる。

 鳥人がその姿を視認してから、僅か指を一つ折るほどの間。自らの巻き起こした風の音に遮られたとはいえ、これほどまで反応が遅れたのは偏にただその速度ゆえ。
 否、鳥人が遅いのではない。黒き疾走者が、余りにも速過ぎたのだ。

「ぐっ……! なっ!?」

 後一瞬。反応が早ければあるいは避けることもできただろうか。
 辺りにいた天使をもろともに、紙屑の如く散らして漆黒が鳥人へと迫る。鳥人は咄嗟に腕をかざすも、轟音を上げて空転するタイヤから逃れることは叶わず――

 その断末魔さえ、黒き旋風に呑まれ虚空へ消える。

 白い羽が雪のように散る中、彼は地へと降り立つ。重々しい黒鉄が地面を揺らす。

 嗚呼――“この時を待ち侘びた”と。言葉無く語る。


「乗れ! ヒナタ!」
「え? え……ちょっと!」

 半ば放り投げられるような形で強引に訳のわからない闖入者へと騎乗させられる。
 闖入者――轟音とともに突如現れ、数人の天使と鳥人を瞬く間に蹴散らしたそれ。その身は黒鉄にして、その駿足は二つの車輪。まるで主人の下へ馳せ参じた忠実なる騎馬の如く思えるも、その姿はどこからどう見ても――

「バ、バイク?」

 でしかない。

「しっかりつかまってろよヒナタ!」

 言って後部座席に飛び乗りながら魔法陣をばらまくインプモン。突然のことに一瞬呆けていた天使たちが再度拳を構えたと、ほぼ同時。

「走れ!」

 天使たちによる光る拳の一斉砲撃。その幾つかがインプモンの火炎に相殺され、できた僅かな突破口を黒鉄の騎馬が駆け抜ける。残る拳の閃光は騎馬の残像を掠めて地面に突き刺さった。

「振り落とさべ! っれんななよヒガ! ヒナっタダタ!」
「自分が振り落とされてどーすんのおっ!?」

 起伏の激しい荒野の大地に、盛大に舌を噛みながらふわりと後方へ飛んで行くインプモン。私は片手でハンドルにしがみつきながら、なんとかインプモンのスカーフをつかむ。ったく! ぐえェじゃない!

 なんだかぐったりしているインプモンを無理矢理引き戻し、片腕で抱えながら体を丸く、身を屈める。

 それにしてもなんて速度だ。少しでも気を抜けば投げ出されそうだ。
 顔も上げられないし、風以外の音も聞こえない。どこを走っているかも、天使たちがどうなったかも分からない。

 もう……悪夢だっ!

 より一層縮こまり、なけなしの力を腕に込める。気のせいか次第に速度が上がっているような。
 と、不意にお腹の辺りで何かがもぞもぞと動く気配。いつの間にか閉じていた目をゆっくりと開けば――ってなにしてんだこの野郎。

「ちょ……インプモン! 変なとこ触って……!」
「変なとこ? いや、それよりあいつらだ」

 私の脇腹辺りからもぞっと顔を出して、後方を振り返るインプモン。
 あいつら、って。
 とても振り向くことはできなかったが、言わんとしていることは理解できた。

「おい、振り切れるか?」

 車体を叩いてインプモンがバイクに問う。バイクは言葉の代わりに高鳴るエンジン音で答え――

 あれ? まさか……。

 そして更なる加速を以って応える。

「いぃーやあぁーー!」


 どこをどう走ったろう。
 遺跡のような場所を抜けたような気もする。森の中を駆け抜けたような気もする。岩山を駆け登ったり、なんだかしばらく宙に浮いていたこともあったような気もする。

 気付けば日はどっぷりと暮れ、辺りは夜の闇。バイクのライトが僅かに前方を照らす以外、地形もろくに分からない。

「もういいぞ。ここらで休もう」

 そう言ってインプモンが車体を叩けば、黒鉄のバイクはゆっくりと停車する。

 深く深く吸い込んだ息を吐き出して、静かに顔を上げる。拍子に離してしまったインプモンが転げ落ちる。

「いてっ!」
「ああ……ごめん」

 自分で言っておいてなんだが、心ここにあらずといった風な。
 インプモンは頭をさすりながらも立ち上がり、指先に炎を点す。インプモンの不満げな顔や付近が僅かに見えるが、照明としては余りに心許なかった。

 バイクから降りる。やはり暗くてよく分からないが、踏み締めた足元の感触からしてどうやら草原のような場所らしい。

 正直このまま、倒れて眠ってしまいたかった。けれど、

「休むって、それ……野宿?」

 乙女としてそれは断固拒否する。
 と、言いたげな顔で訴えてみるもインプモンは不思議そうな顔。
 首を傾げるな。爆発しちまえこの悪魔!

 本当に訳も分からず、なのだろう。睨まれて困った顔でたじろぐインプモン。目を逸らして頬をぽりぽりかく。

「ええと……ヒ、ヒナタ?」
「もういい。寝る」

 吐き捨てるように言ってごろりと横になる。ああ、開き直れば意外と気持ちいいかもしれない。うん。我ながらたくましいものだ。

 そんな私の反応に、インプモンはかりかりと頭をかいて小さく溜息。聞こえたぞ。と、やおらかさりと何かを手に歩きだす。
 ちらりと目をやれば小さな岩の上に先程の――どうやら魔法陣らしい、これをそっと置いてぼそりと何かを呟く。すると今までは砲弾のように射出されていた火炎が魔法陣の上に鎮座したまま静かに燃え上がり、辺りの闇がまた少し削られる。焚火代わりというわけか。

「それ……目立たない?」
「ああ、大丈夫だ。夜行性のデジモンもいるから、真っ暗のが危ないしな」

 獣よけか。ただのどーぶつみたいなデジモンもいるのだろうか。
 そんなことを考えながらゆっくりと目を閉じる。

 そして私の意識は、夜のしじまへと沈んでゆく――




3-3 朝駆の疾走


「おはよ。よく眠れたか?」

 寝ぼけ眼で起き上がった私にインプモンが朗らかに言う。まあ、意外とよく眠れたような気もするが、悔しかったのでうーと唸って睨んでやる。

「お、怒るなよー。今日は宿場探すからさ。な?」
「……追われてなければ、でしょ?」

 もう一度睨んでやるとインプモンは遠くを見ながらふっと微笑む。蹴り飛ばしてやろうかな。

 私は深く溜息を吐いて頭を振る。

「もういい。……ねえ、川とかない? 顔洗いたいんだけど」
「川? ええと」

 問えばインプモンは鼻をすんすんと鳴らし、

「あっち、水の匂いがする」

 そう言って水の匂いとやらがするらしい方角を指差す。犬か。
 欠伸をしながら行ってみる。しばらく歩くと草原の隙間を縫うように流れる細い小川が見えてくる。ホントにあったし。私は屈んで水をすくい……ああ、そう言えばハンカチすらなかった。泣けてきた。

「どうかしたか?」
「……なんでもない」

 セーターの裾で濡れた顔を拭い、一際低い声で答える。バイクに乗ってればそのうち乾くかなと、そんなことを考えながら湿った袖を振る。

 と、ああ、そう言えば。

「ところで、結局これってなんなの?」

 静かに佇むバイクがふと視界に入り、そう言えば昨日は聞く間もなかったことを思い出す。今更だけど。

 近づいてそろりと覗き込めば、まるで振り向くようにひとりでにハンドルを切る。恐る恐る触ってみる。と、低く響いたエンジン音は生き物の鳴き声のよう。

「そいつはベヒーモス。俺の相棒だ」
「生きてるのこれ?」
「まあ、そんなようなもんだ」

 どんなようなもんだそれ。結局さっぱり分からないが、まあ、ともかく頼もしい味方ということだけは確かか。少なくともインプモンよりは頼りになりそうだ。

 そんな私の心の内を知る由もなく、インプモンは鼻高々といった風にバイクを――いや、ベヒーモスを撫でる。

「にしても珍しいな」
「なにが?」
「ベヒーモスは今まで俺以外をまともに乗せたことがなかったんだけどな。ヒナタ、何ともないよな?」

 ちょっと待て何だそれ。まともに? 何とも? え? つまり……

「どうにかなるかもしれなかったのに乗せたの?」
「あ……いや」

 言ってはっとなるインプモン。やぶへびと気付いたようだが……うん。

 私は、無言でインプモンをひっぱたく。


「殴ることないじゃないか」

 ベヒーモスの背上で風に煽られながら、白い頬に赤い手形を浮かべるインプモン。ひっぱたき甲斐のあるほっぺだ。
 私は後部座席のインプモンを振り返り、眉をひそめる。

「なら、具体的にどうなってたわけ? 殴ることない程度なら謝ってもいいけど」
「え? あー……ちょっと意識を乗っ取られて死ぬまで暴走するくらいかな」

 あー、なるほど。そういうあれね。私は無言でインプモンの眉間に手刀を振り下ろす。

「痛いっ!」

 眉間を押さえて喚くインプモン。殴ることあったから謝らないぞ。

「しかも危ねーよ。落ちたらどうすんだ」
「どーにもなんないでしょ、こんなスピードで」

 今度は振り向きもせず。
 ベヒーモスは昨夜と違いゆっくりと、せいぜい速めの自転車くらいの速度しか出していない。頬に当たる風が心地良かった。

「危なかったのは私のほうでしょ。というか今まさに大丈夫なのこれ?」
「大丈夫じゃなきゃそんな元気に喋れねえって。てゆーか俺と会う前の話だぜ。暴走、つっても」

 今は大人しいもんだとインプモンは笑う。体当たりで天使を蹴散らすバイクが大人しいかどうかは疑問だったが、言わないでおこう。

 まあ、大丈夫ならいいか。

「ところで、今ってどこに向かってるの? なんとかモンのお城って遠いの?」
「リリスモンの城か……さあ? 俺は地理はさっぱりだからな」
「は?」
「そういうのはいつもベヒーモスに任せてんだ」

 そう言ってぽんぽんと、黒鉄の体を叩く。またてきとーな。

 私は溜息を一つ。遠い空を見上げる。嗚呼、命を狙われてなくていつでも帰れるならいいとこなのに。
 そんなことを考えながら、何気なく辺りを見渡して――

「あ」
「うん? どした?」
「町がある」

 進行方向、真っ直ぐ前方を指差して。後部座席からひょこっと顔を覗かせたインプモンも私の指を追って目を凝らす。

「あれは……あそこに向かってんのかベヒーモス?」

 問うインプモンに、ベヒーモスはうおんと唸るエンジン音と僅かに上げた速度で応える。

 町……町だ。町がある。嗚呼――

「ど、どうしたヒナタ?」

 思わず力が抜けて、屈み込む。どうしたもこうしたもあるか。安堵の溜息とともに、うっすら涙すら浮かぶ。

「ベヒーモス……えらい」

 そう言って、私はベヒーモスを撫でた。


 荒野にぽつりと現れたそれは、簡素な石造りの建物が点在する、まるで岩山をくり抜いたような町だった。

 町の入口とおぼしき石のアーチを前に、ベヒーモスは緩やかに足を止める。
 私はベヒーモスから降りてそろりとアーチの内を覗き込む。そんな私の背後でインプモンがおおと声を上げる。

「どこかと思えば……なんつったっけな、ここ」
「来たことあるの?」
「昔な。ベヒーモスが暴れまくってた町だ」
「え……?」

 アーチに手をかけていた格好のまま、思わず固まる。

「心配すんなよ。俺がベヒーモスを手懐けるまでの話だ」

 どの辺りが心配無用なのか分からないが。
 嗚呼、なんてこった。折角安息の地を見付けたと思ったのに。襲ってこないだろうな、ここの住人たち。

 私の不安を余所にインプモンはアーチを抜けて声を張る。

「おーい、隠れてねーで出てこい! こんなナリしてっけど俺だ、ベルゼブモンだ!」

 そんな声が静かな石造りの町に反響し、しばし。やがて躊躇いがちにひょこひょこと、町の住人らしきデジモンたちが建物から顔を覗かせる。

「ベ、ベルゼブモン様……?」

 アーチに一番近い建物から恐る恐る姿を現したのは、大小様々な石を人の形に積み上げたようなデジモンだった。

「ようゴツモン。俺だよ俺。ベルゼブモンだ」
「ベルゼ……えー?」
「えーじゃねえよ。ホントだって。俺以外の誰がこいつを乗りこなせんだよ」

 ベヒーモスをぽんぽんと叩きながら言うインプモン。まあ、気持ちは分からなくもない。
 ゴツモンと呼ばれたデジモンはなんだか納得したようなしてないような顔でぺこりと頭を下げる。

「お、お久しぶりでございます。それで、その、ほ、本日はどういったご用向きで……?」

 怖ず怖ずといった風に。他の住人たちも遠巻きにその様子を見守る。うーん。邪険とまではいかないようだが、歓迎されてもいないような。

 よくよく見れば町は所々が不自然に崩落している。ベヒーモスがやったのだろうか。だとするならこの反応も仕方のないことだが。

「いやー、用ってほどでも。あ、ヒナタはなんか要るもんあるか?」
「え?」

 突然の振り。皆の視線が自然と私に集まる。要るもの、って? この空気で言うのは躊躇われたが……嗚呼、まあいいや。

「ええと、それじゃ……」

 私の言葉に、なぜか皆は首を傾げた。


「お湯加減いかがメラ?」
「ん、丁度いいよ。ありがと。ええと、プチメラモンだっけ?」

 磨き上げられた石の浴室。ふわふわと浮かぶ火の玉のようなデジモンに、湯舟の中から手を振る。

「あ、バブモンももういいよ。ありがと」

 今度は浴槽の縁から泡を吐くスライムのようなデジモンに振り返り。お礼を言えば彼らは嬉しそうに声を上げる。
 町のデジモンたちに頼んで借りたお風呂は、まるで生き返る心地だった。

 はあ、と、溜息を漏らす。
 そんな折にふと、浴室の入口辺りから聞き慣れた声と足音が聞こえてくる。私は迷わず手近な桶を手に取った。

「おいヒナタ。いつまベっ!?」
「入ってくんな。ぶっ飛ばすよ」

 私の投げた桶に倒れるインプモンに、冷たく言い放つ。インプモンはずりずりと後退し、浴室の外から言葉を続けた。

「もうぶっ飛ばしてる……てゆーかなんで俺だけ」
「いいから外にいて。それよりもう準備できたの?」
「あ、ああ。ゴツモンたちが色々用意してくれた。いつでも出れるぞ」

 できれば今日はこのまま泊まっていきたいところだけど。まだ日も高いし、帰るためには進まなければならない。それに――住人たちはベヒーモスやインプモンに、明らかに怯えている。私に対してはそうでもないようだが、さすがに長々と居座るのは気が引けた。

 頭から湯をかぶって、また溜息を一つ。嗚呼……名残惜しいけど、しょうがない。そろそろ上がるとするか。
 もう一度二人にお礼を言って、私は浴室を後にした。

「おせーよヒナタ」
「はいはい」

 着替えを済ませて居間のような部屋に戻る。部屋にいたのはインプモンとゴツモン、そしてまるでハロウィンのようなカボチャのお化け――その名もそのままパンプモンというらしい。
 インプモンは私を見るなり眉をひそめた。

「なんだその格好?」
「パンプモンが仕立ててくれたの。ありがと。丁度いいみたい」

 どこか制服に似た新しい服の裾を振り、笑いかけるとパンプモンは照れたようにはにかむ。と、そんな私たちにインプモンはまたも眉をひそめて、

「なんだその愛想のよさ……」

 なんて、いぶかしげに首を傾げる。私はそんなインプモンをスルーしてゴツモンたちの用意してくれた荷を受け取る。

「じゃ行くね? 皆ありがと」

 そして私たちは、再びリリスモンの城を目指して旅立つのであった。




3-4 日向の疾走


「速度が上がってきたな」
「みたいね。って、インプモンがやってる訳でもないの?」

 ゴツモンに貰ったゴーグルを片手でかけ直し、頬に当たる風が次第に強くなるのを感じる。インプモンは後部座席にくくりつけたリュックの上で首を伸ばす。また落ちても知らないからね。

「ああ、それなんだけどさ。これ、ヒナタじゃね?」
「私? なにが?」

 インプモンが少し声を張る。風の音が強くなってきた。

「ベヒーモスは乗り手の意思を汲み取るんだ。でも……町に立ち寄ったりは俺よりヒナタの意思なんじゃねーかなー、って」
「私の……?」

 なら今は、私が早く城へ向かおうと思ったから? でも――

「どうして私の?」
「さあな。ベヒーモスの気まぐれか、あるいは……」

 躊躇うようなインプモンの口調。ふと、私はインプモンの言わんとしていることを察して、口を挟んだ。

「やめてよ」

 とだけ。インプモンもそれ以上は言おうとしなかった。

 あるいは――私がやはりテイマーだから、とでも? 馬鹿馬鹿しい。そんなこと、あるわけがない。

 ふいと、首を振る。インプモンは少し困ったように頭をかいた。
 そしてお互い黙り込んだままの、そんなちょっぴり気まずい時間。――しかしその沈黙が破られたのは、それから程なくだった。

 あ、とインプモンが声を上げる。

「ヒナタ……スピード上げすぎたかもしんねえ。よく考えたら目立つなこれ」
「私のせいだって言いたいわけだ?」

 後方にちらりと目をやればわだちから高く立ち上る砂煙。その視線を前へ戻せばぽつりと空に浮かぶ黒い影。

 昨日ベヒーモスがあれだけぶっちぎってやったというに。もう追いついてきたというのか。

 ぎゅ、と。操縦するわけでもないがハンドルを握る手に力を込める。姿勢を低く構えて、ふう、と息を吐く。背後でインプモンが困惑するような声を上げた。

「あれ? ヒ、ヒナタ?」

 どうやら先のインプモンの考えは間違っていなかったらしい。私の意思を正しく汲み取ったベヒーモスが、うおんと唸りを上げる。

「つかまって、インプモン」
「え? あ、はい」

 なぜか敬語で素直に従うインプモン。私は、驚くほど冷静に声を張った。あるいは、とうに冷静さなど無くしていたのかもしれない。

「いくよ……ベヒーモス!」
「ヒ、ヒナタぁ~!?」



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