第二夜 白妙のファナティック
2-1 日向の愁嘆
来い。
そう言って差し出された手を、私はどうして取ってしまったのだろう。
ただそうしろと、理性でない部分が訴えたように。
果たしてそれは悪魔の誘いか、あるいは……。
答えの出せぬ問い。意味をなさぬ後悔。ただ現状を今の段階で、今の認識で言い表すならそう――
「悪夢だ……」
としか言えない。言いたくない。
確かなことは一つ。
私の平和な日常が、ことなかれ主義で平和主義な私の日常が、粉々に崩れ去ったということ。
嗚呼――さようならラブアンドピース。そしてこんにちはデッドオアアライブ。
嗚呼。
嗚呼。
ああああ~……。
「悪夢……だ」
もう一度、私は大きな溜息とともに呟いた。
一体これからこの先この台詞を幾度、口にすることとなるのであろうか。
今の私には、想像もできなかった――。
2-2 天使の帰還
海原を一望する小高い丘の上、天を衝くかの如く高くそびえるそれは白亜の塔。雲を見下ろすその頂は、円周を列柱に囲まれた石造りの祭壇であった。
列柱の内側には祭壇をぐるりと囲む白衣の天使たち。その手に金の鉄杖を構え、今にも戦場へ繰り出さんとばかりに気を張る。そして――
中央の祭壇を前に、手に持つ巨大な鍵を掲げるのは重厚な白い鎧を身にまとう巨躯の天使。
「これは……一体」
ぴしりと、天使の掲げる鍵の先、祭壇の上で宙に亀裂が走る。鍵の天使は指先に感じる違和に顔をしかめ、周囲の天使たちへ振り返る。
「備えよ! 間もなくゲートが開く……しかし、どうやら異変が起きているようだ!」
鍵の天使の言葉に、周囲の天使たちは杖を握るその手に一層力を込め、戦いの構えを取る。
宙の亀裂は次第に大きく、ぎぎぎと扉の開くような音とともに空を穿つ穴となる。
天使たちが見守る中、宙にぽっかりと空いた空洞からやがて、煤と傷にまみれた銀の剣がずるりと這い出す。
鍵の天使ははっと息を呑み、祭壇に倒れた剣の天使の元へ、一拍を置いて駆け寄る。
「スラッシュエンジェモン!」
鍵の天使は剣の天使を抱え上げ、はっと、頭上の穴を仰ぐも、しかし既にその中には何の気配もない。
鍵の天使が再び視線を下ろすと、その腕の中で剣の天使は嗚咽混じりのか細い声で、
「すみま……せん……」
「どうした! 何があったのだ!?」
「取り逃がしました……ゲートに、妙な魔術を撃ち込……ぐっ」
剣の天使はそこで言葉を詰まらせ、痛みに呻きを漏らす。
鍵の天使は周囲に控えていた白衣の天使たちを呼び、剣の天使の介抱をさせながら、
「ゲートを……まさか、ゼニスゲートを改竄したというのか。そんな……」
「す、すぐに追っ手を……こちらへは戻ったはずです。恐らくこの……近く、に……」
ぐうと、一際大きく呻き、意識を失ったのだろう、剣の天使は四肢をだらりと力無く投げ出す。
鍵の天使は剣の天使の胸に一度手を置き、電脳核の鼓動を確かめると、僅か、安堵の溜息を漏らし、おもむろに立ち上がる。
「行くのだ同胞たちよ! 我らが友の戦いを無駄にするな! 必ずや奴を……蝿の王を討つのだ!」
その叫びを合図に、白亜の塔から次々と天使たちが飛び立ってゆく。鬨の声を、青天に響かせて――。
2-3 逃走の旅路
「大丈夫かヒナタ?」
「大丈夫じゃないし」
ふて腐れながら吐き捨ててやればインプモンは困ったように頬をかく。困っているのはこっちだというに。
空を見上げる。
嗚呼、泣けてきた。
辺りは見渡す限りの草原。人波も町並みも見えない。仰いだ空は不自然なほど青く、染色したよう。
「ここが俺たちデジモンの世界、デジタルワールドだ」
どうだと言わんばかりに腕を広げ、聞いてもいないことを話し出すインプモン。声の調子は妙に明るい。私は、冷たく一瞥する。
「なんて言うか」
私の視線に耐え切れずか、目を逸らしてふうと息を吐く。インプモンは声の調子を落とし、
「ホントごめん」
そう言ってうなだれる。
私はゆっくりとインプモンに手を伸ばす。その手がボロボロのスカーフに届くまで、インプモンはうろたえながらもただじっと。私は顔を上げて真っ直ぐにインプモンを見据える。
「ごめんで……済むの?」
そんな台詞は自分の口から出たとは思えないほど低く冷たい。
インプモンはこくりと息を呑み、少しを置いて恐る恐る口を開く。
「すみません……」
私はふふと笑んでその手をインプモンの細い首に回す。そして――
「ヒっ、ヒなぁぅ~……っ!」
そして力の限り締め上げ振り回す。
「イ・ン・プ・モぉ~ン!」
「ぎっ、ギブギブ! ヒナっ……たはぁ!」
「だからなんで巻き込んだぁー!?」
「だから俺じゃな……っ! 死ぬぅ! 死んじゃうから!」
そう言って私の腕をタップするインプモン。と、ふとその手が私の腕をがしりと掴み、
「あっ! 待ったヒナタ! 後ろ見ろ! 後ろ!」
「後ろぉ~!?」
言いながらも聞く耳は持たずインプモンを振り回す。
「あ、あいつらだ! やばいぞあれ!?」
「あいつ……え?」
はっとなり、半ばインプモンを放り出す形で離して振り返る。草原の彼方に僅か見えるのは、雲にも届く細い細い塔のような。その頂より四方へ飛び立つ小さな影は――。
「なに?」
「エンジェモンだ。俺たちを探してる」
エンジェモン?
名前からして……さっきの天使の仲間? ってそれ。
「ど、どうするの!?」
「そんなもん……」
隠れる場所もないこんな草原で。しかも相手は10や20では済まない大所帯ときた。
「逃げるしかないだろ!」
「もうやだぁー!」
草原を走る。走って、走り抜く。ひたすらに。
「気付かれた……こっちに来るぞ!」
走りながらちらりとだけ振り返れば、豆粒のような影の幾つかが確かに真っ直ぐこちらを目指して飛来する。
「ど、どうするの……インプモン!」
「この小世界を脱出する! ヒナタ! どこかに光の柱は見えないか!?」
「光の……なに? 柱? って?」
私の右手を並走するインプモンへ視線をやり、そしてその視線が不意に、その先へ向く。
インプモンは小さい体で必死に走りながら私へ振り返り、半ば叫ぶように続ける。
「光の柱だ! 常に移動してるはずだからどっかに――」
「それって……」
視線はインプモンの頭上を通り過ぎたまま。進行方向右手を指差せばインプモンもまた振り返り、
「それのこと?」
「そうそう、これこ……れぇ~!?」
「……え?」
数秒前まで彼方に見えていたそれは、気付けば目前まで迫り、瞬く間に私たちを呑み込む。
途端、視界がホワイトアウトする。同時に襲う浮遊感に、地を駆けていた足が空を切る。
「な、なにこれぇー!?」
「だ、大丈夫だ、助かった。それより離れるなよ。逸れるとまずい。……てゆーかもっと早く言ってくれよ」
言いつつ無重力のような光の中を、泳ぐように近づいて私の腕を掴むインプモン。姿勢はぐっちゃぐちゃ。もうどっちが上でどっちが下だったかもわからない。
「早くって……あー、もう訳わかんない! どうなるのこれ!?」
「どこかに移動するだけだ。心配するな」
「ど、どこかって?」
「さあ? 正規の方法じゃないから……どこだろうな」
私の問いに、インプモンは肩をすくめて首を傾げる。
それは本当に心配ない状況なのか。なんて表情を隠しもしない私に、
「どこ行くかわかんねえなら、あいつらだってそうそう追いかけて来れねえって。心配すんなよ」
「それはいいけど……そんなことより私は帰れるんでしょうね?」
問えば乾いた笑いと泳ぐ目。
「ちょっと、インプモン?」
「まあそれは追い追い考えるとして」
「今考えてよ!」
ほとんど頭突きをするほどに詰め寄って。しかしインプモンは笑いながら視線を逸らす。
「まあ、なんとかなるって」
そう言って私の肩を叩く。
こいつ本当は全部狙ってやってるんじゃ……そんな思考が頭を過ぎる。嗚呼――
「悪夢だ……!」
「ここ、どこ?」
入るのも唐突なら出るのもまた唐突に。光の柱とやらから投げ出されるように抜け出た先は、見渡す限りの荒野だった。
突然のことにたたらを踏みながらも、近くにあったちょうどいい高さの柔らかい岩を支えになんとか転倒を免れる。
「い、いてーよヒナタ!」
「え? ああ、はいはい」
ああ、インプモンかこれ。わしづかみにしていたインプモンの頭から手を離し、再度辺りを見渡す。
インプモンは頭をさすりながらううんと唸り、
「物理レイヤーの荒野だな。表層まで流されたか」
「よくわかんないけど……それで、出口は?」
そんな簡単にいくか。なんてリアクションを半ば想像しながら問えば、インプモンは空を指差して、
「あれだ。リアルワールド球。こっちから見たヒナタたちの世界だ」
見上げれば、ああ、変わった太陽だと思ったが。私は視線をゆっくりと下ろして、溜息を一つ。
「……そう」
「大丈夫かヒナタ。覇気がなくなったぞ」
そんなインプモンの言葉には視線も寄越してやらず、ただただ大きな溜息をもう一つ。誰のせいだ誰の。というかそもそも、
「なんでそんなに私を巻き込みたがるの……」
「いやいや、だから俺じゃ……てゆーか逸れたら余計危ないだろ」
「それは……そうだけど」
だからといって現状が危なくないかと言えば決してそうではないのだが。
「それより移動しようぜ。ここも隠れる場所はねえし」
はあ、と。三度の溜息。
「で、次はどこに?」
「そうだな……とりあえず」
インプモンは腕を組んでううんと唸り、
「リリスモンの城へ行ってみるか」
「今度は誰それ」
「俺と同じ七大魔王だ。全く信用ならねえババアだが……少なくとも天使の味方をする奴じゃねえ」
「……敵の敵が味方とは限らないと思うけど?」
自分で信用ならないと言っておきながら、しかもよりによってまた魔王ときた。
確かに魔王を狙う天使たちは私にとって敵と言えるが、いみじくもたった今自分で言った通り。魔王たちが、インプモンたちが私の味方という根拠もないのだ。
そんな私の胸中を知ってか知らずか、インプモンは励ますように言う。
「リリスモンなら奴らも迂闊に手は出せねえだろうし、それに……年の功だ。帰る方法も知ってるかもしれねえ」
「……だと、いいけどね」
都合、四度目の溜息であった。
「ところで……スラッシュなんとかはどうなったの? 倒したの?」
荒野を歩きながら問う。本当は知りたくも関わりたくもないのだが、残念ながら私の生死に割とダイレクトに関わること。それに――行けども行けども代わり映えのしない景色に、話題がなければそろそろ心が折れそうだった。
インプモンはふむと腕を組み、首を傾げる。
「そう言えばどうなったろうな。途中で横穴開けて抜け出したから……ゲート自体は無茶苦茶になっちまったろうから、巻き込まれてりゃただじゃ済んでねえとは思うけど」
無茶苦茶に、というと、嗚呼――あの時、確かゲートとやらに呑み込まれた瞬間、インプモンはありったけの魔法陣をばらまいて……なにがどうなったのか私にはさっぱりだが、天使の焦った表情からなにかとんでもないことをしていたのだろう。
というか、よく無事だったな私たち。何気にかなりの無茶をしていたんじゃ。なんて、今更思い出して少し身震いする。
と――嗚呼、そう言えば。
「あの時、なんだかインプモン大きくならなかった?」
「大きく? なんだそれ」
「なんだって言われても……ああ、まあいいけど」
氾濫するゲートの光の中で、私の手を取るインプモンの腕が一瞬……見間違いだったろうか。インプモンは首を傾げて眉をひそめる。
「それよりヒナタこそなんかしなかったか? なーんか妙な感覚が。ホントにデジヴァイスとか……」
「インプモンまで言うの? それ」
私が天使に命を狙われた、そのありもしない理由。見てみろと言わんばかりにポケットを探る。そう言えば鞄も向こうに落としてきたままだ。持っているものと言えば、
「ケータイに、あと生徒手帳くらいだって、ほら」
突き付けて、ああと気付く。
「そうだ。あの魔法陣みたいの全部使っちゃったんじゃないの? 私の安全のために補充しといてよ」
「私の、だけか……」
「なにか?」
「あ、いや。了解」
半ば押し付けるようにインプモンに生徒手帳を手渡す。大人しく受け取ったインプモンは荒野を歩きながら器用に魔法陣を書き上げていく。……いやいや、私は悪くない。はずだ。
「にしても」
自分に言い聞かすように首を振っているとふと、インプモンが足を止めてぽつりと言う。
「いいタイミングだな。ヒナタには先見の明があるよ」
「え……?」
「追っ手だ。気をつけろよ」
2-4 闘争の旅路
「あれは……」
「エンジェモン――天使型のワクチン種、成熟期だな」
岩陰に隠れながらそっと覗き込む。彼方の空、私の目ではまだ豆粒ほどにしか見えない。
「成熟期?」
「俺たちデジモンは進化を繰り返して強くなっていくんだ。成熟期ってのはそのレベル。数字で言えばレベルⅣだ」
「Ⅳ……インプモンは?」
「Ⅲだ」
しれと言う。負けてるじゃないそれ。大丈夫なのかと顔で問えばインプモンは得意げに笑う。
「因みにスラッシュエンジェモンは究極体、レベルⅥだ」
「え? 倍も違うのあれ?」
「まぐれ当たりのラッキーパンチだけどな。上手くやれば手がないわけじゃねえ。レベルの差が戦力の決定的な差じゃねーんだよ」
ふふんと胸を張る。
まあ確かに、人間だって不意を突けば子供でも大人を昏倒させられる。その理屈はわかるけど。
「で? あんな遠くにいるのにどう上手くやるの?」
覗き込めば標的は遥か上空。それに、
「そもそもこれ、見付かってないの? こっちに来るみたいだけど」
インプモンに言われすぐにこの岩陰に隠れたが、こちらから視認できたなら逆も有り得るということ。砂埃の舞う荒野は確かに上空からでははっきりとは見えないかもしれないが……。
インプモンはふむと唸る。
「もしかすると何かいる、ってくらいは気付いたかもな。でもはっきり確認したならすぐに仲間を呼ぶはずだ」
ああ、それは確かにその通りだ。レベルで二つ違う格上の仲間が手傷を負わされたのだ。いきなり仕掛けるような間抜けはさすがにしないだろう。
「相手は一人、よね?」
「みたいだな」
エンジェモンとやらは徐々に接近し、私の目にも次第に姿がはっきりと見えはじめる。
白い衣に鉄仮面、金の杖を構え背には純白の翼。なるほどまさに天使というわけだ。
「それで、どうするの?」
「先手必勝。射程に入ったら撃ち落とす。仲間を呼ばれる前にな」
「……完全に悪役の台詞じゃない、それ?」
「負けた奴が悪いんだぜ、ここじゃあな」
開き直りやがったかこの野郎。遂に本性出したな。
なんて私の胸中を知る由もないインプモンはあっけらかんと。「そこでだ」と人差し指をぴっと立て、意味深な視線を寄越してくる。
嗚呼、嫌な予感しかしない。
「ヒナタに一つ、頼みたいことがあるんだ」
「……え?」
遠く遠く、地平まで続く荒野は、幾重にも重なる層から成るデジタルワールドの、最も基盤となる表層のレイヤー。
砂塵の舞う荒れた大地を見下ろしながら、天使は杖を握る手に力を込める。
確かに先程、この辺りで何か……。合図は――否、まだ出せない。
この広大な荒野に一体どれほどのデジモンたちが棲んでいるというのか。何かいるという程度で合図を出していては切りがない。
確証が――
岩場を目指し、天使が降下を始めた、まさにその時だった。岩陰から飛び出すように姿を現したのは見慣れぬ人影。目を凝らせば走り去るその後ろ姿はデジモンのそれではない。
あれは……人間!?
見付けた! いや、だが単独? とにかく合図を――!
突然のことに、一瞬の思考の乱れ。視線は眼下の人間に。ぐぐと右手に力を込め、そうして生じた、僅かな隙。
なにっ……!?
意識の隙間を縫うように足元より飛来する火炎。咄嗟に体を捻り回避の体勢をとるも、火炎は左の翼を掠める。
バランスを崩し制御を失う。途端にその体は仰向けのまま重力に引きずり落とされる。
天使はなんとか体勢を立て直そうと再度体を捻り反転。眼下を見下ろせばそこは先の人間が隠れていた岩場。そして岩陰から立ち上る、黒煙。
ぐ、と。我が身に起こったことを理解し、天使は歯を軋ませる。
なんてことはない。人間はただの囮。自分が人間に気を取られた瞬間を狙って奴は、岩陰に残ったあの悪魔は、動きを止めてしまった自分を狙い撃ったのだ。
悪魔らしい、卑劣な罠というわけだ!
天使は落下するまま杖を左手に、握り込んだ右の拳に力を込めて眼下の悪魔を睨みつける。天使の拳が光を放ち、眼下の悪魔が右手を掲げる。
第二射を放とうというのか。面白い! 真っ向勝負で成長期に遅れを取るとでも……!
――だが、そんな天使の思惑とは裏腹に、悪魔が指をぱちんと鳴らせば、放たれる第二射はまるで予想だにしない場所から。
気付いた時には、もう遅い。
横合いから飛来した火炎が回避の間もなく天使に直撃する。体をくの字に折って真横に吹き飛ぶ天使。爆炎と黒煙にまみれたままにやがて岩場へと落下する。
「馬鹿正直過ぎんだよ、お前らは」
そう言ってふうと息を吐く悪魔――インプモン。やったぜとサムズアップに、しかし少女は実に不満げであった――。
「ちょっとぉ! インプモン!?」
晴々とした顔で親指をぐっと立てるインプモンに、私は開口一番怒声を上げる。いい顔すんなこの悪魔!
「いやー、はっはっは。大丈夫かヒナタ?」
大丈夫? 大丈夫かって?
派手に転んで尻餅ついて、砂埃にまみれたこの可哀相な姿を見て大丈夫かって?
嗚呼、わからないなら教えてやる。教えてやるとも!
「大丈夫なわけ……ないでしょう!?」
「お……おお。でもその割にはお元気そうで」
へたりこんだまま胸倉をつかんで詰め寄る私に、インプモンはなだめるようにタップをしながら引きつった笑みを浮かべる。
元気? ええ元気ですとも。おかげさまでねええ!
ふー、ふー、と。言葉にならない感情を鼻息で表す。
「で、でもほらっ! うまくいったろ? さ、作戦大成功ー、つってな……そのー、ははは」
私の無言の抗議に口調は次第に弱く、尻すぼまりに。
作戦というのはあれか。私を囮にするというあれか。私に気を取られた天使を隠れていたインプモンが狙撃し、今度はインプモンに気を取られた天使を、私に持たせた魔法陣からリモートで狙撃するという卑劣極まりないあれか。そしてその反動でついでに私を吹っ飛ばすというあれか。
ねえ、聞いてないんだけど? 最後のだけ聞いてないんだけど? 魔法陣からあんな熱風が噴いて吹き飛ぶとか、聞いてないんだけど?
あっついし、いったいんだけど!?
嗚呼、泣けてきた。もう泣こうかな。泣いてみようかな。
「お、おい、ヒナタ?」
「……なに?」
インプモンを締め上げていた手から力を抜いて、ぐすりと、涙目で答えればいつになくうろたえたインプモン。
どうやらデジモンにも効くらしい。女の武器とはよく言ったものだ。よし、これからは怒るより泣いてやろう。
――と、私がそんな決意を胸に、袖で目尻を拭っていたちょうどその時。私にどう言葉を掛けたものかと脂汗を浮かべていたインプモンにとっては、あるいは助け舟となったろうか。少し離れた岩場からがららと小さくはない音。
目をやれば、嗚呼、そう言えば忘れていた。剣の天使は至近からでも足一本、あの距離なら生きていてもおかしくはないか。
立ち上がる天使に向かってインプモンは声を張る。
「なにい! 生きていただとう!?」
やけに芝居がかった口調であったという。
純白の衣は煤と血にまみれ、その足取りは覚束ない。足元に目をやれば中程で砕けた黄金の杖。なるほどあの杖を盾に直撃を免れたというわけだ。しかしその姿は見るからに満身創痍。立ち上がるのがやっとというところ。
「ぐぅ……魔王……っ!」
杖を握っていた左手は力無くだらりと。天使は右拳に淡い光をまとわせインプモンを睨みつける。
「よう、無事だったか」
「舐めるな……!」
天使が光る拳を構え、インプモンが魔法陣を突き出して、互いが互いを射殺すような視線を交えて対峙する。
一触即発。ぴりりと空気が張り詰めて――刹那。
「ヘブンズ――!」
「サモン!」
咆哮。裂帛の気合いとともに放たれた光の拳圧と魔法陣の炎が互いを食い潰すようにぶつかり合って――そんな光景を想像していた私とインプモンは、思わず目を見開いた。
「がっ……ぁ……――モン、様……!」
天使の最期の言葉を聞き取ることは、叶わなかった。
右腕を高く掲げたまま、インプモンの炎を無防備で受けた天使が、その身を塵と変えてゆく。私はそんな光景をただ呆然と見詰めるだけ。
荒野に一陣の乾いた風が吹いて、灰燼に帰した天使をさらってゆく。ふと見上げた空には、光の狼煙が立ち昇る。インプモンは吐き捨てるように言った。
「やられたな」
「ねえ、あいつ……」
ああ、と。一度舌を打って、インプモンは私へ駆け寄って来る。座り込んだままの私に手を差し延べて、
「仲間を呼ばれた。逃げるぞヒナタ」
嗚呼、なんて奴だ。あいつは、天使は光る拳をインプモンではなく空へ向けて放ったのだ。インプモンの攻撃を甘んじて受け、自らの命も顧みず。
目的はインプモンの言う通りだろう。天使の拳から放たれた光の軌跡は高く高く空へと昇り、まるで光の塔。相当の遠方からでも視認は容易だろう。
それにしたって自分の命より任務の遂行を選ぶなんて……。狂気じみたその決意に身震いする。
「やべえ……急げヒナタ!」
「わ、わかってる!」
インプモンの視線につられ、見上げた彼方の空にはぽつぽつと黒い粒が浮かぶ。嗚呼、お早いお出ましで。
私は慌てて立ち上がり、思わずたたらを踏みながらも走り出す。最後にもう一度だけ天使の散った虚空を振り返り――そして呟く。
「……悪夢だ……」
そんな台詞は、もう何度目だったろうか。
>>第三夜 黒鉄のナイト・メア