第十五夜 極彩のネビュラ
15-1 氷天の決闘
悪夢の魔王が指差す先には翡眼の王。時間切れと、そう言ったか。醜悪な笑みに歪むその顔は、絶望を肯定する。
「くはは! 見付けた……見付けたぞ!? さあ、かくれんぼは仕舞いだ!」
勝ち誇る。歓喜に沸く。虫けらを踏み潰すこの時をどれほど待ち侘びたかと、黄土色の目が狂気に澱む。
「そんな……ここまで来て!?」
マリーの声はもはや悲鳴にも近い。絶望を引く悪夢の魔の手に怯えるように。
「ヒナタ! 早くどうにか――」
ベヒーモスの上で詰め寄るマリーに、けれど私は応えなかった。応えられなかった。
「……ヒナタ?」
マリーの声は右から左へ。清流のように滞りなく流れてゆく。聞こえていないわけではない。ただ、私の意識は彼女へは向いていなかった。
私の見詰める先。氷天に佇む、夜闇の翼と翡翠の眼の王。その姿に目を奪われていたのだろうか。大鎌を振り上げる目前の死神にさえ、余りにも穏やかに笑うその姿に。
視線が静かに交う。翡翠の眼が私を遠く、けれど真っ直ぐに映して、優しく微笑みかける。
嗚呼、そうだ。きっともう、分かっていたのだ。
「マリー」
「え?」
「大丈夫」
それだけ言って、また空を見上げる。多くを語る必要はない。その結末を、見届ければいい。
「どうした。やけに大人しいな」
微笑を浮かべ、問うたのは翡眼の王。勝利を確信していたベリアルヴァンデモンの目からは狂喜が薄れる。
「何だ……」
ぽつりと、譫言のように零す。
「何だこれは……何だと、聞いているのだ!? メルキューレモン!?」
唐突に口にしたのは傀儡と呼んだ英雄の名。レイヴモンに匿われた、見えぬその姿をそれでも追って、黄土色の目がぎょろぎょろとうごめく。
「ああ、ばれてしまったか。残念」
どこからともなく答える声はメルキューレモン。声を辿り、目を向ければ姿を現す。姿隠しの翼の主・レイヴモン。その足元に横たわる長髪の少年。そして、傍らに立つのは鏡の貴人・メルキューレモン。肩をすくめ、小さく息を吐く。
「盗られたものを、返してもらおうと思ってね」
笑う声は次第に弱く、か細く。やがて鏡の肢体が光を纏い、その姿が人のそれへと変わり、ふらりとよろめく。
「一矢くらいは、報いたかったが……」
レイヴモンに支えられたまま、脂汗を浮かべて不敵に笑う。
「貴様ぁ……!」
怒りに満ちた目が少年たちを睨み据える。けれど、ベリアルヴァンデモンがその牙を剥く間も与えず、レイヴモンは再び少年たちを抱えてたちまちに姿を隠す。攻めに転じるならばともかく、逃げに徹したレイヴモンを追うのは至難の業。それも、
「よう、お取り込み中かい」
眼前に平然と在るこの魔王に背を向けてなど。
「随分と長いな。お前の言う五分は」
涼しい顔。裏腹に漲るほどの覇気。変調をきたしているようにはとても見えない。魔王の残りカスを人真似の粘土細工で組み上げた紛い物――本当に、そんな単純な存在なのだろうか。いや……どうやら、
「認めよう」
小さく、静かに零すように。
コアのフルスキャンによって発見できたのは、戦いのどさくさにセフィロトモンのコントロールを奪い返そうと潜り込んでいたメルキューレモン、だけ。他のどの領域にも、侵入された形跡も攻撃された痕跡もない。
自分の考えは、とんだ的外れだったというわけだ。認めざるを得まい。目の前にいるそれが、自分の理解を越えた存在であると。
「気付いていたのかね」
「ああ……そうだな」
思えば無意識に、自分は理解していたのだろう。きっと、
「こいつが教えてくれた」
親指で無造作に指すのは背の翼。暴食の魔王・ベルゼブモンとは別の存在となったその何よりの証。
「他の誰でもない。ヒナタがくれた翼だ。他の誰にも奪えはしない」
何物にも捕われず、何者にも縛られず。すべての空を、海を、夜を、朝を越えて、この悪夢の果てへも届く自由の翼。嗚呼――
「聞こえるか、この旋律が」
静寂より始まる調べ。脆弱なる音の連なり。絡み合い、交じり合い、時に縺れ合う。どこか頼りなく、不格好で、なのに心を掴んで離さない。そんなメロディ。
「聞こえんなぁ……」
音の波の中にたゆたう翡眼の王に、けれど悪夢の魔王は冷たく笑う。溜息のように吐き捨てるのはただ否定。
「生憎この耳は嘆きと悲しみを聞くためにあるものでなぁ。く、くくく……少し、調子に乗り過ぎてはいないかね」
「そいつは悪かったな。生憎と絶好調なもんでな」
ふん、と鼻で笑う。翡眼の王と悪夢の魔王は射殺すように睨み合い、刹那の沈黙の中、互いにこの戦いの終わりを予感する。
描いた未来は違えども。
時が終わりを告げることはもはやない。未来を選ぶ術はただ、一つだけ――
ぽつりぽつりと、三将に次いでゼブルナイツの騎士たちが氷原に降り立つ。戦場を遠巻きに見詰めるその目に浮かぶのは、とても一言には言い表せぬ複雑多様な思いの数々。命の数だけ心があり、願いがあり、目指すべき場所があるのだから。幾千の星明かりにも似たその視線の先で、対峙する魔王と魔王は矛を交える。勝ち取るべき未来を賭けて。
「虫けらがあぁ!!」
暗い感情の渦を雄叫びに変えて、飢えた野獣の如くあぎとを開く。ベリアルヴァンデモンからほとばしるのはただ殺意。こんなものはもう要らないと、思い通りにいかぬ玩具に当たり散らす子供のように。その様はどこまでも憐れで、滑稽で。
いや、思えば今に始まったことでもないのだ。この戦いのすべてが、道化独りの踊る茶番劇。
「仕舞いにしようぜ、いい加減な!」
「ああ尤もだ! 君の二度目の死を以って幕を引こうじゃないか!?」
悪夢がいななく。魔獣が吠える。探知に割いていた力のすべてを費やして、生み出される魔獣の数はこれまでの比ではない。だと、言うのに。
ぎりぎりと、金属の摩擦にも似た歯軋り。もう加減などない。遊びは終わりだ。全力を以って叩き潰す。なのに。なのに――
「何故……何故だっ!?」
魔獣の数は減る一方。攻撃は熾烈を極め、戦いの中、翡眼の王は疲弊するどころか次第に力を増してゆく。まるで、今仕方得たばかりの翼にようやく慣れ始めたように。不慣れな空の戦いを少しずつ学ぶように。
どこに果てがあるのか見えもしない。
魂が深く沈む。暗く澱む。歪んだ心に汚れて惑う。その感情は怒りか、妬みか、あるいは驕りか。独り善りに、思うまま、貪り喰らい、けれど何一つも成し遂げはせず。そんなこの世の負の権化に、引導を渡すように黒の波動が閃き翔ける。
恐れを知らず、諦めを知らず、憎しみに歪むことも、怒りに溺れることもない。賢しく、正しく、真っ直ぐに。絆を信じて、ただ輝く未来へ飛翔する。そんなこの世の日向を歩むが如き翡翠の眼が、闇を射抜く光の矢のように悪夢を捉える。
一撃。間に立つ魔獣ごと、黒の波動が悪夢の魔王の右半身を貫く。
二撃。一撃目を認識したその刹那に迫る追撃が左半身を穿つ。魔獣の肉壁などもはやあってないようなもの。
三撃。そして四、五、六、七。数えられたのはそこまで。流星群にも似た波動の瀑布がやがて――暗闇の夜をまばゆく彩る。
この世のすべてを神が委ねたと、そう錯覚するほどの力の激流。闇を照らす闇。輝く漆黒。矛盾だらけの言葉でしか言い表せないのはきっと、それがこの世界の天理を越えたものである証。世界のあるべき色を塗り替えて、時間の流れさえも嘲笑う。黒の波動の連撃に、悪夢を形作る粒子が呑まれて消えてゆく。
これで、終わり。……終ワリ? オワリ――ハ、イヤダ。マダ、マダ……キエタクナイ!
「アア、アあアァ……マダ、コンな、ものでぇええ!!」
黒の奔流の中で絶叫がこだまする。ノイズに滲む声はおよそまともな生き物のそれではない。
それでも、まだ在り続けたいのか。愛を忘れて、生き方を忘れて。憎悪でしか世界と向き合えず、破滅の明日しか目指せない。歪みきった命なき亡者でも、それでもまだ――
「お前は赦されない」
ただ一言を以って、翡眼の王はその存在を否定する。
「ユル……されナイ、だとぉ!?」
悪夢が喚く。耳障りな雑音は鼓膜を刺す針のよう。
「お前、が! 貴方……貴様ガぁ! 俺を否定スルなぁ! 僕はまだ……! 私が……あアアぁ!」
歪む。歪む。歪む。
自分が何かも解らない。何の為にあるかも解らない。何処へ行きたかったのかも解らない。
それでも、それでもなお悪夢は終わらない。
あぎとを開いて、吐き出すのは怨嗟。飲み込むのもまた怨嗟。周囲にうごめく魔獣の群れが悲鳴を上げて、その身を黒い塵に変えながらベリアルヴァンデモンの腹の中へと――糧と喰われゆく。
吸収しているのか。いや、分散していた肉体を統合していると言うべきか。つまりはこれが悪夢の魔王・ベリアルヴァンデモンの……そう名乗る何かの、本来の形。
「もう、眠れ」
さながら暗雲。否、それでは言葉が足りない。例えるなら紙上の染み。空間というキャンバスに零れ落ちた墨。とでも、形容すべき暗く黒い何か。
四肢などなく、臓器などなく、生き物の形を為してもいない。翡翠の瞳に点るのはただ憐れみの色。
膨れ上がる。肥大する。天を衝かんばかりに高く高く。
「せめていい夢を見ろ」
聳え立つ悪夢を見上げて、翡眼の王はゆっくりと左手をかざす。そうしてその目が不意に、私を捉らえて静かに瞬いた。物言わぬ翡翠に、けれど私は迷いなく頷いて、手の中の端末を掲げる。
ええ、分かっている。すべきことは、心が知っている。さあ――
15-2 終曲の悪夢
旋律が聞こえた。
この世の原曲を織り成す十の音色が、時に競い合うように、縺れ合うように、それでも手と手を取り合って、天地を巡る星明かりのように響き合う。
掲げた端末が、私とインプモンを繋ぐ薄墨色のデジヴァイスが光を放ち、音を奏でる。
翡眼の王の左手が何もない空を滑る。風の弦を爪弾くように、光の楽譜を綴るように。指先に点る夜闇の炎が幾何学模様を描き出す。天にかざす掌の上を炎は縦横無尽に走り回り――やがて形作られるそれは、遥かな高みに浮かぶリアルワールド球にも似た立体魔法陣。
デジヴァイスを揺らす。譜面を滑るペンのように、音色を導くタクトのように。私が補う。私が支える。私が――完遂する。
腕を振るう。魔法陣を繰る翡眼の王の手と、デジヴァイスをかざす私の手がシンクロする。重なり響く旋律が静寂の氷天を巡る。拡がる。走る。薄墨の火が十に色を変え、色無き虚空を彩る。
これが終幕の、そして開幕のフルスコア。さあ奏でよう。輝ける星々の調べを。
翡翠の眼差しが悪夢を捉える。耳鳴りにしか聞こえぬ雄叫びを上げて、この世のすべてを喰らわんと己が領分を越えてしまったその、悪夢を。
砲口を向ける。真っ直ぐに、迷いなく。
魔法陣が形を変える。黒鉄の砲口を中心に、その一部となるように。回る。廻る。砲口の先に座する球体の魔法陣から、花弁にも似た羽が咲く。その様はまるで十枚羽の風車。羽先に十色の火を点し、ゆっくりと旋転する。
混じることなき十の色は、世界の始まりを描く原色。そのすべてを司るものを歴史はこう呼んだ。“破壊者”――そして“創造者”と。
その名を背負うべき宿命の十の英雄たちはいまだ揃わない。けれど――嗚呼、誰が想像できただろう。同じ名を背負えるものが、闇の中より生まれようなどと。
ここが、今この刹那が歴史の特異点。
そこに在る当人にはいまだ知る由もないことだが……世界は今、変革の時を迎えたのだ。
そしてその道の先にはきっともう、過去より這い寄る亡者の居場所など、ありはしない。
砲身と一体となった右腕の、その人差し指を引き金に掛ける。秒にも満たぬその時間。頭を過ぎるのは幾百もの記憶。時を遡る錯覚。
ふと笑う。どうしてと問われれば、わからないとまた笑うだろう。
瞬間――長い長い、余りにも長い夜の果てにようやく、光差す夜明けのその時を見た。
「カオス――」
照準は眼光。砲口は旋律が織り成す魔法陣。砲身はこの腕と、この身のすべて。力ある言葉を以って撃鉄を起こす。強く、けれどどこか穏やかに悪夢を見据えて、引き金を引く。咆哮とともに。
「フレアぁああーー!!」
渦巻く。逆巻く。交じり合えど混じり合わず、十の炎は原色のままに氷天を染める。無秩序に、混沌と、極光にも似た輝きを帯びて、流星にも似た煌めく尾を引いて、この世ならざる炎が翔ける。
「っ――!?」
何かが聞こえた気がした。断末魔、だったろうか。時間と空間を蹂躙する十色の火に、呑まれて消えた今となってはもはや確かめようもないけれど。
光。光。光。何も見えない。何も聞こえない。知覚の限界を超えた閃光と轟音は、無明の静寂に似ていた。
目を凝らす。耳を澄ます。永遠のような一瞬を置いて、ようやくその姿と鼓動を捉える。
どれくらいの間そうしていただろう。気付けは私は氷の大地にへたれ込み、呆然と空を仰いでいた。辺りを見渡せば誰もが似たようなもの。見詰める先には、凍れるしじまに悠然と在る翡翠の眼の王の勇姿。
うごめく悪夢の姿はどこにもない。代わり、その空の果てには混沌の火の軌跡。一つの小世界そのものであるはずの、セフィロトモンの外殻をいとも容易く貫いた、その跡に残る空間の風穴。氷原の冷気は外界へと流れ出し、氷の世界が次第に雪解けの時を迎える。ふと、春風が頬を撫でる。
「終わった、の……?」
虚空に描かれた魔法陣が陽炎のように消えて、翡眼の王はゆっくりと地へと降り立つ。
「ああ、終わったよ」
優しく、穏やかに微笑む。風穴から差し込む暖かな陽の中で、夜は明けたと、悪夢は覚めたと、そう告げる。
立ち上がる。力の入らない足を半ば引きずるようにして、駆け寄る。ふらふらと、よろよろと。そんな私の肩を抱き、翡眼の王はまた笑う。
「お疲れ様、インプモン」
溜息とともに零す。緊張の糸がぷつりと切れて、立っていることもままならない。
「ヒナタもな」
「まったくよ」
肩をすくめて首を振る。まったく……とんだ悪夢ね。
「ようやく倒したのね」
晴れ空を見上げて、少しだけ皮肉げに言ってやる。苦笑い。相変わらずだな、なんて反応を想像しながら振り返ると――けれど、
「いいや」
「え?」
「悪いな」
そうして不意に、ノイズが耳を衝く。
15-3 子羊の残夢
「おの……れ……!」
掠れたノイズが言葉に変わる。吐き出すのは変わらぬ憎悪。音を追って虚空を見遣る。目を細めてしばらくを置いて、ようやく見付けたのは悪夢。その、残滓だった。
「悪いな」
いまだ消えぬ悪夢を見上げて、翡眼の王が零す。先と同じ言葉はしかし、私へ向けられたものではなかった。
「最後に少し、気が散った」
はたと、悪夢の残滓が浮かぶ空のその果てを仰いで、私は目を見開く。言葉の意味を理解して、鼓動が再び高鳴る。
「虫けらが……所詮、貴様など……!」
自らの置かれた状況をまるで理解せず、見苦しい恨み言を並べ立てる。悪夢の魔王の成れの果ては、ただ憐れに世界の淵にしがみつく。
「止めとけ。それより折角拾った命だ。最期くらい、自分で選んでみろ」
「何を……ふざけたことを!? 最期、など……!」
喚き散らす悪夢に、私はゆっくりと首を振る。
「いいえ、最期よ。あなたは直に消える」
「な……にを」
生き延びたのではない。死に損なったのだ。情けではない。躊躇いでもない。先の言葉の通り、ただ偶然に。残ったのは、火の点いた燃えカスに過ぎないのだ。
「詰めが甘いんだから」
「耳が痛いな」
だから謝ったろうと、後ろ頭を掻く。もはや自分に危機感も敵意も抱いていないそんな私たちに、顔のない悪夢が訝しげに眉をひそめた気がした。
「まあ、それはそうとして……ところでそこ、危ねえぞ」
翡眼の王が言えば、悪夢はただ呆けるように。何が、と問う間もなく、選択肢を失くしてしまう。
閃いたのは雷。天空を翔ける小さき竜の如く、悪夢の残滓を瞬く間に絡めて捕らえる。
訳も分からず頓狂な声を上げる。魔王としての威厳など疾うにない。そう、ここにいるのはただの――
「ご苦労様でした、サタナエル。夜に迷える子羊よ」
天を仰ぐ。朝焼けを背に舞う姿は、あるいは神そのものにさえ見えた。
「なぜ……なぜ貴様がここにいる!?」
白妙を纏う神の子羊たちが王。アポカリプス・チャイルドの、盟主たる神託の聖竜。悲鳴のように問えば、穏やかな笑みを浮かべて聖竜は天より来たる。悪夢の魔王に囚われていた憐れな傀儡の王――には、とても見えなかった。
理解、したのだろう。渇いた笑いが零れて落ちる。
「く、くくく……そうか、すべてが貴様の筋書きか。なあ……ホーリードラモン!?」
「あれが、ホーリードラモン……」
混沌の火が悪夢の魔王を焼いた瞬間、空の彼方に感じたその気配。翡眼の王が思わず目前の敵から意識を逸らしたその理由。アポカリプス・チャイルドの実権を悪夢の魔王に奪われていたはずの、囚われていたはずのその身を優雅に踊らせ、聖竜王・ホーリードラモンはゆっくりと頷いてみせる。
「そう、わたくしがアポカリプス・チャイルドの長――ホーリードラモンです。ようやくお会いできましたね、ヒナタさん」
「え……?」
私のことを、知っている?
眉をひそめて返す言葉を探す。ホーリードラモンの筋書きと、そう言っていたか。立場を逆転された囚われの悪夢を見上げて顔をしかめ、けれどそんな時。
「く、くっく……滑稽だ。実に滑稽だ」
怒号にも似た静かな声に、喉まで出た言葉が何であったかも忘れてしまう。悪夢が笑う。目などないのにその目を見開くように、口もないのに牙を剥くように、呼吸の代わりに呪詛を吐くように。
盤上の駒を弄んでいたはずが、その自身こそより大きな盤の上にいたのだ。憐れだと、愚かだと、自嘲する。
「いいえ、貴方はよくやってくれました」
悪夢の虚無に、けれど聖竜は首を振る。悪夢はそれが何よりも気に喰わないとまた声を荒げて、
「よくやった? 駒としてか!? 貴様の手足としてかあ!?」
「貴方がどう思おうと、それは讃えられるべき偉業なのです」
「偉業だと!? く、ははは……ああ、ああアアあぁァ!!」
雷の檻を叩く。それを破る力などもうないと理解しながらも、そうせずにはいられない。心が煮えたぎる。溢れて零れる。憎悪と憤怒と殺意と、名前もない暗い感情が濁流となって悪夢を蝕む。
「もう、よいのです」
優しい声で、穏やかな音色で、聖竜はおもむろにあぎとを開く。
「眠りなさい。安らぎの中で」
言葉とともに白い光が漏れる。朝の日差しのように温かく、けれど死神の吐息のように冷たい。それは絶対者からの、抗えぬ運命の宣告だった。
「“主よ、憐れみ給え”」
降り注ぐ光が悪夢を飲み込む。言葉にもならない怨嗟が響く。絶叫。呪いのような断末魔を残して、悪夢は余りにも呆気なく、消えて失くなる。
沈黙。静寂。悪夢などより余程恐ろしい、得体の知れぬ何かがそこにあった。
「さて……少しお話しをしましょうか」
口調は変わらず、穏やかに――
「話し、だと?」
翡眼の王が聖竜に向けたそれは、隠しもしない明らかな敵意。黒鉄の砲を構え、眼光鋭く闘志を燃やす。当然だ。今、私たちの目の前にいるこのホーリードラモンこそが、ベリアルヴァンデモンさえも手駒と操っていた本当の黒幕なのだから。
「殺し合いの間違いじゃあないのか」
「いいえ、そのような……戦いはもう、終わりました」
首を振る。嘘を吐いているようには、どうしてか見えなかった。見えない、けれど。
「何が終わったって――」
「インプモン、ちょっと黙ってて」
一触即発。来るなら来やがれとばかりに格好よく決めたところを、遮って声を上げる。何やら言いたげだったが、まあいいや。私はホーリードラモンを見上げて眉をひそめる。聞きたいことは山ほどあった。
「私のことも筋書きのうち? 一体、あなたの目的は何?」
問えば、少しだけ思案するように目を閉じて、しばし。再び開いた両の目が、私を真っ直ぐに捉える。
「わたくし如きの思惑など、事のほんの一端に過ぎません。中でもあなたは……いえ、この戦いに関わる誰にも、あなたの存在は予見できなかった」
いつか、ワイズモンも同じように言っていたか。私という存在は、ここにいるはずのない、関わるはずのなかったイレギュラーなのだ。なら、だったらどうして。
問いたげな顔をしていただろうか。聖竜は一拍だけを置いて続ける。
「だからこそ、この目で見ておきたかったのです。変革の岐路に生まれた特異点。あるいは、未来へ致るもう一つの選択肢を」
なんて、何の変哲もないただの女の子が背負うには余りにも大袈裟な運命を告げる。真っ平だと、反論することも忘れて私は呆気に取られてしまう。
「サタナエルは、本当によくやってくれました」
構わず、なおも語る口調は祝詞のよう。
「七つの柱はまた一つ倒れ、そして……あなたが目を覚ました」
そんな言葉は他の誰でもない、翡翠の眼の王へと向けて。一瞬の沈黙。私の肩を小さく叩いて、翡眼の王は一歩を踏み出る。眼差しは厳しく、私は思わず道を譲るように後退る。
「七つの柱……お前も俺たちが目的だってのか?」
はたと、気付いて息を飲む。確かにそれが彼らの目的。けれどそれは、ベリアルヴァンデモンの――
「ええ、七大罪の楔に封じられし終末の魔神“サタン”。その復活こそが、わたくしの悲願……」
祈りのように天を仰ぐ。どこまでも澄んだその目の先に、光なき滅びの未来を見定めて。
サタンの復活――それが、目的だって?
七柱の魔王が倒れた時、蘇るのは光の天使などではない。世界に破滅をもたらす真の闇。終焉の怪物。それを、知っていながら? ベリアルヴァンデモンの詭弁に躍らされていたのではないと、自らの意志で闇へ到る道を歩んでいたのだと、そう言っているのか。そんな、馬鹿げた話をしているというのか。それが、それが……!
「それが、ホメオスタシスの意志かえ?」
しじまの帳に、氷の針を刺すようなそんな声は、唐突に空より降る。
視線で声を追う。霞にも似た掴み所のない声は、鏡の彼方より響いて震える。鏡面に浮かぶ妖艶な唇が、薄く笑みの形を描く。羽ばたき。無数の蝙蝠が牙を鳴らす。
そこにいたのは声の主、ではない。その従者。否、“彼女”自身は娘と呼び愛でる腹心。蝙蝠の操手。黒衣の淑女。抱えられた姿見の中で、紫紺の女帝は微笑を浮かべて紫煙を燻らせる。
聖竜が、ふと息を吐いた。
「神の意志などありません。いつ如何なる時も、道を選ぶのは歩むもの自身なのです。そうでしょう……リリスモン?」
聖竜の問いに、鏡の中の女帝・リリスモンは答えない。けれどその沈黙は肯定に外ならず、女帝は遠い記憶に想いを馳せるように瞳を揺らす。腹心の淑女・レディーデビモンが無言のままに唇を噛む。その心の内には迷宮に吹く風にも似た複雑な旋律が響いていた。
「お前はどこにでも出て来やがんな……今更何の用だ?」
「ほほほ、そう邪険にするでない。何、通り過がればちょうどよい風穴を見付けたものでのう」
ただの物見と暢気に笑う。散歩にしては準備がいいけれど、とは、誰も言わなかった。女帝陛下の心の内など考えるだけ時間の無駄だ。だと、言うに。
「変わりませんね」
すべてを見透かすような聖竜の双眸が、女帝を見据える。悲哀にも似た不思議な色を瞳に点して。
ふふ、とリリスモンが皮肉げに笑う。
「互いにのう。まだ、世界が嫌いかえ?」
静かな問いに、聖竜はゆっくりと首を振る。
「今も昔も、わたくしは世界を愛しております。だからこそ――」
「汚れた世界を許せぬとでも?」
女帝の眼差しはまるで氷の矢。聖竜は、それでもただ真っ直ぐに、彼方の空を仰いで夢を見る。
「安寧は、破滅の先にあるのです」
15-4 虫螻の騎士
遠く、空の軋みが聞こえた気がした。それは果てにある闇の中で叫ぶ小さな光の声か。あるいはただ、より深き暗黒の誘いか。答えは、辿り着いたものにしか知り得ない。
「よう、リリスモン。つまり、何だ」
翡眼の王が呆れたように後ろ頭を掻いて溜息を吐く。冷めた目で聖竜から女帝へ視線を移す。
「そいつはこう言ってるわけか。“今の世界が気に入らねえから、一遍ぶっ壊して一からやり直す”って」
「どうやらそのようじゃのう」
くすくすと笑う。この上なく馬鹿げた話だと、惑い迷える憐れな子羊の王を見る。けれど、当のホーリードラモンはそれでもなお、闇を越えた先には光があると、絶望の先の希望を信じて、その眼差しは僅かも揺らぐことなどない。
「これがホーリードラモンか。とんだ迷君に躍らされたものだな」
なんて、皮肉と自嘲の混じる物言いはダークドラモン。はん、と鼻を鳴らしてカオスドラモンが忌ま忌ましげに目を細め、メタルシードラモンは無言で首を振る。
怒りは尤も。いみじくも悪夢の魔王の言葉通り。“汚れた世界の浄化”と、そんな空言がよもやそのまま事実だったなど、当のベリアルヴァンデモンさえ夢にも思わなかっただろう。
「どちらにせよ」
炎が行き交うような怒りの眼差しの中、誰よりも静かな声が冷たく響く。黒鉄を打ち鳴らし、その眼光を鋭く研ぎ澄ます。砲口が真っ直ぐに聖竜を捉えた。眼に点る戦意の火が弾けて爆ぜる。
「敵だってことに変わりはねえ。なら、戦うだけだ」
そんな言葉に迷いはない。立ちはだかるのが何であろうと関係はないと、自由の翼を高らかに広げて、翡眼の王は瞳を燃やす。
小さく微笑が零れた。尤もだと、ダークドラモンが肩をすくめる。聖竜の目指す場所が何処であれ、自らの目指す場所が変わるわけでもない。敵であると、それだけ判れば十分だ。
昂る。漲る。迸る。怒火を背に受け牙を打つ。波動渦巻く砲を手に、戦いは終わってなどいないのだと、子羊の王を睨み据える。
「足踏みをするものに、進める道などないのです」
「地獄に行きたきゃ独りで行きやがれって、言ってんだよ……!」
子羊の王が息を吐き、虫螻の王が眼を見開く。
風よ荒ぶれと雄叫びを上げる。天よ裂けろと眼差しを射る。黒の波動が昇り立ち、白の焔が降り注ぐ。黒白が天地を染め上げて、轟音と爆風が飢えたケダモノの如く荒れ狂う。
瞬間的に圧迫された空気の塊が、まるで大槌のように氷原へと振り下ろされる。地を叩き、砕けて飛び散る風の破片が再び空へと舞い上がる。
風圧に一瞬、気管を塞がれ思わずよろめく。
「ヒナタ! ちょっと、大丈夫?」
青い肌の細い手に、腕を引かれてたたらを踏む。私よりずっと小柄な体でしっかりと立つラーナモン――マリーに支えられ、安堵の息を吐いて頷く。
「ありがとう。大丈夫、ふらついただけ、だから」
解けかけた氷の張る地面を踏み締めて、視線は真っ直ぐに爆煙のその中へと向ける。不意に一陣の風が吹いて立ち込める煙をさらう。やがて対峙するその姿があらわになる。
片や地に立ち黒鉄の砲を構える翡眼の王。片や天に座し私たちを見下ろす白妙の竜。見る限り、互いに傷はない。相殺――互角か。恐らく互いに全力ではないのだろうけれど。
「それが、あなたの選択なのですね」
「は! お偉いホーリードラモン様に逆らうわけがないとでも思ったか?」
「いいえ。元よりあなたの手綱を握れるものなどいないでしょう」
ちらりと、その視線が私を撫でる。聖竜の眼は余りにも穏やかで、優しくて、訳も解らず私は眉をひそめる。ふと、聖竜が微笑んだ。
「彼女を除けば、ですが」
ささやくようにそう言って、そっと瞼を閉じる。
「お別れです」
「……ああ?」
瞑目したままに、それだけ言い捨て聖竜は空に舞う。
「っ!? 待ちやがれ!」
肩透かしを食らった翡眼の王が一拍遅れて雄叫びを上げる。翼を広げ、遠ざかる聖竜へ追い縋らんと地を踏み締める。同時、ゼブルナイツの三将もまた各々の武器を構え、逃がすものかと眼光の照準に聖竜を捉える。けれど、
「今はまだ、“時”ではありません」
言葉とともに吐く霧に、聖竜の姿が白んで溶ける。肌を刺す冷気が降った。冷たい、白い霧――直後に放たれた追撃も容易く防いだそれは恐らく、魔王さえも捕えたあの封印の氷霧。零れた舌打ちは誰のものか。
そして瞬間、風が軋みを上げて虚空が二つに裂ける。重々しい金属音は巨大な鉄の扉が開くよう。
「全軍、撤退完了致しました」
「ご苦労様です。クラヴィスエンジェモン」
霧の向こうで空の裂け目を背に、そんな声が聞こえた。ゆらりと、霧に浮かぶ影が揺らいで、再び扉が閉じてゆく。
「いずれまた、お会いしましょう。正しき世界の終焉に――」
霧中に霞む姿はさながら朧月。聖竜の長躯が彼方に溶け消えてゆく。言いたい放題、やりたい放題、こちらの都合もお構いなしに。すべてが我が掌中とばかり。好き勝手を許し、結局は取り逃がしてしまう。――そう、誰もが思ったそんな時。
その一歩が地を砕く。その咆哮が天を衝く。風を切り裂く刃にも似た翼を広げ、神の定めにも抗わんと空を駆る。
「誰が――帰っていいと言った!?」
凍てつく白霧はさながら、天上と天下を別つ境界線。それでも、この翼の行く手を阻んでいいはずがないのだと、誇り高く飛翔する。
「イ、インプモン!?」
立ち塞がるは封印の氷霧。かつての魔王・ベルゼブモンをも封じた神の如き力。だと言うに、何の躊躇いもなく飛び込むなんて無謀極まりない。手も足も出せなかったことを忘れたのか。
翔ける翡眼の王の左手に薄墨色の火が点る。本気だ。小細工なしの真っ向勝負。そんな無茶な……!
雄叫びとともに空へと昇る。薄墨の火が白銀の霧に吸い込まれ――瞬間、私の目に映った光景はしかし、思い描いたそれとはまるで真逆。
「っ……!」
霧が晴れる。薄墨の火を点す爪に引き裂かれて。零れた声は、思い掛けぬ追撃を受けた聖竜。傷自体は決して深いものではないけれど。驚愕か。感嘆か。どちらでもあってどちらでもない、そんな声だった。
「ホーリードラモン様!?」
聖竜の傍らで、白い鎧を纏う巨躯の天使が声を上げる。クラヴィスエンジェモンと、そう呼ばれた空の扉の開錠者だろう。天使は手に持つ巨大な鍵を剣のように構え、けれど、
「心配には及びません」
そんな言葉と静かな視線に制され、歯噛みをして鍵を振るう。空の扉は瞬く間に天使と竜を飲み込んで――
「まだ……っ!」
第二撃の構えを取る翡眼の王の眼前で、裂け目の扉が閉じてゆく。
「やはりあなたは――」
最後の言葉とともにその姿が虚空に消える。一瞬、僅か届かず、薄墨の爪が空を切る。
ぐ、と悔しげな声を漏らし、翡眼の王はそのまま落ち行くように地へと降り立つ。逃げられた、か。息を吐く。膝を突く翡眼の王の元へと駆け寄る。
「インプモン、大丈夫なの?」
「ん? ああ……ちょっと寒いくらいだ」
言ったその体はよくよく見れば薄く霜が張る。まったく、こんな無茶をして。こつんと、その頭を弱く小突いてうなだれる。私は深く深く、溜息を吐く。
「何やってるのよ、もう」
「しょうがねえだろ。まだ、ヒナタが帰る方法を聞いてねえ」
呆れ返る私に、あっけらかんと返すのはそんな言葉。翡翠の瞳で彼方の空を仰いで、ふうと息を吐く。
言われてはっとなる。嗚呼、確かにその通り。それが私の本来の、唯一の目的。そう、なのだけれど。
「そのために……?」
思わず問えば、眉をひそめられる。
「他に何があるんだ?」
首を傾げるその様に、また溜息を一つ。真面目というか、素直というか。本当に、
「馬鹿なんだから」
気付けば笑って、肩をすくめる。
「なんだ? どうした――」
顔をしかめて問い返す、そんな時。辺りに影が差す。同時に地を揺らす重々しい足音が響く。振り返ればそこには見上げるほどの巨体――闇色の竜、ダークドラモンの姿があった。
くつくつと低く笑い、ダークドラモンは私たちを見下ろす。
「満身創痍、といったところかな」
「今なら勝てる気がするか? やりたきゃやってみろ」
後悔する間もなく消し飛びたいのなら、と。言い放ち、砲口を向けた翡眼の王に、けれどダークドラモンは肩をすくめて首を振る。その眼差しに戦意はまるでなかった。
「止めておこう。それより――」
聖竜の消えた虚空を見据えて、問う声は静かだった。僅かな躊躇い。畏れにも似て、その巨体がどこか小さく見えた。
「これから、どうする気だ?」
「ああ? どうもこうも……別に何も変わりやしねえよ」
「何?」
思考は一瞬。不意に翡翠の眼が私を一瞥する。小さく、溜息を吐いて翡眼の王は不敵に笑ってみせる。
「奴らをぶっ飛ばす。お姫様の仰せのままに、な」
なんて、皮肉ですよと言わんばかりの憎たらしい顔で、わざとらしく首を傾げる。別にぶっ飛ばせとは一言も言っていないけれど。多分。
私は思わず笑みを零して、翡翠の眼へ視線を返す。
「あら、頼もしい騎士様だこと」
言ってやれば肩をすくめて首を振る。逞しくて、頼もしくて、なのに出会ったあの日と何も変わりはしない。そんな風に見えてしまう私の目はどうかしているのだろうか。
翡翠が揺れる。点る輝きに陰りはなかった。
「そうか」
ふと、溜息とともにダークドラモンが零す。思案するような沈黙は、けれどほんの秒の間。強く強く眼差しを研ぐ。それが翡眼の王であるならば――
「我が心は、決まった」
薄氷を砕く。一つ二つではない。集いしゼブルナイツの騎士たち、そのすべてが足並みを揃えて。地が震えると錯覚するほどのそれ。
「何の真似だ」
翡眼の王が問えば、ダークドラモンは目を合わせることもなく、
「ここから先、進むべき道は自らの目で見極めよ、と」
静かに語る。視線は足元へ落としたまま。踏み砕かれた薄氷がゆっくりと解けてゆく。
「それがゼブルナイツの長、その代行としての最後の命令」
故に、と。面を上げて、曇りなき眼に王の姿を映す。
「これが我らの真意にございます。王よ」
騎士たちの目に宿るのは畏怖と、希望と、そして忠誠の色。
翡眼の王は跪く騎士たちを、けれど鼻で笑って肩をすくめる。
「気は確かか。一度は見限った相手に何を馬鹿言ってやがる?」
「虫のいい話であることは重々承知。しかし……」
「は! しかしもくそもあるか! 誰が――」
そんなふざけた話があるものかと、呆れか怒りか、声を荒げる。その折、妖艶な微笑みが横合いから言葉を遮る。
「ほほほ、よいではないか」
「あ……はあ!?」
レディーデビモンの抱える姿見の中でからからと笑う。リリスモンは値踏みするように目を細め、
「匿われた恩もあろうて」
「かくま……誰がだコラ」
「言われてみればそうね」
「っおい、ヒナタまで!」
リリスモンの言葉に、顎に手を当てううんと唸る。匿った、と言えば語弊がある気も相当にするけれど、結果だけを見るなら確かにそうだろう。それに、
「彼奴らの行方に、心当たりはあるのかえ?」
「そりゃあ……まあ、見当もつかねえが」
「ならば手は幾らあってもよかろうて」
姫君のためにも、なんて皮肉げに言われてはぐうの音も出ない。翡眼の王はちらりとだけ私へ視線を寄越して、ち、と舌を打つ。
「使い走りとしてなら……こき使ってやらねえこともねえ」
目も合わせず言ったその様はやはり小生意気な子悪魔のまま。くすりと笑ってやればぷいと顔を背ける。そんな子供じみた王様に、ダークドラモンはにやりと笑う。
「有り難き幸せ」
頭を垂れる。胸に手を添え、誇りを賜り抱くように。騎士然としたその様に、翡眼の王は後ろ頭を掻いて深く溜息を吐く。
「ゼブルナイツが聞いて呆れるな」
「おや……“気高き騎士”の名はお気に召しませぬか。ならば――」
竜は遠く、空を仰ぐ。
果ての見えぬ道を歩んで来た。気高き騎士なる“ゼブルナイツ”の名とともに。
その名は誇り、そして未練だった。かつての主君が居城たる天空城を守護する近衛騎士団に与えた称号。それこそが“ゼブル”――すなわち“高き館”の騎士。
帰りたかったのだろうか。あの城へ。あの頃へ。解っている。過去へ続く道などない。この道はただ未来へと向かうためにある。この名は、かつての主君の墓標の前へ置いてゆこう。蝿の王に傅く我らは“虫螻の騎士団”――
「“ゼブブナイツ”とでも、名を改めましょうぞ」
刹那の追憶。一瞬の思考。不意に口を衝いて出たそんな名は、けれど誂えたようにこの卑しき騎士たちの体を表していた。自嘲だろうか。思わず口端が緩む。虫螻の王はこれまで以上に大きな溜息を一つ零して、虫螻の騎士たちを一瞥する。
はん、と鼻を鳴らす。視線は遠い空へ。王は振り返りもせず、ただ一言を投げて寄越す。
「好きにしろ」
声色は、笑っているようにも聞こえた。
素直じゃないんだから。そう、聞こえないほどに小さく零して、くすりと笑う。
「ああ」
ともあれこれで一段落、といった風に一息を吐き、かけて。しかし横合いからの声が腰を折る。
「水を差して済まないが」
少しだけ気障ったらしくて、けれど僅かに申し訳なさげな声には聞き覚えがあった。はたと、すっかり忘れておりましたとばかりにレディーデビモンが取り出したのは分厚い書物。その開かれた頁に浮かぶ小さな幻の賢者は咳ばらいを一つ、肩をすくめてみせる。
「ワイズモン!」
「やあヒナタ。いや、積もる話はまた後にしよう。それより……そろそろ限界のようだが?」
名を呼べば、けれど賢者は明後日の方角を見ながら首を傾げる。限界? 私たちが眉をひそめたちょうどその時、気怠そうな声で答えたのはレイヴモンに抱えられた鋼の闘士の少年だった。
「そのようだな。スピリットは取り戻せたが、残念ながらそれを御する余力がない。間もなくセフィロトモンは崩壊する」
至極冷静に言われたせいか、理解に数秒を要する。ホーカイ……崩壊?
「それって……え?」
「早く逃げろと、そう言っているのだが」
言ってぐったりと、格好つける力も尽きたかうなだれる。少年の言葉に私たちは顔を見合わせ、しばし。空と地平の軋み、走る亀裂を目にして、走り出す。
嗚呼――悪夢だ!
>>第十六夜 琥珀のメモリアル