第十四夜 翠星のアジュール

14-1 日向の物語


 薄墨色の炎が音もなく舞う。この手の中で踊り、躍り、拍子を刻む。思い思いに遊ぶ音色が一つの旋律を為すように歩調を揃え、ここに集う。
 私が手にしていたのは携帯電話、だったもの。炎の中、マリーの持つそれと同じ形へ変わり、鳴動する。空っぽの白い端末はやがて宵闇の色に染まり、途端、“まだ違う”とばかりに激しく震え、再びその形を変える。

「デジヴァイス……!?」

 その名を誰かが呼んだ。テイマーの証と、いつかインプモンが言ったその名を。
 氷柱が堕天使に砕かれたあの時から、それはここに在ったのだ。弱々しき欠片はただそっと根を張り、生き存えた。いつか誰かが――いいや、私が、気付く時を待って。
 疾うにピースは揃っていた。後はただ、時を待つだけ。解けないパズルを解き明かす、その時を。
 そしてそれも今終わる。時は、来た。

「貴様は……!」

 ベリアルヴァンデモンの顔から初めて笑みが消える。ここにいるはずのない、その姿を目にして。驚愕――けれどそれも束の間、悪夢の魔王は再び醜悪な微笑を浮かべ、声を漏らす。

「これは……これは驚いた! ヒナタ――そう、確かそんな名だったな。想像だにしなかったよ! よもや君が隠し持っていようなどとはなあ!?」

 悪夢の魔王が嘲るように顔を歪めて、その目がついと滑る。自らの放った破滅の火をものともせず、悠然と佇む眼前のそれを舐めるように見据えて、また笑う。

「か弱き人間の庇護下にあるなど誰が思い至ろうか! 闇の覇者ともあろうものが!」

 ぺろりと、舌なめずりをして、悪夢そのもののような狂喜の顔で大仰に首を傾げる。

「なあ……蝿の王よ!?」

 黄土色に濁る双眸をこれ以上ないほどに見開いて、持ち得る邪悪のすべてを込めて、呪詛のように彼の名を呼ぶ。
 七大罪は“暴食”を司りし蝿の王。いつか氷柱の中に見たその姿。この戦いの、引き金となった存在。
 二柱の魔王はここに相対し、交わす眼光が火花を散らす――かと、思いきや。

「怪我はねえか、ヒナタ?」

 ベリアルヴァンデモンからふいと視線を逸らし、いつもの調子でそう声を掛けてくる。そんな様子に私は思わず微笑んで、

「ええ、大丈夫。私よりインプモンこそ」
「おいおい、インプモンはねえだろ。俺の名は――」

 ただ、私だけを見詰めて、魔王は高らかに名乗りを上げる。

「“ベルゼブモン”」


 雑音が聞こえた。遠く、小さく、虫の羽音に似たノイズだった。それは蝿の王の断末魔。それは孤高なる王の孤独な叫び。それは、すべての始まり。

 苗床を見付けた。肥やし、耕し、水が撒かれた。種もないのに構いもせず。

 音が聞こえた。ノイズは次第に薄れていった。耳障りで、頭を刺すようなそれがいつか、か細く響く誰かの声であることを知った。弱々しく助けを求めるようで、放っておけと強がるようで、どうしていいのか分からなかった。

 種を見付けた。不格好に欠けた、芽吹きそうもない種だった。

 旋律が聞こえた。ひとりぼっちでオーケストラを奏でるような、余りにも不出来で不完全な音色。無謀と呼ぶのもおこがましい、危なっかしくて聞いていられなかった。

 欠片を見付けた。失くしたピースがようやく揃った。そっと、掌に掬い上げた。

 迷って、苦しんで、傷付いて、それでも弱音を吐かなかった。立ち止まることもせず、足を引きずるように歩き続けた。それがもどかしくて――嗚呼、しょうがないと、手を取った。
 一歩を踏み出せば足は自ずから前へと進んでいく。歩いて、走って、ともすれば飛び立ててしまえるのではないかとさえ思えた。

 産声を上げる。生まれたばかりの不格好で不器用で、放っておけないそんな旋律。小さな芽を優しく撫でる。手と手を取り合って、あの空と地平の果てを、この夜と悪夢の終わりを目指して走り出す。たとえその路がどんなに暗くても、険しくても、遠くても、闇の空に瞬く翡翠の一番星が、きっと道標になってくれるから――ねえ?

「ベルゼブモン」

 名を呼べば返す笑顔はどこまでも晴れやかで、夜など疾うに明けているのではないかと、そんな気になった。
 ふふ、と微笑んで、お腹を小突く。本当は頭といきたいところが、随分と大きくなってしまってもう手は届きそうもなかった。こつんと、黒鉄に似た硬い感触が私の手に返る。
 私は翡翠の瞳を見上げて、

「何を格好つけてるのよ、インプモン」

 そう、笑いかける。翡翠の瞳の王は肩をすくめてやれやれと溜息を吐く。

「締まらねえなぁ。格好ぐらいつけさせてくれよ」
「あら失礼」

 後ろ頭を掻きながらふいと顔を逸らす。そんな、大きな子供のようにいじける魔王殿の背を強く叩いて、私は声を張る。さあ――

「頼んだわよ、ベルゼブモン!」
「はっ! おおよ、任せとけ!」




14-2 翡翠の覚醒


「お別れは済んだかな?」

 わざとらしく肩をすくめて、悪夢の魔王・ベリアルヴァンデモンは嘲るように笑う。

「そいつぁてめえとのか? 悪いが別れは惜しんでやれそうもねえな」

 はん、と鼻で笑い、翡眼の魔王・ベルゼブモンは首を傾げてみせる。
 対峙する魔王と魔王。その眼光が鋭く矢のように飛び交い、火花を散らして弾け合う。一触即発。ぴりりと、空気が張り詰め凍り付く、そんな感覚。瞬間、先に動いたのはベリアルヴァンデモン。両肩の砲を構え、にたりと唇を歪める。

「どれ、試してみようか」

 そんな言葉を合図に、引き金もない砲が飢えた野獣のようによだれを垂らしてあぎとを開く。その様は武器というよりもはや生物。いや、事実それはベリアルヴァンデモンからは独立した別個の生命なのだろう。砲口から漏れる異音はまるで歓喜の声。楽しい愉しい狩りの時間だとばかり。

「ヒナタ、ベヒーモスに乗ってろ」

 振り向きもせず、ぽつりと言って、答えも待たずに数歩を踏む。そんなベルゼブモンの背からは炎が立つと錯覚するほどの戦意と闘志がたぎる。
 私は無言で頷きベヒーモスに跨がる。ちょうどその時。
 ごぼごぼと、汚水が泡立つような不快な音はベリアルヴァンデモンの肩に根付く生きた砲から。その喉の奥よりマグマの如き灼熱が沸く。硫黄に似た異臭が鼻を突いた。ベルゼブモンが半身を捻り、ベリアルヴァンデモンが黄土色の眼を見開く。
 刹那の間隙を置き、双肩の生体砲が咆哮とともに火を放つ。

 冷たい空気を燃やし氷の大地を焦がす、地獄より漏れ出たような業火が虚空を貫いて――そして闇に散る。
 ベルゼブモンの左手に夜闇を思わせる薄墨色の炎が点り、その爪の一振りに業火は消し飛ぶ。切り裂くより、削り取るようなその一撃は、さながらすべてを呑み込む闇そのもの。

 ほう、とベリアルヴァンデモンが声を漏らす。

「急拵えの紛い物にしては実によくできている」
「ああ?」

 ベルゼブモンが眉をひそめれば、ベリアルヴァンデモンは嫌らしい笑みを浮かべて目を細める。

「くくく、まだ気付かないかね。今の自分が何者であるか」
「……何が言いてえ?」
「死者は死者に過ぎぬということ。要はセラフィモンと同じだよ。屍の皮を纏うだけの……偽りの魔王よ!」

 高笑いを上げる。ありったけの侮蔑を込めて。そこに希望など、ありはしないのだと。


「偽り……?」

 言葉を繰り返せば、悪夢の魔王のその冷たく濁った双眸が、舐めるように私を見据える。

「あの戦いで君は、三つを得た」

 三本の指を立て、目を細める。その様はまるで込み上げる笑いを堪えているようにも見えて、ただただ不快感を駆り立てる。

「すなわち“ベルゼブモンの肉体のデータ”、“セラフィモン再構築のプロセス”、そしてその“デジヴァイス”だ」

 三本の指を順に折り、手品の種を得意げに暴くように薄く笑う。対するベルゼブモンは黙して語らず、ただ静かに視線を磨ぐばかり。

「選ばれし子供たちのデジヴァイスをトレースしたようだが……くくく、さすがに少し驚いたぞ。既に我が支配下にあるセフィロトモンのコアシステムに侵入するなど、なあ?」
「それって……」

 つまりは――嗚呼、先の言葉の通り。セラフィモンと同じ、とは例えではないそのままの意味だと、そう言っているのか。ここにいるベルゼブモンは、セフィロトモンによって造り出された仮初の存在に過ぎないと。
 ベリアルヴァンデモンは両腕を広げ、さも楽しげに声を上げて笑う。その様に、けれど当のベルゼブモンは気怠そうに深く息を吐く。

「で……そのつまんねえ話はまだまだ続きそうか?」
「くっ、ははははは! そう言わず最後まで聞き給えよ。君の命に関わるお話だ」
「へえ? それを握ってんのがお前だとか、そんな話か?」
「くく、これはこれは。随分と物分かりがいいじゃないか」

 にたりと、醜悪に笑みを歪める。

「所詮はこの箱庭の中でしか踊れぬ人形。君のテイマーが無断借用したシステム領域を割り出し、取り戻せばそれで仕舞いだ。枝葉の一つを奪おうが、幹はいまだ私のもの。腐った果実など切り落とせばいいだけのことだろう?」
「はっ、ぺらぺらとよく喋るこった。今すぐにはできねえって、口滑らしてんのは気付いてっか?」

 肩をすくめて不敵に笑う。そんなベルゼブモンにベリアルヴァンデモンの顔がより一層の狂喜に歪む。

「くははははは! ではゲームといこうか! 私が君を消し去るのが早いか、君が私を倒すのが早いか。さあ! 導火線には疾うに火が点いているぞ!?」

 けたけたと笑う。そら急げ急げと、面白おかしく煽り立てる。高みから盤上の駒でも見下ろすように、勝負にもなりはしないと確信するように。
 ぎ、と蝿の王はただ静かに、牙を鳴らす。


「コアのフルスキャンにおおよそ十数分……いやいや、少し短いかな?」

 眼前のベルゼブモンを半ば無視するように、寒空を仰ぎながらベリアルヴァンデモンはううんと唸る。そうして、僅か一拍を置き、

「おお、そうだ! 少々ハンディキャップをくれてやろうか!」

 嗚呼なんと素晴らしい閃きだとでも言わんばかりに、にたりと唇を笑みの形に歪めてみせる。そんな、白々しい態度にベルゼブモンの目は冷めて、呆れたように溜息を一つ。
 けれど、当のベリアルヴァンデモンは構いもせずに、再び視線を空へ。その様はまるで神への祈り。だが、その実それは――

「さあ……こんな趣向は如何かなあ!?」

 そうそれは、地の底より来たる悪魔の呪い。
 氷の大地が激しく震え、かと思えばあちらこちらで光が立つ。赤黒く、濁った血に似たその光は、氷原に幾何学模様を描いてマグマの如く沸く。

「くっははははは! そら、リソースを七割近くも割いてやったぞ! お陰で君の余命も幾らか延びたなあ!? どうだね、喜び給え!」」

 幾何学模様が回る歯車のように忙しなく形を変え、赤黒い光が高く高く天へと昇る。四方八方に乱立する光のオベリスク。それはさながら無数の墓標。
 ぞくりと、屍の冷たい手が背筋を這う錯覚。鼓膜を叩くのは死霊の怨嗟に似たノイズ。
 墓標が震え、そして――眠れる骸が目を覚ます。

「おおっと、これはいかん」

 わざとらしく肩をすくめて、ベリアルヴァンデモンは首を振る。ああ私としたことが、なんて、自嘲する猿芝居がまた癇に障る。赤黒い光の中より黄泉返る骸の群れを眺め、眉を八の字に歪めて薄く笑う。

「これでは余計に時間が足りなくなってしまうなあ? くはは! まあ頑張ってくれ給えよ!?」
「こいつぁ……成る程、ちっと厄介だな」

 辺りを見渡し、後ろ頭を掻く。そんなベルゼブモンの様子を見るまでもなく、現状が最悪であることは容易に理解できた。

「名をヴェノム――すなわち“憎悪”」

 見上げるほどの巨体が大地を揺らす。血の色の皮膚、金のたてがみ、禍々しい翼が冷気を散らす。悪夢の魔王に似たその顔立ち、けれど理性なき野獣が如きその出で立ち。ベリアルヴァンデモンは愛し子を見るかのような眼差しで、目覚める死の王たちを、自らと同じ名を冠してこう呼んだ。

「さあ蹂躙せよ、憎悪の権化……“ヴェノムヴァンデモン”!」


「インプモン!」
「構うな、行け!」

 乗り手の戸惑いなどお構いなしに、否、だからこそベヒーモスは走り出す。

「くはは! 胃袋の中をどこへ逃げようというのだね!?」

 ベリアルヴァンデモンが指を打ち、それを合図に魔獣・ヴェノムヴァンデモンがその巨大な腕を振り下ろす。丸太のような腕が氷原を砕き――その爪の隙間をベヒーモスがかい潜る。
 魔獣の動きは極めて鈍重。ベヒーモスなら回避は容易だろう。だが、いつまでも続きはしない。こうしている間にもベリアルヴァンデモンは新たな魔獣を生み出し続け、今やその数は既に二桁に届こうかというところ。

 七割のリソースを割いたと言っていたな。つまりは十数分を要するというセフィロトモンのスキャンを今は三割ほどの速度で行っていることになる。単純計算で猶予は三十分強。その間に魔獣を相手取りながら自分を倒してみせろと、それがベリアルヴァンデモンの言う“ゲーム”というわけだ……!

 唇を噛む。ベヒーモスにしがみつきながら横目に悪夢の魔王を見る。悪夢を覗けば悪夢もまた私を覗き、その口が欠けた月に似た曲線を描いて嫌らしく笑む。
 これはゲーム。悪夢の魔王を愉しませる、ただそのためだけの。用意されてもいないゴールを目指し、盤上で躍る駒を見下してせせら笑う、悪趣味なデスゲームだ。少なくとも、ゲームマスターを気取るベリアルヴァンデモンにとっては。だが、

「肩慣らしにはちょうどいい的だ……!」

 ぎり、と牙を噛み、背と左足のホルスターから二丁の銃を引き抜く。翡翠の眼光を光学照準のように研ぎ澄まし、ベルゼブモンは雄々しく吠える。構えた銃が猛々しく火を吹いた。
 拳銃、と呼ぶには余りに重厚。大砲を圧縮したかのような二丁の銃が破壊の火を纏う魔弾を連射する。狙いは魔獣の主たるベリアルヴァンデモン。

「おやおや、急いては事をし損じるぞ?」

 けれど、翡翠の目が捉えたのは嘲笑う口元。瞬間、視界と射線は途端に魔獣に遮られ、魔弾はその巨体に僅かばかりの傷を残すだけ。

「くくく。どうにも動きが鈍いなあ。それが紛い物の限界かな?」

 魔獣の影で姿も見せずに笑うベリアルヴァンデモンに、ベルゼブモンは小さく舌打ちを一つ。魔獣の反撃を後方へ跳躍して回避する。宙で反転し、その目を一瞬横合いへ向ける。と、

「気になるかね?」

 そんな声は、魔獣から聞こえた。


「くくく、驚くことはあるまい。エイリアスのようなものだ」

 話す声は外ならぬベリアルヴァンデモン。魔獣の口を借り、嫌らしく笑ってみせる。

「傀儡の目を通し見ていたが……くく、余程気になるらしい」
「ああ? 何言ってやがる?」

 眉を吊り上げ、僅かに苛立った声を上げる。ベルゼブモンは無意識に歯列を鳴らし、魔獣を睨み据える。そんな態度がそのまま答え。どうやら図星をついたと、ベリアルヴァンデモンは満足げに息を吐く。魔獣を通しその口元が緩む。
 どれ、ならば答え合わせといこうか。なんて、黄土色の目がぎょろりと滑る。捉えたのは――

 舌打ち。銃声。行動を起こそうとした魔獣の足元を狙い撃つ魔弾の群れが、氷の大地を貫き、巨体を支えるその足場を砕く。バランスを崩して魔獣は膝をつき、下腹部のあぎとから毒々しい紫紺の霧が漏れる。その脇を、ベヒーモスがすり抜ける。
 狙いは、私か……!

「ほう、よく止めたな。いい判断だ」

 褒めてやろう、と嘲笑する。
 魔獣の足元に流れ落ちた霧が氷原を溶かして穿つ。見た目そのまま毒の霧か。確かに何の備えもなしに発射されては回避は困難。だけど、

「離れて、ベヒーモス!」

 叫ぶ。応えてベヒーモスはエグゾーストを轟かせ、魔獣から距離を取る。手が分かっていれば避けられない攻撃ではない。

「大丈夫……だから、構わず行って!」

 悪路にがくがくと揺られながら、精一杯声を張る。今更、ここへ来て足手まといになんてなりたくない。利用されるなんて真っ平だ。
 そう、強く眼差しを戦場へ向ける。遠く悪夢の魔王を睨みつけ――けれどそんな私を、当のベリアルヴァンデモンはもはや見てもいなかった。

 私を庇うと、これまでの戦いで半ば分かりきっていたことを、再確認できればそれでよかったのだ。本当の狙いは、

「では、こちらはどうかな?」
「……え?」

 醜悪な笑みが捉えたのは、先の戦いで氷原に倒れ伏したままの、マリーだった。

「庇うか、捨て置くか、まあどちらでも構わないがね」

 ぎり、と鋼を擦るような歯牙の軋み。一拍の思考。ベルゼブモンは走り出す。ほぼ同時に魔獣が毒霧を放ち、二人の姿が、紫紺に消える。

「マリーっ……インプモン!?」

 血が冷める感覚。静まる旋律。私の叫びが虚空へ溶けて――そして、暮れの薄闇に似た霧の中、偽りの組曲が終幕を告げる。


 違和感を覚える。自分の体が自分のものではないような、そんな感覚。これが紛い物の限界とやらだろうか。精鋭さを欠くことは自覚していた。地に足が着かない気がして、余りに軽い体は今にも吹く風にさらわれてしまいそう。
 何かを、間違えているのだ――

「くっはははははあ! よもや消し飛んでしまった訳ではあるまいな!? あの程度の児戯で!」

 高熱の毒霧に溶けた氷雪が蒸気となって空へと立ち上る。マリーのいた周囲一帯は跡形もなく蒸発し、もはやそこにはただ暗く深いクレーターが覗くだけ。
 喉の鳴る音、胸の鼓動、息遣いが嫌にはっきりと聞こえる。静かな寒空に、ベリアルヴァンデモンの高笑いが響き渡る。

「血の色の眼を揺らし、死を貪るが如きケダモノの王――そう聞いていたが、やはり人違いだったようだな。人間を庇うなど……くくく、実に滑稽だ」

 ふと、空を見上げる。蒸気に白む薄闇の空を。序曲は終わり、静寂にすら似た小さな音色が始まりを告げる。

「ああ、そうだな」

 はたと、悪夢の魔王もまたようやく空を仰いで、僅かに目を細める。

「確かに、どうやら人違いらしい。何より誰より、俺自身が思い違えていた」

 今になって理解する。違和の正体。ここにいるのはもう、かつての魔王・ベルゼブモンではないのだと。暴食の魔王は、やはり死んだのだ。
 ここに煌めくは翡翠の超新星。まるで夕闇に浮かぶ一番星のように。この空の、ただ一人の王のように。黒曜の玉座が如き夜闇の翼を背に負って。

「これが、ベルゼブモンだと……?」

 紛い物と、そう呼んだ張本人が訝しげにその名を呟く。
 風を従え天に舞う翡眼の王は、右腕に携えた黒鉄の砲をおもむろに構え、小さく笑う。左腕に抱えたラーナモンを気遣うように、その所作は戦いの中にあるとは思えぬほどに緩やかで、穏やかで。

「二度も言わせるな。人違いだと、そう言ったはずだ」

 砲口に黒の波動が渦を巻く。
 そうだ、もはやこの身は暴食の魔王・ベルゼブモンなどではない。確かなことは――その死の果てにある、それ以上の存在であるということ。

「さあ、幕引きといこうか」

 沈む夜よりなお暗く、昇る朝よりなおまばゆく。天上を巡る星のように、天下を統べる王のように。
 放つ波動が瞬きの間に魔獣を貫く。その断末魔さえも呑み込んで――荘厳なる旋律が、世界のすべてを駆け抜ける。




14-3 新星の戯曲


 一、二、三と。拍子を刻む黒の波動が虚空を駆る。それはまるで天に舞う黒衣の死神にも似て。指折り数える暇もなく、魔獣は次々に塵と消える。
 ふう、と至近の魔獣をあらかた掃討し、息を吐く。ちょうどそんな時、腕の中で細い肢体がぴくりと震えて、寝ぼけ眼がゆらりと揺れる。

「よう、怪我はねえかい。嬢ちゃん」
「え……あ、ない、けど」

 気付けば空の上、不意に襲う浮遊感と僅かに途切れた記憶に戸惑いながら、ラーナモンは頓狂な声を上げる。きょろきょろと辺りを見渡し、そうして、ぐにゃぐにゃと眉をひそめる。

「降りるぞ」
「え? ひ、やあぁ!」

 小さく言って、飛び降りるようにひょいと下降する。地につく間際に翼で風を掻き、軽やかに氷原へ降り立つ。

「おっと、立てるか?」

 何が何だか分からない、といった風にふらふらとよろめくラーナモンの肩を抱え、僅かに口角を上げる。
 怒り、焦り、戦意すらも感じさせない余りに暢気な笑み。ベリアルヴァンデモンはなおも健在。魔獣もまだ相当数を残し、タイムリミットは刻一刻と迫る。そんな状況など、知ったことかとでも言わんばかり。

「っ……はい」

 ふらつきながらもどうにか自力で立ち、ラーナモンは少しだけ顔を強張らせる。後退るように僅かに離れて、

「だ、大丈夫、です」

 思わず敬語で声を裏返す。そんなラーナモンの頭に軽く手を置いて、翡眼の魔王は視線を横合いへ遣る。

「奴らを引き付ける。その隙にヒナタと合流しろ。ベヒーモスなら安全だ」

 それだけ言って、答えも待たずに数歩を進む。一度だけ立ち止まると視線は前を向いたまま、

「じゃあな」

 素っ気なく、けれどどこか優しい声色。二対の黒翼を厳かに、優雅に広げ、翡眼の魔王は地を駆ける。一歩二歩と氷原を踏み締めて、そのまま空へと疾走するように飛翔する。

 ふ、と鼻で笑う。氷の大地を踏み砕き、凍える風を裂いて、悪夢の魔王もまた紫紺の翼で空へと舞い上がる。
 氷天に、二柱の魔王は相対し、翡翠と黄土の目が視線を交わす。少しの沈黙を置いて、くく、とベリアルヴァンデモンが低く笑う。遥かな空より地平を見渡して、恍惚に浸る。

「翼は良い。地を這う虫けらどもを見下せる。まさに王の証だ」

 だが、と、その目を眼前の王へと向けて、牙を剥く。

「君には地べたが似合いだろうに。なあ……虫けらの王よ!?」


 吠える。鋭い牙を剥き出しに、黄土色の眼を見開いて。腐りきったその悪夢のような性根を隠しもせずに。ベリアルヴァンデモンの咆哮に、応えて魔獣もまた己が喉を張り裂かんばかりに叫び、両の眼に敵意と悪意の火を点す。
 本気だ。ようやく理解したのだ。目の前にいる翡眼の王が、自らを滅ぼし得る存在であると。全力を以って叩き潰さねばならぬ敵であると。

「何だ、お戯れは仕舞いか」
「相応しい力で戯れるだけのことだよ」

 冷笑する。負の感情だけを雑多に煮詰めたようなその顔は、目を背けたくなるほどに醜悪で、まるで世界のすべてを呪うよう。

「疾うに終わりの見えたゲームだ。精々クライマックスを……盛り上げるとしようじゃないか!?」

 叫びとともに両肩の生体砲が火を吹く。迫る破滅の炎を翡眼の王は寸でのところでかわし、直ぐさま反撃に打つべく右腕の砲を構える。刹那に互いの視線が火花を散らす。

 そんな――上空に展開される魔王の戦いに私は息を飲み、唇を噛む。
 すべては狙い通り、か。私もいつまでも見取れている訳にはいかない。ベリアルヴァンデモンに向かって行く間際、ほんの一瞬だけ寄越した視線。その意味をこうも容易く理解できてしまったのは少々複雑な気分ではあるものの、そんなことを言っている場合でもない。

「行くよ、ベヒーモス」

 黒鉄を撫で、声を掛ける。
 私がすべきこと、インプモンがさせたがっていること。何のことはない。ただマリーを助けること。もはや眼中にもないであろうベリアルヴァンデモンの目を逃れて。
 それ自体は容易い。容易いが――

 嗚呼、迷っても仕方ないと走り出す。ともかく今はマリーだ。
 空の戦いを横目に氷原を駆る。ベリアルヴァンデモンはもう目の前の敵しか見えていない。こちらに構う余裕もないようだ。程なくして、苦もなく私はマリーの姿を見付けて声を上げる。

「マリー!」
「ヒナタ……!」

 私の姿を目に、マリーは一度だけ後ろを振り返る。考えていることは同じだろう。けど、

「とにかく乗って。三人は……」
「――ご心配には」

 言いかけて、言葉尻に被るように聞こえた小さな声に、はっとなる。

「及びませぬ」

 声同様に姿もまた唐突に、現れたのは外ならぬレイヴモン。その両腕に二人の少年を抱えて。
 マリーが大きな目に涙を浮かべ、私は深く息を吐く。嗚呼、これで後は――


「灯士郎! アユム!」

 レイヴモンに抱えられた少年たちに駆け寄り、マリーは涙声で彼らの名を呼ぶ。けれど、うなだれたまま何の反応も寄越さない少年たちに、次第にマリーの顔が険しくなる。見たところ外傷はないようだが。

「気を失っているようで。彼らは某が」
「大丈夫なの?」
「スピリットに護られていたのでしょう。大事には」

 と、今にも泣き出しそうなマリーを気遣ってか、優しく言ったレイヴモンに、マリーはほっと息を吐く。無事か。ああ、それはよかった。の、だが、

「あなたは?」

 囁くように問えば、一瞬の沈黙。レイヴモンは驚いたような顔を見せ、しかし途端に小さく笑んでみせる。

「逃げるくらいであれば」

 そんな言葉に嘘偽りはない。無傷では有り得ないにせよ。私は小さく頷いて、

「分かった。お願いね」
「はっ。お心遣い痛み入ります」

 そう大袈裟に頭を下げるレイヴモンにくすりと微笑を零し、私はマリーへ向き直る。

「マリー」

 呼び掛ければ僅か、後ろ髪を引かれるように一瞬の躊躇い。下唇を噛んで、マリーはこくりと頷いてみせる。そうしてベヒーモスに跨がって、

「行こう。足、引っ張りたくない」

 一度だけ、互いに視線を交わす。ただ無言のままに。ほんの短い間を置いて、ベヒーモスは走り出し、レイヴモンは低く空へ舞う。
 戦場を離れる間際、私は既に遠い空を仰いで目を細める。

「頼んだからね、インプモン……!」

 遠く、戦いの最中にある翡眼の王へ、祈りのように。もはや届くはずもない言葉は独り言。その、はずだけれど。

「ああ、任せておけ。ヒナタ」

 世界が凍てつくような時の間隙に、私の耳へ届いたそんな言葉は幻聴だろうか。刹那、優しく微笑む横顔が見えた気がした。

「ヒナタ?」
「え……あ、何でもない。大丈夫」

 訝しむマリーに慌てて首を振る。ハンドルを握り直して、気付けば僅か、口元が緩む。
 まだ安心なんてできない。できない、のに。心は驚くほどに穏やかで、晴れやかで。夜明けの時が、悪夢の終わるその時が、直に訪れるのだと確信するように。

 氷天に舞える翡眼の王が氷の大地を一瞥する。
 戦場を離れ行く後ろ姿に、か弱い自分をここまで導いてくれた彼らのその無事に、知らず息を吐く。もはや憂いはない。
 さあ、終幕の舞台は整った。終わらせよう。そして――始めよう。


 雄叫びが凍る空へとこだまする。黒の波動が魔獣を討ち、その影に潜む悪夢の魔王へ追い縋る。一撃、二撃、波動に空が軋む度、魔獣の断末魔が響いて、翡翠と黄土の眼光が矢のように飛び交う。
 もはや魔獣は敵ではない。だが、尽きることを知らないその圧倒的物量は今この時に置いて、これ以上ないほどの脅威となる。刻限を待つ。ただそれだけでベリアルヴァンデモンは勝利を手にすることができるのだから。

「くく、疲れたなら休んでもいいのだぞ? 幾らでも待ってやろう」
「は! 待ってほしいなら素直にそう言え!」

 戦いの狭間に短く舌戦を交わして、また飛翔する。
 魔法陣より来たる魔獣、それを屠る黒の波動。徐々にではあるものの後者が前者を上回り始め、魔獣はその数を僅かずつ減らしている。けれど、それは余りにも緩やかな比率で、翡眼の王は未だベリアルヴァンデモンへ辿り着く道を開けないでいる。
 時間がない。なのに……!

「五分、といったところかな」

 こちらの思考を見透かすように、唇を歪めて笑う。

「くくく、君の余命だよ。そろそろ慌てふためいてもいい頃合いだぞ?」
「何だ、まだ見つかんねえのか」
「くっははは! ああ、君は実に運がいい。既に九割近くのスキャンを終え、だというにいまだ我が目を逃れ続けているのだからなあ。虫けらはかくれんぼが得意らしい」

 両の目と口が向かい合わせの弧を描き、笑うその顔はまるで血など通わぬ蝋人形。愛を知らず、知ろうともしない。生を謳歌せぬ冷たき屍の王は、ただ滅びだけを待ち望むが如く、光の差さぬ眼を濁らせる。
 澱み、汚れて、沈み、壊れゆく。疾うに旋律を為さぬ不協和音に、正しき結末などあるはずもなく。悪夢の終わりは、誰かが幕を引くことでしか訪れない。

「憐れだな」

 ぽつりと、翡翠を揺らして小さく零す。

「んん? 今、何と言ったかな」

 嘲るように首を傾げるベリアルヴァンデモンに、翡眼の王は視線を鋭く研ぎ澄まし、けれどその奥に静かな光を湛える。

「俺の終わりは俺が決める。お前の終わりも、俺が決めてやろう」

 真っ直ぐに、暗き悪夢を見据えて。たおやかなる夜闇の翼を背に、空を切り裂く星明かりにも似た翡翠の眼を強く、強く。
 僅かな沈黙は、理解の外にあるものを目にした驚き。一瞬を置いて、下卑た笑い声が寒空に響いて爆ぜる。
 果てに差す、光も知らず――



14-4 遊星の志士


 流星にも似た波動がほとばしる。迫る魔獣を一撃の元に降し、塵と消える間際の屍を足場に跳躍する。一、二……三匹か。魔獣の群れの奥にその操手たるベリアルヴァンデモンを捉え、翼を寝かせて加速する。

 一匹目の魔獣が腕をかざす。振り下ろす間も与えずその胸を撃ち抜き、波動が通り過ぎた風穴を追従するように翔ける。
 目を閉じ、耳を澄ます。一匹目の屍と波動の軌跡に、敵を見失ったのはお互い様。だが――嗚呼、見えずとも聞こえている。その耳障りな音は。聴覚を頼りに狙いを定め、第二撃を放つ。波動は寸分違わず二匹目のコアを穿ち、断末魔さえも虚空に散らす。
 後、一匹……!
 風を掻く。舞うように天を駆る。目前であぎとを開く魔獣にも臆することなく距離を詰め、その鼻を踏みしだく。身を翻し、魔獣の頭上へと跳ぶ。がしゃりと、重々しく黒鉄を鳴らし、魔獣の頭頂部へ砲口を突き付ける。瞬間、黒の波動が魔獣を縦に貫く。

「よう、久しいな」
「くくく、待ちくたびれたよ」

 三匹目の魔獣が粒子と消えて、互いを隔てるものはもはや何もない。魔王と魔王は氷天に視線を交わし、そうして刹那、烈火の如き闘志を胸に雄叫びを上げる。

 翡眼の魔王が波動を放ち、悪夢の魔王が業火を撃つ。それはまるで宵闇と黄昏がただ一つの天を奪い合うように。共に地へと墜ちゆくように。互いが互いを喰い潰し、風の軋みだけを残して虚ろへと消失する。
 閃光。と呼ぶには余りにも暗い火花が弾けて散る。視界を遮る黒炎の暗幕。翡眼の王は構わず空を走り、再び砲を構える間も惜しいとばかりに左手の爪を振るう。薄墨色の炎を纏う爪の一撃が波動の余韻を引き裂いて、そのままベリアルヴァンデモンへと迫る。

 時を刻む針の間隙。僅か一歩にも満たぬ互いの距離。薄く引き延ばされた一瞬の中で、どれほどの思考が巡り、どれほどの視線を交わしただろう。
 タイムリミットは間近。魔獣もすべてを倒しきったわけではない。この機を逃せば再びベリアルヴァンデモンは遠退いてしまうだろう。再び手が届くとも知れぬほどに遠く。
 ここで……!
 凍る針が雪解けに時を刻む。夜闇の炎がかざすベリアルヴァンデモンの腕を引き裂いて、その首へ。牙を噛む。左腕に神経と血流と筋繊維のすべてをかき集めるように――五指を振るい抜く。
 汚泥を掻くような感触だけを残して、受肉した悪夢のその身はただ、静かに散る。


「やった!?」

 遠い空に肉片を散らすベリアルヴァンデモンを目にし、マリーが声を上げる。
 翡眼の王の爪は深く深く、悪夢の権化を切り裂いて――けれど、

「まだ……!」

 傷口から黒い粒子に変わるベリアルヴァンデモンはしかし、自らの命にすら届くはずの一撃を何事もないかのように嘲笑う。千切れ飛んだ腕は宙に浮いたまま体を離れることなく、臓物をえぐる爪痕から漏れ出るのは鮮血ではない。
 例えるなら、死肉にたかる蟲の群れ。

「おお、痛い痛い」

 なんて、わざとらしく首を振る。

「くくく、安心し給え。効いていないわけではない」

 一言一句をゆっくりと、年端もいかぬ幼子に話して聞かせるように。柄のない曲刀に似た口元から、あるいはその皮膚の微細な穴という穴から、ベリアルヴァンデモンの全身より涌くのは黒い何か。

「何よ、あれ……」

 誰にともなく問うマリーの顔は、嫌悪感に歪む。
 蟲、蟲、蟲。うごめく無数の黒い蟲が悪夢の魔王を取り巻いて、否、恐らくはそれそのものを為しているのだろう。ベリアルヴァンデモンという存在は、一個の生き物ではない。
 負の感情を糧にすると、そう言っていたか。あの蟲の群れはその具現。いや、当人にすらもう理解できてなどいないのだ。餌となっていたのが、喰われていたのが本当はどちらであったのか。ベリアルヴァンデモンのルーツ、存在の基盤となった名も知らぬ誰かは疾うに蟲たちの腹の中。
 彼は、彼らは果たしてどちらを指してその存在をベリアルヴァンデモンと呼んだのだろうか。答えはもう、誰にも分からない。

「今のを万ほども繰り返せば、さすがの私とてひとたまりもないだろうなあ。くくく、怖い怖い」

 とは、きっと事実をありのまま語っているのだろう。あの蟲の群れを殺し尽くさぬ限り、私たちに勝利はない。

「さあ、フィナーレだ。力の限り踊り給え」

 輪郭も朧げな顔を歪める。同じ蟲が形を変えただけの分身体、自らの一部たる魔獣を繰り、これで仕舞いとばかりに大口を開けて笑う。
 わらわらと再び群がる魔獣たち。ち、と舌打ちが零れた。翡眼の王は眼差しを強く、魔獣を一瞥するとベリアルヴァンデモンを見据えて左手を真っ直ぐに突き付ける。翡翠の瞳に、影は差さない。

「だったら万ほどやるだけだ。お望み通りな!」

 空が軋む。夜闇の翼が風を打ち、咆哮が高らかにこだまする。


「く、くくく……いいぞ、実にいい」

 魔獣の群れを相手取り、隙を見付けては自分に掠り傷を与えてくる。諦めを知らず、希望を手放さず。そんな翡眼の王をさも滑稽とばかりにベリアルヴァンデモンは嘲笑する。込み上げる笑いに声を震わせながら。

「嗚呼、君は何と素晴らしい道化役者なのだろう。終幕の舞台に君ほど映えるものもいまい……!」
「褒め言葉として取っておいてやるよ」

 舌打ちを一つ。魔獣を切り裂き射線をこじ開ける。砲を構え、ふざけたにやけ面へ一撃を放つ。そうして、また舌を打つ。
 何匹殺したろう。万か、億か。いまだ終わりは見えない。厄介な敵だ。いや、思えばずっとそうだったな。楽に勝てた戦いなんてない。

「そら、どうした! 死力を尽くし給えよ!?」

 一瞬、翡翠の眼の焦点が逸れる。戦いの中に敵を忘れるように。舐められたものだとベリアルヴァンデモンは両肩の生体砲から赤い霧を放つ。血の色の霧は意思を持った羽虫の群れの如く空を翔け、瞬く間に翡眼の王へと迫る。

「ああ、悪いな」

 黒翼が氷天を打つ。巻き起こる風が王を守護する騎士のように血の霧の侵攻を阻み、刹那、散る霧の膜を貫いて黒の波動が一閃する。

「少し考え事をしていた」
「くはは! 随分と余裕ではないか!?」

 しれと、言い放つ翡眼の王にベリアルヴァンデモンの目の色が僅かに変わる。嗚呼、気に入らない、と。
 焦燥感が足りない。悲壮感が足りない。絶望感が足りない。生と死の瀬戸際で足掻く虫けらの、無様な姿が見たいのに……!

「見せてくれ給えよ……なあ? 道化は、道化らしく! この喜劇に相応しい醜態を!」

 血の霧を撒き散らす。同時に魔獣の群れをけしかける。魔獣たちは肉を腐らせ骨を溶かす死の霧の中、絶叫を上げながらその牙を剥く。端から朽ちた身。お構いなしか。
 纏うように、引き連れるように。霧とともに襲い来る魔獣たち。翡眼の王は翼を繰り、近付き過ぎず、離れ過ぎず、神経を削るような繊細な飛翔を以って攻防を繰り返す。一匹、また一匹と魔獣を葬る。その度に新たな魔獣が生み出されてもなお、勝利を目指して突き進む。

 幾度かの攻防を交わし、そんな時ふと、黄土色の目が遠方に何かを捉える。途端、微笑が漏れる。

「成る程、あれが君の切り札というわけかね」

 合点が行ったと冷笑する。そう――ようやく役者は、揃ったのだ。


 ベリアルヴァンデモンの言葉にしかし、誰より怪訝な顔を見せたのは外ならぬ翡眼の王だった。一体何の話をしてやがると、振り返りその姿を目にして、益々眉間のしわを深くする。
 空に浮かぶのは無数の影。その幾つかが他の影を置き去りに先行し、戦場へと飛来する。あるものは高い空から、あるものは氷原を滑るように、あるものは氷原の下を潜行して。
 光の翼の紫紺の竜が氷原に降り立つ。背の砲を推力に深紅の竜が来たる。氷を貫き凍結した湖の中から金の海竜が浮上する。

「これはこれは……!」

 馬鹿丁寧なお辞儀で迎える様はまるでパーティのホスト。ベリアルヴァンデモンは突然の闖入者を物珍しいものでも見るように眺めて、にたりと笑う。

「誰かと思えば負け犬諸君、ご主人様の危機に馳せ参じたのかね。健気なことだ」

 空と地と海の竜たちを睨み据え、侮蔑を込めてその名を呼ぶ。自ら名乗った、身の程を知らぬご大層な名を。

「なあ……ゼブルナイツ!」

 嘲れば紫紺の闇の竜――ダークドラモンが鼻を鳴らす。

「負け犬、か」

 深紅の暴竜・カオスドラモンが肩をすくめ、金の兜の海竜・メタルシードラモンは静かに魔王を見据える。

「しかしまた、随分と殺しそびれたものだな。裏切り者のお友達のお陰かな?」

 空に浮かぶ影。徐々に近付くゼブルナイツの兵たちを黄土色の目に映し、わざとらしく溜息を吐く。そんなベリアルヴァンデモンにダークドラモンは寒空を仰ぎながら、

「爆発の直前に空高く打ち上げたらしい。ただの花火に終わったな」

 代わりに空高くいた自分は酷い目に会ったが、と自嘲する。

「つくづく格好がつかんなあ」

 くつくつと、笑う様はどこか嬉しげに。ダークドラモンはただただ暢気に頭を掻く。

「それで? くくく、死に損ないが今更幾ら集まろうと――」
「ああ、心配は要らん。ただの物見遊山だ」
「ほう?」
「折角拾った命だ。結末くらいは見届けておこうと思ってな」

 なんて、言い放つダークドラモンからは、言葉の通り戦意をまるで感じない。本当に――

「ぷ、くはっはははあ! 聞いたかね!? とんだ助っ人だなあ! ええ!?」

 笑う。笑う。これほど愉快なことは他にないとばかり。呆れ返る翡眼の王の溜息もどこ吹く風。

「ならば存分に見届けるがいい! なあに、手間は取らせん。くくく、嗚呼……時間切れ、だ」



>>第十五夜 極彩のネビュラ