第十三夜 翡玉のヘスペラス

13-1 傀儡の英雄


 拍子を刻むように二度、鏡の盾を蹴る。ラーナモンは盾を足掛かりに後方へ反転しながら跳躍し、メルキューレモンから距離を取る。同時、指先で宙に小さく円を描いて、その指をメルキューレモンへ向ける。さながらタクトを振るうが如く。応えるのは、黒き粒子たち。ち、と微かな舌打ちが漏れる。
 黒の粒子は集い、極小の黒雲となってメルキューレモンに迫る。メルキューレモンは鏡の盾を重ね合わせるように構えて、瞬間、その姿が忽然と消える。
 ラーナモンは慌てるそぶりも見せず、虚空を見据えて溜息を一つ、一拍を置いて再度跳躍する。直後に現れるメルキューレモンの手はラーナモンの残像を掻くばかり。

「何……!?」
「見え透いてんのよ!」

 そしてまた、放たれる黒雲。鏡の瞬間移動は間に合わぬと見たか、横合いへの低いステップをもってこれをかわすメルキューレモンに、ラーナモンはここが好機と一際高い跳躍。黒雲に視界を遮られ、一瞬と言えどその姿を見失ってしまったメルキューレモンは反応が追い付かない。
 天に舞う、とさえ錯覚するほどの、飛翔にも似た跳躍。空に躍るその身を光が包み込む。旋律が再び移調する。

 ひゅ、と、息を飲むような音が鏡の顔から漏れる。焦燥、戦慄、強張る体に防御もままならない。
 風を切る。光の中から白い触手が伸びて、無防備に近いメルキューレモンを叩き潰す。周囲の氷ごと、その下の地面ごと。血とともに吐くような呻きが漏れて、かと思えば休ませる間もなく薙ぐような追撃が襲う。
 メルキューレモンの体はくの字に折れ曲がりながら吹き飛んで、宙を舞う。どさりと、鈍い音が氷原を衝いた。

「あんたの負けよ」

 言い放つのはラーナモンが姿を変えた半人半獣の怪人。下半身と一体化した巨大イカの上から、平伏すメルキューレモンを見下ろして。
 彼女の言う通り、どう見ても勝負は決した。だと言うに、しかし当のメルキューレモンはよろよろと立ち上がりながらも薄く笑う。

「ふ、ふふ。鏡を見給え。私などより余程悪役に相応しいぞ」
「何を……!」

 皮肉屋で、負けず嫌い。満身創痍でなおも減らず口を叩くその様に、今更に仲間の面影が過ぎる。本当に、一体、

「誰なのよ、あんたは……」

 振り払ったはずの迷いが決意に陰を落とす。迷うな。戦え。自らに言い聞かせ、拳を握る。
 そう、戦いはまだ、始まったばかりなのだから。


「一見無敵に思えるイロニーの盾の反射能力。だがその弱点は実に単純なただの打撃……どうにも君とは相性が悪いようだな、カルマーラモン?」

 肩をすくめてべらべらと、事もあろうに事もなげに、メルキューレモンは自ら己が弱点を語る。ラーナモンから進化を果たした怪人――カルマーラモンは歯列を軋ませ眉間にしわを寄せる。対峙するメルキューレモンは既に満身創痍。彼女自身はまるで傷を負っていない。誰が見てもその優位は絶対、だというに。
 後、一撃。たったそれだけで決着だ。もはや耐えるも防ぐも避けるも、できようはずがない。なのに、メルキューレモンから感じ取れるその不可解な余裕と自信に、思わず二の足を踏む。いや、その踵を踏むのは迷いだろうか。

「誰……なのよ」

 繰り返す。しかし変わらず答えは返って来ない。その問いだけがまるで、鼓膜をすり抜け虚空に溶けていくかのように。
 ぎ、と。今一度、眼光を鋭く研ぎ澄まし、歯牙を打つ。迷うな。戦え。そう決めたはずだ、と。しかし、メルキューレモンはそんなカルマーラモンさえ嘲笑い、

「さて、このままでは勝機がないか。どうしたものかな」

 なんて、わざとらしくおどけてみせる。カルマーラモンが顔をしかめ、その様にまた薄い笑みが零れる。メルキューレモンは両腕をそっと広げ、その唇が小さく何かを呟く。瞬間、鏡の盾が淡く発光を始める。頭の芯を突き刺すような不協和音が、私の耳を衝いた。

「こんな小細工は、如何かな?」

 メルキューレモンの携える大鏡から漏れる光がやがて形を成して、それは鏡面に突き立つ無数の武器となる。その幾つかは、私にも見覚えのあるものだった。

「それは……!?」
「ふふ、誰の体の中で手の内を晒していたと?」

 サイズは違えどダークドラモンの槍、あるいは砕けたはずのレイヴモンの刀、あるいはスラッシュエンジェモンの剣。多様な武器の切っ先がひしめくように鏡面から覗く。

「コピーしやがったか。少し、分が悪そうだな」

 勝ち誇るように笑うメルキューレモンに、今の今まで沈黙を守っていたインプモンがぽつりと言って、一歩を踏み出す。そうしてカルマーラモンを見上げて頭を掻く。

「お前の戦い、だったな。無理に割り込むつもりもなかったが」

 そう、肩をすくめる。思案は僅か。カルマーラモンは視線を巡らせこくりと頷く。

「ごめん。手、貸して」


「お安いご用だ、嬢ちゃん」

 カルマーラモンの言葉に小さく笑い、インプモンは指先に炎を点す。

「ふふ、すっかりお友達じゃあないか」

 そんなメルキューレモンの嘲りなど挑発にもなりはしない。一度だけ目配せをして、インプモンは氷原を駆ける。その様にメルキューレモンはまた微笑。鏡の盾から突き出す切っ先の二つを触れもせぬまま引き抜いて、ゆっくりと振るう。
 閃光。動作の緩やかさからは想像もできぬほど、鋭く引き裂かれた風の唸りが耳を打つ。恐らくはこのセフィロトモン内部にいるすべてのデジモンの力を文字通り喰らったのであろう、メルキューレモンが繰り出すのはスラッシュエンジェモンの剣。刀身が閃いて、放たれた光の斬撃が虚空を走る。
 カルマーラモンは触手をバネのようにして横合いへ跳躍し、自らを狙う斬撃を回避する。そこへ追撃すべくメルキューレモンは更に別の武器を構え、その時。

「俺を忘れんな!」

 叫びとともに炎の砲弾が飛来する。くすりと、視線を向けることもなくメルキューレモンは微笑を零す。

「忘れてはいないさ」

 無造作に振るう鏡の盾から一条の閃光が瞬いて、迫る炎を撃ち落とす。火花と光の粒子が舞って散る。
 一瞥だけを寄越し、メルキューレモンは再度カルマーラモンへ鏡をかざす。インプモンなど、眼中にないとばかり。肉体を取り戻せていたならともかく、確かに今のインプモンでは力不足だろう。メルキューレモンの判断は、概ね正しい。ただ、

「舐められたもんだな」

 それは馬鹿正直な力比べをするのであればの話。ここにいるのは腐っても元魔王。足りないのは力ばかり。踏んだ場数と積んだ経験は、元人間など比較にもならない。
 インプモンがぱちんと指を打つ。途端に散る火花が息を吹き返すように弾ける。彼我の力量差と今できる役割は、当人が何より誰より理解している。この場で打つべき最善手は――

 ち、と舌打ちが漏れる。線香花火にも似た火の連鎖が氷の大地に幾何学模様を描き出す。インプモンの十八番。炎を喚ぶ魔法陣。それはメルキューレモンの至近からその足元に広がって、瞬間、

「サモン!」

 僅か一言の言魂を引き金に、起動する魔法陣から沸き立つように炎熱が顕現する。目で追うことも叶わぬほどの間に、赤の疾走がその足跡を氷原に刻む。
 轟々と燃え盛る炎の中、メルキューレモンの姿が、やがて消える。


 猛る炎の壁がメルキューレモンの姿を覆い隠すほどに燃え上がる。その熱量と規模は並のデジモンであれば確実に痛打となるであろうほど。けれど、相対するは伝説を継ぐ闘士が一人にして、神と魔王に弓を引くもの。並大抵であるはずがない。

「こんな小細工が今更……!」

 炎の中から響いたのは僅かに苛立ちの混じるそんな声。ゆらりと、炎に揺らめく影が片腕を掲げる。
 炎が震え、風が鳴く。紅蓮を引き裂く気流の刃が螺旋を描き、そびえ立つ竜巻となって灼熱を散らす。風は炎と諸共に、瞬きの間に虚空へ消える。後に残るのは平然と立つメルキューレモンだけ。
 にやりと、口端を歪めてメルキューレモンは再び鏡を構え――はたと、二の足を踏む。インプモンが取った行動の意味を、その意図を理解して。

「遅いのよ!」

 一瞬の遅れ。頭と体の僅かな硬直。それが、命取り。炎はそれそのものが攻撃ではない。その補助、布石だったのだ。狙いは足元、氷の大地。炎に氷が解かされた、その後に残るもの。“水の闘士”が、十全の力を奮えるこの状況を作り出すことこそが本当の狙い。
 荒々しいビーストスピリットから、制御能力に長けたヒューマンスピリットへと並列進化を果たし、ラーナモンは周囲に満ちる水へ声なき声をもって呼び掛ける。水の始祖より受け継がれるその力と魂に応え、瞬間、水は息を吹き込まれたが如く形を成していく。
 轟音。渦巻く水流はさながらうねる蛇。四方からメルキューレモンを取り囲み、機を窺うようにうごめく。

「炎を水に変えようと同じことだ!」

 水の包囲網も炎の壁も変わらぬと、もはや明らかな怒気を孕む叫び。メルキューレモンは水流を睨み据え、その鏡が光とともに再び風を生む。けれど、

「同じなわけないでしょ」

 間隙に差す、静かな声はラーナモン。おもむろに振るう指はタクトのように拍子を刻む。
 ぽつぽつと、肩を打つそれにメルキューレモンが気付いた時にはもう遅い。目前の水の蛇は足止めと目眩まし。本命は死角の頭上から。巻き上げられた水流は微細な粒と、極小規模の豪雨となって降り注ぐ。否、それは雨と呼ぶのもおこがましい水の散弾。連続する無数の水圧に、メルキューレモンは鏡を構えるどころか立つこともままならない。
 そして一拍。水は唐突に流れを変え、既に身動きの取れぬメルキューレモンを上空へと打ち上げる。これで、決着とばかり。


「こんな、もの……!」

 絡み付く水の蛇にぎしぎしと、四肢を軋ませ抵抗する。そんなメルキューレモンをどこか悲しげに見据えて、ラーナモンはおもむろに手をかざす。水を足場に、空高く打ち上げられたメルキューレモンの目前にまで駆け上がり。互いの視線が刹那に交わる。

「終わりよ」

 静かに、無感情に告げる。ラーナモンの体が淡い光に包まれて、瞬く間にビーストスピリット・カルマーラモンへと進化する。
 僅か一拍を置いて、繰り出されるのは必殺の一撃。触手が螺旋の軌跡を描いて、高速回転する肉弾はさしずめ穿孔機。水の束縛ごとメルキューレモンを貫かんと弾丸のように飛翔し、直後、鋭い音が寒空を揺らす。

 静寂。永久に続くとさえ思えるほどの。打ち破ったのは、メルキューレモンが氷原に叩き付けられる鈍い衝撃音と、低い呻き。そして少しの後、ゆっくりと降り立つラーナモンの小さな足音。

「メルキューレモン……」

 呟くラーナモンの眼差しは曇る。自ら引導を渡すことになってしまった、元仲間を思い、様々に渦巻く感情を一粒の落涙に込めて零す。

「ふ」

 けれど、

「ふ、フふ……何、ヲ」

 そんな優しい涙さえも嘲笑う、下卑た声は倒れ伏したメルキューレモンから。

「メル……キューレモン?」
「何ヲ、勘違、イ……して、イル?」

 無機質で不格好で、薄気味の悪い機械音声はメルキューレモンのそれではない。まるで人ならざるものが、表面だけを人であるかのように取り繕った、そんな違和と異質。

「こいつ、本当に人間か?」

 頬に冷たい汗を一筋。インプモンの問いに、答えられるものはいなかった。

「いな、イ……」

 壊れたマリオネットのように、その頭上に見えない糸でもあるかのように、あまりにも不自然な動作で飛び起きる。あらぬ方へ曲がる間接は体を支えることなどできようはずもない。頭はうなだれたまま、今にももげてしまいそう。立ち上がるというより、浮き上がるとでも表現すべきだろうか。
 かたかたと、壊れた五体が異音を鳴らす。

「終わっテ、など、い……なイぃぃ!」

 絶叫。死霊の怨嗟にも似たそれ。鏡の放つ光は多様な色が混じり合い、やがてどす黒く変色する。並走する不協和音はまるで無数の毒虫が体を這い回るような嫌悪感を駆り立てる。
 漏れ出た黒がメルキューレモンを覆い、そうして――それは姿を現した。




13-2 義戦の英雄


 進化、ではない。それは変異。
 ぼこぼこと、泥の中から気泡が沸くように体表が不規則に隆起する。絡み付く黒い何かもまた鳴動し、その旋律が耳を刺す。
 私は頭を押さえながらベヒーモスにもたれ掛かり、それでもどうにか視線を上げる。

「何よ……これ」

 誰にともなく呟くラーナモンの声は震えていた。
 気泡が弾けるようにメルキューレモンの体が次第に形を失い、黒と交わり空へと昇る。屍が燃えてその黒煙が高く高く立つかの如く。いつしか慟哭に似た叫びさえも溶けて消える。
 それはまるで押しては返す波。流動する黒が不気味にうごめいて――そうして、やがて突然に静止する。嵐の前の静けさ、なんて言葉がこれ以上ないほどにしっくりとくる。
 事実、静寂は僅か一呼吸の間。

 凍り付いた黒が砕けて散って、異形の怪物が現れ出る。数個の球体が数珠繋ぎになったその長躯には幾つもの目玉。最上部に位置する球体には人間のそれに似た口。深く、不気味な息遣いが分厚い唇の間から聞こえた。
 すう、と静かに息を飲む。異形は唇をゆっくりと開いて、目のない顔で空を仰ぐ。そして、瞬間。

 異形の口から吐き出されたのは咆哮。産声だろうか。あるいは怒号か。人が知るどんな生き物の鳴き声にも似つかぬ、人ならざる叫び声。まるで地獄の釜の隙間から漏れる死霊の金切り声。あえて形容するなら硝子板で爪を研ぐ音を幾重にも重ねた、とでも。
 嫌悪感と不快感、そして恐怖を駆り立てるそれ。そんな不協和音が頭の芯を掻き、脳から四肢への伝令が阻害されるかのように足元がふらつく。

「ヒナタ、耳塞いで下がってろ……!」

 言ったインプモンの額にも脂汗が滲む。
 異形の怪物はその身の無数の目玉でインプモンとラーナモンをぎょろりと舐めるように見据え、そうして、唇がにたりと笑みの形に歪む。獲物を見付けた、ケダモノのように。
 雄叫び。狂喜に充ちたそれは理性的なメルキューレモンとはまるで異質。長躯を蛇のようにうねらせ、鎌首をもたげる。

「来るぞ! 気をつけろ!」
「分かってる!」

 インプモンが指先に炎を点し、ラーナモンが足元の水溜まりへ指を振る。未知なるものへと対峙する二人の顔は険しく、それはまるでデジモンとしての本能が警鐘を鳴らしているように。
 互いに睨み合い、一触即発の張り詰めた沈黙。歯牙を軋ませ、そして刹那――雷が、開戦を告げた。


 閃く雷光は轟く雷鳴を連れて。凍える空を引き裂き、光の速度をもって飛来する。瞬き、着弾、そして爆発に至り、ようやくそれを認識し、私たちは息を呑む。
 異形の怪物にインプモンとラーナモンが攻撃を仕掛けようとした、その間際。突如として戦場に割って入った雷が異形の頭部を直撃し、二人の足を止める。

「今の……!?」

 踏み止まり、思わず目前の敵から目を逸らすラーナモン。その頭上を一つの影が翔け抜けて、額から黒煙を上げながら痛打に呻く異形へ迫る。
 黒翼が風を打ち、螺旋の軌道を描いて白翼が異形の体表を撫でる。一瞬の後、白翼の軌跡をなそる一閃のかまいたちが走る。あまりに鋭くあまりに速い、音すら置き去りにするそれが斬撃であったことに、今になって気付いたように。

 ざり、と私の真横へ降り立ち、黒白の翼の主は異形を睨み据える。そうして私を一瞥し、

「お怪我はございませぬか、ヒナタ様」

 そう言って私を心配するようにまたちらりと視線を寄越す。返す言葉が、見付からなかった。口を開いたまましばし、ようやくできたのはただ、その名を呼ぶことだけ。

「レイヴモン……!」

 無事でよかったという、安堵。そして同時にあれだけの爆発からどうやってという、疑問。溢れる感情を言葉にできないでいる私に、レイヴモンは小さく頷いてみせる。優しく、微笑んで。

「ご無事で何より」

 なんて、私より余程危機的な状況にあったというに、そんな物言いは相も変わらず。レイヴモンは異形の怪物へと向き直り、その爪を構える。
 異形は全身に隈なく刻まれた創傷の苦痛に身をよじらせながら、怒りに充ちた雄叫びを上げる。インプモンやラーナモンなどもはや眼中にもないかのように。
 だが、異形は気付いていなかった。雷を放つレイヴモンの技、その媒介となる刀は、堕天使へと姿を変えた外ならぬメルキューレモンによって砕かれたのだということに。先の雷の射手が、眼前のレイヴモンではないのだということに。

 閃光。再び雷が虚空を駆る。横合いからの第二撃をまたも無防備に受け、異形の巨体が揺れる。その、直後。駄目押しとばかりに黒い炎が追撃する。夜の闇にも似た黒炎は氷原を疾走し、やがてその形を変える。
 それは獣。黒の炎が形作る巨大なる獅子。異形に勝るとも劣らぬ巨体をもって猛進し、灼熱の牙を突き立てる。寒空が震えて、熱風が吹き荒んだ。


 灼熱の黒獅子がその燃え盛るたてがみを逆立てる。一際大きく黒炎が揺らめいて、異形の怪物の巨体が氷原へと倒れ伏す。ずずん、と大地が震え、氷片が空に舞う。
 あ、と声を漏らす。荒れ狂う風に顔をしかめながら、ラーナモンの口元に僅か、笑みが浮かぶ。その正体を確信して。

「レーベモン!」

 黒の炎の中よりゆらりと立ち上がる、黒獅子の騎士の名を呼ぶ。騎士は振り返り、こくりと頷いてみせた。もう、心配はいらないとばかり。

「よう、元気そうじゃねえか」

 とはインプモン。その口調は皮肉げなようで、けれどどこか嬉しそうにも思えたのは気のせいだろうか。
 レイヴモンが僅かに目を細め、レーベモンが一瞬だけ彼方を見遣った。

「ミラージュガオガモンに、救われた」

 呟くように言って、槍を構える。眉をひそめて何事か言わんとしたインプモンを一瞥し、

「話は後だ。今は、目の前の敵を見ろ」

 そう、強い口調で喉元まで出かかったインプモンの言葉を遮る。
 事情は分からない。でも心情は分かる。インプモンは一度肩をすくめて、それきり再び問おうとはしなかった。ああ、と頷いて、指先に炎を点す。

 インプモンとラーナモン。そしてレイヴモンとレーベモン。四人の目前で、粉雪に似た粉塵を払い、異形の怪物がゆっくりとその巨体を起こす。

「確認するが……メルキューレモンで間違いないな?」
「だと、思うけど」

 知性も理性も感じさせない、その異形の正体を問うレーベモンに、答えるラーナモンの歯切れは悪い。けれど、だからこそそれで十分だと、レーベモンは静かに頷く。

「いずれにせよ……」

 ぽつりと言ったのはレイヴモン。その言葉を、インプモンが継ぐ。

「敵には変わりねえ」

 たとえそれが、かつての仲間でも。と、そんな言葉を口に出すことはしなかった。レーベモンと同じ、ただの確認だ。これより共に駆ける、並べたそのくつわは揃っているのか、と。共に戦う、仲間として。

 ふ、と小さな笑みが零れた。
 不思議な感覚だった。孤独に、孤高に戦い続けた日々の中にはなかった、その感覚。知らない闘志に血が燃える。知らない勇気に心が震える。知らない何かが疼いてざわめく。
 遠く遠く地平を越えて、果てしないあの空へさえも駆け上がれる。そんな気がして、魂が躍る。
 偽物ゆえ、か。けれど、だとしてもこの先には、きっと――


 黒刃が閃く。一拍を置いて水の矢が翔け、鉄爪が追撃する。よろめき、苦痛に声を上げる異形の怪物の、その大きく開かれた口に目掛けて炎が放たれる。口内で爆ぜる火炎の轟音に呻き声さえ掻き消され、異形が身悶えする。
 一瞬の目配せ。口から煙を吹く異形にも構わず、四人は再び各々の武器を構えて氷原を駆ける。代わる代わる、休みなく紡ぐ四重奏。雑音はいらぬとばかりに反撃も許さない、その力強い旋律が異形の不協和音を塗り潰していく。

「決めるぞラーナモン!」
「オッケー!」

 ぱちんと指を打ち、立ち上る水流を足場に空へと駆け上がる。ラーナモンは眼下を走るレーベモンを一瞥し、その身に光の帯を纏う。レーベモンもまた駆ける速度そのままに光を帯びる。
 そんな二人を脅威と見做したか、異形はあぎとを開いて迎撃の構えを取り――けれど。

「こっちだデカブツ!」

 俺を忘れるなと、インプモンの放つ火炎が異形を直撃する。インプモンはちらりと空へ目をやり、

「レイヴモン!」
「御意に」

 インプモンの言葉とほぼ同時、応えるレイヴモンの白翼が異形を切り裂く。体格差ゆえに斬撃は致命傷とはなり得ない、が、無傷で済むほど甘くもない。異形が悲鳴を上げる、間もなく、間髪を容れずその創傷を狙い撃つ炎。内側から身を焼く痛みに、異形は叫ぶことすらままならない。

「これで」
「終わりよ!」

 インプモンとレイヴモンが稼いだ十分過ぎる時間。悠々と並列進化を果たし、黒鉄の獅子・カイザーレオモンと、半人半獣の魔女・カルマーラモンが異形へ迫る。
 カイザーレオモンは身を包む炎を肥大化させ、再び黒炎の巨大なる獅子となって猛進する。その牙が先の傷痕へと食い込み、質量を持った炎が異形の巨体を焼き切っていく。牙の隙間から覗く異形の頭部が絶叫する。瞬間、上空より降下するカルマーラモンは全身を激しく回転させ、螺旋の矢となり飛翔する。鉄をも穿つその穂先は異形の頭部を正確に狙い定め――刹那に鈍い音を残して、螺旋の矢が頭を貫き、炎の牙が体を食い千切る。

 そうして、ここに戦いは終決する。
 カルマーラモンの言葉通り、今度こそ、本当に、

「これで、終わり……?」

 私の口から不意に漏れる。まだ実感がない。だけだろうか。
 鬨の声が響く。なのに、どうしてだろう。この胸から、暗い何かがいまだ晴れないのは。冷たい汗が、頬を伝った。




13-3 悪夢の魔王


 崩落は音もなく。異形の巨体は倒れゆくその端々から徐々に黒い粒子へと変わり、消し炭のように静かに風に散る。やがてその全てが虚空に溶けた後、氷原にはぽつりと横たわる人影が一つ。
 はっと、勝利に沸くラーナモンの顔色が変わる。

「アユム!」

 知らない名を呼ぶ。駆け出すラーナモンの姿が淡い光に包まれて、途端に人のそれへと、人間の少女・マリーへと変わる。
 少しだけ遅れてその後を追うのはレーベモン。同様に光に覆われ、人の姿へ変わる。年の頃はマリーとそう変わらない。髷のように結った長髪が特徴的な、人間の少年だった。

「し、死んじゃったなんてこと、ないよね?」
「……ああ、大丈夫だ。ちゃんと生きている」

 マリーたちが駆け寄る先に倒れていたのは、眼鏡を掛けた細身の少年。その胸に手を置いて鼓動を確かめると、不安げにおろおろとするマリーに、レーベモンだった少年は優しく言う。仲間の無事に、安堵の息を吐きながら。

「そいつがメルキューレモン、に、間違いないんだな?」

 インプモンが問えば長髪の少年はこくりと頷く。

「そうだ。俺たちと同じ、選ばれし子供だ」

 おもむろに立ち上がり、長髪の少年はインプモンを見据える。小さく溜息を吐いて、少しだけ目を細める。
 言わんとしていることは察したのだろう。インプモンは肩をすくめる。

「まあ、別に命まで取るつもりはねえよ」

 そんな言葉に少年の顔から、僅かばかり緊張の色が薄らぐ。少年は重々しく頭を下げる。

「すまない」
「済んだことだろ。どうせもう――」

 終わったのだと、言いかけたインプモンの言葉を遮ったのは外でもない私。

「まだ」

 と、言った声は知らず震えていた。

「何だ、ヒナタ?」
「まだ……セフィロトモンは、消えてない」

 そう、私が言えばはっと、インプモンたちは辺りを見渡す。ふとすると忘れそうになる。けれど、そうだ、ここはまだセフィロトモンの体内。先程の異形の怪物のように徐々に霧散していく、そんな気配もまるでない。旋律は、いまだ消えていない。

「どういうことだ?」
「……分からない」

 インプモンが問い、少年が首を振る。その顔に再び緊張が走る。

「あいつは、どこ?」

 誰にともなく問う。インプモンもまた気付いて――そんな時。声は不意に、頭上から降る。

「私をお探しでしょうか、お嬢さん?」


 その身は白の衣を纏い、手には金の杖。背に白き翼を負う姿は名の通り、天使そのもの。

「サタナエル……!」

 長髪の少年が名を呼ぶと白妙の天使・サタナエルは小さく口角を上げる。

 そんな――そんなやり取りに、私とインプモンはふと眉をひそめた。
 デジャヴュ。頭の片隅に何かが引っ掛かる。記憶を辿る。ここ数日を過去へ過去へと。そうして行き着くのは始まりの日。この記憶に深く深く刻まれた、忘れようもない始まりの出会い。

「……スラッシュエンジェモン?」
「どうして……」

 私とインプモンが声を上げたのは同時。私たちの言葉の意味を理解したのは恐らく当のサタナエルだけ。なぜなら、そう、あの日、あの時、あの場所にいたのは私たちだけだったのだから。
 私とインプモンが出会ったあの日。スラッシュエンジェモンと対峙したあの時。夕焼けに照らされたあの場所で、私たちは同じ言葉を聞いたのだ。

「お前は、誰だ」

 あの日のスラッシュエンジェモンと不自然なほどに重なるサタナエルの姿に、インプモンの声色は静かな闘志を帯びる。
 ホーリードラモンの側近。という名の、メルキューレモンの手駒。いいように使われるだけの操り人形。そんな認識は改めざるを得ない。見た目通りの、ただの成熟期などでもない。サタナエルから感じ取れる旋律はまるで、先の異形の怪物と瓜二つ――

「誰でもあって、誰でもない」

 サタナエルの指がくるりと円を描き、と思えば瞬間、メルキューレモンだった少年の体から小さな黒い粒子が沸く。それは倒れ伏す少年の体から離れ、吸い込まれるようにサタナエルの手へと渡る。同時、異形の怪物だった頃に感じ取れたあの不協和音もまた、少年の体から消え――私は、理解する。

「あなたが……」

 私の物言いは、あるいは突拍子もないことだったろうか。あの音が聞こえていないであろうマリーたちは眉をひそめる。それでも、

「メルキューレモンも、アポカリプス・チャイルドも……あなたが、操っていた……?」

 耳を衝く不協和音。悪夢そのものを譜面に起こしたようなそれ。敵を見誤ったと、言った堕天使の言葉を不意に思い出す。
 私の言葉に驚く皆の前で、それを肯定するような薄い笑みを浮かべ、サタナエルは朗々と語る。まるで己が武勇伝を吟唱する、詩人の如く。

「私はどこにでもいて、どこにもいない。――今までは、ね」


「てめえが、黒幕だと……?」

 戸惑い。顔をしかめるインプモンに、サタナエルはくつくつと笑う。その鉄仮面の奥から透けて見えるような何かに、私は知らず息を呑む。

「インプモン……あれ、エンジェモンじゃない」
「何?」
「多分、メルキューレモンと同じ」

 私が言えばさも面白いとばかり。下卑た微笑を漏らして、サタナエルは私を見下ろす。

「驚嘆に値するよ。あの偉大なるホーリードラモンですら、間抜けにもまんまと騙されたというのに」
「なら……」
「そう――私こそが君たちの言う“黒幕”とやらだよ。はじめまして、とでも言っておこうかな?」

 おどけるように肩をすくめる。そんなサタナエルとは対照的に私たちの表情は強張る。ぴりりと空気が張り詰める。まるで千切れんばかりに伸ばした糸のよう。
 ふと、長髪の少年が小さく零す。

「お前が、アユムを」

 燃え上がるほどに鋭い眼光。瞳に宿るのは、明確な敵意と怒り。けれどサタナエルは事もなげに、

「ああ、悪くない手駒だったよ」

 なんて、心の底から嘲るように言って、ご苦労様、と吐き捨てる。
 ぷつりと、糸の切れる音が聞こえた気がした。

「サタ……ナエルぅ!!」

 激昂。怒髪が天を衝く。それは比喩ではなく、事実、風が逆巻き光が舞い狂う。少年を包む激流が瞬時に肉体そのものを変異させる。駆け出す少年の姿が人のそれから黒獅子へと変わり、理性など要らぬとばかりの雄叫びがこだまする。
 要るのはただ野生。有るのはただ激情。仲間を、自分たちの正義を弄んだこの外道の、喉笛を掻き切るためだけの!
 地を蹴る獅子の牙が瞬く間にサタナエルの喉元へと迫る。――けれど、

「駄目……違う!」

 私の叫びは、一拍も二拍も遅れて虚しく響く。
 そうじゃない。私たちは、敵を見誤っていたのだ。今目の前にいるのはただの――

 ずぐり、と、肉のえぐれる鈍い音がした。左の牙が喉を突き、右の牙が胸を穿つ。サタナエルの口から吐血に似た黒い何かが漏れる。いまだ首と胴が繋がっているのが不思議なほど。喉に大きな風穴を空けられたまま、まさに首の皮一枚のそんな状態で、けれどサタナエルは不敵に笑う。

「お見事。実に素晴らしい……的外れな一撃だったよ」

 潰れた喉から空気が漏れる。流暢に語るその声は、眼前の天使から発せられたものではなかった。
 闇が、にたりと笑う。


「虫けらのような存在だった」

 獅子の牙がおもむろに引き抜かれ、白き天使は力無く落ちゆく。その身は地へ伏せるも待たずに塵と消え、光の粒子が風に舞う。語るのは、虚空に佇む闇。

「死の淵でもがいた。暗く冷たい、闇の中だったよ」

 懐かしむように言う。今やとうに、自らが闇そのものだというに。
 黒一色に塗り潰された闇が獅子を見下ろす。目など無いのに刺すようなその視線。

「君たちを見ていると憎悪が溢れて仕方なかったよ。私をこんな目に合わせた、憎きかつての闘士たちを思い出して、ね」

 お陰で君には見破られてしまった訳だが、と闇は笑う。
 地へ降り立った黒獅子は今し方の怒りさえ思わず忘れてしまったように、呆然とそれを見上げる。代わり、声を上げたのはインプモンだった。

「お前、ルーチェモンの手下か」
「くくく……できれば臣下と言っていただきたいね。まあ尤も、歴史に名を遺すことも、英雄に傷を残すこともできず、呆気なく散ったか弱きただの一兵卒に過ぎないがね」

 空に広がる染みにも似た闇が、次第に形を成してゆく。

「彼らは、かつての十闘士たちは私を覚えてもいないだろう。数々の戦いをくぐり抜け、目覚めた彼らにとって私など、前哨戦にもなりはしなかったのだから」

 黒き闇に深紅が差す。その中で、不気味な眼が輝いた。

「だが、やがて世界のすべてが我が名を知ることとなるだろう」

 夜闇に似た紫紺の翼が風を打つ。

「屈辱――死をも凌駕する憎悪が我が存在をこの世へ押し留めた。僅かに取り留めた力で寄生虫のように他者を喰らい、辛うじて生き延びた。少しずつ、少しずつ、闇をすすって力を得た」

 鉛色の四肢が闇から具現し、己が存在を確かめるように血管が脈打ち筋肉が隆起する。

「そして……今!」

 深紅の仮面の奥でその目を見開く。

「遂に我が悲願は果たされる! ここに……ここに我が命は! 我が存在は! 再び蘇るのだ!!」

 闇より生まれしそれは、まるで悪夢そのもの。背筋に氷が這う錯覚。悪寒、恐怖。喉が渇く。視線が凍る。言葉が出ない。
 氷原を揺らし、悪夢の権化が地へと立つ。

「ご挨拶の、途中だったかな」

 黄土色に濁る光無き目が私たちを舐める。

「はじめまして、虫けら諸君。我が名はベリアル――“ベリアルヴァンデモン”。命の終わりに、せめてこの名を刻むがいい……!」




13-4 翡眼の魔王


 血の色の爪を弾く。まるで指先の糸屑でも払うように、無造作に。瞬間、冷気が逆巻き風が唸り、黒獅子の体が宙に舞う。

「おや、力の加減を間違えたかな」

 薄く笑う。抵抗もできないその様がさも愉快とばかり。どしゃりと、黒獅子が氷原に倒れ伏し、そこへ至ってようやく私たちはしばしの硬直から脱する。

「レーベモン!」

 振り返り名を呼ぶも、応える声はない。ぐ、と一度だけ呻いて、黒獅子は体を震わせる。

「そのまま寝てい給え、闇の闘士よ。セラフィモンの自爆も、まったくの無傷で逃れた訳ではあるまい」

 やれやれと肩をすくめるサタナエル――否、悪夢の魔王・ベリアルヴァンデモンに、黒獅子はただただ悔しげに牙を鳴らすだけ。
 嗚呼、と。言われてようやく気が付く。そうだ、エイリアスであるダスクモンがその存在を維持できなくなったのは、本体であるレーベモンからの力の供給が途絶えたから。それができなくなるほどの状況にあったから。爆発から生き延びたとはいえ、無傷であったはずがない。

「レイヴモン」

 小さく呼び掛ければ、レーベモンと同じ場に残ったレイヴモンは歯噛みして頷く。詳しい話を聞く間はなかったが、どうやら爆発から逃れたというより、直撃だけはどうにか免れたといったところか。
 既に連戦に耐え得る状態ではない。長引けば不利。どころか、今の力量差を見るにあるいはそれ以前の問題か。

「どうするの、インプモン」
「どうもこうも……」

 私が問えばインプモンは振り返りもせず、眼前の魔王を見据えたまま息を漏らす。
 分かっている。答えが一つであることは。サタナエルから感じ取れたあの旋律、この状況。素直に解釈するなら、メルキューレモンを倒してなお変わらず存在し続けるこのセフィロトモンは、既に魔王の掌中にある。ここに、逃げ場などないのだ。退くことが叶わないなら、取るべき手は、生き残る道は一つ。

「決まってんだろ……!」

 逃げも隠れも、小細工を弄するもできぬ、そんな状況への自棄か自嘲か。言い捨てるインプモンの顔に浮かぶのは、どこか吹っ切れたような笑み。
 ぎん、と牙を打つ。

「行くぞ!」

 怒号する。迷うな、躊躇うな、戦えと、鼓舞するように。
 インプモンに一拍だけ遅れ、レイヴモンとラーナモンがそれに続く。そう、もはや戦うしかないのだ。たとえその先に、いまだ光が見えずとも――


 インプモンの指先に点る炎が不規則に瞬いて、虚空に魔法陣を描き出す。魔王・ベリアルヴァンデモンは見世物でも眺めるようにどれどれと目を細めてみせた。

「サモン!」

 まるで棒立ち。警戒心を欠片も見せない魔王に、インプモンは今一度歯牙を鳴らし、一言の言魂をもって炎の魔法陣を解き放つ。舐めるなと、叫ぶように。
 けれど、放たれた業火は魔王の指の一振りにいとも容易く霧散する。それは羽虫でも潰すように造作もなく。僅かに残る黒煙をふっと吹き消して、魔王はにたりと笑う。

「ダークエリアの力を喚起するとは。微力とはいえ、やはり腐っても蝿の王か。くく、少しだけ痒かったぞ?」

 褒めてやろう、なんて、仮面が歪むと錯覚するような醜悪で下卑た微笑。それはメルキューレモンや堕天使に感じたものと同じ……いや、本性を表した今となってはもはや比べものにもならない。吐き気を催す程の嫌悪感を駆り立てる。

「さてお次は」

 ぐりん、とその目がインプモンから逸れ、横合いを向く。黄土色に濁る双眸が捉えたのは、翔ける一瞬に姿を眩まし虚を衝こうと迫る、レイヴモンだった。繰り出される白翼の刃をひょいと二本の指で摘み、

「君が愉しませてくれるのかな、レイヴモン?」

 と、口端を歪める。そして目はまたぎょろりと動く。視線は足元、絡み付く水の蛇の主。

「それとも君かな、ラーナモン?」

 メルキューレモンが変異したあの怪物をも封じたラーナモンの水の檻。しかし魔王はさして気にするそぶりも見せず、視界を遮る水流の一部だけを指先で弾いて、ラーナモンを見下ろす。
 ラーナモンの顔に冷たい色が差す。思わず跳び退くその姿に魔王はまた笑う。高みから弱者を見下すことが実に愉快と、これ以上の愉悦などありはしないとばかり。

「非力」

 ぽつりと言って、腕を振るう。その一撃にレイヴモンとラーナモンは諸共に薙ぎ払われ、距離のあったインプモンさえ余波に吹き飛ぶ。私はベヒーモスにしがみついたまま、ただ呆然とそれを見るしかできない。

「何と脆弱、何と矮小……っ!」

 腕を広げて天を仰ぎ、歓喜に肩を震わせる。己が力に酔いしれるように、魔王の両の目がとろりと歪む。沸き上がる狂気に自ずからその身を委ねる。
 何も生まず、何も育まず、ただ絶望だけをもたらす無価値なる王。それは正に悪夢の権化。この世の影、そのものの姿だった。


「見えるかね、虫けら諸君」

 嘲笑う魔王の周囲に闇がうごめく。あるいはそれこそ黒い羽虫が群れをなすように。

「憎悪、悲嘆、絶望――暗き負の感情のすべてが我が糧となる」

 闇は脈動し、魔王と一つに溶けてゆく。

「分かるかね? 破壊と殺戮を繰り返す度、我が力は際限なく増大する。もはや我が行く手を、阻めるものなどいはしないのだ」

 語る魔王の顔がまた、より一層醜悪に歪む。

「そう、次は……蝿の王の亡骸を手土産に、色欲の王を訪ねるとしよう。女帝陛下の御身をなぶり、いたぶり、弄ぼうか。血に染まる柔肌はさぞや美味であろうなあ?」

 じゅるりと、想像するだけで涎が止まらぬとばかり。どれだけの侮蔑の言葉を並べても足りない程の邪悪がそこにあった。

「下種が……!」

 なんて、インプモンの言葉もこの魔王のほんの一面を形容するに過ぎない。
 魔王は空と地平をゆったりと眺め、低く微笑を漏らす。

「そうして、後少しだ。何処かに眠る怠惰の王を……最後の楔を葬った時、すべては完遂する。光と希望に満ちた世が終わりを告げるのだ」

 朗々と、物語を読み聞かす吟遊詩人を思わせるその口調。語るとともに沸き起こる狂喜に身を震わせる。

「終わり……?」

 よろよろと身を起こし、ラーナモンが問えば魔王は目を見開いて大袈裟に肩をすくめる。

「おお、愚かなラーナモン。よもやいまだ信じていたのかね。この世に秩序と平和をもたらす神の子の復活、などという戯言を」
「……え?」
「その光の半身を討ったのは外ならぬ先代の十闘士だ。今この時、ダークエリアの果て、大罪の門の奥に眠るのは純然たる闇の化身」

 一拍を置いて、深く深く息を吐く。

「それは破滅の申し子。生けとし生けるすべてを無に帰す終末の魔神。神なる世界の敵対者。即ちその名を――“サタン”」

 告げられた真実にラーナモンが震える。自分は、そんなものの片棒を担がされていたのかと。ぎり、とインプモンが歯列を軋ませる。

「馬鹿馬鹿しい! そんなもんの復活に何の意味がある!?」
「意味? ああ、そうだな……汚れた世界の浄化、とでも言っておけば尤もらしいかな?」

 わざとらしく首を傾げて、魔王は冷笑する。

「てめえは……!」
「無駄よ、インプモン」

 いきり立つインプモンを止める。言葉に意味などない。

「もう――疾うに壊れてる」


 足元が覚束ない。視界が霞む。頭が、痛い。
 いつかと同じその感覚。どこかで響くその旋律。耳鳴り。不協和音――いいや、違う。
 それは叫び。救いを求めて喉を枯らす、悲痛な慟哭。苦しんでいるのだ。悪夢の魔王のその糧となったすべてが。助けてくれ、ではなく、殺してくれと、そう懇願しているように聞こえて、私は静かに泣いた。胸には刺すような痛みが走る。
 土台、無理があったのだ。歪みを集めて生き物らしきものを作ろうと、命を繕うと、それはただ大きな歪みに過ぎないのだから。

「おお……感じるぞ」

 嗚呼……聞こえる。

「絶望に澱む心の闇が」

 歪みに軋む命の音が。

「そのすべてが我が血となり肉となる」

 そのすべてが彼の血を汚し肉を蝕む。

「理解できているかね。我が力を、我が存在を!」

 自覚できているのか。その間違いを、矛盾を。
 否、できるはずもない。だからこそ彼は“ベリアル”と――“無価値”の名を冠してこの世に生まれ落ちたのだ。

 憐れみ、だろうか。私の中に芽生えたこの感情は。
 滅びるがために生まれ、滅びるがために戦い、滅びるがために死ぬ。憎悪と絶望を撒き散らすだけの、価値なき不必要悪。その誕生は誰に祝福されることもなく、その勝利は誰に称賛されることもなく、その最期は誰に惜別されることもない。
 そんな存在を目の当たりにして、私はただ涙する。深く、深く心を沈めて、鎮めて、膝を抱えてむせび泣く幼子のように。もう何も聞きたくなどないと、耳を塞ぐ。そうして――不意に気付く。この鼓膜を震わせる、心に響く小さな音色に。

「終わりにしよう。そうここが、この無明の闇が君たちの終着点」

 ようやく出会えた。理解した。この薄闇の夜が私たちの出発点。

「さようなら。勇猛にして賢明なる虫けらたちよ」

 にたりと笑う魔王。牙を剥く砲口。そんなものには目もくれず、名を呼んで、手を伸ばす。
 いつか言いそびれた言葉を交わそう。いつかできなかった握手をしよう。

『はじめまして』

 どちらの口から出た言葉だったろう。あるいは、口にはしなかったかもしれない。お互いに、素直じゃないから。ね、そうでしょう?
 間隙に、逃げてと叫ぶマリーたちの声が遠ざかる。迫る破壊の火の熱が空に消える。冷たい風が、頬を撫でた。

 翡翠の瞳が優しく笑んで、そして――ここに魔王は、舞い戻る。



>>第十四夜 翠星のアジュール