第十二夜 碧落のプラネット
12-1 英雄の物語
「すまない」
遠く荒れ狂う轟音と爆風がやがて終息の兆しを見せ始めた頃、そんな弱々しい声は私の耳元から。ぐ、と小さく呻き、彼はうなだれる。その手が私の肩から滑り落ちるように離れた時、ようやく自分が彼に、ダスクモンに抱えられていたことを理解する。
半ば呆然としたまま、辺りを見渡す。氷に覆われた大地、凍てついた空。見覚えのないはずが、どこか見覚えのある白銀の氷原。時間にして僅か半日ほどの間に二度にも亘って姿を変えたそこは、枯れた森と、そう呼ばれていた場所。
「セフィロトモンの結界を越えるには時間も余力も足りなかった……!」
無念だとばかりに、言ったその声にはノイズが掛かる。
「ダ、ダスクモン!?」
振り返ればその姿が徐々に黒い粒子へと変わる。それが何を意味するのか、私は知っていた。けれど、
「心配するな。ただのエイリアスだ」
肩を叩いて言う。穏やかなその声は、慌てる私を気遣ってだろう。ダスクモンは私の後ろへ目をやって、
「お前と違ってな」
と、そう続ける。口元は微かに笑んでいるようにも見えた。その言葉と視線に振り向く。私とダスクモンからは少し離れた場所に、ふん、と鼻を鳴らす小生意気な姿を見付けて、私は思わず息を吐く。
「随分乱暴なエスコートじゃねえか」
私と違って衝撃に投げ出されたのか、頭をさすりながらインプモンは立ち上がる。ふ、と今度ははっきりと笑い、ダスクモンは肩をすくめた。
「生きているなら御の字だ。悪いが、これ以上は手を貸してやれそうにない」
言いつつ、声は掠れ、その体は粒子となって散っていく。
「お前たち三人で、どうにか脱出を……必ず、機は――!」
最後の言葉は、冷たい風に紛れて消える。
息を飲む。心臓が凍るような錯覚。ただただ虚空を見詰める。そんな私の背中を、少しだけ強くインプモンが叩いた。
「落ち着け。言ってたろ、エイリアスだって。本体が死んだとは限らねえ」
希望的観測、だとは思った。けれど口には出さない。私は甘く唇を噛んで、無言で頷く。そんな私にインプモンは小さく息を吐き、僅か視線を逸らしてそれよりと続ける。
「三人、とか言ってやがったな」
「え?」
逸らした、のではなかった。インプモンが見ていたのは私の隣。ううんと唸り、身を起こした“三人目”に思わず、目を丸くする。
「あなたは……」
よくよく見れば私のすぐ隣。気付かなかったのは今の今までダスクモンの陰に隠れていたから。ダスクモンの右腕に私とインプモンが抱えられ、左腕には、彼女が抱えられていたのだろう。私はそんな彼女からインプモンへと視線を移し、しばし、眉をひそめる。
「……誰?」
私の問いにインプモンは頬をかく。
起き上がるその姿に、見覚えはまるでない。なぜならそれはどう見ても、
「人間、か」
呟きか、問い掛けか。ぽつりと言ったインプモンに、彼女は何とも気まずそうな顔で目を向ける。
年の頃は私とそう変わらない。もしかすると少し下、中学生くらいだろうか。レインコートに似ただぼだぼとした外套を着込み、フードの裾から覗く長い三つ編みが特徴的な――人間の、少女。
「大体想像はついてるが一応聞いとこうか」
そう前置きをして、インプモンは少女の顔を覗き込む。
「お前は、誰だ?」
問われて少女は僅かの沈黙を置き、はあ、と溜息を吐く。私に一瞥だけを寄越して、目前のインプモンに視線を戻す。そしてぽつりと、
「ラーナモン」
とだけ。見覚えのない少女が名乗ったのはそんな、デジモンとおぼしき聞き覚えのない名前。
「ラーナモン……?」
いや、違う。
声に出して気付く。私はどこかでその名を聞いている。記憶を辿り、そうして程なく。はたと、思い出すのは堕天使の言葉。
「それって……あの半魚人みたいな子?」
「は、半魚人?」
地下室にレーベモンとともに現れた青い肌の少女。確かにラーナモンと呼ばれていたあのデジモンの姿を重ね、問う私に、なぜか当人のほうが驚きの声を上げる。
「ちょっと、誰が半ぎょ……!」
「そうだ、こいつがあの時のデジモンだ」
「ちょっと!」
何やら騒がしい少女にも構わず、インプモンはこくりと頷いてみせる。
「古代十闘士からスピリットを受け継いで、ルーチェモンを倒したのは人間の子供だったとか、嘘くせえ話は聞いたことあったが……」
そんな荒唐無稽な話がまさか事実だなんて、と。眉をひそめて自分を見るインプモンに、少女は小さく唸り、そしてまた溜息を零す。
彼方の空へ目をやって、唇を噛む。その瞳に戸惑いと、悲しみの色を薄く差して。
「そうよ。あたしたちは“選ばれし子供”。この世界を救うためにって、そう言われてここまで来たの」
そして、彼女は語る。
ほんの数ヶ月前、彼らは何の変哲もないただの子供だった。
きっかけは一通の電子メール。それは運命を変える、聖戦への招待状。神に見初められし子羊たちの王・ホーリードラモンから、選ばれた三人の子供たちへの。
「選ばれし子供……人間の世界からやって来た救世の英雄たち、か。お前が、そうだって?」
インプモンの問いに少女は、どこか躊躇うように頷いて、
「そう聞いてる、けど」
と、伏し目がちに言う。その大義名分へ疑心を抱くように。自分たちの戦いに、本当に正義はあったのだろうかと。
「魔王を倒して、神様を助けるんだって。そう言ってた」
視線は足元へ落とし、言った少女の声に力はない。インプモンはぽりぽりと頬をかき、少し困ったように眉をひそめる。
「まあ、別に間違ってもねえが」
「魔王だしね」
「それよりそっから何をどうすりゃああなるんだ?」
とは、彼方の空を仰いで。少女は眉を八の字に歪めて顔を上げる。
「そんなの、あたしだって何が何だか。メルキューレモンは、あたしを……」
言い辛そうに詰まらせる。と、継ぐようにインプモンがぽつりと、
「道連れに自爆」
突き付けられたそんな言葉にびくりと小さく震える。
「しようと、したように見えたが」
少女はぐうと一度だけ唸り、押し黙る。反論の言葉はなかった。あるはずもない。それが事実なのだから。
一人の仲間は敵を討つために自分さえ巻き添えにしようとし、一人の仲間は敵だったはずの魔王ごと自分を助けた。
「正義の在処、か」
不意に思い出すのはそんな、堕天使の言葉。
「あなたは、これからどうするの?」
「どう、って……」
「少なくとも今この場で一戦交えようなんて気はねえだろ」
少女は答えない。が、それが無言の肯定であることは一目で分かった。その顔に、戦意はまるで見て取れない。私は短い思考を置いて、
「行く当てがないなら、一緒に行く?」
と、言えば少女は目を丸くする。私は構わず続けた。
「こんな所で悩んでいたって仕様がないし。お互いまだ聞きたいこともあるでしょう?」
少女は、口をへの字に曲げてしばしの沈黙。ややを置いて、小さく頷いてみせる。
「よかった。ならこれからよろしくね。ええと……」
少女はぷいとそっぽを向きながらも、差し出した私の手を取る。
「マリーよ。よろしく」
「マリー?」
告げられた名を聞き返せば少女は少しだけ不機嫌そうに顔をしかめる。
「あたし、本名あんまり好きじゃないの」
なんて素っ気なく。まだ信用したわけじゃない、とでも言いたげに。まあ当然と言えば当然か。なにせこちらは魔王様連れだ。
「じゃあ、マリーさん?」
「マリーでいい」
「そう。ええと、私は日向。こっちはインプモン。改めてよろしくね、マリー」
もう一度手を握り、真っ直ぐにマリーを見る。大きな瞳が私を見詰め返す。マリーは口を尖らせながらも頷く。
「インプモンも、別にいいでしょう?」
「いいけど……そういうの事後承諾って言わね?」
相変わらずぐちぐちと小さなことにうるさいインプモンを、はいはいと流して氷原の彼方を見遣る。
「ともかく、そうと決まれば早く行きましょう。もう、長居は無用なはずだし」
「木っ端微塵になっちまったことだしな」
そう、インプモンは自嘲めいた笑みを浮かべて、すたすたと歩き出す。
「意外に冷静ね」
とはマリー。インプモンの背中を追いながら、小さく肩をすくめる。本当にね、と。二人の後を少しだけ遅れて、私は胸中で呟く。
歩きながら、視線を掌へ落とす。氷片に触れた指先にはまだ、その冷たさが微かに残る。そんな気がした。
記憶を辿れば溜息が零れる。深く、静かに。潜入と奪還。結局私たちはその目的を果たすことができず、物の見事にしくじってしまったわけだ。それももう、取り返しのつかない最悪の形で。
はあ、とまた溜息を吐く。そんな時。
「ねえ、なんか聞こえない?」
マリーの声に視線を上げる。前を行く二人は立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回す。耳を澄ませば、確かに遠く唸るような音が聞こえて――
「インプモン、これ……!」
「ああ」
聞き覚えのあるその駆動音に、インプモンは小さく笑って肩をすくめる。しょうがねえ奴だな、なんて。
「ちょっと、何なのよぉ?」
思わず駆け出す。音は次第に大きく、やがてその音源が私の目にもはっきりと見えるまで近付いて。そうしてマリーが、眉をひそめる。
「ベヒーモス!」
名を呼んで、駆け寄れば黒鉄の唸りが応える。
「着いて来てたの?」
「みてえだな」
「ねえ、ちょっと……」
訝しむマリーを余所に車体を撫でる。再会を喜ぶような甲高い鉄の咆哮が、冷たい空に鳴り響いた。
12-2 逆賊の物語
遠く、いななきを聞いた気がした。
目を覚ませばそこは静かな湖畔。半ば凍り付いた湖のほとりで、半身を冷たい水に浸して雪原に横たわる。辺りを見渡そうと体を起こす。否、起こしかけて、ぎ、と呻く。
どうにも体が言うことを聞かないらしい。凍えたわけではない。この機械の体には元より体温などないのだから。動かないのは、その機械が壊れかけているだけ。このポンコツが、と。毒づいて、溜息を一つ。
だが、まあいい。状況は大体分かっている。エルドラディモンの背の上、戦場のど真ん中で起こった爆発。その赤黒い炎と爆風に、羽虫の如く叩き落とされたという、ただそれだけのことだ。
やったのはアポカリプス・チャイルドの隠し玉か。遠目に見えたのはやけに禍々しい姿だったが、光と闇の王たるルーチェモンの配下ならば、闇に属する者が混じっていようと不思議はない。いや、戦況からしてまったくの別勢力の介入も考えられるか。まあ、どちらにせよ――
「負けた、か」
機械の体に備わった自己修復機能が、思考と視力に次いで言語能力を復旧させる。そうして最初に発したのは、そんな言葉。声は穏やか。無感情というべきだろうか。
体が動くにはまだ時間が掛かる。だがもう、急ぐ必要はあるまい。あの爆発で魔王の肉体がどうなったかは知らないが、もはや手遅れであることだけは間違いない。
そう、負けたのだ。切り札を失い、仲間は……嗚呼、自分でさえこの有様だ。仲間もきっと、失ってしまったのだろう。昔と同じ。また負けて、また自分だけがおめおめと生き延びた。勝利の女神にも死に神にもそっぽを向かれた、惨めで憐れな敗北者。この身には勝利の栄光も名誉の戦死も与えられはしない。なんと無様な道化か。
知らず、零れたのは自嘲。誰彼構わず当たり散らしたいところだが、そんな元気もなければそんな相手も見当たらない。静かな溜息を吐く。もう一度だけ周囲を見遣る。
「嗚呼」
少し、疲れた。
自由に動くのはまだ首から上だけ。これから何をすべきかもまだ分からない。だから、少しだけ。少しだけ眠ろう。
この道化が踊るだけの、茶番劇の幕を少しだけ下ろそう。そして、夢を見よう。少しだけ。少しだけでいいから。悪夢でも構わないから。
ゆっくりと瞼を閉じる。暗幕を引くように。そうして道化は――ダークドラモンは、夢と言う名の幕間へとその意識を沈める。
闇の中で目を覚ました。
背には翼、手には槍、その胸には闇を携えて。目覚める前の記憶はない。ただ、自分という存在が以前とはまるで別物へと変異したことだけは理解できた。進化というより、新生と呼ぶべきほどに。
生前の戦いで半死半生の傷を負い、それでも生き延びた褒美だと、与えられたのがその命。記憶の喪失は進化に際して膨大な暗黒物質を取り込んだ弊害であろうと、主は語った。己の存在さえ不確かなこの身に唯一残っていたのは、その方への忠誠心だけ。すなわち我が主君、強欲の魔王・バルバモン様への。
名を与えられた。闇の竜・ダークドラモンと。地位も与えられた。魔王直属の護衛騎士団、その大軍勢を統率する指揮官という、身に余るほどの栄誉だった。
戦った。主の理想のために。一度は屍同然となったこの身にそれ以外の存在意義などなく、必要もなかった。戦って、殺して、壊して、また戦った。
そして、敗れた。
戦いの中でではない。戦うこともできずに、だ。
翼を持たぬ者では近付くことも叶わぬ、遥かな空にそびえる天空の城。守護するは、遠征に城を離れていた部隊を除いてさえ数千を数えるほどの騎士団。その警戒網を容易くかい潜り、それは現れた。
否、あるいはその言い回しも正しくはないのかもしれない。何せただの一人も、その姿を見てはいないのだから。
騎士団には目もくれず、音もなく、その姿なき侵入者は標的を――魔王を討ってみせた。騎士団がそれを知るのは主の断末魔を聞いてから。目にしたのは、両断された空の玉座だけ。直後、魔王の支配下にあったはずの魔獣たちが暴走を始め、混乱の中、騎士たちは自らの敗北を悟った。
後は酷いものだ。
魔獣の鎮圧などという、騎士団にとって余りに馬鹿げた最大最後の戦いは、流れ弾に動力が損傷したことによる天空城の墜落をもって幕を引く。
主も、城も、目的も失って、生き延びた騎士たちもやがて散り散りになった。
空虚。そんな言葉が相応しい。
迷い、惑い、彷徨った。意思もなく、意志もなく、遺志もなく、動くだけの屍だった。
敵討ちを、主の弔い合戦を考えなかったわけではない。ただ、戦うべき敵も見えず、目指すべき場所も知らず、果てのない復讐の旅の中、やがて屍が腐りだしたという、それだけのこと。復讐の炎はこの身を焦がしてもくれず、静かに燻った。
彼らと、出会うまでは。
巡る、巡る、追憶の第二幕はその出会いから。
アポカリプス・チャイルド――二人の騎士が口にしたその名に、聞き覚えはなかった。彼らは語る。それは魔王討伐を至上目的とする天使たちの軍勢だと。そしてそれは、この当て所なき旅の白地図に、初めて刻まれた印でもあった。
どこまでも不確かに滲む印は、まるで白紙に落ちたインクの染み。確証はない。それが探し求めた敵であるか否かなど。けれど、それでもよかった。元より雲を掴むが如きこと。何よりもう一度、生きる目的ができた。
三騎士はゼブルナイツを名乗る。
強欲の魔王の腹心として顔も名も売れていた自分が表立ち、残る二人は秘密裏に動くことになった。提案したのは外でもない自分だ。矢面に、立ちたかったのだ。
当初は諜報に専念した。戦いにおいて情報が如何に大きなウエイトを占めるか、惨めな敗北に嫌というほど思い知らされた。知るべきは敵の戦力と動向、そして、散らばったかつての同胞たちの行方。何をするにも、仲間は多いに限る。
軍拡に時間はそう必要なかった。落ちぶれた魔王軍は盗賊団として名を馳せていた。野盗以下の生きた屍だった自分にいい顔をしないもの、ゼブルナイツの目的を知ればなおのこと協力はできないというものもいたが、それでも十分過ぎる頭数が揃った。
面白い仲間もできた。かつて選ばれし子供に討たれた魔王・デーモン配下の生き残りたち。出会いは互いに予期せぬまったくの偶然。これも運命だと、物は試しに口説いてやった。それも一興と、意外にも奴らは首を縦に振った。
三人ばかりの騎士団は、そうしてやがて数千を数えるまでになった。ゼブルナイツの名も徐々に知れ渡っていく。そして、水面下でもう一つの計画も進む。それこそが我らの真の目的。我らが、ゼブルナイツを名乗る理由。騎士は騎士でしかなく、王ではない。だから我らは王を欲した。
すなわち、騎士たる我らの新たなる王を迎えること。
魔王あるところに火種があった。戦乱は我らが生まれる遥か以前から。戦史の中に四柱が倒れた。そして今、残る三柱を討つべく天使たちが動き出したのだ。
使者を送った。色欲の魔王へ。今は亡き主も一目を置いていた女帝。彼女ならばと、騎士団の総意だった。だが、肝心の女帝陛下にその気がまるでなかった。それどころか使者にこう言ってのけたのだ。
もっと、相応しいものがいる、と。
強欲と憤怒。二柱の魔王の軍には、同じタブーがあった。奴に、リリスモンにだけは手を出すな、と。
リリスモンに関する噂話は妙なものばかりだ。城の近くを通り掛かったらなぜか突然晩餐に招待されただとか、雑事を押し付けられたが褒美にと財宝を貰っただとか。魔王でありながら、血生臭い話は一つもない。
だが、その理由は少し考えれば分かること。魔王は悪だと討伐に向かったどこぞの正義感溢れる勇者様も、ただただ力試しに挑んだ少しばかり腕に覚えのある猛者も、血生臭いことをしに行った連中は例外なく、誰も生きて帰って来なかったという、それだけの話だ。
そんなリリスモンだからこそ思慮深き二柱の魔王は手を出さず、だからこそ騎士団も王に相応しいと、そう考えた。だと言うに、当の本人は自分よりもと他者を推した。
孤高の、と。そう呼ばれる魔王がいた。
ゼブルナイツの誘いを笑い飛ばしたリリスモンが、代わりに名を挙げたのは暴食の魔王・ベルゼブモン。それは戦いに狂った凶弾の撃ち手。死を貪るが如きその様を指してか誰かがこう呼んだ。蝿の王、と。
名は知っていた。七柱の魔王の中で最も若く、それゆえに未知数。配下を持たず、目的も持たず、戦うために戦う狂戦士。なんて、風の噂に聞いたそんな話に不安がなかったと言えば嘘になるが、このならずものどもを束ねるには確かに相応しいとも思った。
だが、その矢先だ。
居城すら持たぬ流浪の魔王。その行方を捜していたのは、自分たちだけではなかった。そう、アポカリプス・チャイルドだ。一足違い。ほんの半日だった。我々がようやく所在をつかんだその直後に、戦いは始まってしまった。
辿り着いた頃には後の祭り。残っていたのは、荒野に刻まれた戦いの痕跡だけ。勝敗は分からない。けれど探した。探して、探して、そして見付けたのだ。
無様に敗れた、氷漬けの魔王を。
怒り。悲しみ。失望。無力感。どれも少しずつ正しく、僅かずつ違う。そんな感情だった。
奇襲を掛けた。こんな形で奴らと開戦しようとは思ってもみなかったが、それは奴らも同じだろう。驚くほど呆気なく奇襲は成功し、我々は魔王の肉体を手に入れる。そしてこれが、ゼブルナイツからアポカリプス・チャイルドへの、宣戦布告となる。
こうして戦いは始まったのだ。王なき騎士団の、弱き王など必要とせぬ、誇り高き騎士たちの、戦いが――
12-3 傀儡の物語
荒れ果てた地はまるで星でも落ちたよう。追憶に浸る闇の竜がそっと瞼を閉じた頃、戦場を見下ろす遠く高き地で彼は歯牙を軋ませる。闇の竜の存命に、ではない。この小さき世界を掌握する彼にとって、生存者を見付けることも始末することも造作もないことだが、そんなことは、今はどうでもよかった。死に損ないも屍も、等しく敗者に過ぎないのだから。
問題は、そんな瑣末なところにはない。なぜだ、と。闇の中で誰にともなく問うも、答えるものはいない。傍に控える白妙の天使・サタナエルは自我なき傀儡に過ぎず、多くの元仲間たちは眼下の戦場で吹き飛ばしてやった。いや、誰がこの場にいようと答えられるはずもないのだが。
戦場の氷原へ目を向ける。虫けらの生き死になど誤差に過ぎない。だが、誤差では済まない大きな誤算があった。
いや、誤算と呼ぶべきかも定かではない。誰が自分の邪魔をしたのか、それさえいまだ推測の域を出ないのだ。
こんな真似ができるのは、間違いなくあの場にいた誰か。知覚端末であったブラックセラフィモンを自爆させたことで、戦場から目を離さざるをえなくなったあの瞬間。セフィロトモンからのスキャンによって再び戦況を把握するまでの僅かな空白の時間。その数秒に、事は起きたのだ。
勝利を確信していたこの私の手から、戦利品だけを奪い去る、そんなふざけた悪あがき。
誰だ。どこだ。どこにいる……!
爆発の瞬間に観測した空間の揺らぎ。セフィロトモン内部で行うエリア間の転移に似たそれ。恐らくは現在地と遠隔地を繋ぐ限定的なゲートを開く、テレポートのような能力。
あの瞬間、あの場から、爆心地から逃げ延びたのは――
「ミツケタ……!」
会話自体を想定せず、ろくな言語能力を備えていなかったがゆえの不格好な機械音声で、激情と歓喜の混じる笑みを漏らす。
そうか……お前だったか!
目標を捕捉し、同時、闇の中に一つのアーティファクトが浮かび上がる。鏡の貴人に似たそれは、自爆の寸前に回収した鋼のヒューマンスピリット。幾ら屍を操れるとはいえ、データそのものを消し飛ばすあの自爆技に巻き込まれてはそれも叶わない。自分にとっても切り札の一つであったセラフィモンを失った今、使える手駒は限られているが――いいや、十分だ。
捕捉した座標へ向けてゲートを開く。
さあ、もう逃げ場はないぞ。虫けらども……!
構築される。闇の中、鋼のヒューマンスピリットを核に、鋼のメルキューレモンの名を冠する傀儡が。
ぎゅ、と拳を握る。確かな感触。リアルな五感。自分自身の体と見紛うほどに。セフィロトモンをベースにしている今、メルキューレモンは単なる端末に過ぎず、この体は言わばエイリアスのようなもの。なのだが――
「何だ……?」
機械音声ではない。確かな発声機関を備えたメルキューレモンの体で、零したそれは人の声。口にしたのは、得体の知れない違和への疑問。
何かがおかしい。何か、何かを見落としている?
疑問は湧けど、答えは霧のようにこの手をすり抜けていくかのよう。戦況の分析、戦略の立案。否、それよりもっと、根本的な部分に。何か、あまりにも大きな間違いがある。そんな気がしてならない。
セフィロトモンとしてのみ存在していた先程までは感じなかった何か。メルキューレモンという、人に近い姿を取ったせいか。獣と人の間を行き交うことによって生じた歪みのようなものだろうか。頭の中、奥底にもやが掛かる。そんな感覚。
「如何されましたか」
サタナエルの声にはっとなる。気付けばメルキューレモンの肉体もゲートも、構築はとうに完了し、後は主である自分の意を待つばかり。
「何でもない」
少しだけ語気を強めて返す。
ただの思考のノイズだ。セラフィモンの操舵に多少無理をした影響だ。と、そう自分に言い聞かせるように、纏わり付く何かを振り払う。
アポカリプス・チャイルドも既に我が手中。邪魔者はすべて片付けた。我が道を阻むものは、もういない。後少し、ゴールは目と鼻の先だ。何を迷い、何を躊躇う必要がある?
「さあ行くぞ、サタナエル」
今一度、感触を確かめるように拳を握る。目前に構築された光の扉へ手を掛ける。傍らに控えるサタナエルが、片膝をついたままに小さく頷いた。
光の扉の、ゲートの先には氷原を疾走する最後の敵。出口などないこの袋小路の中をどこへ逃げようというのか。その滑稽な姿さえ、どうしてか嘲笑する気にもなれない。脳裏に浮かんだ誰かの顔をもやの奥へと押し込めて、メルキューレモンは光の道へ一歩を踏み出す。
「後少し……私が、王となるのだ……!」
選ばれし英雄として。
そんな後ろ姿を舐めるように見据え、誰かが闇の中でにたりと笑う。メルキューレモンが気付くことは、ついぞなかった。
12-4 日陰の物語
「ねえ、何か見える?」
疾走するベヒーモスの上で、風の音に紛れぬようにと声を張る。先端部に陣取るインプモンは、問われて振り向き肩をすくめる。さっぱりです、とばかり。
「マリー、本当にいるの?」
今度は後ろを振り返る。ちょうど私と背中合わせの形で、後部座席のマリーは空を仰ぎながらどこか投げやりに、
「多分」
なんて、覇気のない声で答える。はあ、と溜息を一つ。続けた言葉も力弱い。
「“鍵”は外に持ち出せない、って、言ってたと思うんだけど」
セフィロトモンの各エリア間、あるいは内外を繋ぐ扉、その“鍵”はこの氷原のどこかにあると、マリーのあやふやな記憶を信じてこうして走り回っているわけだけれども。
「デジモンが持ってる、と思う。他のエリアじゃそうしてたから」
外には持ち出せない鍵を所持しているデジモン。つまりは、水の森が飲み込まれる以前からここにいたもの。水の森には、いなかったものがそうだということ。しかし……、
「当てはないに等しいな」
ぽつりと零したインプモンの言葉はもっともだ。分かっている。分かっているとも。
「言わないで。くじけそうになる」
「……そうだな。悪かった」
そうして三人同時に、深く深く溜息を吐く。果てしない氷原を見渡して、しばし。かくりとうなだれる。
そんな時だった。風の唸りを切り裂くように、いやにはっきりとしたその声が私たちの耳元で冷たく笑ったのは。
瞬間、背筋に走る悪寒。早鐘のように心臓が高鳴る。
「止めろ!」
インプモンが叫んで、ほぼ同時にベヒーモスはタイヤを横這いに滑らせながら急停止する。思わずつんのめり、ハンドルにしがみついて顔も上げられない私を余所に、ベヒーモスから飛び降りたインプモンが虚空を睨みつけて指先に炎を点す。数秒遅れて私も続く。
「誰だ」
声はすれども姿の見えぬ敵に問う。けれど応える声はない。静寂の中でマリーが誰にともなく呟いた。
「今のは――」
と、言葉はそこで途切れ、代わりに小さな悲鳴が漏れる。慌てて振り返る私とインプモンが目にしたのは、音もなく現れた追っ手と、首を絞められ喘ぐマリーの姿だった。
「マリー!」
「探したよ、虫けら諸君。さあ、返してもらうぞ……!」
言葉には静かな怒り。唇だけの顔を歪ませて、追っ手は――鏡の貴人・メルキューレモンは吠える。
「かえ……す?」
自らへ向けられたその言葉に、苦悶に呻くマリーはしかし、より一層眉をひそめるばかり。
返してもらう、と。確かにメルキューレモンはそう言った。言ったが、一体、何の話をしている?
「力ずくがお好みであればそうさせてもらおうか」
仲間と戦うことへの迷いゆえか、ほとんど無抵抗のマリーに、けれど対するメルキューレモンはまるで容赦がない。マリーの手から無理矢理に何かを奪い取り、かと思えばもはや用済みとばかりにマリーを放り出す。
倒れ伏し、苦しげに呻くマリーに駆け寄る。
「どうして……あなたも人間なんでしょう!?」
そんな私の非難もどこ吹く風。マリーから奪い取った何か――青い、小さな端末へ視線を落としたまま、メルキューレモンはこちらの声が聞こえてすらいないかのよう。
「何で、こんな……」
「なぜだっ!?」
私の腕の中で嗚咽とともに苦しげにマリーが問う。と、そんなか細い声を掻き消すようにメルキューレモンが叫ぶ。端末を握りしめ、小刻みに腕を震わせる。
私たちにとってはもう何が何だか、訳が分からない。ただ、何かがあいつの、思い通りには進んでいないのだ。
メルキューレモンは忌ま忌ましげに端末を地面に叩きつける。見た目より随分と頑丈なそれは乾いた音を立てながら氷の上を数度跳ねる。そうして、ぎろりと、目のない顔が私たちを睨み据える。
「こっちだ!」
瞬間、インプモンの放つ炎が横合いから飛来する。が、メルキューレモンは見向きもせず、無造作にかざした鏡の盾で炎を跳ね返す。既に一度受けた反射技。まともに喰らうインプモンではなかったが、回避に一歩退いたその僅かな遅れの間に、メルキューレモンの手が再度マリーの胸倉をつかむ。私の抵抗などあってないようなものと、無理矢理に。
尻餅をつく私の目の前でマリーが宙づりになる。
「ヒナタ!」
見ていることしかできない私にも、駆け寄るインプモンにも一瞥すら寄越さず、ただただマリーだけを見据えて、メルキューレモンは激昂する。
「どこだ……どこに隠した!?」
目の前にいるのがか弱い人間の少女であることも忘れたように、激情の牙を剥き出しに叫ぶ。
「さっきから何を――」
我を忘れて怒り狂う。その姿も続けた言葉も、私たちには不可解極まりないものだった。
「魔王の体は、どこだと聞いているんだ!?」
日の当たらぬ道を歩いてきた。日の当たる場所を目指して。闇に臨むこの道は、光を望む道だと信じて――その、はずが。
「どこだ!?」
凍える空に怒号がこだまする。メルキューレモンの不可解な言葉を反芻し、困惑する頭をどうにか冷やす。私たちは、少しの沈黙を置いて小さく声を漏らす。頭の上には疑問符を浮かべたまま。
「魔王の……体?」
声に出してまた繰り返す。
魔王の体を、返せ?
「一体、どこへ……答えろ、ラーナモン!?」
不可解で、理不尽な怒り。その矛先を向けられた当のマリーは苦しげに呻きながら、ただ、
「知ら、ない……」
とだけ。言葉は途切れ途切れ、意識も既に朦朧と、嘘を吐けるような状態には到底見えない。
メルキューレモンの唇が悔しげに歪む。その手からゆっくりと力が抜けて、締め上げられていたマリーの体がどさりと氷原に倒れ伏す。マリーは首を押さえて鳴咽を漏らす。
私は、小刻みに震えるマリーの肩を抱いて、目前のメルキューレモンを見上げる。鏡の貴人はまるで彫像のように、棒立ちのまま微動だにしない。
「あなたじゃ、ないのね?」
恐る恐る問うも、答えはない。
サタナエルと呼ばれた天使に砕かれ、奪われたはずの魔王の肉体。だが、奪ったはずの張本人がその行方を探している。一体、何が起きている?
「考えられるとするなら――」
戸惑う私たちの頭上から、そんな声が降る。はっと、仰げばいつの間に現れたのか、白妙の天使・サタナエルが私たちを見下ろしていた。
サタナエルはゆっくりとメルキューレモンの傍へと降り立ち、
「セラフィモンの自爆に、巻き込まれたとしか」
そう、言葉を続ける。メルキューレモンはサタナエルを一瞥し、黙したままに再びいずこかへ視線を逸らす。先程までの動揺はもはやない。言われるまでもなく、とうにその結論に達していたかのように。
沈黙。永遠にも思えるその時間は、実際にはほんの数秒だったろう。
「――“ラーナモン”」
やがて、静寂を破ったのは虫が鳴くようなか細くか弱いそんな声。零したのは、マリーだった。自らの名を、誰にともなく譫言のように。
「ねえ……」
「え?」
「ちょっと、それ取って」
マリーの細い指が差したのは、氷の大地に転がる青い端末だった。
「マリー?」
「下がってて。ここからは、あたしの戦いよ……!」
「戦うと、そう言ったかい、ラーナモン? 君如きが、この私と?」
ふらふらと立ち上がるマリーに、メルキューレモンが浴びせたのはそんな冷笑。構わずマリーは、私の拾い上げた青い端末を手に取って、強く真っ直ぐな眼差しを向ける。
「“マリア”――大袈裟であんまり好きじゃないから、呼ぶなら“マリー”って、そう言ったよね」
唇を噛む。マリーの目に浮かんだのは悲壮の色。けれど対するメルキューレモンはそれがどうしたとでも言わんばかり。マリーは、手にした端末を握りしめて、片手をそっと胸に置く。
思い出すのは仲間のこと。デジモンである自分を“ラーナモン”と呼び、人間である自分を“マリー”と呼んだ、仲間のこと。
「あたしも今、同じことを聞きたい気分よ」
もう一人の仲間が問うたと、同じことを。
「あんたは、誰なのよ……!」
マリーの手に淡い光が点る。光は粒子となって渦を巻き、やがて光の帯を形作る。瞬間、マリーは青い端末をかざす。左手にほとばしる光の帯と、右手にかざす端末が触れたその途端、弾けるように光が膨れ上がる。肥大化する帯は繭の如くマリーを包み込み、その身を覆う。光の中、旋律が変調していく。
ただ一度、一際強く輝いて。もつれた糸を解くように光の帯が虚空へ散る。
「答えてもらうわよ!」
光が収束し、そこに在ったのはもはや人間の少女ではない。大きく姿を変えた、否、進化を果たしたその名を“水のラーナモン”。英雄の血脈に連なる十の闘士が一人。
眼差しは強く、エメラルドの目に宿るのは義憤と決意の灯。握りしめた拳は迷いを打ち砕くように突き出して、その身に戦意をたぎらせる。
「いいだろう、愚かなラーナモン。弁えるべき分を教えてやる」
初めて、明確な敵意をもって自らの前に立つ、その姿にさえメルキューレモンは嘲笑を浮かべる。
マリーは――いや、ラーナモンはそんなメルキューレモンを射殺すほどに睨み据え、氷の大地を駆ける。踊るように刻む不規則なステップは、見惚れるほどに流麗でありながら、見失うほどに俊敏。正しく瞬く間に、メルキューレモンへ迫り、ラーナモンは跳躍する。
消えた、と。目前であればなおのことそう錯覚するほどの機動性。しかしメルキューレモンは即座に鏡の盾を真上に構え、同時、ラーナモンの飛び蹴りが鏡面を叩く。刹那の間隙。交わす視線が、火花を散らす。
>>第十三夜 翡玉のヘスペラス