第十一夜 紅蓮のコキュートス

11-1 黒死の天使


 カツン、カツンと石畳を叩く硬質の足音が暗闇に反響する。誰もいない、いなかったはずの氷柱の影から姿を現したのは、鏡の鎧に身を包む異形の怪人であった。

「第三の選択肢、という手もある。ふふ」

 鏡の怪人は三本の指を立て、薄く笑う。

「命さえ諦めるという、選択がね」

 口紅で描いたような唇しかない、鏡で覆われたその顔が笑みの形に歪む。表情らしい表情もろくに無いはずなのに、どこまでも凶悪に、醜悪に、まるでこの世のすべてを侮蔑するかのような、そんな顔。
 ぞぐりと、背筋に氷の這う錯覚。それは地下室を満たす冷気のせいなどでは決してない。全身の毛が逆立ち、心臓が警鐘を鳴らす。目前の闖入者の正体はもはや問うまでもない。“敵”と、ただその一言だけでいい。

「下がれヒナタ!」

 だん、と石の床を叩く一歩とともにインプモンは指差すようにその手を鏡の怪人へと突き出す。瞬間、指先から炎が走る。
 怪人は笑みを湛えたままに、左腕に携えた大きな丸い鏡を構える。炎に対して鏡が盾の代わりになるとはとても思えないけれど――そんな、私の浅慮を嘲笑うかのように、インプモンの放った炎は鏡の中へと消えてゆく。さながら鏡面という名の門をくぐり、その中に広がる鏡映しの異世界へと通り抜けてゆくかの如く。

「ふふ」

 と、怪人はまた笑んで、今度は右腕の鏡を真横へ構える。ほぼ同時、インプモンと一瞬の時間差で仕掛けたレイヴモンの白刃が、怪人の首を刈り取らんと虚空より閃く。けれど――直前までまるで姿の見えなかったはずのレイヴモンへ向けて正確に突き付けられた怪人の鏡より、炎が撃ち出され、迫る白刃を迎え撃つ。レイヴモンは咄嗟に身を翻してこれを回避、翼の先端を掠めた炎を一瞥し、後方へ跳躍する。

「今のは……!」
「俺の技、だと?」

 レイヴモンに、次いでインプモン。驚愕に思わず攻め手が止まる。レイヴモンの奇襲を読んだことは勿論、問題はその前後。今起こったことを素直に解釈するならあの怪人は、インプモンの攻撃を左腕の鏡で吸収したばかりか、右腕の鏡からレイヴモン目掛けて撃ち出したのだ。

「面倒な鏡だな。だが……」
「手の内が分かれば恐ろしくはない、とでも?」

 インプモンの言葉を遮るように、怪人は笑う。

「ふふ、ほんの挨拶代わりさ。こんな手品を、この“鋼のメルキューレモン”の真髄と思われては心外だ」


 肩をすくめて腕を広げ、わざとらしく首を傾げて鏡の怪人“鋼のメルキューレモン”は微笑を浮かべる。

「てめえも十闘士か」
「“も”か。ふふ。いやいや、如何にもその通りだ。お初にお目にかかる。蝿の王・ベルゼブモン殿?」

 そう言うとメルキューレモンは右手を体に添え、左腕を横手に差し出し、まるで社交界の貴族がそうするように馬鹿丁寧にお辞儀をしてみせる。そうしてはっとしたように顔を上げ、

「おっと、頭を下げる相手が違ったかな?」

 なんて、おどけるように首を傾げて、ちらりと氷柱を一瞥する。芝居がかったそんな所作に、インプモンは苦々しく舌を打つ。一挙一動、一言一句に至るまで敵意と悪意しか感じさせないこの道化役者には、インプモンでなくとも嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
 こいつも十闘士。ベルグモンやセフィロトモンのような規格外の化け物たちの一人という訳か。
 ――セフィロトモン?
 思考をなぞり、記憶をたどり、ふと、重なる名に眉をひそめる。

「ちょっと待って、“鋼の”って……」

 私の言葉にインプモンもまた眉をひそめて、

「セフィロトモンと同じ……?」

 誰にともなく問うように呟く。そうだ、ワイズモンは確かにこう呼んでいた。“鋼のセフィロトモン”と。いや、スピリットには人型と獣型の二種類があるとも言っていたが、けれどそれは、

「十闘士のスピリットは二つで一つ、じゃなかったのか?」

 インプモンの言う通り、少なくともダスクモンとベルグモンの関係はそう見えたのだが。
 顔をしかめるそんな私たちに、メルキューレモンはさも愉快だとばかりに低く笑う。

「ふふ、その認識は間違っていないよ。他の九闘士に関しては、だがね」

 しかし、と腕を広げ、メルキューレモンは続ける。その両腕の鏡から光の粒子が沸き立つ。

「十闘士の中でこの私だけは、唯一特別製でね。例えば、こんなこともできてしまう訳だ」

 鏡の中から青白い光の帯が流れ出す。バーコードにも似たそれはメルキューレモンの体を取り巻き包み込む。その様はダスクモンがベルグモンに姿を変えたあの時に酷似していた。

「これは……!」

 電子音を上げて、光のサナギが一回り肥大化する。やがて程なく繭を破り、羽化したそれは、どこまでも禍々しくその翼を広げてみせる。闇を体現するかの如きその、天より堕ちたる黒き死の翼を――


「ルーチェモンとの戦いの後――この地上より失われた十闘士のスピリットが何処に存在していたか、知っているかい?」

 自身を取り巻く光の帯を引き裂いて、それはゆっくりと姿を現す。語る声はメルキューレモン。なれどその姿は鏡の怪人とは似ても似つかぬ、まるで別物。

「スピリットはルーチェモンの闇の半身を、ダークエリアの深淵に封じる楔として用いられていたのだよ。だが……ふふ」

 禍々しく、けれどどこか神々しくもある灰銀の鎧に身を包み、背に負うは五対の黒き翼。その出で立ちはさながら、神に背きし堕天の使徒。

「ある意味では僥倖というべきかな。よもや封印が、二重に施されていようとはね。我々が三つのスピリットとともにダークエリアからのサルベージに成功した第二の封印の楔が一つ。それこそ……!」

 灰銀の堕天使がその黒翼を広げる。地下室の冷気を押し退けるように熱風が吹き荒れる。
 風圧に足を取られよろめく。駆け寄ったレイヴモンに支えられ、私はその姿を見据える。堕天使は、高らかに名乗りを上げた。

「神の使徒が長たる熾天使・セラフィモン。いや……ふふ、黒く闇に染まり新生するこの姿は、さしずめ“ブラックセラフィモン”といったところかな」

 その姿と告げられた名に、インプモンとレイヴモンが同様に驚愕する。

「セラフィモン……!?」
「し、知ってるの?」

 私が問えば、答えたのはレイヴモンだった。

「三大天使……!」

 そう、ただ一言をもってして。

「そ、それって、天使たちのリーダーだったっていう? でも確か……」
「十闘士を護って死んだ。とでも聞いていたかい?」

 私の言葉を遮るように、堕天使はやれやれと首を振る。

「サルベージしたデータを解析したが、正確には封印のため“自ら犠牲になった”というべきかな。お陰でこうして悪用することもできてしまった訳だが」
「……悪用?」
「おっと、失言だったかな。ふふ」

 そう笑う堕天使に、私たちは揃って眉をひそめる。そこに感じる違和、異質さは、眼前の堕天使が見た目通り単純な天使たちの仲間などではないだろうことを、言葉なく物語る。

「それで、今度は俺の体をどう悪用するつもりだ?」
「ふふ。もうおおよそ見当はついているのだろう?」

 インプモンが問えば堕天使はまた笑う。そうして――その悪意と狂気は黒き炎となって、闇に爆ぜる。


 闇が震え、爆音が反響する。無造作にかざした堕天使の手から放たれる炎に、氷柱が煙幕に覆われる。突然のことに当のインプモンさえ阻止する間もないままに。
 ここへやって来たからには目的は当然、魔王の肉体。だというに、まさかいきなり破壊するだなんて。思わず呆けて、言葉を失う。

「ほう」

 私とインプモンが立ちすくむ中、感心するように堕天使が漏らす。と同時、冷気を打つ羽ばたきの音とともに一陣の風が吹き、爆煙が散る。姿を見せたのはまるで無傷の氷柱。そして、中程で折れた刀を逆手に握るレイヴモンだった。
 咄嗟に庇ったのか。あんなタイミングで……!
 安堵の溜息とともに、腰が抜けたようにその場に座り込む。そんな私には一瞥もくれず、堕天使はレイヴモンを見据えて小さく笑う。

「よく護ったな。褒めてやろう」

 嘲る堕天使に、ぎりりと歯列を鳴らす。レイヴモンは折れた刀を投げ捨て自らの爪を構える。視線が火花を散らし――けれどそんな時、二人の間に小さな炎が割って入る。堕天使は片手の指先で文字通り炎を爪弾き、わざとらしく溜息を吐く。

「非力だな」

 ちりちりと、指先に残る僅かな焦げ跡を見詰め、ゆっくりと首を振る。炎の射手は、インプモンは第二射を構えながら舌を打つ。

「随分と出遅れたものだ。いい従者がいてよかったな」
「てめえ……何の真似だ!?」

 ぎりぎりと歯牙を軋ませ、インプモンが声を荒げる。吐き捨てるように投げ掛けるそれは、しかし問いではない。氷漬けの魔王の肉体、その奪い合いという、この戦いの根幹を揺るがすようなその行動。けれど、そんな矛盾の答えは既に目の前にある。あるからこその、激昂だった。

「おやおや、正義の味方であるところの我らアポカリプス・チャイルドが、悪しき魔王を討つことに何の疑問が?」

 なんて惚けてみせる堕天使には、インプモンの視線も射殺さんばかり矢のように鋭く尖る。

「目的は“残り”か……!」

 とは、先の堕天使の言葉の通り。ダークエリアからのサルベージに成功したのは、三つのスピリットとセラフィモンのデータだと、自らそう言ったのだ。つまり“残り”は、成功しなかったと。いつかワイズモンが言っていた通り、それを成すために必要なのが、外ならぬ魔王の肉体。そして奴はそれを――

「“暴食”の魔王、か。ともなれば、ふふ。さぞや……美味なのだろうなあ?」




11-2 青銅の反逆


 値踏みするように氷柱の魔王を見据え、堕天使は冷たく笑う。鉄仮面の奥で舌なめずりの音が聞こえた気がした。
 堕天使が、メルキューレモンがここへやって来た理由を私たちは完全に理解する。インプモンが激昂し、私は驚愕する。目的は確かに魔王の肉体。けれど、奴にとって生け捕りである必要はないのだ。屍だけあればいい。目前に在る、セラフィモンのように……!

 ぎぎぎ、と、自らの牙を噛み砕かんばかりに軋ませて、インプモンは指先に炎を点す。堕天使はそれを鼻で笑い、肩を竦める。

「おやおや。学習能力というものが無いのかな?」

 そんな嘲笑に、インプモンは堕天使の手に残る僅かな焦げ跡を一瞥。舌打ちし、その小さな、余りにも小さくか細くなってしまった己が手に視線を落とす。――そうして、何かに気付いたようにはっとする。

「さて、ではそろそろ頂くとしようか。抵抗、逃走、降伏――まあ、最期の足掻き方くらいは自由に選び給え」

 結果は同じだがな、と。鉄仮面が笑みの形に歪むと錯覚する程に、侮蔑に満ちた冷笑を漏らし、堕天使は静かに飛翔する。インプモンの些細な変化など、気にも留めず。

「レイヴモン、行け! 不本意だが援護してやる!」

 冷たい闇に浮かぶ堕天使を見上げ、その両手に六つの炎を点してインプモンが叫ぶ。一瞬の躊躇、けれど直ぐさまレイヴモンは跳躍する。その様に、堕天使がまた笑う。

「ふふ……!」

 跳躍から秒にも満たぬ間を置いて、レイヴモンの爪が堕天使に肉薄する。が、直前までまるで構えもしなかった堕天使の手刀が、それをあっさりと受け流す。火花が散って、真っ直ぐに堕天使へ向かっていたレイヴモンの体が、弾かれるように横合いへ逸れる。
 そして、射線が開く。
 今の今までレイヴモンのいた空間を貫いて、インプモンの放った炎の弾が堕天使へ迫る。僅かでもタイミングが狂えば誤射も有り得るぎりぎりの連携。レイヴモンから後の先を取る程の反応速度をもってしても回避は難しいが――

「これが援護とやらかい?」

 無造作にかざした手刀とは逆の手に二つ。続く四つが堕天使の鎧に着弾する。火の粉が舞って、けれどそれだけ。回避は、できなかったのではない。必要なかったのだ。
 堕天使が嘲笑い、レイヴモンが追撃に備えるべく構え直し、そしてインプモンは――舐めるなとばかりに息を吐く。

「いいや、ここからだ」


 炎を放った構えのまま、インプモンはかざした指先をタクトのように翻す。ちりちりと、堕天使の鎧に残る火の粉が不規則に明滅し、鎧の表面を走る。

「これは……!」

 残り火が、炎の軌跡をもってその着弾点に幾何学模様を描く。私にとっては幾度となく目にしたそれ。
 ぱちん、と指を鳴らし、インプモンが咆哮する。

「サモン!!」

 焦げ跡の刻む魔法陣が紅蓮に輝いて、主たる者の呼び声に応えるように、何処よりか灼熱の炎が来たる。炎は蛇のようにうねり渦巻いて、瞬く間に堕天使を包み込む。至近距離どころではない、ゼロ距離からの攻撃を避ける術などあるはずもなく。
 これは、間違いなくあの技だ。インプモンが幾度となく使っていた、魔法陣から炎を喚ぶ技。その魔法陣を、あの火の玉で描いたというのか。そんなことができて……いや、できるようになった、のか。

「今だ! 行け!」

 間髪を入れず、火だるまの堕天使にレイヴモンが追撃を加えたのは、インプモンの指示とほぼ同時。半身を捻り、勢いそのままに、突き出した左腕を基点に全身を削岩機のように激しく回転させる。黒き旋風となって、その爪が堕天使を穿たんと矢の如く闇を翔ける。彼我の距離は極僅か。要する時間もまた。

 一瞬の後、鳴り響いたのは硬質の摩擦音。その光景に、絶句する。
 炎の中から伸びた手が、迫るレイヴモンの手首を正確に捕らえ、すんでのところでその攻撃を阻んだのだ。レイヴモンの爪は堕天使の鎧の表面に僅かな傷を残すに留まり、その内側へ達するには到らない。高速回転を無理矢理に止めたことで手甲にも小さな亀裂が走ったが、ただ、それだけ。即興とはいえこれだけの連携をもってして、ほんの些細なかすり傷が二つばかり。

「もう一度聞いてみようか。今のが、援護とやらかい?」

 なんて、見下しきったそんな嘲りにさえ、私たちは反論の言葉を持たなかった。ぐ、と歯噛みし、それでもインプモンは次なる炎を指先に点し、左腕を捕われたままのレイヴモンは構うものかと右腕を繰り出す。
 けれど、レイヴモンの持ち味であるスピードをまるで活かせない体勢からの攻撃が、堕天使に通じる訳もなく、ことごとくが片手でいなされる。その超接戦ゆえにインプモンも援護射撃ができず、ただただ弄ばれるだけ。
 駄目だ。打つ手がない。絶望が頭を過ぎる。その、刹那――

「随分と、遅れてしまったな」


 一閃。闇に三日月が如き光の軌跡が浮かび上がる。閃光は音もなく瞬いて、咄嗟に身を退いた堕天使の鎧を掠め、その残像を切り裂く。そうして続いたのは、鈍い音。そして羽ばたき、次いで石畳を叩く乾いた音。
 予期せぬ横槍に体勢を崩した堕天使のその隙を衝き、レイヴモンは蹴撃を浴びせ束縛を脱したのだ。翼をもって宙で後方へ跳躍し、堕天使から距離を取って着地。直ぐさま敵の姿を目で追い――驚愕する。

「これはこれは、また珍しい来客だ」

 その姿を目に、堕天使はほうと息を吐く。この地下深き戦場に不意に割って入った闖入者。青き鎧を燭台の灯に鈍く輝かせ、三日月に似た刃を携える。紅蓮のマントをなびかせ、出で立ちは騎士なれど頂に抱くは獣の顔。

「ミラージュ……ガオガモン!?」

 獣頭の騎士のその名を、友の名を呼び、レイヴモンは我が目を疑うように双眸を見開く。掛けるべき言葉も見付からず、口を開いては閉じ、そんな折。代弁するように「何故?」と問うたのは堕天使だった。ちらりとレイヴモンを一瞥し、おどけるように肩をすくめる。

「とでも言いたげだぞ。君のお友達は。まあ、問いたいのは私も同様だがね」
「やはり、我らの繋がりに感づいていたか」
「ふふ、今更そんなことはどうでもいいさ。今の私の興味は、君がどうやって私の目を逃れてみせたのか、その手品の種明かしだけだよ」

 私の体内にいながら、と続ける堕天使の顔から、不意に笑みが消える。獣騎士は刃を構えたままに、

「そう大層な種でもない。ただ――」

 獣騎士の全身から、青い光がうっすらと沸き立つ。

「デジソウルの波長を周囲のコードと同調させただけの、疑似姿隠し。古い友の真似事だ。お前の目を逃れられるかは、賭けだったがな」
「そして見事賭けに勝った訳だ。ミラージュの名は、伊達ではないということか。あのエイリアスを匿ったのも、同じ手品かい?」

 くいと、堕天使が視線で指してみせたのは、外ならぬインプモンだった。当然の如く困惑する私たちを他所に、獣騎士は小さく首を振る。

「そのはずだったが、差し出がましい真似をしてしまったようだ。やはり我が友の目に狂いはなかった」

 そんな言葉に私たちはただただ眉をひそめるばかり。何がどうなってやがると、差し置かれた当事者であるインプモンが半ば怒鳴るように問う。
 ややを置いて獣騎士は、静かに言葉を返す。


「たった一つの玉座」

 ぽつりと呟くように、獣騎士はインプモンに一瞥だけを寄越して語る。

「それが、我らゼブルナイツがこれまで築き守り抜いてきたもの」

 目前の堕天使を見据えたまま、けれどその目はどこか遠くを見遣るよう。一拍を置いて、獣騎士は強く強く、己が志を言葉にする。

「我らを導き得る、ただ一人の“王”を迎え入れるがために……!」

 と、射抜くような眼差しが見据えるのは既に遠い理想郷などではない。そこへ至る道に立ち塞がる敵を、堕天使を真っ直ぐに捉えて、その瞳に青い炎を燃やす。そんな獣騎士の姿に、レイヴモンが小さく身を震わせる。

「“王”……?」
「それこそが外ならぬ、魔王・ベルゼブモンという訳かい?」

 とは堕天使。その口ぶりは問い掛けというより答え合わせ。あるいは、初めからすべてを見透かしていたかのように。疑いようもないとばかり。けれどそんな堕天使に、対する獣騎士は答えを寄越さない。その沈黙にはありありと、迷いが見て取れた。
 堕天使は嘲るようにくすりと笑い、わざとらしく肩をすくめてみせる。

「そしてそれが、分裂の理由でもあった訳だ。ふふ」

 なんて、私やインプモンにはまるで意味の分からぬそんな言葉に、しかし獣騎士とレイヴモンは歯列を軋ませる。

「ど、どういうこと?」

 眉をひそめてレイヴモンに問えば、代わりに答えたのは堕天使だった。やれやれと首を振り、真っ直ぐにインプモンを指差す。

「どうもこうも、ふふ。魔王の無様な敗北がゼブルナイツを分裂させたのだと、彼らはそう言いたいのだよ」

 と、堕天使がさも愉快だとばかりに言い放った、その直接だった。弾かれるように、レイヴモンが地を蹴ったのは。

「レイヴモン!?」

 制止する間などあるはずもなく、その爪が堕天使へ迫る。だが、当の堕天使は慌てる様子もまるでなく、

「つまりは彼のような――」

 先の攻防を再現するようにレイヴモンの腕を造作もなくつかみ、堕天使は見下すように笑う。

「未だ蝿の王に心酔する愚か者と、ダークドラモンたちのようにその資質を疑問視する少しは利口な者とに、ね」

 それがゼブルナイツの真実なのだと、語る堕天使にレイヴモンは反論もできず、苦痛と悔しさに小さく呻くばかり。私もまた口にすべき言葉が見付からなかった。そんな時――私の隣でインプモンが、静かに息を吐く。




11-3 白銀の葬送


「どいつもこいつも、当人ほったらかしで勝手なこと言いやがって……!」

 大きな溜息を吐いて、苛立ちを隠しもしないインプモンのそんな言葉は、当然と言えば当然。勝手に命を狙われて利用されそうになって、勝手に期待されて失望されて。勝手に巻き込まれた私ですらさすがに多少の同情を禁じ得ない。こういう時に言うべき言葉は、そう――まさに悪夢だ。

「アポカリプス・チャイルドが俺に何をしたかろうが」

 インプモンは堕天使をぎろりと睨みつける。目は、完全に据わっていた。そうして今度は視線もくれてやらず、

「ゼブルナイツが俺に何をさせたかろうが」

 その目の奥に強く強く光を点して、言い放つ様は誇り高く、何者にも囚われぬ孤高の魔王そのものだった。

「そんなもん知ったことか! 俺は俺の生きたいように生きて、戦って、くたばるだけだ!」

 小さな体で、声の限りを振り絞るような叫び。我が身を搦め捕る、蜘蛛の糸が如き不条理への怒り。堕天使がやれやれと肩をすくめ、獣騎士とレイヴモンは沈黙し、私もまた、相も変わらず言葉が見付からない。
 嗚呼、これがインプモンの悪夢か。訳も解らぬままに降り懸かった災い、理不尽な暴力と敵意。それはまるで……本当に今更ではあるのだけれど、まるで、私と同じ。
 インプモン、と。頭の中の考えをまとめもせずに、ふと名前を呼ぶ。そんな時、ちょうど遮るように堕天使が嘲笑を漏らした。言い損なった言葉が何であったかは、私にも分からない。

「ふっ、ふふ。ご立派なことだ。だが、忘れているのではないかな」
「ああ?」
「“弱肉強食”こそが、この無秩序なる世界の唯一にして絶対の掟であることを、だよ。弱肉と成り果てた暴食の魔王殿?」

 そう、鉄仮面の奥でぎぎぎと口端を醜悪に歪ませる。その悔しさが、苦しみが、憤りが、蜜の味だとでも言わんばかりに。

「やはり、私の目にも狂いはなかったようだ」

 獣騎士が小さく言った。

「ほう、今更それはどんな言い訳かな。裏切りの騎士よ」
「下らぬ弁明などする気もない。私がここへ来た目的はただ、一つ」

 騎士なる獣がその目に野生の火を点す。そうして、雄々しく吠える。

「貴様を止めることだ……メルキューレモン!」

 そんな咆哮を引き金に、堕天使から漏れる悪意が殺意に変わる。獣騎士は刃を構え直し――けれどその、間際。

「レイヴモン!」


 堕天使の禍々しき甲冑が臨戦体勢にぎちぎちと軋む。それはまるで無数の蟲がうごめくような、嫌悪感を駆り立てる金属の摩擦音。
 ぎりり、と。そんな堕天使を真っ直ぐに見据え、迎撃の構えに入るレイヴモンだったが、不意に呼ばれた己の名に一瞬意識が逸れる。はっと、直ぐさま目前の敵へ向き直る、その間は刹那。隙とも呼べない程に微かな意識の欠片だけを残して、視界の端に彼の姿を捉える。自分を呼んだ獣騎士もまた、視線は堕天使へ向けたままに、

「力を貸してくれ」

 とだけ言って、刃を構える。言い訳の言葉はない。謝罪の言葉もない。多くを語らずただ一言。けれど、それで十分だった。

「行くぞ」

 言って、口角が僅かに上がる。そんなレイヴモンに釣られたように獣騎士もまた微笑を零し、かつての戦友たちはこの戦場で今一度、共に立つ。
 戦意と咆哮が闇を打ち、二匹の騎士なる獣が天へと牙を剥く。さあ来るがいいと、堕天使が笑った気がした。瞬間、風が逆巻き火花が散る。

「ふふ、これが君の目的か……自身の離脱をもって外の戦力を拮抗させたのもすべて、狙いはこの私という訳だ!」

 剣戟、爆音、その間を縫うように笑う。レイヴモンと獣騎士の二人を同時に相手取り、それでもなお堕天使から余裕は消えない。醜悪な嘲笑が鉄仮面から漏れる。

「人気者は辛いなあ、ふっふふ……!」
「底の見えないお前の悪意と野心は余りに危険だ。ここで止めてみせる!」

 できるものなら、とでも言いたげに堕天使がまた笑う。私はこくりと喉を鳴らす。

「二人掛かりなのに、あいつ……」

 まるで焦る様子もない堕天使に思わず零す。と、

「なら三人掛かりだ。言った傍からほったらかしやがってあいつら」

 隣で溜息とともに言ったのは、外でもないインプモンだった。指先に三つ、不自然に揺らぐ炎を点し、不機嫌そうに眉をひそめる。ああ、そう言えば最初から二人掛かりだっけ。

「待て」

 私がそんな失礼な考えに、隣のインプモンへちょっとだけ憐れみの目をやった、ちょうどその時だった。インプモンを制止する声は唐突に真後ろから。慌てて振り返る。

「ダ、ダスクモン!?」

 思わず叫んだ私の声に、戦いの最中にあるレイヴモンたちもさすがに気付いたか、一瞬視線を寄越す。

「ど、どうして……」
「後だ。それより加勢は俺が行く。お前たちは……封印を解くんだ」


 突如として現れた黒騎士・ダスクモンの言葉に、私は思わず頓狂な声を上げる。封印を解け、だなんてそんなこと、

「ど、どうやって……?」

 当然の疑問を口にした私に、けれど問われたダスクモンは首を振る。

「その答えを知り得る者は、お前たち二人を置いて外にはいない」

 こちらの困惑もお構いなしに言い放ち、私たちと堕天使たちとの間に割って入るように一歩を踏み出す。その髑髏を模した両の手甲に、波打つ紅蓮の剣を携えて。

「ちょ、ちょっと待って。そんな無茶な……!」
「んなもんできりゃ苦労するかっつーの」

 私とインプモンが口々に言えば、ダスクモンは振り向きもせず独り言のように語る。

「“本体”と“エイリアス”は本来、主と従の関係にある」

 それはどこか言い聞かせるような物言い。私たちに、というよりは、自分自身に。

「だがお前はそれが明らかに逆転している。もし……もしお前が既に“主”にあるなら、弱まりつつある今の封印程度、破ることは不可能ではないはずだ」

 と、語るそれはまるで希望。そうであってほしいという。希望的観測に過ぎないことは背を向けたままのダスクモン自身が何より自覚しているのだろう。口調は僅か、力弱い。

「ふふ、随分とエイリアスに詳しいじゃないか。ダスクモンと言ったかな」

 そんなダスクモンを見下すように、堕天使が笑う。レイヴモンたちとの戦いなど片手間とばかり、変わらぬ余裕を湛えて。

「従たるエイリアスは主たる者の人形に過ぎない。主従が我々の認識とまるで逆だとするなら、確かにそれも可能だろう」

 ふふと、嫌らしく笑う。嘲笑するようであり、助け舟を出すようでもある、その意図はまるで分からない。それが何より不気味だった。眉をひそめる私たちを他所に、堕天使はゆっくりとダスクモンを指差してみせる。

「その繰り糸が多少の隔たりを越えることは、とうに実証済みという訳かい? 例えばそう、結界に覆われたセフィロトモンの内外くらいは、ね」

 と、鋭い視線が私たちを、否、その背後を射抜く。ざり、と、砂利を踏む足音が暗闇から響いた。

「なあ? 親愛なる我が同胞よ」

 振り返ればそこに佇むのは黒鉄の獅子。と、その背に跨がる青い肌の少女。獅子の背から降り、少女はその顔にありありと困惑の色を浮かべる。問う声は、微かに震えていた。

「どういうこと……?」


 光の帯が黒鉄の獅子を取り巻いて、輝きの中でその形が獣から人へと変わる。帯を払うようにして姿を見せたのは黒獅子の鎧の騎士。その傍らには先程まで黒獅子に跨がっていた、半魚人を思わせる青い肌の少女。戸惑いに顔をしかめ、そのエメラルドの瞳に焼き付けるように私たちを映す。
 そんな闖入者に戦いの手は止まり、僅かな沈黙の後に堕天使が微笑を漏らす。

「待っていたよ、ラーナモン、レーベモン。ふふ、これでようやく役者が揃った訳だ」

 堕天使の言葉に少女は困惑し、黒獅子の騎士は舌を打つ。

「待っていた、か。すべて掌の上とでも言いたげだな」
「ふふ、まさか。君にこんな芸があったとは知りもしなかったよ。よもやエイリアスとはね」

 そう言ってちらりと横合いへ一瞥をやる。視線の先で、ダスクモンが小さく肩をすくめる。はっと、さすがの私もその意味を察して二人の黒い騎士へと交互に目を移す。無意識に聞き取ったその旋律は、微細違えどまるで二重奏の如く。二つで一つを織り成す、そんなメロディだった。
 インプモンやレイヴモンも同様に黒騎士の正体を理解したのだろう、直ぐさま堕天使に向き直る。戦いの中である今この時、知るべきは敵であるか否かだけで十分だと。
 空気が一層冷たく張り詰めて――けれどそんな中、ただ一人。

「ちょ、ちょっと待ってよ。あたし何がなんだか……“真実を見せる”って、これが……?」

 と、今にも堕天使へ飛び掛からんばかりの黒獅子の騎士を引き留めるように、その腕をつかんだのはもう一人の闖入者。青い肌の少女は不安げに、大粒の宝石にも似た瞳を揺らす。
 黒獅子の騎士は少女の肩に優しく手を置いて、

「ここから先は自分の目で確かめるんだ。俺たちの――“選ばれし子供”の戦うべき敵が誰であるかを」

 たとえその結果、袂を分かつことになろうとも、と。言外に告げるように、口調は厳しく、その視線はとうに敵を見据えている。

「彼の言う通りだよ、ラーナモン。名残惜しいが……“仲良しごっこ”は仕舞いにするとしよう」

 言い捨てる、仲間たちの言葉にラーナモンの手からゆっくりと力が抜ける。言うべきことも、成すべきことも分からないと。立ち尽くすラーナモンを他所に、黒騎士は槍を、剣を構えて、戦場に立つ。
 そうして再び、戦いの幕が開く。

「ふふ、では行こうか。正義の在り処を、探しになあ……っ!」


 冷たい闇の中に燃えるような戦意がたぎる。黒獅子の騎士・レーベモンが槍と盾を構え、まったくの同時にダスクモンもまた臨戦体勢に入る。レイヴモンとミラージュガオガモンは静かに息を吐き、一拍を置いてその爪を構え直す。僅かに違う志を胸に、僅かに違う道を歩み、そうして辿り着いた同じこの戦場で、戦士たちが相対するのは同じただ一人の敵。
 ふふ、と微笑が漏れる。四方を囲まれた様は正に四面楚歌。けれどそんな状況にあってなおただ一人きりの敵は、堕天使・ブラックセラフィモンの仮面をまとう鋼のメルキューレモンは、すべてを見下すように嘲笑う。

「一つだけ、聞いておきたい」

 一触即発。そんな中で、レーベモンがぽつりと問う。それはどこか躊躇うようで、どこか悲しげな声にも聞こえた。

「お前は誰だ」

 と、強く強く、瞳に敵意の灯を点し。問い掛けのその意図は私にはまるで分からない。どころか、後ろに佇むラーナモンさえ眉をひそめる。堕天使は、また小さく笑ってみせた。

「自己紹介はとうに済ませたはずだがね、レーベモン?」

 わざとらしく首を傾げる、その嘲りにレーベモンはぎりりと歯列を鳴らす。と、堕天使はその顔が見たかったのだとばかりに満足げに吐息を零す。そうして、

「だがまあ、さすがは闇の闘士と言っておこうか。奥底の“闇”を見抜くその目だけは確かなようだ」

 とは、もはや疑念を肯定するに等しい。そんな返答に思わずといった風にレーベモンは息を飲む。堕天使はレイヴモンとミラージュガオガモン、そしてダスクモンと順に一瞥し、再びレーベモンへ視線をやって肩をすくめる。そういきり立つなとでも、言わんばかりに。

「ただ一つ忠告するなら、余り思い上がらないことだ。君たちは真実に近付きこそすれ、いまだ辿り着いてなどいないのだから……ね?」

 堕天使の手に、赤黒い炎が点る。ぎしぎしと、空間が軋む錯覚。それほどの悪意と圧力に、誰もが咄嗟に体を強張らせる。けれど瞬間、放たれる炎の狙いは私たちの誰でもない。かざすその手は頭上、地下室の天井に向けて。
 生き埋めにするため、ではない。炎は上階を易々と消し飛ばし、外にまで貫通する大穴を穿つ。粉塵舞う中、微かに空が見えた。

「君たちは敵を見誤った」

 何をと問う間もない。訳も分からぬ内に空より一条の閃光が飛来する。
 そして――煌めく白銀が、闇に散った。




11-4 紅蓮の氷原


 静寂。時間さえも凍えるような、音と色の消えた世界。すべてが失速し、刹那が薄く冗長に引き伸ばされる、そんな感覚。圧縮された一瞬の中で私は、きらきらと舞う白銀をただ呆然と見詰める。
 差し込む光を反射する氷片はまるで飛び散る宝石のよう。嗚呼、綺麗だな。なんて、混乱した頭に場違いな感想が過ぎる。
 あ、とインプモンが声を上げた。はっと、我に返る私が手を伸ばした時にはもう、それは原形を留めてはいなかった。
 指先に冷たく固い何かが触れる。鮮血も凍る白銀のその欠片から、とくんと、小さく弱く、それでも確かな鼓動が伝わる気がした。
 瞬間、モノクロの視界が色を取り戻し、時間が速度を取り戻す。
 伸ばした手が空を切り、氷塊に足を取られて膝をつく。しゃがみ込んだその場所は地下室のちょうど中央。砕けた氷の破片が私の肌を薄く裂く。白銀に伝う赤が、嫌でも私を現実に引き戻す。

「何、が……?」

 口をついて出たのは余りにも拙いそんな言葉。頭は何が起きたのかすらろくに理解できていない。何を問うべきかを考える余裕もない。
 ただ事実だけを語るなら、私の目の前でたった今、封印の氷柱が粉々に砕け散ったのだということ。中に眠る、魔王・ベルゼブモン諸共に。氷片のほとんどは虚空に塵と消える。デジモンがその死に屍を残さないことは、今まで何度も目にして知っている。つまりは、

「死んだ……の?」

 譫言のように零す。体の中を流れる血が、末端から冷たく凍り付いていく気がした。

「そうだ」

 そんな私を見下して笑うように、粉塵の中から堕天使が言い放つ。

「魔王は死んだ。そして今、生まれ変わるのだ。ふ、ふふっ……!」

 嘲笑が、やがて狂喜へ変わる。奥底より沸き上がる何かを辛うじて鉄仮面の内に押し止めるように、堕天使は肩を震わせケタケタと笑う。“お前は誰だ”と、そう問うたレーベモンの言葉が脳裏を過ぎる。その、刹那。
 ず、と、固く重い音が低く響いた。私の視線の先で、堕天使の腹から黒い突起物が顔を出す。それが背後から堕天使を貫いたレーベモンの槍であると理解したのは、一拍を置いてから。

「やあ、レーベモン。相変わらずいい腕じゃないか」

 端から見ている私より余程冷静に、風穴の空いた体で堕天使は笑う。ぎ、と歯噛みするレーベモンを値踏みするように見据えて。

「そう急くな。お楽しみは、これからだ」


 ぎりぎりと、槍を持つ手に力を込める。鎧を貫き、肉を裂き、骨を砕き、命を絶つ。その、はずが。

「どうした、そんな顔をして。ふふ。心配せずともちゃんと致命傷だぞ?」

 自らを穿つ槍の穂先を指先でこつこつと叩き、堕天使は首を傾げてみせる。手応えはある。当人の言う通り、この槍は確かにその命に届いた。だと言うに。

「それとも、だからこそ恐れているのかな?」

 そう嘲る様はとても瀕死になど見えない。ぐ、と焦燥に思わず小さく呻く。ちょうどその時。どこからともなく飛来した炎が堕天使に着弾し、目前で炎熱が爆ぜる。弾道を目で追えば石畳に炎で描かれた魔法陣と、その傍らで片手をかざす小さな射手の姿。続けざまに飛ぶのは、怒声だった。

「避けろ馬鹿っ!」

 その言葉の意味を理解するのに僅かを要し、槍を引き抜く暇はなかった。武器を捨て、レーベモンは迫る一撃からすんでのところで回避する。先の炎の射手たるインプモンの第二射から、ではない。避けろと警告したのは頭上。レーベモンが堕天使から離れた一瞬の後、その残像を上空から閃光が貫く。
 ふふ、と、体を槍に貫かれたまま、堕天使は微笑を浮かべる。

「敵を見誤ったと、そう言ったはずだぞ」

 閃光の砲手は天井に空いた大穴の先、城の外。そして恐らくは……いや、堕天使の言うようにそれこそが、氷柱を撃った砲手でもあるのだろう。
 幾分か冷静さを取り戻した頭でようやく僅かばかり現状を把握する。私は膝をついたまま振り返る。

「インプモン……!」

 名を呼ぶ。けれどその先が言葉にならない。そんな私に代わるように堕天使が「それにしても」と肩を竦める。

「本体が粉々になってなお随分と元気なことだ。やはりただのエイリアスではないか」

 とは、私の頭に浮かんだ疑問そのまま。堕天使が天井を吹き飛ばし、剥き出しの地下室の中、外から何者かが封印の氷柱を破壊した。インプモンの本体である、ベルゼブモンごと。けれど、その分身であるはずのインプモンには今のところ何の変化も見られない。ダスクモンの仮説は正しかったということか。もはや、何の意味もないことではあるが。

「あれは……サタナエル?」

 ぽつりと、呟く声は私たちのすぐ傍から。いまだ舞う粉塵に目を凝らせばそれはダスクモン。その視線を追って空を仰ぐ。爆煙と粉塵の切れ間に、真白き翼と外套の天使の姿が見えた。


「サタナエル……?」

 朧月のように遠く霞むその姿に目を細め、眉をひそめる。白いマントとフードで全身を覆い、唯一露出した背の白翼で上空を浮遊する。天使に類するデジモンであろうことは見たままだが、名前といいその出で立ちといい、何よりインプモンたちの訝しげな表情から、それがデジモンとしての本来の姿・正体を隠しているのであろうことは推察に難くなかった。
 ダスクモンは白ずくめの天使を見上げたまま、私同様に眉をひそめる。

「ホーリードラモンの側近だ。役割は伝令と諜報」

 である、はずだと。確かめるように言って、その視線を堕天使に向ける。非難、戸惑い、憤り。多様な感情が入り混じる眼差しも、当の堕天使はそんなものどこ吹く風とばかり。ふふ、と微笑する。

「担ぐ神輿は軽いに限る」

 肩をすくめ、遥かな空を冷めた目で仰ぐ。

「この私を狙う辺り、君たちの目の付け所は概ね正しい。ホーリードラモンなどというお飾りの王でなく、ね」

 笑うその鉄仮面はどこまでも冷たく、歪んで見えた。ぞくりと、背筋に悪寒が這う。
 インプモンが歯牙を打ち、射殺さんばかりに堕天使を睨み据える。

「お飾り……だと?」
「ふふ。盤上のキングもまた、一つの駒に過ぎないということさ」

 そう、肩をすくめる。そんな堕天使を見詰めたまま、私は呆然とする。何もかもが唐突。咀嚼するようにその言葉を頭でなぞる。つまり、私たちが今まで戦ってきたアポカリプス・チャイルドは、

「てめえが、黒幕だって言いてえのか」

 私の頭に浮かんだ言葉をインプモンが口にする。

「それが、アポカリプス・チャイルドの真実……!」

 ぎり、と。軋む牙の音は次第に晴れゆく粉塵の中から。獣頭の騎士・ミラージュガオガモンは自らが本当に戦うべき宿敵を前に、その双眸に戦意と義憤の炎を燃やす。並び立つ比翼の騎士・レイヴモンもまた静かな闘志を胸に、己が敵を見据える。
 あるいはこれが最後の戦いになろうか。再び武器を構え直すミラージュガオガモンたちに、けれど――

「だから駄目なのだよ」

 堕天使は備えるそぶりも見せず、まるで無防備に溜息を零す。

「だから勝てない」

 敵意と積憤を一身に受け、それでも堕天使は笑う。その様に、心がざわめく。言い知れぬ不安が警鐘を鳴らす。私たちは何か……何か大きな間違いを犯しているのではないだろうか、と。


 黒獅子が雄叫びを上げる。騎士の胸でそのあぎとを開き、冷気を揺るがす咆哮を黒き閃光に変えて闇を衝く。放たれた光は球形を成し、砲弾となって虚空を翔ける。
 ミラージュガオガモンとただ一度だけ視線を交わし、真っ先に動いたのはレーベモンだった。先制の一撃。けれど、その獅子の砲口が狙い定めるのは目前の堕天使ではない。堕天使が軌跡を横目で追う中、光弾はその真横を通り過ぎてゆく。狙うはその先。上空に佇む、白ずくめの天使。

「どこを見ている!」

 不気味なほど無防備に、無警戒に、視線を逸らした堕天使へ怒号とともにミラージュガオガモンが迫る。お前の相手はこの私だと、その爪を振りかざす。研ぎ澄まされた刃が風を切り、そうして――鉄仮面が砕ける。
 頭上から振り下ろされる爪の一撃に、その衝撃に堕天使の首はあらぬ方へと曲がる。更にレイヴモンの追撃が鎧を翼ごと裂く。

 同時、レーベモンの砲撃を迎え撃つべく白ずくめの天使・サタナエルがその右腕から閃光を放ち、黒と白の光が互いを食い潰すように弾けて爆ぜる。
 砲撃は互角。だが、黒の砲手は二人で一人。瞬間、影なる黒騎士が闇を跳躍する。光弾は、目眩ましに過ぎない。
 地下室から開けた空の上まで、翼があれど数秒は要するであろう間合いを一足に駆け、ダスクモンの剣がサタナエルを背後より襲う。
 ち、と。漏れた舌打ちはどちらのものだったろうか。背後からの奇襲を寸前で察知し、サタナエルが身を翻したことでダスクモンの剣はその白いフードを薙ぐに留まる。
 空振りと咄嗟の回避。互いに体勢を崩し、互いに手が止まる。戦いの間隙。しかし翼を持たないダスクモンは自らの形勢を不利と見て、追撃より一時後退と再び闇を跳躍すべく剣を収め――瞬間、その視線と意識を膠着させる。
 生じたのは余りにも大きな隙。体勢を立て直したサタナエルの拳打が光を帯びてダスクモンに直撃する。

「ぐっ……!」

 思わず呻き、けれど即座に闇を跳ぶ。地下室の石畳によろめきながらも着地し、拳打を受けた腹部を押さえる。
 その様に、砕けた鉄仮面の奥から堕天使が笑う。
 ダスクモンは空を仰いで、その目を見開く。視線の先で切り裂かれたサタナエルのフードがはらりと風に舞う。露になるその姿には驚愕と困惑が半々といったところ。不意を突いたとはいえ魔王を討ったそれがよもや――

「エンジェモン……だと!?」


 白衣が剣風に散る。隠されていた正体が露呈し、目にした者たちは一様に驚き、戸惑う。無理もない。アポカリプス・チャイルドの王たるホーリードラモンの側近であるはずのサタナエルが、アポカリプス・チャイルドの一兵卒に過ぎないエンジェモンと同じ姿をしていたのだから。

「あいつが、側近?」

 眉をひそめるインプモンに、ダスクモンは自らの腹に受けた傷へ一度だけ視線を落とし、躊躇いがちにこくりと頷いてみせた。

「ふ、ふふふっ……あんなもの、数ある駒の一つに過ぎない」

 そんな困惑を、嘲笑うように堕天使が言う。胸をレーベモンの槍に貫かれ、頭をミラージュガオガモンに砕かれ、翼と鎧をレイヴモンに引き裂かれたまま。全身に走る亀裂からは赤黒い、闇にも炎にも、血にも似た何かが零れて散る。

「嗚呼、ベルゼブモンも手に入ったことだ。そろそろ潮時かな。セラフィモンなどというこの、捨て駒も」
「何を……お前は一体……!?」
「ふふ。謎解きは、死後の楽しみにでも取って置き給え」

 風が凪ぐように、否、凍るようにと言うべきか。嘲笑が冷笑に変わり、静かな声は冷たく鋭く突き付けられる。反論も、問答さえも許さぬとばかり。
 堕天使の体がふわりと浮き上がる。翼もとうに役割を果たせぬほどに傷付いたその体が。まるで壊れたマリオット。四肢は力無く垂れ下がり、低く笑う声にはノイズが混じる。鎧は自壊するかのように自ら亀裂を広げ、漏れ出る何かは次第に色濃く、その密度を増してゆく。

 にたりと、何かが笑った気がした。

 静寂。戦いの真っ只中、戦場のど真ん中で、有り得ないほどに静かな刹那の間隙。はっと、誰かが息を飲む。そうして――私の視界は闇に覆われる。その場で私がはっきりと認識できたのはそこまでだった。
 無明の闇の中で遠く遠く、轟音と業火が渦を巻く。そして幾らもせぬ内に闇は晴れ、目前には白銀の世界が広がる。訳も分からず冷たい氷原に座り込む。瞬間、疑問を差し挟む暇もなく、大気が激しく震えて風が荒れ狂う。
 風上へと振り返る。視界の彼方、天地を結ぶが如き赤黒い火柱が見えた。

「な、何……!?」

 冷たい大気に熱風が逆巻く中、ようやく搾り出したのは問いにもならないそんな言葉。思考は辺りの風のように掻き乱されたまま。
 一瞬、波が沖へと引くように風が止み、やがて。彼方――白銀の氷原に、紅蓮の花が狂い咲く。



>>第十二夜 碧落のプラネット