第一夜 黄昏のアンリアル
1-1 日向の後悔
私には夢がある。
大それた夢ではない。とてもとてもささやかな夢だ。
人は私を謙虚と呼ぶだろうか。或いは無欲と、ともすれば夢がないとさえ言われてしまうのかもしれない。
しかし私は声を大にして言いたい。否、むしろ力の限り叫びたい。いやもう叫ぶ。叫んでやる。叫ぶぞー!
「悪夢だっ!」
そうだ悪夢だ。これは悪夢だ。ささやかな夢を、ささやかだと思っていた夢をぶち壊す、悪夢だ……。
ただ平穏無事に、日々を過ごせればそれでいいなんて。
それが謙虚で無欲で、当たり前に誰もが叶えられる夢だなんて。ささやかで小さな夢だなんて。なんて、なんておこがましい。
私は猛省する。そして忠告しよう。平和な日常を生きる名も知らぬ人々へ。貴方の手にあるその幸せを、全力を以って護りなさいと。何があろうと手放してはいけないと。決して、その手を「ここ」へ伸ばしてはいけないと。
さもなくば……。
貴方の日常は奴らの手によって脆くも崩れさることとなろう。奴らの、そう「デジモン」たちの手によって。
この、私のように……。
1-2 夕闇の遁走
――雑音が聞こえた。
小さく、か細く、私の鼓膜を叩く、まるで羽虫がまとわりつくようなノイズだった。
不意に思い出し、私は頭を抱えてうずくまった。
「なあ……ところでお前、誰?」
暢気な口調でそう問い掛けるそのイキモノに、ゆっくりと顔を上げて一瞥だけをやり、私は、再び頭を抱える。
そのイキモノ――かどうかも定かでないのだが、全身真っ黒で趣味の悪いぬいぐるみのようなそいつは、私の顔を覗き込むように小さな体を傾けて続けた。
「あれ、もしかして言葉通じてねえ?」
視界の端で眉をひそめるそいつ。真っ赤な目が不気味に揺れる。
喋ってる……。動いてる……。生きてる……。
なにこれ。なんなのこれ。なんで、どうして私のケータイからこんなのが出てくるの。しかもそれがなんで、なんで。
「あなた……なんなの?」
ようやく搾り出す。掠れて消え入りそうな声には戸惑いと恐怖が混じる。けれど黒いイキモノは気を悪くした風もなく、むしろどこか嬉々と。
「なんだやっぱ通じてんじゃねーか。心配すんだろー」
なんて、無邪気なもの。
非難と拒絶を隠しもしない、そんな私の視線もどこ吹く風。赤い手袋をした小さな手で私の肩を叩いてにっと笑う。
「俺はインプモンだ。よろしくな! お前は?」
「……日向」
「ヒナタか。いい名前だな」
「……どうも」
西の空から冷たい風が吹き抜ける。ふと目をやれば日は地平に差し掛かかろうというところ。
目の前のこいつ――インプモンとやらが現れてからどれくらいが経ったろうか。閑静な住宅地をでたらめに駆け抜け、気付けば見知らぬ裏通り。ほてった体に冷たいコンクリートが心地良かった。
息を整え、頭を冷やし、もう一度インプモンに向き直る。
「じょ、状況を、確認したいんだけど」
「おう、なんだ?」
私はことなかれ主義だ。我が身に降り懸かる火の粉以外は割とどうでもいい。ケータイからおかしなイキモノが出て来ようと知ったことか。けれど。
「もしかして、これ今」
けれどこの、この火の粉はどうやら。
「命、狙われてるの……?」
「おう、まあ、見てのとーりな」
そう言って笑いながら両手を広げてみせるインプモンの体は、よくよく見ればあちこちがボロボロ。
黒いラバーのような肢体は所々が擦り切れ、白い頬には浅くない切り傷。首に巻いた赤いボロ布は恐らくスカーフだったのではなかろうか。
なるほど彼の言う通り、彼が命を狙われているのはまさに見てのとーりなわけだ。が、しかし問題はそこではない。
「そう……で、どうして私まで?」
訳の分からないイキモノが訳の分からないイキモノに命を狙われようが知ったことか。全く一切ちっとも全然これっぽっちも関係のない私が、なんでどうしてどんな理由でなにゆえ巻き込まれなければならないというのか。
ジロリと一瞥して問えばインプモンはしばし沈黙。ややを置いて口を開き、
「う~ん……なんでだろうな?」
そして首を傾げる。
「はあ!? なにそれ!?」
「まあまあ落ち着けヒナタ。誤解してるぞ。巻き込んだのは俺じゃない」
「あ……あなたじゃないって、それじゃ」
「ヒナタに何も心当たりがないなら、多分さっきの奴が勝手に勘違いしたんだろうな。ヒナタが俺のテイマーなんじゃないか、とかな」
もう一度首を傾げ、こめかみに指をやって唸るインプモン。どうやら彼もまた状況を完全には把握できていないよう。
しかしそれならそれで、
「テイマー、とかなんとかよくわかんないけど……とりあえず私が無関係ってことだけでも伝えてもらえない?」
「無茶言うなー。命狙われてんだけど俺」
「知らないそんなこと。私関係ないもの」
「それ言ったら俺もあんな奴知らねんだけど」
そう言ってインプモンはそろりと表通りを覗き込む。追っ手の気配は、今のところ不気味にもまるでない。
インプモンは再度私へ向き直る。
「ちゅーかさ、さっきから気になってんだけど、ヒナタなんで俺の事情とかは聞かねーわけ?」
「興味ないし」
「うわひっで。冷た! 世間の風冷た! 人間ってみんなこんなもん?」
「うるさいな……」
ふうと息を吐いて髪をかきあげる。さて、しかしこれからどうしたものか。
興味ない、とは言ったものの、これだけしっかり巻き込まれては逆に何も知らないほうが危険なのかもしれない……不本意ではあるが。
「ねえインプモン、じゃあちょっといくつか聞きたいんだけど」
「お? おお、なんだ急に」
「さっきのあいつって、言葉は通じるの?」
問いながら思い出す“さっきのあいつ”。はっきり見たのは数秒だけど、全身刃物の凶悪なビジュアルは頭にこびりついて離れない。
話し合い、という雰囲気ではとてもなかったが、横にいるこのぬいぐるみより余程人間に近い容姿ではあった。
「そうだなー、言葉は分かると思うぞ。聞く耳持つかは別だけど。なに話す気だ?」
「なに、って訳でもないけど。一応確認だけ」
聞く耳持たずともこちらの言うことを理解しているなら少しはやりようが、まあ、なくもない。かもしれない。
「じゃ、もう一個」
ぴっと立てた人差し指をつつつとインプモンへ向ける。
「あなた、私のケータイから出て来たみたいだけど」
「ケータイ? って何だそれ?」
問うもしかしインプモンは首を傾げる。何だ、って言われても。
「ケータイよ、携帯電話。あなたそこから出て来たんでしょ?」
「ケータイデンワ……よくわかんねーけど、要は通信端末か。そこにゲートが開いたのか?」
「ゲート?」
「俺の元いたとことこっちを繋ぐトンネルみたいなもんだ」
言われて思い返す。奇妙な音が聞こえたかと思えば、ケータイの液晶が突然光ってシャボン玉のように膨らみ……そのあぶくが弾けた途端こいつが、インプモンが目の前に現れたのだ。
インプモンの言うゲートとやらは確かに私のケータイに開いたのだろう。と、いうことはつまり。
「ならケータイがあれば、また向こうに帰れるわけ?」
向こう、というのが一体どこかは知らないし興味もないが。
私が問うとしかしインプモンは険しい表情を浮かべる。
「ヒナタが何を言いたいのかなんとなくわかったけど……やめたほうがいいと思うな」
「え?」
「やるなら向こうで勝手にやれ、ってことだろ?」
図星を刺され、私は思わず言葉に詰まった。
「わ、悪い!? だって私は……!」
「わ、分かってるよ。ヒナタは悪くないし、もっともだ。俺もできればそうしたい」
「なら……!」
私が詰め寄るとインプモンはなだめるようにどうどうと肩を叩く。獣か私は。
しかし続くインプモンの言葉にはさすがに閉口せざるを得なかった。
「まずさ、ヒナタ手ぶらじゃね?」
「う……」
「落としてきたんだろ、そのケータイっての。拾いに戻るのか?」
その指摘は、うん、まあそうなんだけどね。
「それに、また開くかどうかもわかんねーよ。どうやってこっちに来たのかもわかんねーのに」
「え……そうなの?」
「うん、そうなんだ。あと、これが一番問題なんだけど、俺が帰ったからってヒナタのこと諦めるとも限んなくね?」
それは……確かに。うん、もっともだ。思わず納得する。
確かあいつコンクリートとかスパスパ斬ってたな……その気になれば私を斬るのもほんの一手間か。
って、そう言えば。
「それにしても、全然追いかけてこないけど……」
ここに隠れてからいい加減随分と経ったけど。土地勘がないにしてもこれは余りにも。
「そうなんだよな、俺もそれが気になってた。何考えてんだあいつ?」
そろりと大通りへ顔を覗かせインプモンは首を傾げる。
「まあ、一応天使型だからな。関係ない人間は巻き込まないつもりなのかも……」
「え……天使?」
「うん? ああ、そうだけど、言ってなかったか。あいつ天使で俺は悪魔」
「……じゃ、やっぱりあなたが悪いんじゃ? 大人しく捕まりなさいよ」
「うわひっで。ヒナタひっでぇ。なんもしてねーよ俺」
スカーフを噛んでよよよと泣き崩れる、ふりをするインプモン。可愛くねーよ。
思わずいらっとする。
しかしそれが期せずして引き金になってしまったのか、私はつい、そんな些細ないらつきに任せて声を上げる。
「あー、もう! もうやだ帰る!」
「えええ!?」
「こんな悪夢はもうおしまい!」
ぱんと手を叩き立ち上がる。ああ、もういい。もう沢山だ。
「ちょ、ヒナタ?」
「来なさいインプモン」
「あの……ええと、どちらへ」
思わず後退るインプモンを無理矢理つかまえ小脇に抱える。
「あれ、あれあれ? ヒ、ヒナタさん?」
「ぐっどらっく、インプモン」
「ぎゃーー、売ーらーれーるー!」
1-3 悪魔の憂鬱
「ドナドナドーナー……」
「インプモンうるさい」
いじけるインプモンを小脇に抱え、数分前に駆けた路地を逆走する。
走ってるうちに段々頭が冷えてなんだか自分がえらいことをしようとしているような気がしてきたけど、今更止められない。
「なあなあ、ヒナタ」
「なに? 考え直す気はないけど?」
「それは……ああ、残念だけどもう運命は受け入れるよ。それよりさっきグッドラックって言ったよな」
「言ったけど、なに?」
「幸運を祈ってくれるなら、一個だけ頼みがあんだけど」
受け入れるけど頼み?
訝しげに眉をひそめる私に、インプモンは続ける。
「紙持ってね? あとなんか書くもんねーかな」
「なに? 遺書でも書くの?」
「ヒナタはホント俺に厳しいな……」
「ま、そのくらいならいいけど」
と言ってもそう言えば手ぶらだ私。空いている手でポケットを探る。こつりと、胸ポケットにさしていたボールペンに指が当たった。あとは紙だけど、
「こんなのしかないけど?」
胸ポケットから取り出した生徒手帳を差し出す。インプモンはそれを受け取るとうんと頷く。
「これでいいよ。ありがとな。何枚か破いていいか?」
「いいけど……なにするの?」
「武器を造る」
問うより早く何かを書き出しながら答えるインプモン。覗き込めばなにやら見たことのない文字と図形を組み合わせた――まるで魔法陣だ。
一枚書いては破き、二、三、四、五枚と。書き終えた紙切れを握りしめて、インプモンは生徒手帳を私に差し出す。
「ありがとな。助かったよ」
「……どういたしまして」
受け取った生徒手帳をポケットにしまいながら、思わずふいと視線を逸らす。
ない、ない。あるわけがない。素直に感謝されようと罪悪感なんて、感じるわけがない。あるもんか。
そんな手には乗るものかと一人首を振る。
そんな私にインプモンは訝しげな顔をするが、関係ない。私は構わず足を進めた。最初にインプモンと出会った場所は、もうすぐそこだ。
「行くよインプモン。覚悟決めた?」
「今更聞くのか……」
「うるさい。じゃ、あとは勝手に頑張って!」
「どう、インプモン?」
「いねーな。見たとこは」
曲がり角からインプモンの顔だけを突き出し恐る恐る問う。インプモンはなにやら不満そうな顔で振り向いて答えた。
「私のケータイは?」
「ケータイ……って俺どんなんか知らねんだけど」
最初にインプモンが現れた場所、そしてケータイを落としたであろう学校帰りの路地を覗きながら、いや覗かせながら。
インプモンはううんと唸りながら身を乗り出し、辺りを見回す。近くにいないならもうちょっと突き出してやっても構わないだろうか。
「お、あれか? 白い端末が落ちてるけど」
私がちょっとした誘惑に駆られだした頃、見計らったようなタイミングでインプモンが声を上げる。
どれどれとインプモンを盾にしながら覗けば確かに、アスファルトに転がっている私のケータイらしきものが目に留まる。
壊れてたら覚えてろよこの野郎と心の中で毒づいて、そろりそろりと路地へ出る。
「いない、よね。しっかり見ててよインプモン?」
「ちゃんと見てるよ。……だからそろそろ離してくれないものだろうか」
「ああ、うん。前向きに検討してみる」
「ヒナタは寛大だな。涙が出てくるよ」
そんなインプモンの嫌味をさらりと流してケータイを拾う。特に傷や汚れは見当たらない。命拾いしたなインプモン。
「じゃ、インプモン」
「なんだ?」
「帰れ」
ケータイを突き出しにこやかに言う。なぜかインプモンは捨てられた子犬のような顔で眉をひそめた。
「ええと、ゲートは閉じてるみたい……だけど」
「じゃ、開いて?」
「いや、だからさ、そんな簡単に……あいつなら知ってるかもしれないけど」
あいつ、か。そう言えば全然姿を見せないな。一体どこに……。キョロキョロと辺りを見渡し、もう一度ケータイへ視線を落とす。と――
そんな時だった。
探せど聞きたくはなかった声が、聞こえてきたのは。
「私をお探しでしょうか、お嬢さん?」
夜気の混じりはじめた茜の空に、よく通る澄んだ声は頭上から降り来る。初めて聞いたはずのその声に全身が産毛まで逆立って、背筋には氷が這うよう。
私はゆっくりと空を仰いだ。
誰、とは問うまでもなかった。
1-4 聖戦の狼煙
その身は銀の鎧をまとい、両腕は斬るより断つを目的としたような肉厚の刃。背に翼を負う姿は、なるほど天使と呼ぶに相応しいだろう。しかしその翼は羽根の一枚一枚が鋭い刀剣。
弱きに手を差し延べる救済者などではない。強きを切り捨てる断罪者であると、その立ち姿が語る。
「スラッシュエンジェモン……!」
インプモンがその名を呼ぶと剣の天使――スラッシュエンジェモンは小さく口角を上げる。
「これはこれは。私の如き一兵卒をご記憶下さっておいでとは……恐悦至極」
「馬鹿にしてんなお前」
「おやおや、滅相もない」
顔をしかめるインプモンに、剣の天使は小馬鹿にしたような態度でわざとらしく肩をすくめてみせる。
こいつがインプモンを狙って来た天使。そしてなぜか私を巻き込んだあんちくしょう。
襲い来るでもなく暢気に喋っているせいか恐怖は次第に薄れ、なんだか見ていたら段々腹が立ってきた。
「ねえ、あなた。ス、スラッシュエンジェモン、だっけ?」
自分で驚くほどに声を張り、真っ直ぐに天使を睨みつける。天使は再度口角を上げ、
「なんでしょう、テイマーのお嬢さん?」
ああ、それだそれ。本当にインプモンの言っていた通りだこんちくしょう。
私が口を開きかけると、しかし先に声を発したのはインプモンであった。
「ちげーよ。なんでそうなんだ。ヒナタはなんも関係ねえ」
「あ……そ、そうよ! 私は関係ないんだからやるなら二人で勝手にやってよ!」
「……それも寂しいな」
「インプモンうるさい!」
この期に及んで名残惜しむな、大人しく独りで死んでこいと、インプモンを睨みつける。
と、そんなやり取りに天使はさも面白そうに声を漏らし、
「インプモン、ですか……これはまた」
言いつつかしゃりと背の刀剣を鳴らして続ける。
「ご本人がそう名乗られたので?」
「は? そう……って、インプモンでしょ?」
首を傾げて目をやれば、インプモンもまた首を傾げ、自分を見ろとばかり腕を広げる。
「見ての通りのインプモン様だぞ。何が言いたい?」
「ふ……ご冗談を。お嬢さん? あなたの匿っているそのチンチクリンは――」
「匿ってないし」
「誰がチンチクリンだ」
私たちの横槍もさらりとスルーして、天使は続ける。
「ただの小悪魔などではありません。そうでしょう……魔王殿?」
「ま、魔王?」
と言ったか。このチンチクリンを?
「ええ、その通り。我らが世界の闇を七分せし七大魔王が一柱・蝿の王――暴食のベルゼブモン」
唄うように言葉を紡いで、天使の口調はどこか陶酔した風に。天使は視線を真っ直ぐと、インプモンを見据え言葉を繋ぐ。
「……に、相違ございませんね?」
わざとらしく首を傾げて天使は問う。インプモンはやれやれと溜息を吐いて肩をすくめてみせた。
「今更聞くかそれ? 違いますって言ったらどうすんだ。……まあ、違わねえけど」
「……じゃあ、本当に」
私が目をやるとインプモンは笑って頬をかく。
インプモンが魔王。じゃあ、じゃあやっぱり、
「やっぱりあなた悪者じゃない!?」
「いやいやいや、ヒナタさん?」
「ええ、その通り。ご理解いただけましたかお嬢さん」
「ちょ! お前ちょっと黙ってろこの野郎!」
ぎゃーぎゃー喚くインプモンにしかし天使は澄ましたもの。かしゃりと刃を鳴らし、寝かせた切っ先を私へ向け、
「お嬢さん、先程の無礼はお詫びいたします。突然のことに冷静さを欠いていたようです。どうかデジヴァイスをお渡しください。レディに手荒な真似はしたくありません」
無礼って。命狙っといてごめんで済ませる気かこいつ。ああ、いやそれより、
「デジヴァイス……」
言葉を反芻し、しばし。おもむろにインプモンに向き直る。
「って、なに?」
耳打ちするような私の問いにインプモンもまた声を潜め、
「テイマーの証、らしいけど。……持ってる?」
「や、テイマーじゃないし」
「だよな……」
ひそひそ話に首を傾げる天使に視線を戻し、恐る恐る言ってみる。言う前からなんとなくリアクションは予想できたが。
「あのー、渡したいのは山々なんだけど……持ってない、です」
「なるほど……」
天使はふうと息を吐き、残念だと言わんばかりに小さく首を振る。
やな予感しかしないんだけど。
「それでもなお、魔王に肩入れすると……それが貴女の答えなのですね、お嬢さん?」
ほらね。思った通りだし。
「インプモン……」
「天使ってのは頭かてえんだよ。いや、ホントごめんな」
「今更謝んないで……泣きそう」
かしゃり、かしゃりと全身の刃を鳴らす天使。
「致し方ありません。ならば――!」
「いーやー!」
「やれやれ……」
気合い一閃。繰り出す一刀はちょうど私とインプモンの間を狙う。
ち、と舌打ち。インプモンは私に体当たりをする。
「わっ! ちょっと……!」
襲い来る凶刃に思わず見とれたその瞬間、横合いからのタックルに為す術もなく、体が宙を舞う。インプモンはそのまま私の体を抱えてくるりと反転、天使から距離をとって着地する。
怪我こそなかったものの……空中で振り回され脳が揺れるような気持ち悪さに私は、インプモンが手を離した途端その場にへたりこむ。
「大丈夫かヒナタ?」
大丈夫じゃないし。
言ってやりたかったが上手く口が動かない。
「あんまり離れるな。あいつ、俺たちを分断する気だ」
分断……ああ、だから間を狙って。
気付いたインプモンは咄嗟に、私と逆方向へは逃げず、同じ方向へ私を抱えて避けたということか。振り下ろされる刃をかい潜って。
ちらりと目をやればアスファルトには赤い斑点がちらほらと。そして今もなお斑点を描き続けているそこへ目が行く。
ようやく動き出した口で呟くように言った言葉は、私自身、聞いたことのない声色に聞こえた。
「尻尾……怪我してる」
「ああ、かすり傷だ。気にすんな」
言って私を庇うように天使の前へ立ち塞がる。天使の狙いは、私ということか。
天使はアスファルトに刺さった右腕の刃をゆっくりと引き抜き、こちらへ向き直る。
「後生大事に護る、その行為こそ先の言葉が虚偽であるなによりの証左……では?」
嘲るように天使は冷笑する。
挑発だ。それくらい私にだって理解できた。
今インプモンが私を見捨てれば、天使はこれ幸いと私を切り捨てるだろう。ありもしないデジヴァイスとやらもろとも。
不安げにインプモンに目をやるも、しかし彼は微動だにしない。どうやらこの魔王殿は本気で私を護るつもりらしい。
その理由は天使の言葉通りなのかあるいは――。
「やれやれ。では次こそその御首級、いただくといたしましょう」
挑発に乗らない私たちに痺れを切らしたか、じゃりとアスファルトを、転がる紙屑を踏みしだき刃を構える。
来る。本気だ。生まれて初めて肌で感じる殺意。身震いがする。
しかし――
「やめたほうがいいと思うな」
「……ほう?」
「罠を仕掛けた」
何を、と問うが早いかインプモンは人差し指を立て笑う。
「サモン!」
閃光が目を焼き、爆音が耳を突く。
思わず瞼を閉じて屈み込むも、至近からの余りの光量と音量に一瞬意識が飛びかける。
爆発……爆発だ。
インプモンの言葉を引き金に引き起こされた爆発。
ちりちりと肌に感じる熱が次第に引いて、そろりと顔を上げれば眼前には平然と立つインプモン。その向こうで、天使のいた辺りから細い黒煙が昇る。
今の爆発で吹き飛んだか、天使の姿はない。
「あっつ……」
「わりいな。大丈夫か?」
体を起こし、爆発で舞ったと思われる砂埃を払う。
数メートルしか離れていないこの距離で私たちにはこの程度。恐らく指向性を持ったその爆炎は、余すことなく威力の全てが天使へ向けられたのだろう。
「や、やった……?」
「いいや。残念だけど」
問う私に、インプモンは横合いへ向けた視線とともに答える。
目をやればじゃりと、立ち上がる天使の姿。
「油断……しましたか」
そう言って片膝をつく天使。よく見ればその左足は具足が変形・変色し、煙を上げる。
ふと、思い出せばその左足は先程紙切れを踏んでいた――ああ、ただの紙切れではない。それこそインプモンの言った罠。インプモンが魔法陣のようなものを書き込んでいた私の生徒手帳の切れ端。
「上手い具合に踏んでくれて、しめたと思ったんだけどな」
「……この程度で倒れては沽券に関わるというもの」
よろりと、ふらつきながらも焼けただれた片足で地面を踏み締める。
あんな状態で……なんて奴だ。
「しかし……そんな姿でこの力。さすがは魔王と言うべきでしょうか。確実に任務を遂行するには、もう一手欲しいところですね」
「もう一手?」
インプモンが問えば天使はくすりと笑う。
そしてそれは突然に。眉をひそめるインプモンの頭上でかちりと響く鍵の開くような音。
はっと仰ぐもそこにあるのは何の変哲もない町並み。しかし続くのはぎぎぎと重い扉の開く音。
「な、なんなの!?」
ぴしりと乾いた音が鳴り、空中に走る亀裂。
インプモンは亀裂を目にし、勢いよく天使に振り返る。
「お前……!」
「罠なら、こちらも仕掛けておきました」
亀裂は次第に大きく、陽炎のようにそこだけ風景が歪んでゆく。
「ねえ! なんなのインプモン!?」
「ゲートだ! こっちに来いヒナタ!」
そしてまた、閃光が辺りを包んだ。
>>第二夜 白妙のファナティック