第零夜 原色のイヴ
0-1 白羽の誘い
それは、八月の最後の日のことだった。
雲一つない晴れ空を突き抜けて、まばゆい太陽の熱がアスファルトを焦がす。行く道の先は陽炎に歪み、茹だるような暑さとはまさにこのこと。
月初めに比べるなら大人しくなった蝉たちもしかし、中には俺たちの夏はこれからだぜとばかりにハッスルする益荒男もまだまだ見受けられた。要するに、煩かった。
「あつい……」
わざわざ口にするまでもない当たり前の感想はほとんど無意識に、譫言のように零して、少女は額の汗をハンカチで拭う。水玉のハンカチには彼女の名前か、あるいは愛称であろう「Mary」の刺繍があった。
ふう、と息を吐く。その細い首に掛かったトレードマークの三つ編みを背中側へぴんっと指で弾いて、少女はハンカチをポシェットへ仕舞い、代わりに水色のスマートフォンを取り出す。二度三度タッチパネルに指を滑らせ、ノイズの走る液晶画面にまた溜息を零す。
どうにも今朝から調子が悪い。というか、認めたくはないが明らかに壊れている。機種変更をしたのはつい先日だというのに。おかしなことをした覚えはない。初期不良という奴だろうか。とにもかくにも見てもらおうと、こうして炎天下をとぼとぼと歩いているわけだけれども。
はあ、と三度目の溜息を吐き捨てて、空を仰いでああ~と声を上げる。
今日は人生で最悪の日だ。まだほんの十四年しか生きてはいないが心の底からそう思った。確かに――ある意味でその予感は大当たりだったなんて、そんなことは知る由もなく。
りん、と。
鈴の音に似た空気の震え。あるいは虫の知らせとでも言おうか。視界の端を白い羽が過ぎった気がした。
何気なく、手の中の水色の端末へ目をやった。
「なに……これ?」
液晶を埋め尽くすのは砂嵐。その中心に浮かぶ、白い便箋のアイコン。
メール?
眉をひそめて、おもむろにアイコンを叩く。途端に立ち上がるのはプリインストールされていたメーラーではない。フルスクリーンで表示されたのはシンプルな白いウィンドウ。まるでたった今打ち込んでいるように一文字ずつ表示されていく文面に、少女は益々眉間のしわを深くする。
少女はまだ知らない。
それが世界を変える聖戦への招待状であることなど。
そして自らの選択がどんな意味を持つのかを。
それから僅か――白妙の胡蝶に似た白羽が、夏の空に静かに舞った。
0-2 紅蓮の標的
何故だ。などと問うことはしなかった。
荒涼たる野を駆ける、その毛並みは黒鉄にして四肢は車輪。鋼の唸りが乾いた空を摩る。人であれば“バイク”と呼ぶであろうそれ。だが、そこは人ならざるものたちの世界。鉄の獣と、人ならざる彼らはそう呼んだ。
牙を打つ。黒鉄の獣を駆るもまた黒衣の獣。身の丈も出で立ちも人のそれ。なれど、濃紺の仮面より覗く血の色の三つ目が、死を前に笑うその狂気が、それが人などでは有り得ぬことを物語る。
火花。ひしめくように重なり響く金属の軋み。秒の間に十と六度。携えた二丁拳銃の引き金を引く。右より九、左より七。放たれた銃弾に同じ数の命が消える。
咆哮。人の姿をしたケダモノが笑う。舞う鮮血、散る白羽。ケダモノの視界を埋め尽くすほどのそれ。名も知らぬその襲撃者たちを一言で形容するならそう、天使とでも。
退屈だった。血に渇き、死に飢えて、戦いを求めて当て処なく彷徨っていた。この渇きと飢えを満たしてくれるなら相手は誰でもよかった。だから、この天使たちがどこの誰で何のために自分の命を狙うのかなど、知りもしないし聞きもしないし興味もなかった。ただ、敵ならそれでいい。どいつもこいつも雑魚ばかりだが、数える気にもならないその圧倒的物量と、見惚れるほどに洗練された統率力が個々の質を補って余りある。端的に言って、悪くない敵だった。
戦いは、勝機の希薄なくらいがちょうどいい。
愉悦に浸る。耳元で研がれる鎌の音が、首筋を撫でる死神の冷たい吐息がこの上なく心地よかった。臨死の恍惚。生き物としては明らかに外れたその感覚がケダモノをケダモノたらしめる。
笑い、撃ち、吠えて、殺した。
どれだけ撃ってどれだけ殺したろう。覚えてはいない。数えてもいない。刹那を生きるケダモノにとっては一秒前に殺した敵もとうに過去だった。
笑う。歪む。狂う。
今一瞬の快楽に身を委ねる。この狂喜がすべてを充たす。他には何も要らない。求めることも考えることもしなかった。だが――
「醜い」
はたと、欲望に溺れる意識を咄嗟に引き戻す。声より一拍、閃くのは白刃。明確な殺意と濃厚な死の匂いを孕む、冷たく鋭いその一撃を紙一重に避ける。仮面の端が浅く裂かれて、ケダモノの顔に浮かんだのは僅かな驚愕。
だが、それも束の間。声を上げて笑い狂う。まるでその出会いを、祝福さえするかのように。
車輪が横這いに地を削る。けたたましい摩擦音と砂煙を立て、鉄の獣がその足を止める。背上のケダモノは、ただただケタケタと笑い続けていた。
「誰だ」
ひとしきり笑い、ケダモノは口端を歪めたままに問うた。名を聞くなど、名を知りたいと思えるほどの強敵に出会えたことなどいつ以来だったろうか。それも、
「我が名はドミニモン」
先の一撃をくれた青い甲冑と光の剣の天使が吐き捨てるように言う。
「スラッシュエンジェモンと申します。以後お見知り置きを」
次いで刃の鎧に身を包む白銀の天使が馬鹿丁寧に礼をする。
嗚呼、とケダモノは吐息を漏らす。よもやこれほどの猛者が二人も揃って現れてくれるなど、今日は何と素晴らしい日であろうか。
可笑しくて、嬉しくて、ともすれば喋るどころか息をすることすらもままならなくなるほどの笑いが込み上げる。そんな狂喜をどうにか喉の奥へと押し止め、肩を震わせながらケダモノは、静かに名乗りを上げた。
「ベルゼブモン」
告げられた名にけれど、天使たちは僅かの反応も寄越さない。聞かずとも知っている。と、天使の眼差しが言葉なく語る。その様にケダモノは、闇に蔓延るケダモノたちが王・ベルゼブモンはまた笑う。
「くっ、はははははああぁ! おもしれえ!」
知ってなお挑むか。この世の闇を統べる七柱が魔王と、知ってなお!?
面白い! 実に面白い! 嗚呼、面白いぞ!?
笑う。醜悪にその顔を歪め、欲望にその心を委ね、自らの声にその喉を張り裂かんばかりに。
「さあ、殺し合おうじゃねえかあ!?」
「何と、醜いことか……!」
そんな魔王に青の天使・ドミニモンが抱くのは嫌悪と激情。こんな邪悪が、汚らわしきケダモノがこの世に存在していいはずなどないのだと。そう、心の内に叫ぶように。
「はあ……はははああぁあぁ!!」
「行くぞ、スラッシュエンジェモン!」
「はい! 全軍我らに続け!」
魔王の雄叫びが天を衝き、天使たちの怒号が地を揺らす。
遠く遠く、高く高く――彼方のまほろばより紅蓮の咲き乱れるそんな戦場を見下ろして、白羽の王は何を思うか深く深く息を吐く。
そうして少し。悲壮にも似た決意の火を点すその目に黒の王を見据え、白の王はその身を天へと躍らせる。
決着は、それから僅か。
眠るように無明の闇へと意識を沈め、王は――紅蓮の花園に臥す。
0-3 夢路の旅人
静かだった。
己の吐息や鼓動さえも聞こえない、しじまの帳に閉じた世界。
暗く、冷たかった。
朔日の夜よりなお暗く、真冬の霜よりなお冷たい。肌から筋繊維、骨子、臓器、神経へ。深く深く、内へ内へと、沈み這い寄るこれが“死”だろうか。
虫の群れを指先で潰すように、脳細胞が一つずつ死んでいく錯覚。思考も凍るよう。今はいつだろうか。ここはどこだろうか。俺は、誰だったろうか。
いいや、知っている。知っている、はずなのに。記憶と認識がどうにも噛み合わない。乱暴に捩切った木片を一つに戻そうとするように、同じものであったはずのそれらは容易に繋がってなどくれない。
見付からないアイデンティティ。
例えば……例えばそう、ここに林檎があるとしよう。これを二つに分けたとして、人はやはりそれを林檎と呼ぶだろう。皮をむき、一口大に切り分けて、あるいはウサギの形にしようと林檎は林檎。だが、すりおろせばどうだろう。パイ生地の上で焼いてしまえばどうだろう。食われてしまえば、どうだろう。咀嚼され、消化され、排泄され、分解されて、そうなればもはや林檎と呼ぶものはいないだろう。
個は、どこまでが個だろうか。家畜を二つに裂いて、二匹に増えたと宣うものはいない。一匹ですらもなくなるかもしれない。四肢の欠損であればどうだろう。失った脚をそれそのものの名で呼びはしないだろうけれど、三本の脚で体を支えて生きているならそれは、間違いなく同じ生き物だろう。
では、生まれる前に二つに裂かれた一卵性の双生児であればどうだろう。
個とは何だ。
アイデンティティの命題。“テセウスの船”、あるいは“お爺さんの古い斧”。
修理に修理を重ねて使い古した道具。思い入れも思い出もあろうそれ。けれど、消耗した部品を何度も何度も取り替えたつぎはぎだらけのそれは、一体いつまでがそれそのものだろうか。すべての部品が別のものへと置き換えられてまだ、それは同じものだろうか。
物に限った話ではない。生き物だってそうだ。細胞分裂と新陳代謝。すべての細胞は、自身を形作るすべての物質はやがて別のものへと変わってゆくのだ。それでもまだ、それは同じ生き物だろうか。
命の本質。魂の所在。俺は誰で、お前は誰だ。
問えど、嘆けど、叫べども、闇の中より答えが返ることはない。
あゝ無情と、ただ時間だけが過ぎてゆく――
気付いた時、俺は俺だった。
掌を開いては閉じ、また開いてはまた閉じる。確かな感触、確かな体温、確かな自分。
音が聞こえた気がして振り返る。暗闇に、光が差していた。暖かくて、優しい光だった。
ふらふらと立ち上がる。よたよたと歩き出す。覚束ないのはきっと、初めて地を踏み締めたから。
は、は、は、と吐息が漏れる。逸る。どうしようもなく。いつの間にか走り始めていた。
後少し、もう少し。手を伸ばして、そうして――鮮血が舞った。
細い腕に鋭い痛みが走る。恐らくは首を狙ったのであろうその一撃。咄嗟に致命傷を避けたのはきっと、初めてのことではなかったから。
振り向いて、ぎりぎりと歯列を軋ませる。“何故だ”とも、“誰だ”とも問わなかった。問うまでもない。けれど、困惑はどうやらお互い様。
何故かは解る。誰かも解る。のに、訳が解らないと困惑する自分がいる。僅か秒の間の睨み合い。少しの躊躇いを置いて、駆け出した。
想定外。それもまたお互い様か。襲い来る見知った誰ぞは一拍も二拍も遅れを取る。どうして背を向けるのだ。どこへ行こうというのだ。今、何が起きているというのだろうか。同じ疑問が頭に踊る。
走り、追い、裂いて、避ける。
何度繰り返したか。繰り返し続けるのは、万全でないことさえもお互い様だから。
ここは狭間の世界。夢と現の、あるいはリアルとデジタルの。
俺はまだ俺になれない。
私はまだ私でいられない。
希薄な存在。不確かな肉体。それでも、それでも歩みを止められぬ理由がある。戦わねばならぬ理由がある。
駆ける。翔ける。どことも知れぬ場所を目指して、誰とも知れぬ誰かが待っていると、愚かしいほどに信じ抜いて。
どこだ、どこだ、どこだ!
誰だ、誰だ、誰だというのだ!
解らない。何も。血に塗れて、痛みに呻いて、戦いに苦しんで、それでも求めるものとは何だろう。
どこまでも、どこまでも手を伸ばす。きっといつかは届くから。根拠もないのに確信めいたそんな予感。
だから、まだ死ぬ訳にはいかない。この感情は恐怖だろうか。希望だろうか。どちらにせよらしくないなと、小さく笑う。こんな時だというに。嗚呼、傷が開く。傷が増える。血が足りない。感覚が鈍い。頭が痛い。訳が分からない。
だから、ふと思った。
そうだ。
君に逢いに行こう、と。
0-4 火種の旋律
それは、十月の始めのことだった。
ほんの一月前の炎天が嘘のように涼しげな夕方。昼はまだ少し残暑が続くけれど、日が落ちると僅かに肌寒くさえある、そんな秋と夏の境目。少女が制服の上に着込んでいるベージュ色のセーターも昼間はバッグに仕舞っていたもの。この時間帯でも少々厚着ではあるのだけれど。
「ヒナちゃん、大丈夫?」
そう問われて、少女は頭を押さえながらも頷いてみせた。
「ここのところずっとね。やっぱりお医者様に診ていただく?」
「平気よ、お姉ちゃん」
頬に手を当て首を傾げる姉に、少女は「大袈裟ね」と首を振る。具合はそう悪くない。ただここしばらくたまに頭痛がするだけ。少し痛いなという、その程度。
「そう? でも、今日はもういいから、先に帰って少し横になってなさい。ね?」
「うん……そうしようかな。けど、お姉ちゃんこそ大丈夫?」
「もう、お姉ちゃんだってお買い物くらい一人でできます。だから、ほら」
ぽん、と肩を叩いて笑う姉に、思わず口をへの字に曲げる。重い荷物を一人で大変ね、という意味ではない。世間知らずなこの姉の危なっかしさは自分が誰よりよく知っている。今年で十八になる大学生とはいえだ。後ろ髪を引かれる思いで振り返り、
「真っ直ぐ帰って来てね。知らない人には着いて行っちゃ駄目だからね」
なんて、幼子に言い聞かせるような物言いは冗談でも皮肉でもない。人の疑い方を知らないあなたにはこれくらいがちょうどいいのですと、真顔の少女に姉は「子供じゃないのよ」と頬を膨らませる。そんな姉に少女は小さな溜息を零して、互いに無言で見詰め合うことしばらく。思わずくすりと笑い合う。
「はいはい。それでは精一杯気をつけます。ヒナちゃんも寄り道しちゃ駄目よ」
そう、笑顔で手を振る姉に手を振り返して、少女は帰路につく。
閑静な住宅街を一人歩く。どこからか夕餉のいい匂いが香る。火点し頃に伸びる影法師をとんと踏み、ふと黄昏の空を仰ぐ。
ちょうど、そんな時だった。
不意に針のような痛みが頭を衝く。また頭痛……いや、何かが違う。何か、何かが聞こえる。どこ、から?
手繰るように探る。
そうして――そうして少女は見付けてしまう。出逢ってしまうのだ。それがすべての始まり。長い長い寄り道の。姉の言い付けは、守れそうになかった。
悪夢の夜が今、始まるのだ。
>>第一夜 黄昏のアンリアル