最終話 『花とヌヌ』 その一 四天王決戦編






 例えばの話。
 あの日から今日までの選択肢がたった一つでも違っていたとしたら、ここにある“今”も違っていただろうか。
 例えばの話。
 その出会いが偶然の産物に過ぎないのであれば、数ある可能性の中にはここにいる以外の“あたし”も有り得たのだろうか。
 例えばの話。
 もしもヌヌと出会えていなければ、このあたしの、雨宮花の人生はどう変わっていただろうか――

 煌々と闇に点る魔術の明かりが閃く眼光の間に揺れる。切っ先を打ち合うような視線の矢が互い違いに飛び交って、空気が冷たく張り詰める。胸の内には熱く真っ赤な戦意をたぎらせながら。
 さあ、と誘うように盗賊たちの首領・ワルもんざえモンが薄く笑う。あたしは骨こん棒を構えて硬質の床を強く踏み締める。続くように熊と魔術師も臨戦態勢を取る。反応が一瞬遅れた理由に関しては、一先ず置いておこう。

「ヌヌ」

 と視線は前へ向けたままに呼び掛ける。ワル熊は余裕の笑みを浮かべ、けれどもその目は一部の隙も見逃さぬとばかり、あたしたちを真っ直ぐに見据えて離さない。熊はぎりぎりと歯列を軋ませて、静かに息を吐く。

「ああ、わかってる」

 それだけ言って、一歩を踏み出す。何をわかってくれたのかはちょっとわからなかったが、あたしはこくりと頷いて返す。魔術師が僅かな動揺を見せた。

「ほ、本気かい? 今までの相手とは……」
「心配すんな。やばくなったら逃げっから」

 そう言って笑う熊に、魔術師は眉間にしわを寄せてあたしを見る。言葉はいらない。目と目で語り合う。という段階までは残念ながら辿り着けていないので何が言いたかったのはさっぱりだが、聞ける空気じゃないのでとりあえず頷いておく。まだ会って数日だもの。
 魔術師は苦々しい顔で一度だけゆっくりと頷いて、杖を構える。その表情はまるで、死地へと赴く戦士を見送るよう。事ここに至ってようやくぼんやりどういう空気かわかってきたが、時は既にすごく遅かった。ワル熊がにやりと口端を歪める。

「作戦会議は、終わったかな?」
「はっ、余裕かましやがって!」

 吐き捨てるように返すと同時、一瞥だけをあたしたちに向ける。その目の奥に決意を湛えて戦意を燃やす。

「ハナを頼むぜ、ウィザーモン!」
「心得た。武運を祈るよ、ヌヌ君」

 そんな言葉を交わし、熊は金属の床を穿たんばかりに強く強く踏み締める。

「ヌ、ヌヌ! ほんとにすぐ逃げていいからね?」

 ずだん、ともう一踏み。四股を踏むように熊は両の足を順に打ち下ろす。知らない間にあたしが行かせた感じになっていたので慌てて言えば、熊は敵を睨み据えたまま不敵に笑う。なにもかも、とうに見透かされていたかのように。

「おうよ! また会おうぜ!」

 とだけ言って、瞬間に跳躍する。その声さえをも置き去りにするように。あたしはその背を一瞥し、ほんの僅かの躊躇いを置いて踵を返す。睨み合うワル熊が薄笑いを浮かべたのが最後に見えた。

「いくよ!」

 魔術師と歯車たちに怒声のように呼び掛けて、金属の床を強く蹴る。「はぐはぐ」と返事であろう変な音が歯車たちの口から鳴った。こうなってはここに留まるだけ足を引っ張り続けることになる。「あなたを残して行けるわけがない!」くらいはヒロインなら言うべきかもしれないが、そんな聞き分けのないことをのたまっている余裕はない。こんな思考だからヒロインになれないのかあたしは。
 軽く落ち込むあたしを余所に、背後で重々しい音が鈍く響いた。次いで熊の叫び、そうしてまた、重低音が薄闇を揺らす。

「ぶひゃ!」

 魔術師が歯車たちに向かって小さく杖を振り、単なる指示か魔術か、応えて歯車たちが魔術師に追従する。熊たちの戦いに背を向けて、いずこにあるかもわからぬ出口に向かって走り出す、その間際だった。頭上から聞こえたおかしな笑い声の正体は、姿を見るまでもなく理解できた。視界の端を過ぎった影は瞬く間にあたしたちの眼前へと現れて、大きな口を両手で覆いながらまた笑う。

「ぶひゃひゃ! 逃げる? 逃げる? ざぁーんねん! 無理ぃー! ぶひゃ!」

 そう、小さな前足では隠しきれないほどに大口を開けて立ち塞がるのは黄色いアメリカンわんこ。もといドッグモン。一足に回り込んできたのか。ニセ博士を連れ去る時にも見せたその俊敏さはやはり侮れない。こんな見た目とキャラの癖して、とはブーメランにもほどがあるので言わないでおくが。

「悪いが……押し通るよ!」
「ぶひゃ?」

 けれど、そんな犬にも魔術師は走る勢いそのままに、右手に杖を構えて言い放つ。一瞬、腹立つキャラに顔をしかめていたあたしを一瞥する。刹那のアイコンタクト。今度こそ頑張って察したあたしは、すぐさま背中の得物に手を伸ばす。
 杖を奮わんとする魔術師に犬は身構えて、魔術師もまた杖を握る右手を真横に広げる。激突は次の瞬間。と、犬が考えたであろうその時だった。魔術師が、意識の逸れた左手を突き出したのは。
 ぱちん、と指を弾けば火花が爆ぜる。指先から細く鋭い雷光が閃いて、瞬きほどの間も与えず犬の脳天へと突き刺さる。

「ぶぎゃ!?」

 不意を衝かれた犬は為す術もなくまともにその電撃を浴びる。全身が震え、呻き声が漏れる。

「ハナ君!」
「よしきたぁ!」

 見た目と犬のリアクションからしてそう強い電撃ではないのだろう。ではないけれど、衝撃に動きは完全に止まる。あたしは骨こん棒を手に駆ける。よおし、合ってた! 犬の目前で骨こん棒を両手に構え、力の限りスイングする。横薙ぎの一撃が犬を捉えた。ぼむ、なんて音を立てて黄色い体が宙を舞う。

「ぁえ!?」

 すべて狙い通り。その、はずだったけれど。
 おかしな音におかしな感触。手応えがない? いいや、確かにぶん殴って、ぶっ飛ばした。だが、

「っぶひゃひゃ!」

 吹き飛んだ犬はぼむんぼむんと辺りを数度跳ね、けろりとした顔で笑い声を上げてみせる。まるでゴムボールでも打ったような感触だった。見た目通りのふざけた体というわけか。

「っ! 危ないハナ君!」

 だが隙はできた。退路からは排除した。今のうちに脱出を、とそう思った間際に再び魔術師が叫ぶ。

「え? ぅおあっ!?」

 不意に別方向から飛んできたそれは、あたしの真横ほんの数十センチの距離で勢いよく床に叩き付けられる。低い呻き声を漏らし、そのままごろごろと転がって後方の壁へと激突する。犬よりずっと大きなそれ。視界の端を過ぎったものが熊であることに気付いたのは、一拍遅れて振り返ったその後だった。

「ヌ、ヌヌ!?」
「か、構うな! いたい! 行けっ!」

 少しだけふらふらしながら立ち上がり、そう言って再びキャットウォークのワル熊に目を向ける。ワル熊は相も変わらず余裕たっぷりに、かかって来いと言わんばかりに薄笑いを浮かべていた。ぎりぎりと歯列を鳴らし、熊は促すように小さくあたしに手を振ってみせる。あのヌメヌメが「俺に構わず先に行け」をできるにまで育ったことにはどこか親にも似た感慨を覚えたが、今はそんなことを言っている場合では勿論ない。何か恰好いい台詞の間に弱音が挟まっていた気もするが、それはともかく熊の頑張りを無駄にしないためにもあたしはすぐさま頷いて走り出す。

「死んじゃ駄目だかんね!」

 とだけ声を掛け、小さく腕を突き出す熊を一瞥する。あんなおててだが親指を立てたのであろうことはすぐにわかった。あたしは壁際で跳ねる犬に視線を戻し、骨こん棒を構え直す。あたしの一撃を喰らった勢いのまま壁や天井を跳躍し、犬のその目がぎょろりとあたしたちを捉えた。体勢を立て直し、再び攻撃に打って出ようかというその時。ちょうど、魔術師が工場の鉄扉を開き、硬質の摩擦音とともに薄闇に光が差した。
 光量の変化に生じる一瞬の隙。踏み出しかけた犬の脚がたたらを踏んで、一歩を出遅れる。半開きの扉に肩をぶつけながら、あたしたちが工場を飛び出したのは犬が仕掛けるとほぼ同時だった。
 ばちん、と。直後に響いた鞭打つような音。恐らく犬が勢い余って工場の扉にでもぶつかったのだろう。真後ろで衝撃が風圧となって弾ける。鉄の扉に激突して自滅、とでもなってくれれば叩きのめす手間が省けるというものだが、期待するだけ無駄なことはわかりきっていた。

「ぶひゃ!」

 そんな笑い声が息吐く暇もなく再び背後から聞こえた。振り返りもせずに廊下を駆ける。

「ねえ! あれどうやったら倒せんの!?」

 と走りながらに問えば、振り向く魔術師の顔は苦虫を噛み潰したよう。あたしが手に持つ骨こん棒と自分の杖とを順に見て、

「弾性を越える衝撃か、あるいは打撃以外の手段……現状では私の魔術しかないだろう」

 まで言って、だが、と首を振る。そこから先は聞くまでもなかった。魔術師は至近まで迫った笑い声に一度足を止め、振り向き様に杖を振るう。杖から放たれる電撃が犬の残像をかすめて石壁を撫でた。ち、と小さく舌を打ち、再び走り出す。
 そう、魔術師とあの犬とでは相性が悪すぎるのだ。犬の戦術は高速機動による接近戦。奥の手を隠し持っている可能性もあるが、今のところはそれ一辺倒。だが、そんなインファイターこそが恐らく魔術師のもっとも苦手とする相手。向こうの射程外から攻撃するにも罠を張るにも、まずは距離を取って時間を稼ぐことが必須。こうも追い立てられては手が打てない。先程のような不意打ちも二度は通じまい。と、なれば、

「今は逃げるしかない!」
「ああぁん! もうっ!」
「ぶひゃひゃひゃひゃ!」

 背中にムカつく馬鹿笑いを浴びながらひたすら逃げる。昨日から逃げてばっかりだな。昨日からでもなかったか。ホントに勇者だっけあたしたち。そんな疑問は事ここに至って抱くやつでは絶対にないけれど。

「ぶっひゃっひゃっ!」

 床を、壁を、天井を。縦横無尽に跳ね回り、あちらこちらに馬鹿犬の馬鹿声が反響する。どうしよう。すごくムカつく。時折魔術師が先の電撃を繰り出し、どうにか退けてはいるものの、勿論そんなものはその場しのぎに過ぎない。否、先程から徐々に魔術師の電撃は的外れに空を切ることが多くなってきている。元よりこのような近接戦闘は魔術師の領分ではない。動きを読まれはじめているのだろう。わらわらと引き連れたハグルモンたちも戦うとなるならぶっちゃけ邪魔だった。

「ぶひゃ! ぶひゃ! わふぅーん!」

 なんて向こうも次第に余裕をぶっこきだす始末。魔術師の電撃を軽くかわし、いないいないばーのポーズで舌をべろんべろんとうねらせる。あたしの中でぶちりと何かが切れる音がした。これが噂に聞く勘忍袋の緒とやらか。殴りたい。ぶん殴ろうか。よし殴る。

「っ! ハナ君!?」
「ぶひゃ?」

 身体を捻り、半ば無理矢理に踵を返す。骨こん棒を両手に構え、跳び回る馬鹿犬をしかと睨み据える。呼吸を合わせ、リズムを読んで、狙いを定める。いち、にの、

「っだああぁぁ!」

 捉えた標的を真っ直ぐに、渾身の力を込めて一撃を繰り出す。迷いなきフルスイングが馬鹿犬を真芯で打ち抜いた。ごむん、と。ゴムゴムしい感触が手を伝う。

「ぶぎっ!?」

 くぐもった変な声はひしゃげたゴムボールみたいになった犬の、口と思しき隙間から。めりめりと骨こん棒が減り込む。秒にも満たないインパクトの一瞬が嫌に長ったらしく感じられた。火花さえもがゆっくりと舞って見えた。両の脚と両の腕に力を込める。奥歯を打ち鳴らして、あたしは力の限り骨こん棒を振り抜いた。

「でえいっ!」

 叫ぶと同時に時間が速さを取り戻す。そんな錯覚。骨こん棒の強打が再び犬を吹き飛ばす。ぼぼぼむん、なんて間抜けな音を上げながら、そのゴムのような体が床や天井を跳ね回る。先程と同じ感触。やはりたいしたダメージもないだろう。だがいい。これでまた時間は稼げた。という建前を用意しつつ憂さは晴らせた。ざまあみろ! ぶぎっ、だって! はっはあー!

「ハ、ハナ君! あの動きが見えたのかい!?」
「んべぇ? え? 動き?」

 再び通路を駆けながら顔を戻して問い返せば、魔術師は後方でまだ跳ねてる犬を一瞥する。かっとなってついやったあかんべーは流してくれた。なので、あたしもそっと舌を引っ込めてなかったことにする。うん、ええとそんで、なんだっけ。ああ、犬の動きが見えたのか、だったか。いや、見えたかと言われるならまあ、

「見えたっていうか、勘だけど」
「か、勘!?」
「え? 見えたらどうしたの?」

 と返せば魔術師は再び犬を見る。通路の向こうで遠く跳ね続ける犬はスーパーボールか何かのようだった。てゆーかいつまで跳ねてんだあいつ。乙女の細腕でそんなに強くぶっ飛ばせる訳ないじゃないのよ。やだわあの子ったら。とかなんとか思いながら魔術師に視線を戻す。気分は乙女のつもりだったが魔術師には一瞬びくっとされたのできっと顔はそうでもなかったのだろう。魔術師は気を取り直すように表情を引き締め、あたしの骨こん棒を指差す。

「こん棒を当てることができるなら、この状況でも一つ手がある」
「手? 殴っても効いてないみたいだけど」

 ゴムボールが破裂するくらいの力で殴れと言っているならそれはさすがに無茶というものだ。多分。けれども魔術師はこくりと頷いて、

「ああ、わかっている。だから、私の魔術を組み合わせる」
「組み合わせ?」
「この際勘でもいい、もう一度当てられるかい?」

 そんな問いに、逡巡は刹那もなかった。

「やってみる」

 力強く頷いて即答する。今あたしきっと格好いいなこれ。魔術師は少しだけ驚いたように目を見開いて、ぐっと杖を構えて頷き返してみせた。
 ふ、そんな伝説の英雄とでもまみえたような顔をしなさんな。照れるじゃないか。ただちょっと殴り足りない気がしていただけさ。ふふ。口に出すのは止めとこうか。

「よし、次の突き当たりで決めよう。いいかい?」
「オッケー、とりあえずもっかいぶっ飛ばせばいいのね?」
「ああ、ハナ君の腕だけが頼りだ」

 そう言って真っ直ぐにあたしを見る魔術師のその目に、疑いや不安は見て取れなかった。頼りだ。だってさ。うへへへへ。まあ、頼ってくれ給えよ。褒めたら伸びるタイプのあたしは漲るやる気を鼻息に変えて蒸気のように吹かす。士気は十二分。来るなら来なさい。駆けて、駆けて、やがて直線の通路が左右に分かれる丁字路で足を止め、踵を返す。少しだけ遅れてついてきたハグルモンたちを曲がり角の先に退避させ、迫る仇敵と真正面から対峙する。
 さあ、お久しぶりに勇者のお仕事と、いきますか……!




 跳躍する。脚ではなくその全身をもって。壁を跳ね、床を跳ね、天井を跳ねる。そうして、ドッグモンは思考する。
 先の一撃には少なからず驚かされた。ぶひゃ。たかが人間と侮っていた。だが、動きを見る限り修練を積んだ戦士などとは到底思えない。ぶひゃ。まぐれ当たりでしかないだろう。こと屋内戦闘に置いては四天王随一を自負するこのドッグモン様が、あんな人間如きに遅れを取るなど有り得ない。ぶひゃぶひゃ。
 もう油断はない。かわし、すかし、なぶって、いたぶって、ぶひゃろしてやる! 覚悟しぶひゃひゃひゃひゃ!
 口の周囲全方向へ放射状によだれを垂らしながら更に加速する。回転まで加えればよだれはもはや芸術的ですらある螺旋を描く。対峙する人間と魔術師が今あからさまに顔をしかめた理由はよくわからないが、まあ、どうでもいい。どうせ今からぶひゃるのだからして。

 跳ねる。跳ねる。肉弾となって跳ね回る。全身の筋肉を着弾に合わせて弛緩させ、跳弾に合わせて膨張させる。タイミングを合わせる度に速度は増し、もはや完全体とて容易には捉えられぬ程。近接戦闘に不向きな魔術師は勿論、あの人間の目にはもう残像さえ映ってはいないだろう。生意気にも「迎え撃ちまする」とばかりに得物を振りかぶっているが、そんな分かり易い大振りが当たる訳もない。どちらを先になぶろうか。四肢はどれから潰してやろうか。そんな思考が頭を巡る。戦いの駆け引きなんてない。必要あるはずもない。この速度と威力の前に為す術などなぶらべばら。
 そうして、ドッグモンの思考は途絶える。




 ごにゅんむ。文字に起こしたらそんな感じ。ピンポン玉みたいに飛んで来る犬を上段の構えで待ち構え、インスピレーションだけを頼りに力いっぱい骨こん棒を振り下ろす。骨こん棒は拍子抜けする程にあっさりと犬の脳天へと突き刺さり、頭蓋骨すらなさそうな軟らかい頭にめりめりと音を立てて減り込む。またあの感覚だ。時間が酷く緩やかに過ぎていく。薄く引き伸ばされた一瞬の中で、あたしの頭だけが何事もなくいつもの早さで回っているかのよう。犬ピンポンの軌道と骨こん棒の軌跡が気味悪い程にはっきりと見えた。
 どっこらしょいと、のんびり力を込め直す。できる限り接触が長くなるよう、床に真っ直ぐ叩き付ける。石畳と骨こん棒に挟まれて、犬がぶひゃりとひしゃげた。行き場をなくした質量と弾性が犬の体を変形させる。一体ここまで何秒だっけ。瞬き一つで見逃す程に短いはずの時間がやけに長ったらしい。脳が覚醒するにも程ってものがあるだろうに。

「せいやっ」

 石畳ごとにっくき犬を打ち砕かんばかりに力と気合いを込める。犬の体が限界まで平たくなって、瞬間、その全身に金糸のような煌めきがほとばしる。筋繊維を引き裂くそれは魔術師の、電撃だった。
 何のことはない。策とは単にこれだけのこと。骨こん棒に魔術師が電撃をまとわせ、あたしが打撃と電撃を同時に叩き込む。ただそれだけ。恐らくはスタンガン程度の威力しかないだろうが、それでいい。
 骨こん棒がごりごりと石畳を削る。弾かれた犬の体が再び辺りを跳ねる。けれど、先程までの速さは既にない。あたしは即座に真横に跳ね退いた。

「ウィザーモン!」

 振り向いて呼び掛ければ魔術師はただ一度だけ頷く。杖を真っ直ぐに突き出して、跳ねる犬を見据える。犬の動きはなお鈍い。
 どうやら魔術師の予測したとおり。犬は自分の意思で弾力をコントロールしていたのだろう。強い電撃を浴びたことで体が麻痺し、一時的ではあるがその制御が利かなくなっているようだ。そうなれば、もはや止まった的と何も変わらない。

「“プロミネンス”……!」

 構えた杖の先に火花が散る。真っ赤な光球が灯り、熱風が舞う。魔術師は眼光鋭く歯列を軋ませる。視線の照準に敵を捉え、意識の引き金を引く。瞬間、球形に圧縮された高エネルギーが爆ぜる。

「“ビーム”!」

 閃光が走る。太陽の意匠より紅炎に似た真紅の粒子線が閃く。瞬きの間に空間を駆け、空気を焦がし、薄明かりを引き裂くそれ。広げた掌程の直径にもなる極太の光の矢。予備動作の長さと軌道の読み易さゆえ、まともに正面から撃ったのでは容易にかわされてしまうだろうけれど、硬直した体でただ跳ねるだけの犬には、それさえも叶わない。表情筋すら思い通りにはならないであろう犬の顔が、一瞬に青ざめて見えた。
 敗因は、このあたしを舐めたことだと知るがいい。いえす! ごー・とぅ・へえぇぇる!
 親指を真下に突き立てればその瞬間、光の軌跡がクソ犬のゴムボディを飲み込む。金切り声にも似た耳障りな高音が鼓膜を衝き、氾濫する光が網膜を刺した。
 その光量に思わず目を閉じて、少し。再び瞼を開けば先程までの場所に犬の姿はなかった。消し炭になってホントに地獄に行ったろうか。なんてさすがに少し胸が痛んだが、よくよく目を凝らせば随分離れた位置に黒焦げの物体が転がっているのが見えた。煙を立てながらぴくぴくと痙攣するそれは、形と大きさからしてどうやら犬に間違いはなさそうだった。黒焦げというには黒一色すぎるコミカルな焦げ方だったのでそう深刻なダメージには見えなかったが……さて。

「デリートには至らなかったが、もうまともには動けまい。やれやれ、肝が冷えたね」
「ええ、ホントお疲れ様。すごいの隠し持ってんのね」
「実戦で決まったのは初めてだよ。ハナ君のお陰さ」
「ん、うへへ。そう?」

 なんて笑いながら後ろ頭をかく。我ながら単純だね。

「あ。そうだ、これ返すね」

 後頭部に感じたもそっとした感触に思い出し、びりびりこん棒作戦の前に借りた魔術師の手袋を脱ぐ。作戦名は今考えた。裏地に不思議な光る文字が浮かび上がる手袋は、魔術師の言っていた通りびりびりこん棒を握るあたしへの感電を見事に防いでくれた。いい物持ってやがる。あたしなんて武器以外は初期装備だぞ。なんであたしいまだにこんな軽装なんだろう。

「ところで、彼はどうするんだい?」

 手袋をはめ直し、少しだけ声量を落として魔術師は言った。その視線の先に転がるのは黒焦げの犬。ところで元からぬいぐるみみたいな手に手袋は必要なのだろうか。それはともかくあたしも再び犬を見る。時折ぴくぴくと痙攣はするものの、起き上がる気配はまるでない。どうする、の意味は勿論わかっていた。けれど、

「どうもしなくていいんじゃない? どうせもう動けないでしょ」

 とだけ言ってふいと視線を逸らす。魔術師は、小さく頷いて返す。

「成る程。罪を憎んで人を憎まず、だね」
「え? ああ、うん」

 生殺与奪とか委ねられても重すぎてヤダってだけだったが、まあ、そういうことにしておこうか。人ってゆーか犬だけど。こんな戦場ど真ん中に瀕死で放置するのも大概あれな気はしたが、楽にしてやる義務も介抱してやる義理も別にない。アウトロー気取るなら自分の命くらい自分でどうにかしろって話だ。このスタンスは勇者としてセーフな奴だろうか。

「よし、ともあれ先を急ぐと……」

 腕を組んで犬の丸焼きを見ながら唸る。そんな暢気なことをしている場合ではないと思い出したのは、魔術師が「あ」と声を上げた後。その視線を追って廊下の真反対から現れたガスマスクたちの姿を認めてからのことだった。
 顔を見合わせる。まずはガスマスクたちと、次いで魔術師と。そうして、頷き合って一目散に走り出す。




 二人は逃げ切れたろうか。意識の端で思考しながら、迫り来る鋭い爪の一撃をかわす。身体をのけ反らせ、一歩を後退る。今度は避けきった。そう思えば不意に、重い衝撃が身体を突き抜ける。左の爪を囮に繰り出された右拳が、態勢を崩したその瞬間を狙いすまして叩き込まれる。途端に身体は後方へ吹き飛ぶ。
 腹を押さえながらどうにか地に足つけて踏ん張って、黄色い熊は小さく唸る。

 二人が工場を出てほんの10分足らず。黄色と黒の熊こと、もんざえモンとワルもんざえモンの対決は、後者の圧倒的優位であった。

「おやおや、考え事かね? 随分と余裕があるじゃあないか」

 なんて嘲笑するワルもんざえモンには、疲労の色などまるで見て取れない。
 ち、と舌を打つ。
 何なら四天王もまとめて引き受けてやるぐらいの気概で挑んだものだったが、絶対無理だと悟ったのは僅か一合目。ドッグモンにもみすみすハナたちの後を追わせてしまった。戦闘経験値の差を嫌という程に思い知る。踏んだ場数の桁が違う。同種の完全体ゆえ、大差はないと思っていた基礎スペックですら大きく劣っている。膂力も、それを操る技術や戦術でも負け、正直に言えば勝ちの目は欠片も見えない。ぶっちゃけ泣きたい。泣こうかな。

「我が野望を挫いてくれるのではなかったかな?」

 それ言ったのオイラじゃねんだけど。という言葉は飲み込むことにした。今はまだ敵わない、とはいえ、今はまだ逃げるわけにもいかない。先に行った二人はアジトの出口を知らないのだ。脱出にはまだ時間がかかるだろう。てゆーかオイラも知らないけど。工場見付けてこいつぁ大手柄だぜとか思ったら他のことはすっかり忘れちまった。くそ、なんて雑な仕事だ! この憤りは誰にぶつければいい! オイラか! オイラだ! こら!
 ぎゅむんと顔を歪め、疲労と弱気を追い出すように息を吐く。そろそろハナの生き霊とかがモノローグに突っ込みに来そうだし、気合いを入れ直してもちっと踏ん張ってみるとしようか。

「待ってろ。今からべっこべこに挫いてやっから」
「ほう、それは楽しみだ」

 余裕たっぷり、皮肉げにワルもんざえモンは笑う。自分が負けることなど夢にも思ってはいないのだろう。そして事実、その通りになるだろう。やれやれまったく、とんだ貧乏クジを引いちまったもんだぜ……!




 駆けて、駆けて、石造りの通路をひたすらに駆ける。追われて、逃げて、戦って、また逃げる。もはや出口を探すどころではない。追っ手はどんどん増えていく。曲がり角で出くわした何組目かも忘れたガスマスクたちをぶちのめし、息吐く暇もなくまた走る。そうして、ぶえっきしょいべらんめいと豪快にくしゃみをする。あらやだ失礼。

「だ、大丈夫かいハナ君?」
「うん、ありがと。……ねえ、なんか誰かがあたしの突っ込みを求めてる気がする」
「十中八九気のせいだとは思うが……」

 あたしもそう思うのだけれども。誰かに、何かに突っ込まなければいけない気がして仕方がないのだ。きっとあいつだな。馬鹿言ってないで頑張んなさい! とりあえず勘で突っ込んでおく。

「それよりハナ君、このまま出鱈目に逃げ回っても埒が明かない。何か手を打たないと」
「何か、って言われても。てゆーかそれそっちの得意分野じゃないの?」
「すまない。残念だがさっきから何も思い浮かばないんだ!」
「安定のご活躍ね!」
「申し訳なく思う!」

 そう言われたら何にも言えないわ。あたしだってどうしたらいいかさっぱりだもの。辛うじて思い付くのは適当な雑魚を捕まえて出口を聞き出したり人質にとったりだとかくらいだが、コフーと言われても何が何だかわかんないし、あんなゴム風船に人質としての価値があるとも思えない。捕まえるならあのニセ博士だが、その千載一遇の好機ならさっき逃したばっかりだ。
 どうしたものか。ただ無策に走り続けながらちらりと後ろを振り返る。ハグルモンたちはずっと大人しいまま、黙ってあたしたちの後に着いてきていた。この大所帯も脱出を困難にしている一因だろう。ぶっちゃけ目立つもの。この状況でこの子たちを連れて脱出となると、やはり手は限られる。そうなれば――

「ハナ君! 前だ!」
「え? ぅわおぉう!?」

 不意に、思考の最中に割って入る声は魔術師。はっと、視線を戻せば目の前には黒い塊。鼻先まで迫っていたそれが何かはわからない。わからないけれど、ぼさっとすんなと本能が警鐘を鳴らす。反射神経と運だけで間一髪にそれを避ける。前髪の数本をかすめてそのまま後方へと飛んでいくそれは、

「黒い歯車!?」

 に、どうやら間違いはなかった。あたしに次いで軌道上から飛び退いた魔術師の真横と、ハグルモンたちの頭上を通り過ぎ、黒い歯車は狭い通路で器用に旋回する。燭台の灯に照らされた黒が眼光のように煌めいた。また来る!

「我々を狙っている……ニセアグモン博士か! っ!」
「ウィザ……わあ!?」

 飛び来るそれが再びあたしたちを襲う。四つん這いで半ば転げ回りながらまたかわす。成る程、明らかに意志を持ってあたしたちを狙っている。だが、どうやら標的はあたしたち二人だけのよう。横でぼけっと見ているハグルモンたちには目もくれず、あたしと魔術師だけをしつこく追ってくる。製造元には効かないのか、あるいはあたしたちを片付ければその必要もないということか。何にせよ、厄介な状況だ。

「ハナ君、叩き落とせるかい!?」
「よしきたぁ!」

 掌からの電撃で申し訳程度の牽制をしつつ、問う魔術師へ即座に返す。手には既に骨こん棒を構えていた。
 単純な速度なら犬よりずっと遅い。曲線の軌道は多少読み辛いが、鈍足をカバーできる程ではない。端的に言って、イージーなミッションである。

「てい!」

 迫り来る黒い歯車をもう一度だけかわし、すぐさま踵を返す。後ろから追い縋る形で距離を詰め、黒い歯車が再び反転した瞬間、転回のために減速するその瞬間を狙いすまして骨こん棒を繰り出す。捉えることはなんら難しくなどなかった。両手持ちした骨こん棒を歯車の側面へと勢いよく叩き込む。硬く、けど軽い手応え。乾いた音を上げて黒い歯車が真横に吹き飛ぶ。石壁にぶつかり、石畳の床に落ちて数度跳ねる。黒い欠片が辺りに舞った。ぃようし、ミッションコンプリ――

「ハナ君、まだだ!」
「ぅえ?」

 床を転がる歯車に気を抜きかけたその時、叫んだ魔術師に訳もわからないまま頓狂な声を上げる。振り向けば魔術師は慌てた様子であたしの背後を指差していた。もう一度くるりと振り返り、そうして、大分遅れて理解する。
 黒光りするそれは巨大なゴキブリの群れにも見えた。我ながら酷いたとえだが要は大量の黒い歯車が迫ってきていた。工場であれだけせっせと量産していたのだ。考えてみたら先程の一つだけであるはずがなかった。
 逡巡。は、刹那。あたしと魔術師は引きつった顔で互いに無言のまま走り出す。あれはベリーにハード。てゆーかインポッシブル。いたいけな女子中学生にどうにかできる奴じゃない。

「ねねねねえ!? あれ! あれ捕まったらどうなんの!?」
「お、恐らく! 精神に異常をきたしてしまうだろう! あの数はもはや洗脳どころの騒ぎではない!」

 疾走しながら悲鳴のように聞いてみて、やっぱり聞かなきゃよかったと後悔する。はい来たこれ駄目な奴ぅ! ずっとそうですけれどもぉ!
 魔術師も言っていたが、消去法で考えても操っているのはやはりニセ博士か。くそ、あの時ちゃんと始末しときゃよかった。始末とか言っちゃった。勇者反省。てへ。とか言っている場合では全然ない!

「ねえ! なんとかできないの!?」

 ワル熊はうちの黄色い熊が抑えてくれているとして、しかしそれだけで手一杯のはずだ。だからこそ犬はあたしたちを追ってこれたわけだし。その犬は片付けたものの、手隙の幹部がまだ三人もいる。その上ガスマスクたちもまだそこらにわんさかいることだろう。出くわす前に後ろのあれをどうにかしないと、最悪挟み撃ちだ。

「なんとか、したいのは山々だが……!」

 そんな返答は半ば想定内。そうだ。そんなことができるなら犬の時にやれという話だ。

「あれを一度に撃ち落とすとなると、高位の術式を構築する必要がある。だが、精神集中もできないこんな状況ではとても……!」

 そして犬のように、あたしが時間を稼ぐこともあの数ではできそうにない。てゆーか精神に異常とか言われたらやりたくもない。

「走りながらどうにか集中できないの?」
「そ、そんな無茶な……」

 ですよねー。知ってたよ。言ってみただけだから。か弱いあたしが担いでやる訳にもいくまいし、こんな状況でのんびり精神統一なんて――と、そこまで考えて、はたと思い付く。馬鹿馬鹿しいことかもしれない。どこまで上手くいくかなんてわからない。けれど、

「ウィザーモン! 浮いて!」
「え……あ!」

 差し出すように手を伸ばし、ろくに思考を整理もせず、相談すらもしないで言い放つ。魔術師は一瞬の戸惑いの後に目をつむり、小さく呪文を唱えながら紋様の輝くマントを翻す。そのまま石畳を蹴り、その身を宙へと踊らせる。ニセモグラの時には咄嗟に使えていた飛行魔術。やはり思った通り精神集中や詠唱に要する時間は攻撃魔術よりずっと短い。勿論、飛んだところで今度は飛行に集中力を費やすだけだし、これで距離を取ろうにもこんな狭い屋内では速度を出せないだろう。だが、飛ぶ必要なんてない。
 羽根のようにふわりと浮き上がった魔術師は、跳んだ勢いのまま身体を半転させる。迫り来る黒い歯車に向き合う形で宙を漂う。どうやらちゃんと、あたしの意図を汲み取ってくれたらしい。

「すまない、任せるよ!」
「任された!」

 上手くいくかはわからない。けど、できるかどうかを考えてる暇はない。あたしは浮揚する魔術師の襟首を後ろから片手で引っつかみ、そうして、そのまま脇目も振らずに走り続ける。ただそれだけ。浮けたら担いで走ってやるから頑張って集中しろと、ただそれだけの無茶振りである。無茶でも何でもやるしかないんだもの。
 とりあえずのところ飛行魔術のお陰で重さはまるで感じない。ちょっと乱暴につかんでしまったか「ぐえ」と小さく漏れはしたものの、少しを置いて後方へ伸ばした腕の先であたしの吐息と足音に混じって呪文が聞こえ始める。杖から発せられているものであろう淡い光が横目に見えた。いけてるのか。大丈夫なのか。こんなので。誰よりあたしが一番成功を疑っていた。

「ハナ君、反動に備えて」

 けれど、どうやらそれも杞憂だったらしい。嵐の前の、とばかり。嫌に静かな魔術師の言葉に思わず、ひゅ、と息を吸って身構える。閃光が瞬いたのは、その直後。

「“サンダークラウド”!」

 稲光が閃く。雷鳴が轟く。低い天井と狭い廊下に反響し、氾濫し、閉鎖空間に霹靂が荒れ狂う。文字通り無差別に、無作為に、飛来する黒い歯車とその周囲の壁やら天井へ雷光が炸裂する。借りてきた猫みたいに運ばれて制御し損ねた――わけではない。魔術師の狙いはすぐに理解できた。できたから、ひう、と小さく呻いて走る速度をなお上げる。
 あれだけの数が密集していては一撃で撃ち落とすのは難しい。仮に撃ち落とせたとしても、どのみちまた次が来るだろう。だから、進路を塞いでしまうのが一番手っ取り早いのだ。つまりは、壁と天井を崩して無理矢理止めてしまえという話だ。
 駆けるあたしの真後ろで轟音を上げながら天井が崩落していく。衝撃と微細な破片があたしの身体をかすめて通り過ぎる。何やら後ろで「あ」という素っ頓狂な声が聞こえた気がしたが、問い詰めるのは一先ず後にするとしよう。

「ハナ君、失敬する!」
「ほぁえ!?」

 襟首をつかむあたしの手をぎゅっと握り、マントを翻して魔術師は前方へと向き直る。そのままあたしを後ろから抱え上げ、細い通路を低く飛ぶ。思わず変な声が出た。練習したのにいざとなると可愛い声って出ないものだ。
 どおん、と。そんなくだらない思考ごと通路を飲み込むように、土色の爆風が吹き荒れたのはその直後。風圧が背を叩く。身体が右へ左へ上へ下へと揺れに揺れる。飛行魔術は見るからに制御できていない。爪先が石畳を擦り、思わず足を伸ばして二歩三歩とステップを踏む。勿論余計にバランスを崩してもはや「さあこけますよ」とばかり。

「ぶへっ!」

 なんて間抜けな声を上げて転倒する。だけでは飽き足らず、そのまま転がり続けて突き当たりの壁に顔からぶつかる。あいでっ。崩落からはどうにか逃れたらしいがこれはこれで十分に酷い目に合っている。頭上でも似たような声が聞こえて、かと思えばあたしの横に魔術師が降ってきた。飛んだまま激突したならそっちのがよっぽど痛そうだな。あたしはまだマシだったか。どうもありがとう。

「ウィザ……」

 と、名を呼びかけて、細く息を飲む。氷の針が喉を突いたような錯覚。身体の真芯がまるで瞬間に凍るよう。見えたわけではない。気付いたわけではない。突き当たりから右へと折れる一本道のその先に、奴が、待ち構えていたことなど。

「ふんにゃあ!」

 魔術師のだぼだぼとした服を乱暴につかみ、座り込んだままの格好でカエルもびっくりなくらいに無理矢理跳ねる。今し方転がってきた通路を転がってまた戻る。変な叫び声まで含めてそこまでほとんど無意識だった。ただ本能が、けたたましく警鐘を打ち鳴らしていたのだ。

「ハナく――!?」

 戸惑う魔術師の声をも掻き消して、鋭い雷鳴と電光が僅か一瞬の後に弾けて爆ぜた。間違っていたらただの奇行だったが、幸いにもあたしの生存本能はアンテナびんびんにおっ立て絶好調だった。自分で自分が怖いくらいだ。

「い、今のは……!」
「へいへいへへぇ~い!」

 喉から押し込むように息を飲み、誰にともなく当然の疑問を口にする。そんな魔術師に、聞くもそこそこ場違いな口調と声色が言葉を遮った。たった今引き返したその角を曲がった先から聞こえるその声。聞き覚えのある、とてもムカつく声だった。条件反射に近い形で思わず拳を握る。

「うっきゃっきゃ! クール! クール! クール! クールじゃねいNO! イエア!」

 曲がり角からそろりと顔を覗かせる。誰かは分かっていたし顔も見たくはなかったが、確かめないわけにもいかなかった。直角にかくりと折れ曲がった一本道の先、距離にして20メートル強といったところか。くねりと気持ち悪いポーズを決める、ピンクの気持ち悪い猿がそこにいた。

「ターゲットモンか……ありがとうハナ君、助かったよ」
「どういたしまして。まあ、助かったかどうかは微妙な気がするけど」

 こくりと喉を鳴らした魔術師に、ゆっくりと振り返ってそう返す。前には猿が待ち構え、かと言って引き返そうにも通路は今さっき塞がったばかり。瓦礫の奥からは黒い歯車のそれであろう駆動音が低く微かに聞こえていた。

「う……すまない、よかれと思って……」
「わかってる。ああでもしなきゃ追い付かれてたし、ウィザーモンの所為じゃないから」

 顔を伏せる魔術師の肩を叩いて、こつんと後ろ頭で弱く石壁を打つ。もう一度だけ馬鹿猿の姿を確認し、溜息を吐く。なんかYOYO言ってたけどどうでもいいので流すことにした。
 さて、と。とりあえず、50メートル走どんくらいだったかな。確か8秒は切っていたな。メガネの癖に速いとか言われたのを覚えている。なんだメガネの癖にって。それはともかく、猿まで約25メートルとしたら半分の4秒。いや、曲がり角からスタートな上に初速はもっと遅いか。骨こん棒も手放すのは無謀だろう。

「ねえ、何発なら防げそう?」

 問えば思案は少し。答えた魔術師の顔は、苦々しい。

「移動しながらであれば、初撃で精一杯だろうね」
「空中で狙撃された時の間隔を考えたら、多分2、3発は撃ってくるよね」
「ああ、いい見立てだと思うよ」
「どうも」

 となれば残り2発。飛び出すと見せ掛けて最初の1発を無駄撃ちさせたとしてもまだもう1発。この狭い通路では横にかわすこともできそうにない。

「こん棒で防げないかな」
「こん棒……か」

 駄目元くらいのつもりで聞いてみる。と、意外にも即座の否定はなかった。ただ、両手をあげての賛成などでは到底ないようだったが。

「その骨は、スカルグレイモンという完全体デジモンの骨格と同一のデータで構成されているんだ。先程の一撃もアジトを破壊しない程度に出力を抑えていたようだし、その硬度とハナ君の膂力であれば可能性はあるが……」
「あるが?」
「そうは言っても生半可な圧力ではない。防げたとしても足は止まるか、あるいは吹き飛ばされてしまうだろう」

 前進できなきゃ一手を止めたところでどのみち王手に変わりはない、か。だが、そこまで攻め入ることができたなら後一歩のはずなのだ。後一押し、後一手、何かがあれば……。
 胸元をぎゅっとつかむ。行為自体は無意識に。だから、手に当たる感触にその存在を思い出したのは単なる偶然だった。牢から脱出した後、工場へ着く前に懐へ忍ばせておいたそれ。ふと思い出したのは、横にいる魔術師と初めて会ったあの日のこと。

「泥臭いのばっかりね」
「え?」

 ほらね、またこんな馬鹿らしい手しかない。たまにはスタイリッシュにスマートに決めてみたいものだが、どうしてあたしたちの戦いはこうももっさりばたばたしているのか。小さく吐息を漏らして魔術師に向き直る。人差し指をぴっと立て、

「一個思い付いた。駄目なら間抜けな死に様晒すけど、乗る?」

 と問えば、魔術師は短い逡巡を置いて頷いてみせる。

「わかった、乗ろう」
「ギャンブラーね」
「勝負もせずに負けるよりはいい」

 なんて言葉はもっともだった。そう、この膠着は狙撃手単騎との遭遇というありえないほどに幸運な現状ゆえのもの。又とないであろう好機なのだ。歩兵が加われば、ガスマスクたちが駆け付けてしまえばそれだけで膠着は破られる。それだけであたしたちは詰んでしまう。手を打つなら、今この瞬間をおいて他にはないのだ。

「それで、何をすればいいんだい?」
「最初の1発防いで。次はあたしが意地でも止める。後は……祈って!」
「承知した。全力で祈ろう!」

 肝が据わってきたな。いや、作戦を聞きもしないあたり単なるヤケクソかこれは。

「へいへぇ~い! 隠れてたって誰も助けにゃ来てくれねえZE! やるならテメーでやるんだNA!」

 しゃらっぷ。知ってらいそんなこと。あの場にいた犬とニセ博士がどちらもあたしたちの追撃に回り、こうして猿までもが現れてしまったのだ。うちの熊の相手はワルい熊だけで十分だと判断されてしまったのだろう。助けは期待できそうもない。そう、他の誰でもない、ヤケでもなんでもあたしたちがやるしかないのだ。
 もう一度、猿の様子を窺う。上手くいくかはあいつ次第だが、あの馬鹿面を見ていると案外割のいいギャンブルという気もしてきた。息を飲む。こん棒を握り直す。魔術師に目配せをし、互いに頷き合う。魔術師が呪文を唱え、その杖の先端が淡い光に包まれる。こくりと、魔術師が再び頷いてみせた。

「一回透かすよ」
「心得た」

 小さく言って、大きく息を吸う。さあ、のるかそるかの一発勝負だ!

「だったら行ってやろうじゃないの! 辞世のラップは用意できてんでしょうね!?」
「ハッハー! オーケイ、用意しといてやるYO! お二人分NA!」

 叫びながら曲がり角を飛び出す。猿が初撃を放ったのはそれと同時。初動が速い。名前はお飾りでもないらしいな。だが、所詮は猿知恵だ。すぐさまバックステップでそれをかわし、と同時に再度前へと走り出す。的外れな電撃が石壁を衝き、真横で電光が弾けた。作戦通り。光の残滓を背に一本道を駆ける。光の……あれ、なんだ今の。

「ハナ君!」

 魔術師が叫んだ。浅はかさに気付いたのは飛び出してしまった後のこと。感じた違和の正体は、電撃の光量と音量。あまりにも、先程無駄撃ちさせたそれはあまりにも弱々しい一撃でしかなかった。
 脇腹辺りまで引いた猿の左手に弱く火花が散る。真っ直ぐに突き出した右手の先に強く火花が舞う。第二撃は、とうに放たれた後だった。
 やられた。一撃目は囮。二撃目の本命をより早く放つために出力を抑えていたのだ。作戦は、はなから見抜かれていたのだ。猿知恵はどっちだ! こっちか! ふぁっく!

 引き返すか。いいや、今通じないなら仕切り直したところでたいした意味はない。このまま、やるしかない!
 飛び出して1秒と少し。残り約20メートル。放たれた2発目は、射出の次の瞬間には目前にまで迫る。槍のように突き出した魔術師の杖の先端と接触し、杖に点る光と雷が諸共に掻き消える。ぐ、と魔術師が声を漏らし、その足が僅かに止まる。目前の閃光にも構わずあたしはなお走る。
 3秒弱。残り約10メートル。3発目が放たれる。今度は両手から。肉眼で捉えられる弾速ではない。今し方目の前で見たタイミング、己の間隔だけを信じて骨こん棒を振るう。犬ピンポンより更に速い。けれど、真正面から馬鹿正直に飛んでくるだけだ。

 できる、できる、できる! 信じろ! 信じた!

「っだああぁぁぁーー!!」

 がおん、と。獣の咆哮にも似た激突音。骨こん棒が迫り来る黒い雷球を打ち据える。よおし、できたあぁ! さすがあたし!
 だが、問題はここからだ。どうにかこうにか辛うじて防いだ程度ではお話しにならない。撃ち落とし、最後の一手でお猿を刺す!

 3秒ジャスト。その圧力に駆ける足は止まる。石畳を踏み締めて、骨こん棒を振り抜かんとするも吹き飛ばされないだけで精一杯。
 3秒強。稲光に見えもしないが、猿は既に次弾の用意に入っているだろう。今、この瞬間が最後のチャンス。だというに、力が、少しだけ足りない。後少し、ほんの少しでいい。力、を……!
 そう思った瞬間に、骨こん棒を押し戻す圧力がふと消える。逆側から、あたしの後ろから不意に突き出されたのは見覚えのある、太陽を摸した杖だった。ゴム風船が破裂するような景気のいい乾いた音。とともに、杖の先端に点る微かな光が弾けて消える。雷球の威力の大半をも道連れにして。刹那を置き、エネルギーの殆どを失った残りカスが骨こん棒の一振りに霧散する。

 4秒弱。残り約10メートル、は変わらない。けれど、道は拓かれた。次弾の発射までは1秒あればたっぷりお釣りが来るだろう。走るのであれば2秒は欲しいところ。だが、これでいい。柄から離した左手を懐へ。閃光の残滓が舞い散る中で隠し持っていたそれをしかと握る。利き手でない上に逆向きのサイドスロー。万全には程遠い体勢だが、やってのける他に前へと続く道はない。

「これをぉ……食らえぇぇぇ!」

 二歩三歩とたたらを踏むように、僅かなり距離を詰めながら左手のそれを力一杯ぶん投げる。緩やかな弧を描いて飛んでいくそれ。投擲――石つぶて? ダガー? 爆弾? 猿の頭を巡ったのはそんな思考だろうか。砲撃の射線を外れた弓なりの軌道。撃ち落とすなら今度はあたしたちが射線から外れてしまう。かと言って殺傷力のある投擲武器であれば無防備に受けるわけにもいかない。正体を見極めるため、猿があたしたちから視線を逸らしたのは無理からぬことだった。それが、こちらの狙いと頭ではわかっていても。
 これで王手。そうしてこれで、詰み……だああぁぁぁ!!

「ぬありゃああぁぁぁ!!」

 石壁に反響するそんな声に、あたしが何かを仕掛けたことにはさすがに気付いたろう。けれど、猿は視線を戻せない。あたしがぶん投げたそれの正体に気付いたからこそ、目を離せない。照準を合わせることもままならない。それは根源の衝動。遺伝子に刻まれた種の本能。抗うことなどできはしないのだ。

「うぎゃっ!?」

 とどめの一手が猿を刺す。崩れに崩れた体勢から無理矢理に身体を捻って投じた第二球。球っていうか骨こん棒。もう少し距離を詰められたら走って殴りに行くつもりだったが、致し方なし。綺麗にアホ面にヒットしたからよしとしよう。

「ウィザーモン!」
「心得た!」

 一声だけを掛けて走り出す。顔面直撃クリーンヒット、とはいえ、それで倒せた確証はまだない。撃ちかけた電撃も猿のその手に残ったままだ。まともには撃てないだろうけれど、撃たない保証はまったくない。ここでとどめを……!
 そう考えた、そんな時。ふらりとよろめく猿の両手で、雷が踊る。

「っ! 待つんだハナ君!」
「え……えぇ!?」

 一歩二歩と半歩。石畳を叩くようにして駆ける足を無理矢理に止める。躊躇したのは魔術師に制止されたから、だけではない。猿の両手で球形を保っていた電撃が不意に、その形状を大きく乱す。当人はぐわんぐわんと頭を揺らして千鳥足。頭上には星でも見えそう。制御できていないのは、火を見るより明らかだった。
 咄嗟に両腕で顔を覆う。途端に火花が閃光となって唸りを上げる。端的に言うなら、暴発であろう。

「わ……っ!?」

 無数の鳥の囀りにも似た耳障りな高音。明滅する激しい光が荒れ狂う。時間にすれば1秒足らずだったろうか。ややを置き、恐る恐る瞼を開けばそこには、既にとどめの必要などないであろうお猿の姿があった。
 例えるなら、ヒップホッパーが勘だけでやってみた盆踊りか何かの最中のような。片足を上げ、両手も万歳して上半身は程よく捻る。天井を仰ぎ見る形で口からは真っ黒な煙を吐いていた。頭がアフロであることは言うまでもないだろう。あたしは突っ込まない。
 だがしかし、何はともあれ、

「はあ、勝てた……」
「ああ、そのようだ」

 顔を見合わせて、また大きく大きく溜息を吐く。期せずして四天王の二連戦か。気分的にはここらでちょいと一回くらい休憩とか挟みたいものだが、そんな場合でないことくらいはわかるので頑張って頑張ることにした。
 繰り返し、肺の奥から目一杯空気を吐き出して、また吸って、よろりと通路を進む。燃えカスみたいになって痙攣するアフロ猿の前で一度だけ足を止め、傍らに転がる骨こん棒と黒焦げの物体を拾い上げておく。

「ハナ君、それは……」

 それは、骨こん棒の前に猿の気を引くために投げ付けてやったもの。暴発した電撃に焼かれてほかほかと湯気を立てていた。あれ、意外といい匂い。工場へ行く前に見付けた食料庫で拝借していたそれ。今は真っ黒だが元々は光沢のある綺麗な黄色。南国味溢れるその果実は何というなら要はただのバナナなのだけれど。
 あたしたちは互いに穏やかな微笑を浮かべて頷き合う。言いたいことは一緒だった。はあ、やれやれ。

「「こんなのに……」」

 口にはしなかったはずだが何故かはっきり聞こえた気がした。そういえば盗賊団は一度別の勇者様に潰されたんだったな。工場で言ってたバンチョーとやらだろうか。誰かは知らんけど。向こうの熊さんの苦労が窺えるな。どうやら深刻な人材不足らしい。できるならこの出来事は思い出の棚のあんまり開けない奥のほうに早めに仕舞いたい。仕舞うか。仕舞った。次行こう。

「何はともあれ危機は乗り越えたわね。さあ、進みましょう!」

 そう言って通路を振り返る。焼きバナナを頬張っていたことには特に触れずに魔術師が力強く頷いてみせた。あたしも頷き返し、そうして、また頷く。魔術師がふと無人の通路を振り返った。その背に、ねえと呼び掛ける。既に言わなくてもいい気はしたが思い出したのでとりあえず言っておこうか。

「ところで、進むにあたってちょっと気付いたことがあるんだけど」
「ああ、大丈夫だ。私も気が付いている」
「そう、それはよかったわ。それじゃあ、どうしましょうか?」
「そうだね。どうしようか」

 お互いに話すその口調はとても冷静だった。どうしようもないと知っていたからである。そして本当はもうちょっと早い段階で気付いていたからである。
 そう、慌てるような段階ではないのだ。そんな段階なら大分前に過ぎているのだから。つまりは、瓦礫の向こうに置いてきたハグルモンたちをどうしようかという、それだけの話である。ふふ、どうしよっか。

「あ、いたいた。オーイ!」

 次第に現実を直視しだして次第に青ざめながら次第に脂汗をかく。茫然と立ち尽くしてただただ誰もいない通路を眺めていると、不意にそんな声が後ろから聞こえた。猿が立ち塞がっていた一本道の更に先、突き当たりで左右に分かれる丁字路の右側から、ひょこりと顔を覗かせたのはなんか見覚えのあるうんこだった。

「ダ、ダメモン!?」

 と、名前を口にできるまでには少しの間を要した。突然の遭遇に、驚きと戸惑いが思考を妨げる。はあ、と必要以上に大きく息を吸い、咄嗟に骨こん棒を構える。魔術師もまた杖を構え直す。けれど、

「おっと、暴力はノンノン、ネ。とりあえずご覧よ、ほらルックルック!」

 あまりにも場違いなノリでそう言って、ダメモンは肩をすくめてぷるぷると首を振る。まるで戦意など見せることもなく、ちょちょいと自分の後ろを指してみせた。よく考えたら犬も猿もこんなようなノリだったので流れには合っている気もしたが、よく考えたら今はそんなことはどうでもよかった。ダメモンが曲がり角の先に向かって手招きすれば、わらわらと幾つもの影が現れる。見付かった。もう増援が来たのか。そう、一瞬身構えるが、その正体に気付いてあたしたちは思わず構えも解いて目を見開く。

「やれやれ、君たちホントにダメダメネ!」

 とは、まったくもってその通りだった。ぐうの音も出やしない。噂をすればなんとやらだ。お早いことで。ダメモンが連れていたのは、あたしたちがお間抜けにも忘れてきたハグルモンたち。ほうら見たことか。あんな素直な子たちをほったらかしたらそりゃこうなるさ。素直は勿論悪い意味だ。お前らそろそろ抵抗しろ。はぐはぐじゃない。

「どうするウィザーモン。見捨てる?」
「ああ、勇者としてはどうかとも思うが、最悪この状況では致し方ない」
「ユーたち割と薄情ネ」

 それもまたもっともではあるのだが。綺麗事だけで乗り越えられる程、世の荒波はフラットではないのだ。幸いさっき会ったばかりだからそんなには迷わないで決断できそうだし。このモノローグは駄目な奴だ。ごめん。いつかは助けに行くから。
 骨こん棒を両手で握り直して抗戦の構えを取る。魔術師もまたあたしに倣う。そんなあたしたちにダメモンは、やれやれとでも言わんばかりにまた肩をすくめる。あんなビジュアルで余程腕に自信でもあるのか、その顔には余裕の表情が張り付いて剥がれない。

「行くよウィザーモン」
「心得た」
「ワーオ、即決! でもウェイトウェイト。ちょっと待つネ」
「待つわけないでしょこのダメうんこ!」
「えー、待ったほうがいいと思うけど。短気は損気ネ。それに怒ると美人がだいなしだヨ!」
「び……! ウィザーモン、ちょっと待ってみる?」
「ハナ君!?」

 そうまで言うならと、思ったあたしはまんまとうんこの術中だろうか。術中です。心なしか段々反応が早くなってきたような気がする魔術師の突っ込みに、てへっと頭を小突いてぺろりと舌を出す。とかなんとかやっていると、ダメモンがハグルモンたちに向かって再び手招きをする。素直にわらわらと移動を始めたハグルモンたちは、後ろから前へ前へと扇ぐような手の動きに、ダメモンの横を通り過ぎて行く。

「あれ、え?」

 通路を進み、進み、やがてハグルモンたちがあたしと魔術師の周りに群がるまで、ダメモンはただ笑って見ているだけだった。

「はぐはぐ」
「こ、これは……!」
「え? ええ!? な、なんで?」
「なんでもなにも、ミーは君たちを助けに来たんだヨ!」

 戸惑うあたしたちにダメモンは、あっけらかんとそう言い放ってみせた。訝しげに魔術師が杖を突き付けて、

「昨日の今日でどんな心境の変化だい?」

 と問えば、返ってくる言葉にあたしたちは眉をひそめる。

「別に変わってないヨ。それミーじゃなくてお兄ちゃんだからネ」
「おに……え、お兄ちゃん?」
「うん、迷惑かけたネ。まったく、ダメモン族の風上にも置けないダメダメなお兄ちゃんネ!」

 なんて、言われて魔術師と顔を見合わせる。互いに何とも言えない顔になる。一先ず兄弟であることだけでも信じてやったとして、それでも九分九厘、取り合う価値もない戯言でしかなかった。残り一厘に賭けるにはあまりに分の悪いギャンブルだ。

「それ、信じてもらえると思った?」
「う~ん、五分五分?」

 どんだけ見通し甘いんだ。舐めてんのか。舐めてんだな。

「てゆーか弟なら岩の下敷きになったんじゃなかった?」
「オオウ、ノンノン。それは下のお兄ちゃんのダメ次郎ネ。ミーは三男のダメ次郎Mark.2だヨ!」
「ナンバリングっ!」

 わざわざ忌まわしい記憶まで掘り起こしたというに。もうさっさとぶっ飛ばして先行こうかな。

「ハナ君、増援が来るまでの時間稼ぎということも考えられる。どうするにせよ、決断は早いほうがいい」

 パーティのブレーンもこう言っていることだし。だが、一応聞くだけは聞いておいてやろうか。万が一ということも、いや三百万が一くらいには可能性がなくもないこともないかもしれない。

「ちなみに、どう助けてくれるっての?」
「オウ、簡単サ! こっちおいで、カマンカマン!」

 手招きしながらぴょいんと後ろに飛び退いて、ダメモンが指差したのは丁字路を左に曲がった先。魔術師に目配せをし、警戒心をこれでもかと剥き出しにそろりと近付いて曲がり角から顔を覗かせる。反対側の通路も窺うが今のところ敵の姿はなかった。

「ほらあそこ。ダストシュートがあるデショ? あそこに飛び込むだけサ!」

 にこりと、曇りのないそのいい笑顔がとても胡散臭かった。

「ダストシュートって……中はどうなってんの?」
「ゴミでいっぱいネ」
「そりゃわかるけど」

 馬鹿にしてんのかこいつは。自称長男と初めて会った時からずっとそうだけれども。

「ゴミ溜めは地下ネ。上に向かって頑張って穴でも掘れば出られるヨ」

 ファイト。とかなんとか片手を挙げたむかつくポーズで宣う。

「どう思う?」
「調べてみないことには何とも」
「だよね……」

 あたしの後ろから通路の先を覗く魔術師に問う。2、30メートル程進んだ先でまたも丁字路になっているその突き当たりに、確かにダストシュートらしき金属製の扉のようなものが見えた。魔術師の言う通り、ここから見ただけでは何とも言えないが……。
 ならば、と。魔術師と互いに頷き合って、意を決して通路を進む。どのみち進路なんてわかりゃしない。虎穴に入らずんばなんとやらだ。いや、虎穴に入るかどうかは心の準備とかがまだちょっとあれだけど。恐る恐る通路を進む。ダストシュート前の丁字路で右を左をきょろきょろと窺う。拍子抜けする程に何もなかった。この辺りでうだうだ言い出してもう随分経った気もするが、あちらはやけにのんびりしているな。あたしの記憶が確かなら敵地の真っ只中だったはずだけど。

「てゆーか、ここに逃げ込んだってバレたら袋のネズミじゃないの?」
「ああ、確かに。トンネルを掘るにも地形がわからないのではどれだけの時間を要するか……」

 ゴミまみれになるだけなって結局捕まるのではまみれ損だ。とても普通のことをあえてはっきりと言わせていただくと、あたしはまみれたくなどないのである。勿論、それがこの状況を打破する唯一の方法であるというなら嫌そうな顔で渋々我慢してまみれもするけれど。
 分厚い金属製の丸扉を開けば、中はウォータースライダーのような太いパイプが地下に向かって伸びていた。明かりなどあるはずもなく、ただただ真っ暗な穴が口を空けている。楽しそうなものにたとえてみたがやはりとてもそんな気分では飛び込めそうもなかった。ちゃんとたとえるならきっとマンホールが一番近い。

「さあさ、思い切ってダイブするネ! 追っ手なら心配ないから」
「いやまだ行くとは……え? どういうこと?」

 ダストシュートを覗き込めばそこはかとなくゴミゴミしい香りが鼻を衝く。信用と覚悟のツーステップを要する提案にぐだぐだと二の足を踏む。思いもよらぬダメモンの言葉も、そんな躊躇に戸惑いをちょい足しするだけだった。

「追っ手はミーが食い止めてあげるネ!」

 だとか、言われたってすぐには理解もできなかった。
 食い止める? ミーが? うんこが!?

「ちょ、ちょっと待って! どういうこと!?」
「どうって、お兄ちゃんが迷惑掛けちゃったからネ。お詫びにちょいと命張るだけネ」
「ちょいとって……えええ!?」
「正気かい? 君だけでどうにかなるとはとても思えないが」
「ハハ、大丈夫サ。ミーにはピンチに目覚める隠されたパワーがきっとあるような気がするネ」

 力強く拳を握り、にこりと笑うその顔にはどこから湧くのかさっぱりな自信が満ち満ちていた。
 だから見通しの甘さあぁぁ!
 知らないからね!? 目覚めなくても! あたしのせいじゃないかんね!!

「まあ何はともあれ、とりあえず行くならさっさと行くネ」
「い、いや、だからまだ信用するかどうかは……!」
「ハハハ、そう堅いこと言わずに!」
「ぁえ?」

 そしてひょいと、片手であたしの身体を持ち上げる。真上に向けて掲げたダメモンの掌の上に、あたしが座るような形になる。現状の把握には勿論まだ脳みそが追い付かない。

「そーれ」
「え? ええ? えぅわあぁぁぁ!?」

 途端に視界が真っ暗になる。べちょりと顔から落ちて、両手と頬には冷たい感触。かと思えばそこはどうにも下り坂。というかダストシュートの中である。ゴミみたいに放り込まれたらしい。そう理解できたのは後になってからのことだったけれど。そのまま見る見る間に滑り落ちていく。見る見るも何も真っ暗闇しか見えやしないが。とか馬鹿を言う暇もない。風圧が顔を叩く。摩擦に肘やら胸やらが削られそう。やめて! なくなるから! なけなしのやつ!

「ハ、ハナくぅーん!?」
「はい君も」
「え!? うわああ!?」

 後ろで魔術師もまた投げ込まれたと理解できたのは更に後。ついでにもっと後ろでがごんがごんとうるさいのはハグルモンたちが続々と詰め込まれているからだろう。悲鳴と摩擦音と金属音がけたたましく反響するパイプの中、数センチ先も見えない暗闇を割りと洒落にならない速度で落ちていく――




「さて、と」

 ぱんぱんと手を払い、身体を逸らして伸びをする。どこのどんな筋肉が凝り固まるのかは疑問だが、メタルなうんこことダメモンはどこか満足げにも見える顔で息を吐く。ダストシュートに一瞥だけやると、踵を返して通路を戻っていく。ちちっ、と頭上から小さな鳴き声が聞こえたのはそんな時だった。

「やあ、おかえりチューチューモン。どうだった?」

 壁を駆けて天井から降ってくるネズミに、歩みは止めずにそう声を掛ける。ダメモンの肩に飛び乗り、背中の座席にどかっと腰掛けて、小さなネズミのデジモン・チューチューモンはちきちきと笑う。尊大な態度で踏ん反り返り、後ろ脚でダメモンの後頭部を乱暴に小突いて何事か耳打ちする。ダメモンは気を悪くする風もなく二度三度頷いて、少し。わお、と大袈裟に声を上げる。

「驚いた! まだ頑張ってるのカイ? ボスには勝てっこないと思ったけど、ひょっとしたらひょっとしちゃうカモ?」

 なんて、両手で頬を挟んでぶるぶると身体を震わせる。そんなダメモンにチューチューモンはもう一度ぺしりと頭を蹴飛ばして、溜息を吐きながら肩をすくめてみせる。

「オウ、冷たいネ」

 チューチューモンの反応にダメモンは、その仕種を真似るように肩をすくめ、やれやれと首を振る。

「そんなだからミーしか友達いないんだヨ!」

 とか言えばまた蹴られてしまうが、相変わらずダメモンは気にもせずにからからと笑う。そうこうしている間にも足は止めることなく、無人の通路をとてとて進む。勇者一行と会った丁字路から来た道を引き返し、左に折れた一本道を曲がり、そうして最初の角で立ち止まる。左右と前方に道が分かれた十字路で、三方に張った巨大な“クモの巣”を順に見る。いや、正確に言うならそれはクモが張った巣などではない。通路を完全に塞ぐほどに巨大なそれ。そんなサイズのクモならこの世界にはいくらでもいるものの、巣には不釣り合いな大きすぎる獲物をもいとも容易く捕らえるそれは、頑強なワイヤーロープを組んだ網にトリモチのような粘着質のゲルから造られたトラップだった。それは、クモ以上に賢しい何者かが仕掛けたもの。
 ふうむと唸る。捕われた獲物を、じたばたともがくトループモンを眺め、どこに隠し持っていたのかトンファーを取り出す。ぴょいと、軽やかな身のこなしで左側の通路へ跳躍し、

「よっと」

 気の抜けた掛け声でガスマスク目掛けてトンファーを打ち下ろす。ごしゃん、と。気は抜けてない重々しく鈍い音が石壁に低く反響する。トループモンでは身動きすら取れないクモの巣がいとも容易く諸共に引き裂かれ、ガスマスクは額から陥没し、断裂し、原形を留めない程に破損する。

「ほいっ」

 束縛からは逃れたもののもはやトループモンには動く力すら無い。びくんびくんと痙攣し、割れたマスクから白い煙を噴く。倒れる間際のその肩を蹴って宙で反転し、ダメモンは右側のクモの巣へと飛び込む。巣の目前で再度身体を捻り、再びトンファーを繰り出す。次は三度。玉突きでもしたか縺れ合って巣に掛かる三体のトループモンを続けざまに殴打する。

「よいさっと」

 そうしてまたひしゃげたトループモンの前から飛び退いて、残った正面の通路へ向かってトンファーを構える。最後は少し大所帯。見えるだけで十はいるだろうか。クモの巣に掛かったのは先頭の数体だけだったが、後続のトループモンはそれを助けるでもなく迂回するでもなくただただ前進あるのみ。ぎっちぎっちとおしくらまんじゅう。所詮は頭にニセと付いたエセ博士か、と。溜息を吐いてダメモンは石畳を蹴る。その姿が途端にゆらりと揺らいで掻き消えて――瞬き一度の間にクモの巣とトループモンたちの後ろへと音もなく現れる。

「さて……では参ろうか、チューチューモン?」

 振り返ることもなく、背後のトループモンにはとうに興味もないとばかり。歩き出したその背はいつの間にか、小さなダメモンのそれではなくなっていた。静かに、けれど雄々しく威風堂々と、武人はその場を後にする。残されたトループモンが倒れ伏したのは、直後のことだった。




 暗闇を滑り落ちていく。パイプの傾斜は次第に角度を増し、今や限りなく垂直に近い程。もはや滑るというよりただ落ちていた。

「にいぃぃぃうぃえぇいあぁぁぁ!?」

 という奇声が何の叫びかは自分でもよくわからない。勝手に口をついて出るのだから仕様がない。てゆーかこんな状況で叫ばずになどいられるものか。こんな可憐な女の子をダストシュートになんて投げ捨てやがって。次会ったら覚えてろよ、あのうんこ! まあ、はしたない!
 しゅぽん、と。怒りと恐怖と空腹と愛しさと切なさでごった返しになった頭がいい具合にこんがらがってきた頃、唐突にパイプが途切れてだだっ広い空間に放り出される。詰まったトイレがすっきり流れたような音はきっとあたしの空耳だったろうけれど、我が身の可哀相な現状を思えば気分は大体そんな感じ。ダストシュートを落ちて滑ってまた落ちて、地下のゴミ溜まりに辿り着く。ごみゅんと頭を打ったが軟らかいゴミの山だったことが幸いし、あまり痛くはなかった。なんのゴミかは、考えたくない。
 それにしても妙に、妙に息苦しかった。
 どさっ。へぶっ。どんがらがっしゃん。なんていう音と声がやけにくぐもって聞こえる。魔術師とハグルモンたちもお着きになったようだが、姿は見えなかった。

「く……ハナ君、無事かい?」
「もがもが」

 無事かどうかは正直よくわからない。何せ一寸先も見えやしないのだから。戸惑う魔術師の声と辺りを手探りで窺うような物音が聞こえた。魔術師が小さく呪文を唱える。そうして、魔術師がまた声を上げた。

「ハナく……ハナ君!? 頭からゴミ山に突き刺さっているが大丈夫かい!?」

 ふふ、成る程ね。そういう状況か。道理で暗くて息苦しいと思ったわ。でもそれは大丈夫じゃなさそうな奴なので早めに抜いてほしいかな。

「もがもが」




 杖に灯る魔術の明かりが周囲を照らす。煌々と輝く光の球が揺らぎ、震え、暗闇を削る。けれど、分厚い闇に壁はおろか天井も見えはしなかった。あたしたちが散々走り回ったあのアジトの地下部分が丸々このゴミ溜まりになっているのだろう。僅か数メートルを照らすだけの光はこの広大な地下空間ではあまりに頼りない。
 暗闇を見据え、足元のゴミ山を見下ろして、あたしは深く息を吐く。どうにか逃げおおせたがこれからどうしたものか、と、あたしさっきまでここに埋まってたのか、という溜息である。お家帰ってお風呂入りたい。

「ハナ君、大丈夫かい?」
「うん、まあね……」
「疲れているようだね。無理もないが」

 ふふ、と力無く微笑んでおく。

「それより、ハグルモンは? 皆いる?」
「はぐはぐ」
「ああ、問題ない。全員放り込まれたようだ」

 ひーふーみーと指折り数える。右で五つと左で三つ。全員で八で合っていたかはあんまり自信がなかったが、魔術師が言うなら大丈夫だろう。うんと頷いて、辺りを見渡す。

「そんじゃあ……ええと、どうしよっか?」

 と問えど魔術師は困った顔をするばかり。訳もわからない内に無理矢理放り込まれたのだ。把握できている状況は同じか。穴でも掘れば出られるとあのうんこは言っていたが、さて、どうしたものだろうか。

「とりあえず、トンネルでも掘ってみる?」

 いつまでもこうしていたって仕様がないし。勿論、開通前のトンネルが単なる袋小路であることはわかっているけれど。

「ダメモンを信じるのかい?」

 魔術師の問いに、あたしは腕を組んで眉間にシワを寄せる。そうだ、最悪は袋小路で後ろからの敵に追い詰められてしまうこと。追っ手は食い止めてくれていると、ダメモンを信じるかどうかという話だ。答えに渋るあたしに、魔術師もまた難しい顔をする。

 選択肢は、おおざっぱに三つある。
 一つは、ダメモンを信じて地上へ向かうこと。リスクは今言った通り。と、もう一つ。後ろに敵がいなくとも前にはいるかもしれないということ。何せ広大な樹海が丸々敵陣なのだ。トンネルを抜けた先が安全である保証もない。
 あるいは二つ目に、来た道を引き返すという手もある。魔術師の飛行魔術であれば垂直のダストシュートを昇ることも可能だろう。辺りのゴミ山の盛り上がり具合を見るまでもなく、ダストシュートがあれ一つでないことくらいは馬鹿でもわかる。これがあのうんこの罠であれば、そこかしこにあるダストシュートからアジトに引き返すのも一つの手だ。問題は、どこに出るかがわからないことと、とんでもない場所で追っ手と鉢合わせる可能性も大いにあるということ。
 そうして三つ目は、迎撃だ。進めど戻れど戦いづらい場所なら、いっそ広くて遮蔽物も多いここで迎え撃ったほうがいい。ただ、ダメモンがちゃんと追っ手を食い止めてくれていたら間抜け極まりない待ちぼうけを食らうことになるのだけれど。なにより、逃げる絶好の機をみすみす逃すことになる。

 リスクはすべてにある。何を信じて何に賭けるかだ。どれも決め手に欠けるこの状況では決断も容易でないが、遅れれば遅れるだけ打てる手も失っていく。そしてゴミ山の芳しい香りも染み込み続ける。時は、一刻を争うのだ。

「ウィザーモン、やっぱり出よう」

 だって臭いから。というだけで言った訳では決してない。100%信用することは到底できないが、それでも賭けてみる価値は微粒子レベルで辛うじてなくもないこともないはずだ。根拠というなら、勇者の勘である。昨日外したから口にはしないでおくけれど。

「ヌヌだってそろそろ足止めも限界だろうし。ダメモンを信じるかは……ちょっとあれだけど」

 魔術師は少しの思案。致し方なし、とばかりにゆっくりと頷いた。

「わかった。リスクはあるが、やってみよう」
「よし。そうと決まったらさっさと出ましょ、こんなとこ」

 さあ張り切って行きましょうと握った拳をぐっと掲げる。ここから出られると思えば多少テンションが上がるのも仕方がないのである。
 ゴミ山をさくさく踏み締めて歩き出す。どこがどこだなんてさっぱりなので勇者の勘だけを頼りに暗闇を進んでいく。やがて魔術の明かりに照らされ、ゴミ溜まりの端であろう土壁が見えたのはそれから程なくのことだった。そして、低く地鳴りが聞こえてきたのはその直後であった。

「ここが端っこね。それじゃあ……」

 ここ掘れウィザウィザと、土壁に手をついたちょうどその時。振動が壁から手を伝う。いや、触れるまでもなく壁の奥から轟音が響いていた。ぎゃりぎゃりと土石を削るような機械音は、どこかで聞き覚えがあった。目を丸くして戸惑うあたしたちの目の前で土壁に亀裂が走る。危ない、と魔術師が叫んだのはちょうど、言われるまでもなくあたしがその場を飛び退いた間際だった。瞬間、中から爆薬でも仕掛けたように土壁が弾け、と同時に大きな影が砲弾のように飛び出す。
 どずん、と。影は弧を描いて宙を舞い、そのままゴミ山へと落ちて地を揺らす。あたしは尻餅をついたままただただ目をぱちくりさせて、横で同じ顔と格好をしていた魔術師を見る。顔を見合わせて、互いにまた目を見開き合う。

「ぬうん!?」

 そうこうしている内に影は後ろ脚をばたつかせ、勢い余ってゴミ山へ突き刺さっていた頭を自力で引っこ抜く。呆けるあたしたちの前でぶるぶると首を振って、前脚で器用にお髭を整えてから辺りを見回す。鼻先のドリルを揺らして。とても、見覚えのあるモグラだった。

「むう、なんだここは。盗賊どもは一体……む?」

 きょろきょろと周囲を窺うモグラの視線があたしたちを捉えて止まる。ばちっと目が合えば互いに掛ける言葉を探して数度口をぱくぱくさせる。少しの沈黙を置き、毛先がくりんと丸まった男爵髭を撫でてモグラは、ニセドリモゲモンは「おお」と声を上げた。

「ここにいたか! 探したぞ!」
「な……ええ!? なんで!?」

 それはどこからどう見ようが間違えようもない、鉱山で出会ったニセモグラその人。いや、そのモグラ。前脚を振り上げ上体を起こして、がおーんと大口を開く。一度は魔術師が取り除いたはずの歯車に再び操られてしまったのかと、思わず身構えればしかし、ニセモグラは慌てて首を振る。

「おお、これは失礼を! どうか待たれよご両人! 我輩、貴殿らの助勢に参ったのだ!」
「は……え? じょ、じょせい?」

 その言葉に、あたしは眉をひそめる。
 じょせい……女性? Joe say? あ、助勢か! えぇ!?

「た、助けに来てくれたの?」

 と、今言ったばかりのことを聞き返せば、ニセモグラはうむと頷いてみせた。男爵髭を撫でるニセモグラのその目には陰りなどまるで見て取れない。どこまでも真っ直ぐにあたしを見据える。

「大恩ある貴殿らを見捨てたとあってはドリルが廃るというもの! 我輩、心根までニセモノになるわけにはいかんのだ!」

 そう言って力強く拳を握る。器用な前脚である。ドリルが廃るってなんだろう。

「お二方がおらねば我輩は、いまだ道を踏み外したままであったろう」

 ドリルを眺めてぽかんとしていると、ドリルモグラは前脚を下ろして土下座でもするような勢いで頭を垂れる。あたしは魔術師と顔を見合わせて、ただ次の言葉を待つことにした。なぜなら燻製モグラにしようとしたこととか毒リンゴをしこたま突っ込んだことくらいしか思い当たんなくて大恩がどれのことだがさっぱりだったからである。恨まれる覚えなら、割とある。

「魔術師殿のお陰で歯車の呪縛から解放された。勇者殿のお言葉が我輩の荒んだ心を洗い流してくだすった。目が覚めたのだ! 清く正しく真っ当に生きようと決めたのだ!」

 けれどもモグラの口から恨み言は、ただの一つも出やしなかった。曇りなさすぎる眼にあたしたちを映して雄々しくドリルを掲げる。澄んだ視線がちょっと痛い。まさかそんなに真摯に受け止めてくれるとは。もうニセモグラなんて呼べないな。キャラは十分立ってるよ、男爵! ところでそれはそうと今一番頑張ってる緑のあの子だけ話題にも出なかったが、そういやあの時は吹っ飛んでただけだったから仕様がないしまあいいか。

「さあ、ともに参りましょうぞ! 勇者殿! 魔術師殿!」
「ニセドリモゲモン、君は……!」
「ニセドリ……いえ、男爵!」

 そう呼べば少しだけ戸惑うように、けれども満更ではなさそうな笑みを浮かべて力強く頷いてみせる。気に入ってもらえてよかったわ。髭を撫で、ドリルを叩いて男爵は眼光を鋭く研ぎ澄ます。その目に点るのは強く熱い意志の炎。我が身さえをも焦がさんばかりに燃え盛る。

「歯車に惑わされていたとはいえ、一度は志を共にした戦友。せめてこのドリルで止めてやるのが我が責務というもの! 参ろう! 奴らの、オーガモンたちの野望を止めるために!」
「ええ、行きましょう! ええ! うん!」

 男爵の男気溢れる決意の言葉にあたしは頷いて、頷いて、もっかい頷いて、それからそっと視線を逸らす。真っ暗な天井を見上げ、また頷く。ふふ、成る程ね。確かにそういう状況だったわね。誰が悪いというわけではない。何が悪いと敢えていうならお話しの流れかしら。なんだか今日はずっと噛み合わないな。嗚呼、運命の歯車はなにゆえ斯くもガタガタなのか。神様、設計図一回見直してください。
 とりあえず魔術師を見てみる。なんとも言えない顔で何にもない上の方を見ながら頬を掻いていた。あたしは男爵へと向き直り、目だけどこぞを見上げてほっぺを掻く。

「ええと、それは、終わったかな」
「む? 終わった、というと?」
「だからその、何て言うのかな。もう倒しちゃったっていうか」
「倒しちゃった!?」

 そうだよね。話してないものね。知らないものね、いろいろと。それに、男爵が黒幕のことを知っていたなら歯車を取り除いた時にでも魔術師が聞かされていたはずだ。わざわざ歯車を追っ掛ける必要もなくなっていたことだろう。

「ニセドリモゲモン、君はもしかして、オーガモンたちのアジトへは行っていないのかい?」
「アジト? おお、それなら今まさに乗り込んでやろうと力の限り掘り進めておったところだ! 少々熱くなったせいか少しばかり道は外れてしまったかもしれんが、なあに、些細な問題だ!」
「些細かい、それは!?」

 奇跡的な脱線の仕方だな。これも運命を引き寄せる選ばれし勇者の為せる業か。神よ、デレ期か。何はともあれ、仲間は多いに越したことはない。標的は多少変わるがそれこそ正義の前には些細な問題である。

「ウィザーモン、別に話してもいいよね? こっちの事情とか」
「え? ああ、そうだね。私の推察も的外れだったことだし……」

 しょぼんぬと落とした肩をぽんと叩いておいてやる。
 あたしは男爵に向き直り、かくかくしかじかとこれまでの経緯を八文字でかい摘まむ。神の導きによってすべてを理解した男爵は見る見る間にその顔を赤らめて、ぎりぎりと歯牙を軋ませる。

「では、これまでのすべてはそ奴らの……!」
「そう、すべてはあいつらグー……げん? 元気はつらつグーチョキパー団の仕業よ!」
「ぬう、かわいらしい名前とは裏腹になんと卑劣な外道か! 許すまじ!」

 ゴミ山をずだんと踏み鳴らし、ドリルを掲げて怒号を上げる。男爵の意外とつぶらなその目がめらめらと燃える。魔術師が何か言いたげな顔をし、あたしもその理由には察しがついていたが、互いに空気を読んで流すことにした。この世は些細な問題でいっぱいだ。

「あい、わかった! では改めて共に参ろうぞ!」
「ありがとう、男爵! ええ、一緒に行きましょう!」

 男爵の前脚をがしりとつかみ、熱い視線を交えて互いに頷き合う。敵として出会ったあたしたちだが、拳と拳でぶつかり合い、心と心で解り合い、今やこうして思いは一つとなった。ふと横を見るとほったらかしてたハグルモンたちは八者八様にそこら辺をふよふよ漂いながらくるくる回り、魔術師はなんだかとっても戸惑っていた。9/11のテンションはいまいちバラバラだったが、思いだけはきっと一つのはずである。きっと。あ、熊さんもいた。そう、12人の思いは一つ!

「ま、待ってくれハナ君! まさか、このままもう一度乗り込むつもりかい?」

 でもなかった。小首を傾げれば魔術師は、困ったもんだとでも言わんばかりに顔をしかめる。しかめられて、言わんとしていることはすぐに解ったけれど。だが、さすがのあたしとて逃げてる最中だったこととか他諸々をすっかり忘れていたなんてことは断じてない。断じて。ホントだかんね。

「わかってるって、ハグルモンでしょ」
「おお、そう言えば先程からちらちらと視界には入っておったが、あやつらも黒い歯車の?」

 決して忘れてなどはいなかった諸々ことハグルモンたちを一瞥し、やあねもうとぱたぱた手を振れば、返す魔術師の視線はやや冷たい。そんなあたしたちに、事情を知らない男爵は当然の疑問を投げてくるが、さて。どうしたものだろうかと少しだけ考えて、とりあえずはうんと頷く。

「まあ、そんなようなもんかな」

 黒い歯車の作り方を懇切丁寧にご説明して差し上げるのは、一先ず止めておいた。どう考えたってこじれるだけだもの。

「ねえ、それよりトンネルってどこから掘ってきたの?」
「む? それならば例の鉱山付近だが」
「ってことは、さっき男爵が出て来た穴を引き返したらそこまでは行けるわけね」

 てゆーかホントにずっと掘ってきたのか。気合いの入ったモグラだな。

「ウィザーモン、“トンネル真っ直ぐ行け”ってくらいならほっといても大丈夫だよね」
「ああ、成る程……確かにそれなら問題はないだろう」

 ハグルモンたちさえ逃がせれば後は自由に動ける。男爵もいることだし、何よりなんだかんだで四天王を半分も落としたのだ。ここで退けば、こちらよりもあちらに戦力を立て直す時間を与えてしまうだけだろう。戦況は、はっきり言って悪くない。だと言うに、けれども魔術師の顔はどこか浮かないようで。

「ハナ君、今を好機と考えるのは間違っていないと私も思う。だが……」

 と、俯いたまま独り言のように言う。

「一番の問題は、ヌヌ君だ」
「ヌヌ? っていうと?」
「好機か否かは、あちらの戦況次第ということだよ。まだ持ち堪えているならばともかく、ヌヌ君が既に退いているか、考えたくはないが万が一にも敗れていたなら……」

 そう言われて、ああと理解する。ワルいほうの熊さんに対抗できるカードは黄色い熊さんだけ。あたしたちでは到底勝ち目などないだろう。みすみす死にに行くようなものだ。戦いがまだ続いているという大前提の上に成り立つこの好機。その前提が間違ってやしないかと、魔術師は言いたいわけだ。それはまあ、確かにそうなんだけれども。でも、

「大丈夫でしょ」

 暗闇の天井を見上げて、割と即座にそう返す。

「大丈夫? どういうことだい?」
「いや、なんかまだ頑張ってるっぽい感じがするし」
「頑張ってるっぽい感じ!?」

 そんな言い分がすごく馬鹿っぽいことは自覚できていたのだけれど。魔術師の反応も至極真っ当だろう。

「ま、また“勇者の勘”かい?」
「うん」

 と即答すれば魔術師は頭を抱える。ごめんね。苦労をかけます。とかなんとか言っていると、事情を知らない男爵がお髭を撫でながら小さく唸って眉をひそめる。

「ふむ、何やらいまひとつ話は見えぬのだが……要は貴殿らの同志が今も戦っているやもしれぬのだな」
「うん、そうそう」
「ならば一も二もあるまい。危険はあれど加勢に向かうが筋というもの」
「おお、男爵かっこいい」

 それに比べて、とまでは言わないけれど、こんなかっこいいこと言ってるよと魔術師へ視線を送ってみたりする。決してそんなつもりは、とばかりに魔術師は慌てて首を振る。

「い、いや、待ってくれ。そうは言っても、外では今もトループモンたちが我々を探しているはずだ。迂闊に飛び出しては……!」

 魔術師の言い分は正論すぎるほどに正論だった。のだけれど。

「ふむ、上でちょろちょろしておる連中だな。それなら心配はいらん。何を隠そう我輩は足音から地上の敵を探知する術を身につけておるのだ! そう、名付けて“奥義・八門遁甲の陣”!」

 なんて言われてしまってはぐうの音も出やしなかった。しかし足音で地上の敵を探知とは。むしろできなきゃ地下なんか潜んなよって気もするけれども、役に立つからまあよしとしよう。それにしてもパチモン特攻とは随分と卑屈なネーミングだ。前向きに生きようぜ。

「ともあれ、そういうことなら決まりね。いいでしょ、ウィザーモン?」
「う……ああ、わかった。二人を信じよう」

 渋々、といった風にどこか悲壮感すら漂わせて言った魔術師に、あたしは有無を言わせぬいい笑顔で力強く頷く。男爵の肩をぽんと叩き、暗闇の天井をびしっと指差す。

「ようし! そうと決まれば善は急げ、急がば回れよ! さあ、ドリルを回して行きましょう、男爵!」
「おお、任されよ! ぐるぐる回してくれようぞ!」
「何がなんだかわからないが、腹を決めるしかなさそうだね……!」

 三者三様に気合いを入れて、闘志をたぎらせ士気を高める。退くか進むか、おそらくここが最後の分岐点。進めばもはや戻る道はないだろう。残る敵は僅か三人。決戦の、時は近い――




 けたたましい駆動音が土壁に反響する。指先の小さなドリルと鼻先の大きなドリルががりがりと土石を削り、道なき道を切り開いてゆく。傾斜にして40度ほど、上り坂のトンネルを男爵の後に続いてひたすらに進む。本当にこの騒がしさの中で風船みたいな奴らの足音なんて聞こえているかは疑問だが、そもそも聞こえたところで向こうにもばればれな気はするが、それらはともかく今この状況であたしが思うことはただ一つ。小さな尻尾をふりふりする男爵のお尻が意外と可愛いということじゃなくって、違う違う、熊さん大丈夫かなってことだ。
 あたしたちが工場を出てからもう随分と経つ。にもかかわらず、おそらくうちの熊さんはあっちの熊さんといまだに交戦中だ。なぜ分かるというなら単なる勘だけど、根拠はないのにどうしてかあたしは確信している。ヌヌはまだ、あたしたちの為に戦ってくれている。
 ハグルモンたちには男爵が掘ってきた穴を真っ直ぐ引き返すように言っておいた。ゴミ山に落ちていた紙の切れ端で手紙を作って持たせておいたから、土田さんたちが見付けてくれればきっと保護しておいてもらえるはずだ。「崩れておらねばよいのだが」という男爵の呟きだけが不安だが、今まさに掘り進めているトンネルを見る限りではそう簡単に崩れたりはしないだろう。多分。男爵信じてる。それはそうと暗いし湿っぽいし砂利落ちてくるしそろそろ嫌になってきたな。

「む? おお、見付けたぞ! 恐らく貴殿らの仲間だ!」

 個人的な事情で早くお外に出たいなと、急かすように尻尾をくいくい引っ張ってみた調度その時。トンネルを掘り進めながらぴくりと後頭部を揺らし、男爵がそう声を上げる。

「って、ヌヌのこと?」
「わかるのかい?」
「うむ、雑兵どもとは明らかに異質の足音だ。断続的にではあるが付近で衝撃音や建物の崩れる音も聞こえる。誰かが戦っているのは間違いなかろう」
「え? じゃあ、もしかしてもう近いの?」
「うむ、じきに地上だ。このまま行けばすぐに合流できよう」

 一度だけ振り返り頷いて、男爵は再びドリルを地上へ向ける。あたしと魔術師は顔を見合わせ、少しだけ安堵の表情を浮かべる。戦っている、ならばまだ無事だということだ。上にはまだ四天王が二人とトループモンたちもいる。寄ってたかって来られてはさすがの熊とてひとたまりもないだろう。あたしたちが逃げ回っていたせいであちらも戦力を分散せざるを得なかったか。つまりは、さすがあたしとだけ言っておこう。

「むう、だが妙だ」

 そんな自画自賛を余所に、ふと男爵は訝しげに小さく唸る。

「どうかした?」
「ふむ、先程からどうにも雑兵どもの足音が聞こえ辛いのだ」
「聞こえ辛い?」

 ドリルがうるさいだけじゃない? という脊髄反射で出かかった言葉はどうにか飲み込む。

「というよりは敵の数自体が減っているようにも思える」
「それって、単にヌヌたちの戦いに巻き込まれただけじゃないの?」
「いや、それにしては場所が疎ら過ぎる」

 つまりは、あちらこちらでぽつぽつと足音が途絶えているということか。立ち止まったにしてもそこら中に点在するトループモンたちが次々に、とはあまりに不自然だ。他に考えられるとするなら、

「まさか、待ち伏せされてるとか?」
「むう、その可能性も否定はできぬが、大勢が一箇所へ集まるような動きもまるでなかった」

 そう言って、岩盤を掘り進めるその手とドリルを次第に止める。静けさの中、男爵は再びゆっくりと振り返る。その意味は、聞くまでなかった。

「ふむ、この上だ。詳しい状況まではわからぬが……」

 その先に待つのは決戦の地。覚悟なら、とうにできている。危険は百も承知。それでも、戦わねばならない理由がある。逃げてはならない理由がある。あたしは男爵が言い終わるのも待たずに力強く頷いて、

「行きましょう」

 とだけ言って、魔術師の肩と男爵のドリルをとんと叩く。頷き返す二人とともにやがて、熊と熊とが雌雄を決するその戦場へと足を踏み入れる――




 爆音とともに土砂が柱のように高く高く舞い上がる。もうもうと立ち込める砂埃の中、あたしたちは地上へと踊り出る。次第に開けていく視界。そこに見えたのは、草木の一つもない岩肌の大地だった。

「ここは……」

 振り返ればあちらこちらが崩落した石造りの建造物と、遠く樹海らしきものが見えた。周囲にトループモンたちの姿はない。どうやらアジトの外に出たようだが、それにしても手薄過ぎる。アジトの外に見張りの一人も立てないなんてどう考えても不自然だ。屋内からは銃声のようなものも時折聞こえてくるが、一体何がどうなっているのだろうか。

「ねえ男爵、ヌヌは……」

 やっぱりドリルが煩くてよく聞こえてなかったんじゃないのと、パチモン特攻の精度をあからさまに疑う顔でそう声をかけ――かけて、はたと空を仰ぐ。不意に頭上から響いた鈍い音。日を遮る黒い影。見上げれば真上から、何かが降ってくる。ひゅ、と息を飲み、慌ててその場を飛び退く。一瞬の後に今の今まであたしたちのいた場所に落ちたのは、熊だった。

「ぶへぇっ!」
「ヌ、ヌヌ!?」

 天から舞い降りた、いや舞い落ちた黄色い熊に声を上げる。熊は鳴咽のような声を漏らしながら身を起こし、頭を振って振り返る。そうして、あたしを見るなりそんな馬鹿なとばかりに布地の切れ目でしかないはずの目を丸くする。

「え……ハナぁ!? なんで!?」

 という疑問は成る程、あたしたちが逃げる為の時間を稼いでいたつもりの熊にとってはもっともだろう。あたしが同じ立場ならぶん殴っていたところである。でもまあ、いいから。

「遅いから迎えに来てあげたのよ。大丈夫、ハグルモンたちは逃がしたから」
「む、迎えにって……ハナ、そこまでオイラのことを心配して……!」
「あ、ううん。なんかノリで」
「ノリで!?」
「ねえ、それよりあいつは? 戦ってたんでしょ?」

 おかしな顔をする熊を余所に辺りを窺う。ああ、と少しを置いて熊は声を上げる。だが、既にその必要はなかった。

「ほう、逃げ足だけは中々のものだ」

 そんな声にもう一度空を見上げる。ずだん、と重々しい音を響かせて、アジトの上層から降り立つのはグーチョキパー団首領・ワルもんざえモンだった。その顔にはいまだ余裕の笑みが浮かぶ。対するうちの熊は小さな舌打ち一つを零して苦々しく表情を歪める。やはり押されていたか。あんな見た目とはいえ世界征服などと大それたことを目論む程だ。実力は、どうやら本物だったらしい。

「よもやドッグモンの追撃から逃れてみせるとはな。少々侮ったか」

 にたりと口角を上げる。その口元は笑みの形。けれど、笑ってなどいないことは火を見るより明らかだった。てゆーか、あれ? 逃れてとか言ったか、今。

「いや、犬だったら……」
「ハナ君」

 何やら少し思い違いをしてらっしゃるようだが、と言いかけて、制止するように声をかけてきた魔術師の、その意図を察して言葉を飲み込む。互いに無言で頷いて、もう一度ワル熊を見る。その顔に浮かぶ余裕たっぷりの薄笑いは、戦況を把握できていない何よりの証左だった。つまり、このままの方が好都合だと魔術師は言いたいわけだ。
 ふう、と息を吐く。骨こん棒を構えて岩肌を踏み締める。熊さんが苦戦するほどの相手にこんなか弱い乙女が棒切れ一本持ったところで意味などないかもしれないが、生憎こちとら勇者なもんで。難儀なものだが、退くわけになどいかないのだ。そんなあたしに、ワル熊は物珍しそうな視線を向ける。

「ほう、勇ましいお嬢さんだ。伊達に勇者は名乗っておらぬか」
「そりゃどうも。怖じ気付くならいつでも大歓迎よ」

 なんて言い放ってやったあたしに、ワル熊はまた薄く笑う。その視線が順繰りに移り、再びあたしを捉えて少しだけ目を細める。あれもうちの熊と同じ構造だろうか。

「しかし、また随分と変わった顔触れだ。誰かと思えば……ニセドリモゲモン君ではないか。どういった心境の変化かな?」
「ふん、目が覚めただけのことだ。誰が好き好んで貴様などの部下になるものか!」

 操るものと、操られたもの。そんな因縁深い二人のやり取りに、思わず声を上げたのはうちの熊さんだった。まるで寝耳に水だとばかりに。寝耳に水です。

「え? ニセドリ? あ、ホントだ! なんで!?」

 という熊の脇腹を引っ張って、訝しむその顔に無言でこくりと頷く。わかるけど、うん。いいから。振り返る男爵と魔術師と、事情を知るもの同士で再び頷き合う。釣られて熊も頷けば、うやむやのうちになんとなく話は終わるのである。後で話したげるから。

「何はともあれ覚悟なさい! あなたの野望は、あたしたちが打ち砕いてみせる!」
「お……おう! その通りだ! 観念しろこのヤロー!」

 まだ若干テンションの定まらない熊とともに、ワル熊をずびしっと指差して高らかに声を張り上げる。仕切り直して今度こそホントにホントの最終決戦である。いや、駄目そうな時に備えて念の為に撤退も視野には入れつつ、一先ずは、とりあえずは、最終決戦的な気概で臨ませていただきたいなと思います。まる。
 ワル熊はそんなあたしたちをふんと鼻で笑い、鋭い爪の左手で自らの首筋をそっとなぞる。できるものならこの首取ってみよとでも言わんばかりに。その笑みがより一層醜悪に歪み、内に潜む狂気が膨れ上がる。戦意と害意とが渦を巻く。強く牙を打つ。それが――開戦の狼煙となった。




 ほんの一瞬、風が凪いだ。どおん、と大気が震えたのはその直後。熊と熊との拳が真正面からぶつかり合い、衝撃が爆風となって弾ける。

「ぬう……!?」

 激突の反動に互いの身体が僅かにのけ反って、と思えばすぐさま互いに後方へと跳び退く。唸り声を漏らしたのは、ワルもんざえモンだった。確かめるように一度だけ拳へ視線を落とし、どこか訝しげな顔をする。

「“バルルーナゲイル”!」

 間髪を容れず吹き荒ぶ烈風は、魔術師の呪文とともにその杖より生じる。恐らくはそれこそが本来の姿なのだろう。以前見たただの突風などではない。渦巻く風の流れの中には、刃を磨ぐそれにも似た甲高い摩擦音を上げ、硝子片のような光の白刃が群れを為して舞う。それそのものが意思を持つかのように剣風は細く鋭く一点に集束し、怨敵を討たんと疾駆する。だが、

「ふんっ!」

 片腕を無造作に奮いながら低く吠える。吐き出す気合いが形を持って具現するかのようにワルもんざえモンの拳から紅蓮の蒸気が噴き上がる。放射状に広がる蒸気は瞬間に弾けて爆ぜて、迫り来る烈風を吹き散らす。
 魔術師が小さく声を漏らした。

「“ファイティングオーラ”か。飛び道具は効果が薄いな……!」

 掲げていた杖を下ろし、ぎりぎりと奥歯を軋ませる。ワルもんざえモンのその目が嘲笑うように魔術師を舐め、かと思えばもはや眼中にもないとばかり、すぐさまふいと視線を逸らす。

「ならば……!」

 移ろう目が次に捉えたのは、横合いより迫り来る時間差の追撃。ドリルを唸らせ地を蹴って、男爵がその身を宙へと踊らせる。

「直接叩くまでのことだ!」

 跳躍と同時に上体を反らせ、鼻先のドリルを振りかぶる。雄叫びとともに打ち下ろす様はさながら剣戟のよう。否、火花を散らして高速回転するドリルと、そこに乗算される巨体の重量を思えばもはやそれは破城槌にすら引けを取らないだろう。生半可な威力ではない。ではないと、言うに。

「小賢しい!」

 強襲する螺旋の凶刃にさえ、ワルもんざえモンは欠片とて臆することはない。何の躊躇いもなく獣爪の左腕を突き出し、回転するドリルをわしづかみにする。ドリルと爪とが金切り声にも似た不協和音を奏で、そうして――男爵の巨体が宙を舞う。

「ぬおお!?」

 自ら投げ飛ばした男爵の巨躯の陰で、ワルもんざえモンはにたりと笑う。これで三人目。さあ、どうした。もう終わりか。と、余裕たっぷりにあたしたちを見下して。あいつにとってはこの戦いなどバンチョーとやらの前哨戦に過ぎないのだろう。心底舐め切った薄ら笑いがそれを如実に物語る。ああ、まったく。随分と、低く見られたものだ。

「どすこーい!」

 などと、気合い一杯なのか気が抜けているのか判断に悩む掛け声を上げ、うちの黄色い熊こともんざえモンが両手を突き出し猛進する。どすんどすんと地を叩き、助走をつけると標的目掛けて頭からダイブする。意図的か偶然か、男爵の巨体にワルもんざえモンの視界が遮られたその瞬間。まるで狙いすましたかのようなタイミングに、ワルもんざえモンの反応が僅かに遅れる。
 ぎりり、と歯軋りが聞こえた気がした。あちらの中身だろうか。自ら投げ飛ばした男爵が地に落ちるのも待たず、迫り来る敵へと即座に意識を移す。

「ごっつぁん!」

 もんざえモンが雄叫びを上げる。両手両足を前後に真っ直ぐ伸ばし、往年の特撮ヒーローが空を翔けるかの如きポーズで飛び掛かるその様はまさに肉弾。どの部位にも肉はない。頭の大きさと腕の短さからして突き出した両手にさして意味はないだろう。宙で捻りも加えてえぐり込むような頭突きを繰り出す。
 刹那の思案。ワルもんざえモンが獣爪の左手を握る。ぎしぎしと軋みを上げるほどに強く固く、鉄拳の突きをもって黄色い肉弾を迎え撃つ。

「ぬがぁ!!」
「ぐぬぅ……!」

 激突は一瞬。再び弾かれ合う。互いに上げた声は僅かに苦しげだった。一撃目をなぞるようなそれ。けれども吹き荒れた衝撃波は更に大きく、見るからに威力は増している。そして、ワルもんざえモンの顔色も先程より悪いように見えた。

「ヌヌ!」
「いたい! なに?」
「がんばれ! もっかい!」
「もっ……よ、よしきた!」

 魔術師や男爵を相手取る時とは明らかに違う。攻撃は、間違いなく通じている。これまで劣勢だったヌヌが急に強くなったというわけもあるまいし、簡単にあしらわれたように見えて意外と二人の援護が効いていたのか。何にせよ、この機を逃す手はない。頭を押さえて痛そうにしている熊さんにも構わず再度の突撃指令をくだす。ガンガンいこうぜ。

「どぉーすこおぉぉい!」

 一度身を屈め、クラウチングスタートの体勢から再び突進する。半ばやけっぱちにも見えた。ワルもんざえモンが舌打ちを一つ漏らす。再び飛来する敵を一瞥すると、勢いよく上体を捻り、円筒形の胴を捩りに捩る。雑巾みたいだな。何をする気かは知らないが、はいどうぞと行かせるわけにはいかないだろう。

「二人とも! 援護お願い!」

 あたしがそう言うや否や、言われるまでもないと二人は既に行動を起こしていた。魔術師が杖を突き出し早口に呪文を唱え、男爵がそのドリルで足元の地面をえぐる。

「“スピットファイアー”!」
「“ビッグクラック”!」

 二人が声を上げたのは同時。魔術師の構えた杖の先端から拳大の炎が放たれる。炎は黄色い肉弾を追い越して、ワルもんざえモンの左肩へと着弾する。僅かな焦げ跡だけを残して散る炎にそれほどの威力はない。けれど、何らかの技を繰り出そうと構えたワルもんざえモンの、その体勢を崩すには十分だった。ぐ、と小さく声が漏れた。すぐさま体勢を立て直そうとしたのだろう。だがそれも、亀裂に足を取られてしまってはできそうもなかった。男爵のドリルが刻んだ亀裂は、ワルもんざえモンの足元へと真っ直ぐに伸びて岩肌を穿つ。名前の割には僅か数センチ程度の断裂だったが、援護射撃としては申し分ない。
 ワルもんざえモンの顔に初めて、焦りの色が見えた。

 どむん! と、そんな音を立てて黄色い肉弾が炸裂する。そう、どむんと。……どむん?

「ふぁ!?」

 だとかなんとか、間抜けな声はうちの黄色い熊さん。しかしそれも無理からぬことだった。何せ目の前にいたのは、今の今まで対峙していたワルもんざえモンではなかったのだから。黄色い熊が頭を埋めていたのは暗い灰色のラバー風船。否、トループモンだった。それが三つ四つ、一塊になって肉弾の行く手を遮っていた。その攻撃は、ワルもんざえモンまで届いていなかった。
 再度ワルもんざえモンが上半身を捻る。右回りに半回転させた身体にぐぐぐと力を込めて、即座に全身を勢いよく左回りに逆回転させる。巨大な駒となって激しく回る様はさながら黒い竜巻。鋭く重い旋風を巻き起こす。

「“スピンアタック”!? ヌヌ君、避けるんだ!」
「避っ……いや、ちょ待っ!?」

 そう言われましてもと。ゴム塊に勢いよく突っ込んだまま、ろくに身動きも取れない熊には避けることなどできるはずもない。じたばたもがくもトループモンたちとくんずほぐれつ絡まり合って、為す術もなく黒い渦へと飲まれてしまう。途端に旋風が一際甲高い唸りを上げて、黄色い熊とゴム風船が花火のように四方へ弾き飛ばされる。

「ごへっ!? ぶへぁ!」

 二度三度頭を打ち付けて、熊が地面を転げ回る。不幸中の幸いとでも言うべきか。間に割って入ったトループモンたちが緩衝材となり、まともに攻撃を受けずには済んだようだが、それでもまったくの無事とはいくわけもない。熊に代わって見るも無惨に四散したゴム風船がその威力を物語る。

「ヌヌ! 大丈夫?」
「うぐぅ……だ、大丈夫だ」
「ならよし」

 ゴム風船の破片が辺りを舞う中、逆さまになって唸る熊に声をかければ返事はまだまだ元気そう。ならまあ、よしとするかと頷いて、何か言いたげな熊を余所に視線を移す。足元にドーナツ状の溝を刻んで回転を止めるワルもんざえモンの、その後ろ。アジト上階の大窓から身を乗り出すその姿は、体中から突き出した突起にガスマスク、つぎはぎだらけの青いラバーで覆われたホラーなあいつ。そう、誰あろうポぐぷん……ポッキュンである。

「いいタイミングだ、ポキュパモン!」

 そう、それそれ。である。
 ちゃんと発音してくれる上司に、ポッキュンも心なし張り切った風にこふーと雄叫びを上げる。風船の兵隊をぞろぞろと引き連れて、高さ十数メートルはあろう上層から躊躇なく飛び降りる。ずしん、ぼてぼて、と。重々しく降り立つポッキュンに続いてトループモンたちも無様に転がり落ちてくる。

「ぬう、増援か!」
「まずいね……!」

 魔術師たちも新たな敵の出現に身体を強張らせる。僅かながら戦況が優勢に傾きはじめたこのタイミング。まったく、敵ながらいい仕事をしてくれるものだ。そう、内心で毒づいたちょうどそんな時。泣きっ面をぷすっと刺す蜂は立て続けにやってくるのである。いち早く気付いたのは、男爵だった。

「勇者殿!」
「え?」

 叫ぶと同時に飛び掛かる。男爵のドリルがあたしの頭上を薙ぐ。けたたましい金属音が鼓膜を叩いた。訳もわからず呆けた顔で振り返り、地面に転がる黒い金属片を目にしてようやく状況を理解する。ドリルに叩き落とされ砕けたそれは、黒い歯車だった。

「これ……!」
「ニセアグモン博士か!」

 すぐさまその意味を理解し、辺りを窺えば目に留まるのはふよふよと浮かぶ黒い歯車。それも一つ二つではない。数える気にもならないが、少なくとも一人頭で十数個はあろうか。そうして、その黒い大群の後ろには白衣を引きずったニセ博士の姿があった。

「ギャギャ! 申し訳ありませんギャ! 奴らを取りのギャし……!」

 見るからに頭脳労働専門なぼてぼてとした走り方で駆け寄って、頭を下げるニセ博士にしかし、ワルもんざえモンは小さく首を振る。

「構わん。それより戦況はどうなっている? ドッグモンはどうした?」
「ギャギャ! ドッグモン・ターゲットモンともに戦闘不能ですギャ! トループモンも既に半数近くが破壊されておりますギャ!」
「何だと!?」

 あ、バレた。もうちょっと舐めたままでいてほしかったが、仕方がないか。役者も出揃ってここからが本番というわけだ。しかしあのガスマスク、そんなに倒したっけな。
 とにもかくにも気を引き締めなさいよと、振り返って愉快な仲間たちへ目を向ける。魔術師と男爵が力強く頷いて、熊があっちやこっちを交互に見る。

「え? ハナ、倒したのか!? すごいな!」

 というのも熊にとっては初耳だったろうから。ホントに何にも話す暇なかったものね。ちょっと一回ボス戦の前にインターバル欲しかったな。セーブポイントぐらい置いておけ。

「ふ、武勇伝なら後で聞かしたげるわよ。それよりヌヌ、ボスは任せて大丈夫?」
「あ、おう! 任せろ!」
「ウィザーモン、男爵! 残りはあたしたちで何とかするよ!」
「ああ、わかっている!」
「うむ、承知した!」

 形勢は、正直言えば少し不利。幹部もいない状態で敵があたしたちを舐めきっていた先程までとはもはや違う。今度はあちらも、本気であたしたちを叩き潰しに来るだろう。最大の勝機どころか、ともすれば撤退する最後の機会まで逃してしまったかもしれない。成る程、泣きたくなるような状況というわけだ。泣こうかな。何の解決にもならないな。よし、水分の無駄遣いだから止めておくとしようか。
 そこに至るまでの内心の葛藤を考えなければ、覚悟を湛えた見るからに精悍な顔で骨こん棒を構える。腹は括った。仕方なく。だって絶対手に余るもの。自分の身は、自分で守るしかあるまい。

「さあ……来るなら来なさい!」

 そんなあたしの叫びを引き金に、再び戦いの幕は切って落とされる。トループモンたちが機関銃を構え、ポッキュンが両拳をがつんと打ち鳴らして走り出す。どう考えても戦闘には邪魔なことに気付いたか、作業着であろう薄汚れた白衣を脱ぎ捨てて黒いマント姿になったニセ博士が、手に持った杖のようなものを振れば黒い歯車までもが襲い来る。ホントに来たし。どうしよう! そのマントも邪魔じゃない!?

「“バルルーナゲイル”!」

 骨こん棒を握り締めたままただただうろたえる。なんていう情けない勇者に代わって勇敢に一歩を踏み出したのは魔術師だった。風の魔術が飛来する歯車をぎしぎしと軋ませ、狙いを定めるトループモンたちの体勢を崩す。半ば転倒しながらも撃った機関銃があらぬ方向へ銃弾をばら撒いた。

「“ニセドリルスピン”!」

 的外れな銃撃を横目に、魔術師が小さく杖を揺らせば途端に突風は凪ぐ。と同時に勢いの削がれた歯車を男爵がそのドリルをもって次々に叩き落とす。なんていいコンビネーションだ。あたしの出番はないな。願わくばずっとないままでいろ。
 などという願いはしかし、当然この世界の神には聞き届けられるわけもなく、勇者のお仕事はすぐさまやってくるのである。
 がぎん、と重々しい金属音が響き渡る。どこにそんな硬度があったのか、ポッキュンの左腕が男爵のドリルとぶつかり合って火花を散らす。ぬう、と男爵が唸りを上げ、牙を軋ませながら横目に討ち漏らした歯車の動きを追う。ポッキュンが割り込んだことで男爵のドリルから逃れた歯車は三つ。ニセ博士の周囲にはまだ十数個の歯車が浮かんでいるが、同時に操れる数には限りがあるのか、まだ第二陣を放つ様子はない。とはいえ、さすがに男爵一人の手には余るだろう。トループモンたちもまだ残っているのだ。
 ああ、もう、仕方ない。

「ウィザーモン、トループモンお願い! 歯車はあたしがなんとかするから!」
「心得た!」

 たった三つ。ふよふよ浮かぶ歯車を落とすことなどこの勇者様には造作もない。と自分で自分に言い聞かせながら骨こん棒を振りかぶる。
 たった三つ。されどちょうど三つ。あたしが下手打てば三人とも操られてしまうことさえ有り得る。
 たった三つ。たった三つ。たった三つ……!
 ああ、もう! 考えるな! 感じろ! 頭使うタイプじゃないだろ、あたし! なんだとう!

「でえぇいやああぁぁ!」

 がごごん、と。雑念と迷いだらけの一撃はしかし、一振りに見事三つの歯車を撃墜してみせる。黒い破片が飛び散って、砕けた歯車が地面を跳ねる。いようし、さすがあたし!
 だが、喜びも束の間だった。ミッションコンプリートにはまだまだ早過ぎたことを、すぐさま思い知る。

「まだだ、ハナ君!」
「ほぇぁ!?」

 安堵の溜め息。など、吐く暇もない。発射準備オーライ、とニセ博士の周囲に浮かんでいた歯車が間も置かず次々に放たれる。今度はひぃふぅみぃの……七つ! おまけに新たな歯車までアジトの中から飛んでくる。次弾装填とばかりにニセ博士の周囲に集まった歯車は十を超える。キリがない……!

「ぅおぉりゃああぁぁ!」

 迫り来る歯車をひたすらに叩いて叩いて叩きまくる。一、二、三、四、五と落としたところで二つを残して次弾が更に三つ追加。泣きたい気持ちを必死に押し殺してもう一度骨こん棒を振りかぶる。
 どうやら歯車は数が多いほど動きが単調になっているようだ。か弱い女子中学生といえど決して捉えられないレベルではない。ではないが、けれどこちらが一度に落とせるのは精々固まった二つ三つが限度。討ち漏らした歯車は数が減ったことでより精度を上げて襲い来る。その対処に手間取っている隙を狙いすましたようにまた次がやってくるのだ。度々リズムを変え、落としても落としても尽きる気配がない。こちらの気力と体力が先に尽きてしまうであろうことは火を見るより明らかだった。

「ぐ……“スピニングショット”!」

 それに、不安材料はあたし一人ではない。トループモンを切り裂く魔術師の風の刃は既に何発目か。向こうも向こうでいくら倒そうがどこからともなくわらわらと沸いて来る。思えば朝から戦い通し。「しかしMPが足りなかった」にいつなってもおかしくないほどに消耗しているはずだ。
 繰り返し、繰り返し、迫り来るトループモンを迎撃する。一山幾らの風船兵士もしかし、まったくのワンパターンではない。本体はちっとも見分けがつかないが、手にした得物は無駄にバリエーションが豊富。銃火器にしてもマシンガンやらライフルやらハンドガンやら。近接武器もでっかい斧からナイフまで、果ては竹槍やら素手の奴さえより取り見取り。使えそうなものは手当たり次第にかき集めた、という印象だった。だが、それゆえに戦い辛いことこの上ない。

「ウィザーモン、大丈夫?」

 歯車を叩き落としながらそう声をかければ、魔術師は少しだけ躊躇いがちに頷いてみせる。人の心配している余裕があるかというならちっともないのだが、このぎりぎりの攻防は誰か一人が落ちた瞬間に総崩れになる可能性すらある。というか、あたしたちに限ってはもはや時間の問題だった。倒しきることはまずできそうもなかった。
 ヌヌ、男爵……! どっちでもいいから気張って踏ん張ってぇ! なんでもいいからどうにかしてよぷりーず! へぇぇるぷみぃぃぃ!!




 ぐ、と苦しげに声を漏らす。黄色い熊こともんざえモンは、焦っていた。
 頼もしきこん棒の勇者のあの表情は、本当の本当に心底切羽詰まった時のそれだろう。魔術師も徐々に押されはじめているし、ニセドリモゲモンも決して旗色はよくなどなかった。そうして、他ならぬ自分もまた。

 ワルもんざえモンのボディブローが脇腹を捉える。鈍い音を立ててめり込む拳に、身体をくの字に曲げて吹き飛ぶ。数度横転しながら地面を跳ねる。跳ねて、倒れて、そしてのそりと立ち上がる。ワルもんざえモンが忌ま忌ましげに舌打ちをした。
 さすがの奴も我がタフネスには多少なり苛立ちを覚えている様子。まあ、種を明かせば中で避けまくってて殴られてるのはほぼがらんどうの熊ってだけなのだが。しかし本体がいまだほとんどノーダメージとはいえ、疲労は当然蓄積していく。ぶっちゃけしんどくなってきた。ゾンビの如きしぶとさをもってしても多少の時間稼ぎと嫌がらせにしかなっていない。誰がゾンビだ。
 それはともかくさすがは曲がりなりにも世界征服を目論む悪の組織の首領か。さっさと倒せという目力による勇者からの無言の指令には、そうそう応えられそうもなかった。困ったな。いやまじで。超逃げたい。

「ああ!? ヌヌ!」
「く、ヌヌ君!」

 とかなんとか真顔の裏で弱音を吐いていると、叱咤するように二人が叫んだ。なによもう、とぷりぷりした顔で振り返る。怒られたわけではなかったことには、すぐに気が付いた。

「っ! ぅおおっ!?」

 振り返ったその目と鼻の先に見えたのは、飛来する黒い歯車。その少し後ろにはナイフ片手に走り寄るトループモンまで。

「すまない、取り逃がした!」
「あたしもごめん! 何とかして!」

 という状況はご説明されるまでもなかった。雄叫びを上げながら寸でのところで歯車を避け、突き出されたナイフをかわしてトループモンのその腕をつかむ。僅かに掠った刃先に綿毛が舞う。腕ごとラバーの身体を引いて一回転、振り回した勢いのまま放り投げてやる。
 ぎり、と歯列を軋ませる。目線は既にトループモンから外して後方を振り返る。狙う先は空中で旋回し、再びこちらへ向かってくる歯車。がぎん、と響く金属音。ハンマー投げのようにぶん投げたトループモンの、その硬質のガスマスクが見事歯車へ命中する。両者は諸共に砕け散り、黒い破片が花火のように跳ぶ。

 いようし、ざまあみろ。などと、本当はガッツポーズくらいしてやりたかったのだが、生憎そんな余裕はちっともない。相対するのはこんなにわかりやすい隙を見逃してくれるほど、易い敵ではないのだから。険しい顔を崩せぬまま、トループモンを投げた腕とは逆の腕をすぐさま振るう。が、その手は容易く払われてしまう。
 ずん、と重々しく、ワルもんざえモンの正拳が胸に突き刺さった。

「ぅおへっ……!?」

 漏れた声はこれまでの「びっくりしたなあもう」の意味ではない。身体の真芯を貫く衝撃。筋肉を引き裂き、骨子を軋ませ、臓器を震わせるが如き強烈な一撃。筋肉と骨はないが気分としてはそんなところ。臓器はあったかな。
 あまり経験のないダメージに思考回路もかつてないポンコツっぷりを見せる。
 ワルもんざえモンがにたりと口角を上げる。手応えあり、とばかり。

「手応え、ありだ……!」

 衝撃に吹き飛んで転げ回り、大岩に突っ込んで減り込んでようやく止まる。すぐには立ち上がれそうもなかった。露骨すぎるほどの苦しげな顔と呻きに、ワルもんざえモンが余裕の笑みを浮かべる。状況は大の付くピンチと言わざるをえない。そして台詞がモノローグと被ったことにはすまぬと言わざるをえない。結構余裕あんなオイラ。
 胸を摩りながらふらふらと立ち上がる。まだいける。こともなくはない。だがもう2、3発も喰らえば心が折れる。メンタル的にはもはや限界が近い。フィジカル的には多分10発くらいいけなくもないが、残念ながらヌメモン族はそこまでブレイブなハートを持ち合わせていない。全生命力の三割も削られたら普通に挫けるわ! むしろ今なお挫けていないことを褒めていただきたい!

 やり場のない憤りを抱えて力無くファイティングポーズを取る。
 薄々感づいてはいたが、どうやらオイラは早まってしまったようだ。何がというならヌメモンの分際で調子乗って勇者のお供なんてしちゃったことだ。ヌメモンの分際とは何事だ。それもこれもすべてはあのじじいが「勇者様をジャングルの外までご案内して差し上げなさい」とか言い出すからだ。あれさえなければ今頃は村で悠々と……ん? ジャングルの外? は!? そういえばオイラの仕事単なる道案内だった!? そんな馬鹿な! 何してんだオイラ!?
 そんな内心のあれやこれやもしかし、赤の他デジであるワルもんざえモンには知ったことではないし知る由さえもない。立ち上がりはしたものの、俯いてまるで覇気のない眼前の敵に、手を緩めてやる理由などなかった。

「さあ、どうした!? よもや怖じ気付いたわけではあるまいな!」

 更にもう一発。今度は左手の獣爪を振りかざし、黄色いもこもこボディを引き裂かんと猛進する。ゆらりと、黄色いもこもここともんざえモンが顔を上げた。その目に点るのは、かつてないほどに淀んだ光だったという。

「うぅぅるせえぇぇぇ!!」
「ぬぅ、ぐおぉ!?」

 どおん、どんどん、と。巨大な銅鑼を叩き鳴らすような轟音は、ただ拳でぶん殴っただけとは思えないほどに重く激しく響いて唸る。初撃はやや上方からえぐり込むように打ち下ろす右ストレート。次いですかさず左のジャブを繰り出して、流れるような動きで返す右拳のボディブローが炸裂する。飢えたケダモノの如きその形相にはおよそ似つかわしくないコンビネーションであった。
 蒸気にも似た真白い吐息を零し、黄色い野獣は双眸にどす黒い炎を燃やす。なんかいろいろあった末に何かが切れたらしい。その事情には、勇者だけがなんとなく察しがついていた。

「ちぃ……まだそんな力が。まったく、そのしぶとさだけは驚嘆に値するね」

 うるせえ! としか返すことができない、そんな精神状態だった。内に漲るデジソウルが茹だってたぎる。心なしか視界が赤らんできた。なんだか無性に叫びたかった。ようし、叫んじゃお!

「ふぉ、ふっ、ふぉほおぁぁぁぁ!!」

 とか、ついでに胸をどんこどんこと叩き鳴らせばなんだか心は高揚してくる。叫べば叫ぶだけ気が晴れていくよう。

「ふぉーふぉーふぉっひゃあぁーひゃっひゃっひゃあぁっ!」

 なんか楽しくなってきたあ! なんだか何でもできそうだ! やあってやらぁ! ゴー! オイラ! あひゃひゃ!?

「ぬう……!?」

 突然奇声を上げたと思えば途端に様子が変わる。デジモンとしての闘争本能が剥き出しになったかのように、眼光がぎらりと妖しく輝いた。そんなもんざえモンに、ワルもんざえモンの顔にも僅かな緊張の色が差す。脈動する電脳核のパルスが共鳴し、自身の本能までもが疼くよう。
 熊と熊とが互いに口角を上げ、咆哮とともに地を蹴ったのはほぼ同時だった。




「あ」

 と声を上げたのは、熊の楽しげな雄叫びを聞いて。オーガたちのアジト以来鳴りを潜めていたそれ。治ったものだと勝手に思っていたのは、そうだといいなという単なる願望に過ぎなかった。
 事情を知らない魔術師が驚いた様子で振り返る。

「ハ、ハナ君! あれは……!?」
「あー、ええと……暴走したみたい」
「暴走!?」

 まさかここに来て再発してくれるとは。舌をべろんべろんと垂らしながら、瞳孔を開いて甲高い笑い声を上げる。その様にもはや理性など見て取れない。
 肩をぐるぐると回して拳を振り回す。かと思えばバレリーナのように跳びはねて、そのまま空中で腕を広げてプロペラのように横回転。そうして今度は頭から急降下してみせる。目まぐるしく変わるその動きはまるで予測不可能。さすがのワルもんざえモンも顔を歪めて苛立ちを隠せない様子。というか、

「あれ? ねえ、なんか……」

 人のことばかり気にしている余裕などちっともないが、半ばルーチンワークのように歯車を叩き壊しながら眉をひそめる。

「いい感じになってない?」

 と問えば魔術師はトループモンを相手取る片手間に熊たちを一瞥し、そうしてあたしを見る。風の魔術で周囲に群がるトループモンを一掃し、一息を吐いてから、また熊たちの戦いへ視線を向ける。気のせいではない。暴走はしているが形勢はむしろよくなっている。あのワルもんざえモンと互角に渡り合えている。

「恐らく、今までは制御可能なレベルまで無意識に力をセーブしていたんだ」
「なら、このままいけば……!」
「いや、タガが外れて完全体の力に振り回されてしまっている。あのままでは身体が持たない!」
「うえぇ!?」

 なんて変な声が思わず漏れる。あれそんなシリアスな奴!? あひゃひゃ言うてるよ!?

「ハナ君、先程の口ぶりからして初めてではないのだろう? 方法があるなら早く止めなければ!」
「と、止めるって言われても」

 確かに止めたといえば止めたのだけれど、それはこんなにも切羽詰まった戦いの真っ只中にではない。今もなお黒い歯車とトループモンの襲撃は続いているのだ。合間にこうして話しをするのも中々にいっぱいいっぱい。てゆーかまあまあ撃ち漏らしてさっきからちょいちょい余所様にもご迷惑をかけている。とてもじゃないが叩き起こしにいく余裕なんてない。
 なんて、辺りまで考えてふと気付く。よくよく考えたらそれ、あたしである必要なくないだろうか、と。
 よっこらしょいと迫る歯車に骨こん棒の一撃を見舞い、魔術師の傍へと駆け寄る。次の歯車へと視線の照準を合わせたままに呼び掛けて、

「ねえ、前はぶっ飛ばしたら正気に戻ったんだけど……」
「ぶ、ぶっ飛ばしたぁ!? 完全体をかい!?」
「いやそこは今いいから。それより、だったらほっとけば殴られて勝手に元に戻るんじゃない?」

 そう言って、熊を見る。見て、見て、そして魔術師が言う。

「いや、そうは見えないが……」
「……そうね」

 見れば割合ぼっこぼっこに殴られている。のに、正気に戻る気配はまるでない。あのワルもんざえモンのパンチ<あたしのジャーマンスープレックスだとでもいうのか。そんな馬鹿な。よく味わって噛み締めろ。絶対そっちのが痛いはずだ。痛いと言え。あひゃあひゃじゃなくて。
 てゆーかそんなことよりさっきから攻撃を受ける頻度が徐々に増えてきているようにも見える。限界が近付いているのか、ワルもんざえモンが今の動きに慣れてきてしまったのか、その両方か。いずれにせよ状況はどんどん悪くなってきているらしい。

「あるいは、戦いの中でこれまで以上に生存本能と闘争本能が呼び覚まされてしまったのかもしれない。さすがにここは一度退くべきだが……!」

 勿論、そんな判断ができるような状態にはまったく見えなかった。何が闘争本能だ。あんたのは逃走本能でしょうが、しっかりなさい!
 なんて、心の内の叫びは届くはずもなく。もんざえモンはなおも無謀な特攻を続ける。そんな時、追い打ちを掛けるように最悪は続けて畳み掛ける。ずずん、と地を揺るがす衝撃。振り返れば男爵の巨体が岩肌に横たわっていた。対峙していたポッキュンは荒い息遣いでそんな男爵を見下ろしている。

「ぐぅ、おのれ……!」

 四方八方から襲い来る敵をたった二人で食い止めることなどそもそもが無理な話。唯一ほぼ互角に思えた男爵とポッキュンの戦いも、あたしたちが潰し損ねた歯車とトループモンの乱入に次第に形勢が傾いてきてしまっていたのだ。始めから時間との戦い。ただリミットを迎えたという、それだけのこと。
 そう、これ以上はもはや延命措置に他ならない。僅かな勝機を逃してしまった今、あたしたちにはもう、打つ手など――

「オーウ、なんだかピンチな感じ? ユーたちホントにダメダメネ!」

 万策尽きたと身体以上に心が膝を折り、かけたそんな時。暢気な声は澱んだ空気を無造作に引き裂いて降った。
 どうしてだろう。どこか安堵を覚えたのは。そんな感情を向けていい相手でないことは一目でわかったのに。
 戦いの余波に壁が崩落したアジト中層から、あたしたちを見下ろすその姿を一言で形容するならば、メタルなうんこである。こんな場面には余りにも似つかわしくないビジュアルを引っ提げて、現れたのはそう、ダメモンであった。思いもよらぬ闖入者に口をぱくぱくさせながら目を丸くする。
 いや、あたしたちばかりではない。その登場にはワルもんざえモンさえも訝しげな顔をする。驚いてもいないのはあひゃひゃと楽しそうな誰かくらいのもの。

「ダメモン? どうした。加勢ならば……」

 もう必要はないぞと、言いかけたワルもんざえモンの声を遮ってダメモンは笑う。ワルもんざえモンの配下でありながら敵であるあたしたちをダストシュートへ逃がした張本人。今までの行いからしてあれが本当は単なる罠であったという可能性もいまだ否定はできなかったが、今この瞬間、ダメモンがワルもんざえモンに向けたその表情には主君へ対する畏怖や敬意はまるで込められてなどいなかった。
 言うなれば、嘲笑にすら近いそれ。

「アッハハ、残念だけどそっちじゃないネ、ボス!」
「何だと? どういう……」

 ひょいと、ワルもんざえモンの言葉も待たずに建物の奥へとダメモンが引っ込めば、次に顔を出すのはガスマスク。一人、二人、三人、四人とアジトから飛び降りてくる。否、その表現が適切でないことにはすぐに気が付いた。トループモンたちは受け身も取らずに地面に落ちて、落ちて、また落ちて山のように積み重なっていく。どれもこれもぴくりとも動かない。いいや、動けないのだ。なぜならそのすべてがとうに、中身の抜け切った残骸に過ぎなかったのだから。
 もう一度、顔を出していつもの調子でまた笑う。ダメモンはどこからか取り出したトンファーをくるくると回して得意げな顔をしてみせる。

「これは……! どういうことだ、ダメモン!?」
「見ればわかるネ。ミー、裏切っちゃった! てへ!」

 こつんと頭を小突いてウインクする。傍から見ててもムカつく顔だった。こんな場面でも待ってはくれない黄色い熊と取っ組み合いながら、ワルもんざえモンが僅かに声を荒げる。

「何故だと聞いているのだ! 奴らに肩入れする理由がどこにある!?」
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」

 答えたのは黄色い熊だった。お前じゃないと誰もが思ったが話の通じる相手ではないので誰も突っ込めなかった。しかしダメモンはそんな狂喜の熊をも華麗にスルーし、ぴっとあたしを指差してみせる。

「なあに、ほんのお礼サ! ミーの代わりにハグルモンたちを逃がしてくれた優しい勇者ちゃんへのネ!」
「ハ、ハグルモンだと!? 貴様、最初からそれが狙いか!?」
「あひゃひゃひゃひゃひゃ!」

 だからお前じゃない。っていやいや、そんなことよりハグルモン!? どゆこと!? あたくしも話に加えていただいてよろしくて!?
 訳もわからず呆ける勇者を余所に、何だか知らないところでなおも話は進む。ワルもんざえモンがぎりぎりと奥歯を鳴らし、その裏切りへの怒りを両の眼に燃やす。

「では、病弱な妹の薬代を稼ぐ為に雇ってほしいというのは……!」
「嘘ネ」
「おのれぇ! 謀ったか!?」

 むしろ信じたのか。てゆーか雇ってもらえるのかそれ。薄々感づいてはいたけど人がいいな。いや、熊がいいな。

「ダメモン! 貴様、一体何者だ!?」
「フッフフ! 聞かれて名乗るもおこがましいが、そうまで言うなら答えよう! アテンショぉーン!」

 くるりと片足立ちで一回転。一本指をおっ立てた妙なポーズを決めるとダメモンはゆうに地上3階程度はあろう高さから躊躇なく飛び降りる。

「とう!」

 なんて掛け声とともに、軽やかな身のこなしで宙へと躍る。翼をその背に舞うかの如く。己が秘匿せしすべてを白日の元に曝け出さんと、ダメモンは高らかに声を張る。

「ある時は騎士団の間者・ダメモン! またある時は悲劇の助っ人・ダメ次郎! はたまたある時は謎のイケメン・ダメ次郎Mark.2!」
「全部おんなじ!」
「しかしてその実態はあぁぁ!」

 あたしの正論過ぎる突っ込みをスルーし、見事な着地を決めてダメモンは天を指す。途端にその指先から旋風が吹き荒ぶ。視線を通さぬほどの分厚い風の壁がダメモンの姿を覆い隠す。

「デジ忍法――“武人変化”!」

 けたたましい風の唸りの中で嫌にはっきりとダメモンの声が聞こえた。瞬間、旋風が霧散する。風の幕を自ら引き裂きそれは姿を現した。
 そこに立つはふざけたメタルうんこなどではない。あまりの変わりように惑う視線がようやく捉えた姿は言うなれば、当人の言葉通り“武人”――あるいは“忍者”とでも。
 並んで立てばあたしの腰にも届かない小さなダメモンとはまるで違う。今や熊とも変わらぬほどの大きく逞しいその体躯。ダメモンの面影を残す甲冑にも似た黄と白の装甲を纏い、武人は悠然と佇む。まずもってその体積をどうあのサイズに押し込めていたというのか。武人は雄々しく名乗りを上げてみせた。

「お初にお目にかかる! 某の名は“ツワーモン”! デジソウル道場師範代にしてバンチョーレオモンが門弟なり!」
「な……なんだとぉ!?」

 腕を組んで語るダメモン、いやツワーモンに、ワルもんざえモンは驚きの声を上げ、わなわなと震える。なんか最近どっかで聞いたような名前が出た気がしたが、次々に濃ゆいのが出てきたせいか残念ながら記憶はとても朧げだった。なんか知らんが恨んでる奴だっけか、バンチョーなんとかって。結局明かされても今のところは誰なのかまだよくわかんないままだ。
 そしてそれはどうやら盛り上がってる当人たち以外の皆が一様にそうらしい。誰もが戦いの手を止め、何がなんだかさっぱりなこの話の成り行きを見守る。よし、いいだろう。一回休憩といこうか。あたしはお疲れだ。

「貴様ぁ! バンチョーレオモンの手のものが何故ハグルモンを!? まさか……!」
「フフ、いや何、単なる偶然に過ぎんよ。よもやユーと師にかような因縁があろうとはな」
「何!?」
「“がらくたの街”は知っていよう? 仲間を助けてほしいと頼まれてネ」

 “がらくたの街”――聞いてもちっともぴんと来ない辺りきっと初耳だろう。のけ者過ぎてなんか寂しくなってきたのでここいらで一回口を挟んでみることにした。あたし勇者だぞ。ちょいと忍者さんやと水を差す。

「仲間って、ハグルモンたちの仲間に頼まれたの?」
「む? うむ、道場の資金稼ぎと宣伝とその他諸々を兼ねた修行でネ。時折こうして依頼を受けて傭兵のようなこともしているのだ」

 それはまたいろいろと兼ねたものね。修行の割合どんくらいだろう。道場やってくのも大変そうだな。
 出稼ぎ忍者は毛ほども苦労を感じさせぬ余裕の笑みを浮かべ、事もなげに言ってみせた。世知辛い世にも忍び耐えるが故に忍者というわけか。

「ふむ、なぜ同情の眼差しを向けられているかはわからぬが、ともあれ雑魚は任せてもらおうか。さあ勇者よ、今こそその使命を果たすがいいネ!」
「え? あ、ああ、うん、ありがとう!」

 雑魚だけか。とは勇者の台詞ではないのでさすがに飲み込んだ。まあ、あっちの仕事終わった上で善意で手伝ってくれてんだしね。サービス残業みたいなもんだ。贅沢は言えまいて。
 武運を祈るとばかりに一瞥だけを寄越すと風の如く跳躍し、瞬く間に忍者はその場から消える。漫画とかでありがちな忍者の去り方だこれ。

「待て貴様! バンチョーレオモンと聞いてみすみすと……!」
「あっひゃひゃひゃーーおぅ!」

 一度は当てが外れたものの思いがけず現れた仇敵の手掛かりに、逃がすものかと声を荒げる。そんなワルもんざえモンを引き続き阻むのは我らが黄色い暴走熊さんである。ワルもんざえモンがあからさまに苛立ちを露にする。

「この……! 部外者は引っ込んでいろ!」

 とはすごく正論だったが、そうは言われても今更こちらも退くに退けない。こうなってはやってやるしかあるまいて。

「よし! あたしたちもいきましょう!」
「ああ、確かにこれは好機だ」
「ウィザーモン、歯車はあたしがなんとかするから男爵のほうを……!」

 ツワーモンがトループモンが止めてくれるなら、采配はそれがベスト。あたし一人で歯車を止めきれないのは既に明白だが、かと言って劣勢の男爵を放っておくわけにもいかない。そう、あたしだけでなく魔術師もまた同じように考え頷いた、そんな時。首を横に振ったのは当の男爵だった。

「い、いや、お待ちくだされ勇者殿……」

 傷だらけの身体を引きずるようにして立ち上がり、駆け寄ろうとする魔術師を制止する。戸惑うあたしたちに、けれど男爵の眼差しはどこまでも真っ直ぐに、その目の奥には確かな闘志がなお燃える。

「助太刀に来ておいて助力を求めるようでは本末転倒、ドリルの名折れ……! ここは我輩に任せてくださらぬか?」
「男爵……」
「ニセドリモゲモン、君は……!」

 踏み出した足がたたらを踏んで、魔術師は葛藤に顔をしかめる。気持ちはわかる。だが戦況を考えるなら、と。けれどあたしは、いや、だからこそ、瞬きほどの間だけを置いて力強く握った拳を男爵へ突き付けてやる。逡巡など必要もなかった。

「わかった、任せる! ぶっ飛ばしてやって!」

 そう言ってやれば男爵は一瞬の沈黙の後、火打ち石のように牙を打ち鳴らす。強く強く己が敵を見据えて応えてみせた。ドリルが唸りを上げる。ドリルの名折れってなんだろう。

「おうとも! 任されよ勇者殿!」

 使命感と正義感。そしてそれを果たせることへの歓喜とを込めたその目の炎は、どこまでも熱く、どこまでも澄んで、煌々と輝き燃えていた。あたしの中にその勝利への疑いなど、もはや微塵もなかった。

「ハナ君、ならば黒い歯車は私が引き受けよう。君は早くヌヌ君を!」

 横槍を入れるものなどもういない。ポッキュンと一対一で向き合う男爵を一瞥し、魔術師もまたその目に信頼の色を差す。轡を並べる友を信じ、ただ自らの為すべきことを見据える。
 あたしは噛み締めるように頷いて、この戦場における自身の役割を改めて確かめる。できるかどうかなどわからない。どうしたらいいのかさえもわからない。けれど、それはやりもしない理由になんてならない。
 岩盤を踏み砕かんばかりに地を蹴って、眼の真芯に捉えるは狂気に溺れた戦友の姿。待ってなさい。何がなんでもこのあたしが、連れ戻してあげるから!

「ん?」

 と、けれどもしかし、盛り上がれば盛り上がるほどにそうは問屋が卸さぬがこの世界の神というもの。勢いよく踏み出した一歩を一歩目で止めたのは今さっき格好よくあたしを送り出した張本人だった。どこか申し訳なさげに魔術師は言う。さすがの勇者も急ブレーキに思わず頓狂な声が出た。

「す、すまないハナ君、その前に一つ聞きたいのだが」
「ほぇ? なに?」
「その、ニセアグモン博士がどこに行ったかは、知っていたりするかい?」
「え? どこって……」

 問われて、きょろきょろと辺りを窺って、そうして気付く。

「あれえ!? いない!? いないよウィザーモン!」

 ふよふよと浮かぶ歯車はあれどそれを操るニセ博士は影も形もない。
 一体いつの間に!? いやあたしたちが盛り上がってた最中だろうけれども!
 すっかり忘れてるうちに消えてしまったターゲット。おろおろしていると横から声を上げたのは既にポッキュンと交戦中の男爵だった。

「勇者殿、魔術師殿! もしやあのおかしなアグモンもどきか? であれば先程アジトのほうへ走っていくのが見えたぞ!」

 なあんですってえ!?

「てゆーか早く言ってよ!」
「すまぬ! よもやそれほど重要な敵とは思いもせず……!」

 ホントだ! なんにも話してなかったわ! ゴメンね男爵!

「ハナ君、歯車を……!」

 そうこう言ってるうちにも刻一刻と変化する状況は何一つ待ってなどくれない。黒い歯車はあたしたちの隙を窺うように周囲を旋回し始め、おまけにアジトから新手までやってくる。
 コントロールは失われていない。ボスを見捨てて逃げたわけではなさそうだ。だとするなら……くそう、なんてこった! 遂に気付きやがったかあのポンコツ博士め! 姿を現すメリットがまったくなかったということに! ずっと突っ込まないでおいたのにぃ!

「身を隠したか。賢明だね」
「ホントにね」

 じりじりとにじり寄る十数個の歯車の包囲網。どうやらまずは一番弱そうなのに的を絞ったようだ。つまりはここに来てあんまり活躍できていないあたしと魔術師。失敬な。
 旋回する歯車を目で追いながら、ちらちらと熊対熊の戦況にも目をやる。目をやって、あまり悠長に構えてはいられないことを再確認する。

「ウィザーモン、援護頼める?」
「あの数ではそう長くもたないが……」
「ヌヌまで辿り着ければ十分よ」
「元に戻す算段はあるのかい?」
「ない。でもいいからお願い」

 なんて言い放てば魔術師は肩をすくめて溜息を吐く。なぜだか少し、笑みさえ浮かべて。

「まったく君は……。わかった、どうにかしよう」

 それが私の為すべきことだから、と。歯車からは目を逸らさずに呪文の咏唱を始める。歯車を通してこちらを見ているであろうニセ博士から、口元を隠すように立てた襟の奥へ顔を沈めて。あれどこにカメラ付いてんだろ。
 勿論、術式の完成は杖の先端に閃光となって視覚化されてしまう為、僅かな時間稼ぎにしかならないが、それで十分だった。
 真紅と深緑の光の帯が渦を巻き、と同時に歯車が一斉に襲い来る。
 お前の領分ではない、というワルもんざえモンの言葉通り、やはり戦い慣れてはいないようだ。一歩、遅い。

「“サンダークラウド”!」

 杖の先に沸き立つ極小規模の雷雲より、鋭く紫電がほとばしる。十を越える標的を一息に撃ち落とすべく複雑に分岐する稲光の残滓は、まるで歳月を重ねた大樹の枝のよう。光の枝葉が避ける間も与えず黒い歯車を搦め捕り、瞬間に走る莫大な電流がその外装を焼き切り骨子を破壊する。原形を留めることすら叶わず、黒い破片となって歯車は飛散する。

「今だ!」

 言うが早いか、あたしは脇目も振らずに走り出す。心を支配する黒い歯車から、今あたしの身を守るのはただ魔術師の援護射撃だけ。すべてを撃ち落とせたわけではないし、新たな歯車は次々にやって来る。それでも、あたしは迷いなく熊だけを見て駆けていく。仲間に背を任せたのなら、後は信じるだけでいい。

「ヌぅ~ヌうぅ~~!!」

 声の限りを張り上げる。けれども熊は応えない。行く手を阻む歯車を魔術師の放つ追撃の炎が撃墜し、砕けたその残骸が足元に散らばる。構いもせずに黒い欠片を踏みしだき、なお走る。なお呼び掛ける。

 ヌヌ、ヌヌ! 戻ってきなさい!
 祈るように、縋るように、ただひたすらに叫ぶ。狂喜の笑いは途切れ途切れに力無く、黄色い熊はとうに反撃もままならない。もはや生きたサンドバッグ。そろそろ正気を取り戻してもいいボコられ具合でしょう!?
 ヌヌ、ヌヌ! ああ、どうしたらいいの! 勇者と呼ばれていい気になって、あなた一人も救ってあげられないだなんて!
 一歩を駆ける度にこれまでの思い出が頭を過ぎる。ジャングルで出合い頭にダブルノックアウトしたこと。ゴブリンを倒したら勇者と呼ばれて死地に追いやられたこと。道に迷って毒リンゴを食わされかけたこと。まだ序盤だがもういいだろう。ろくな思い出がなかった。
 ヌヌ、ヌヌ! ああんもう! いい加減にしろい! まどろっこしい!!

「どぉりゃああぁぁぁ!」

 堆く積まれた瓦礫の山を駆け登り、羽ばたくように跳躍する。宙で身体を捻って右足を勢いよく前へと突き出す。特撮ヒーローよろしく繰り出した飛び蹴りは、ワルもんざえモンと対峙するもんざえモンのその脇腹を、横合いから見事に捉えてみせた。身体能力が多少人間の限界を突破したような気がしないでもないがひとまず今は置いておこう。

「あぴゃ!?」
「なにい!?」
「ハナ君!?」

 熊がおかしな声を上げ、ワルもんざえモンが驚き、魔術師もまた目を丸くする。言いたいことはわかる。わかるがいろんな思い出とか感情とかがぐるぐる頭の中を回って気付いたら足が出てしまったのだから仕様がない。かっとなってつい。てゆーかそもそもこの肝心な時に訳のわかんない理由でピンチを煽ってんじゃない!
 黄色い熊は身体をくの字に曲げて飛んでいく。くの字と言えば普通は横から見ての話だと思うがこの場合は正面から見てである。真っ当に生きてたらそうそう有り得ない形に胴を曲げ、熊は宙を舞って地を擦って、瓦礫の中へと中々の勢いで突っ込んでいく。
 なんならそのまま爆発でもしそうなくらいのヒーローキックであったという。

「貴様、何を……!」
「うるさい! ちょっと待ってて! タイム!」

 とだけ言い捨てて、瓦礫の山に頭から刺さった熊の元へと駆け寄る。ワルもんざえモンが何か言いたげな顔をしたが有無を言わさず駆け抜ける。戦いの余波に荒れた凹凸の激しい大地を跳んで登って飛び降りて、最短距離で熊の前へと辿り着く。
 ぐわしっ、と。胸元辺りの布地を掴んで引っ張り出す。そうして、ぱぱんと頬をひっぱたく。

「ほらヌヌ! しっかりなさい! 朝よ! 起きて! ほら!」

 ぱしんぱしんばしんばしん。と小気味よいリズムで往復ビンタが炸裂する。焦点の合わない寝ぼけ眼が途端に見開かれる。

「あ、いたっ。いたい。あれ? なに? いたい!」
「ヌヌ、ヌヌ! あたしがわかるの? わかんない? どうなの?」
「いたっ、いたい! わかるから! なんで!? いたいよ!?」

 と抗議する様は見る限りどうやらいつもの熊。あたしの愛のビンタにどうにかこうにか正気を取り戻してくれたらしい。取り戻すのかお前。話は早いに越したことはないけれど。
 少々納得のいかないところもあるがまあいいだろう。そんな目で見るなと、まだ顔は見ていないが見なくてもわかるので背中から立ち上るオーラで周囲に訴えつつ、ビンタを止めて代わりに熊のおでこに手刀を一発見舞ってやる。

「あだっ! なんで?」
「なんでじゃないでしょ! ほら、立って!」
「お、おう……あれ? てゆーか何この状況? オイラどうした?」
「まったくもう……! また暴走してたのよ!? しっかりなさい!」
「え、マジで? それは……どうもすんませんした」

 ぺこりと素直に頭を下げる熊に、あたしは深あく溜息を一つ吐く。

「わかればよろしい。ほら、気合い入れて! まだ終わってないんだからね!」
「あ、おう、すまん。……なあ、あいつなんで待ってくれてんの?」

 そう、指差す先には待ってと言われて律義に待ってるワルもんざえモンの姿があった。なんでと言われても、あたしの剣幕に思わず立ち尽くした、とでも言うしかあるまいて。やあね、もう。

「くっくっく。最後のお別れは済んだかね?」

 ということにしたいらしい。成る程な。いいだろう。乗った。

「よし、もう大丈夫ね? またやったら風穴あけるからね」
「怖いよ!?」
「言葉のあやよ。それより、今度こそ頼むからね? 世界の平和はあんたの双肩に懸かってんのよ!」
「え? ハ、ハナ、そこまでオイラのことを……! 悪いもんでも食ったのか?」

 失敬な。毒キノコくらいしか覚えはないぞ。まったくもう、こいつは。

「何言ってんのよ、ここまで来て。あたしとあんたで“勇者”でしょ?」
「お……おお、ハナ! ハナぁ! ずびー!」
「さあ、世界を救うわよ! ふんどし締め直して打ち噛まして来なさい!」

 じょびじょば変な汁を吹く熊の胸を小突いて、恐れも憂いもないとばかりに笑いかけてやる。しかしあんだけボコボコにされた割に随分と元気な熊さんだな。
 心なしか蒸気すら噴き出して見える程に戦意をたぎらせて、熊はどんこどんこと胸板を叩く。いや、胸布を叩く。士気は十二分。元気もなぜだか十二分。食い気は二十分くらい。これはあたしの話だ。とっとと終わらせて祝勝会といこうじゃないか。

「おおっしゃらぁぁ! 待たせたなあ!」

 指もない両拳をがつんと打ち鳴らし、もんざえモンは猛々しく吠える。

「仕切り直しだ! 第二ラウンドと洒落込もうぜ!」
「ふん! おもしろ……第三ではないか?」
「第三ラウンドと洒落込もうぜ!」
「いいだろう! これでケリを付けてくれるわ!」

 二匹の獣が牙と爪とを研ぎ澄ます。少しだけ締まらないところもあったがそれはご愛嬌。三度戦いの、ゴングが鳴り響く。




 ウィザーモンは思案する。
 身体能力では成長期にも劣るはずの人間の少女が暴走する完全体を飛び蹴りと平手打ちで鎮圧したことも勿論すごく気になるが、それより今は、この現状をいかにして打破するかということ。
 暴走による自滅は食い止められたものの、ワルもんざえモンとの実力差は依然として埋まるはずもなく、刻限は着実に近付いている。どこまで信用できるかは定かでないが、あのツワーモンと名乗るデジモンがトループモンを引き受けてくれている今、厄介なのは姿を隠したニセアグモン博士のほうだ。常時十数個の黒い歯車を操り、隙あらば洗脳しようと我々を狙っている。唯一もんざえモンにだけはその矛先を向けていないようだが、それは横槍を入れるなというボスからの命令なのか、あるいは完全体を支配するほどの性能をそもそも持ち合わせてはいないだけなのか。
 いずれにせよ、成熟期であればほぼ完全に支配下に置けることは既に証明されている。あの物量では迎撃するこちらのスタミナがそう長く持たない。トループモンをあらかた殲滅したツワーモンが加勢に来てくれるのならニセアグモン博士を直接叩きにもいけるだろうが、それがいつになるかはわからないし、第一、まずもってツワーモンなどという不確定要素を主軸に戦略を組み立てるわけにはいかない。

 決着が近いのは現状ではニセドリモゲモンとポキュパむ……モンか。邪魔さえなければ両者の実力はほぼ拮抗している。ツワーモンが現れるまでの間、多勢に無勢を余儀なくされたニセドリモゲモンが体力的に不利ではあるものの、あれだけの接戦な上にどちらも格闘戦を主体とした戦闘スタイルだ。ダメージも疲労も互いに限界まで蓄積されているはず。恐らく気力も眼前の敵を倒すまでが精一杯。それ以上の戦闘継続はもはやほぼ不可能と見ていいだろう。

「“スピニングショット”!」

 風の刃をもって襲い来る歯車を撃ち落とし、今一度戦場を見渡す。役目を果たした勇者ももんざえモンの元を離れ、歯車の迎撃に加わっている。勇者の役目が露払いでいいのかはひとまず置いておくとして、二人掛かりであればまだしばらくは持ち堪えられるだろう。問題は、その先だ。

 いまだ数手が足りない。なにより決定打となりうる一手がない。
 もどかしい。自分の頭の不出来がなによりも。師匠であればどうするだろう。いや、考えるまでもなく「逃げてしまえ」か。あの人が私の身を案じることなど万に一つもあるまいが、少なくとも何の利益にもならない戦いなどする弟子を称賛しはしないだろう。
 そもそもの話として「ゲートは後でいいからその人間の傍に付いていろ」とは二人と一度別れた後に師から届いた追加指令だったのだが。好奇心がローブを着て浮いているようなあの人のことだ、興味の対象は今や遠い異世界からやって来た世にも珍しい人間の少女へと移ったのだろう。であれば少しくらい手を貸してもらいたいものだが、期待するだけ無駄なことはわかりきっている。
 まったくあの人には困ったものだ。一つに興味を持てばそれ以外のすべてを疎かにする。以前も確か魔王と選ばれし子ど――

 そんなところまで考えて、ふと、頭の奥底に細い細い光の筋が差した気がした。どうにも想定外の出来事に弱いせいか、思考が次第に脱線してしまったことが幸いしたらしい。光明とは、いつも思い掛けぬところにあるものだ。

「ハナ君!」

 名を呼べば少女は振り返る。確かめなければならない。点と点とが線となり、線と線とが面へとなりうるのか。そこに、思い浮かべた通りのこの絵を描き出せるのか。

「何? どうしたの?」

 問いながら少女は歯車を叩き落とし、ひょひょいと瓦礫を跳び越えやって来る。どうして今まで気付かなかったのか。いや、疑問はあった。不思議には思っていた。思っていたのになぜと自分を叱り飛ばしてやりたいが、一先ずそれは後にしよう。

「確認したいことがある!」
「え? 今ぁ!?」
「そうだ今だ! ハナ君、デジヴァイスはまだ持っているかい?」
「デジ……あ、えと、ポケットに入ってるけど」

 ぽんと腰の辺りを叩いて少女は眉をひそめる。訝しむのはもっとも。だが説明している時間はない。そもそも、今もなお続く歯車の猛攻をどうにかしない限りは、説明以前の話でしかない。
 僅かばかりの光明は見えた。のに、そこへ至る道がまだ見えない。
 どこか、なにか、もう一手、後一手が……!

「はぐはぐ」

 そうして光明は、暗がりの中から思わぬ姿で顔を見せるのだ。




「ぬうおおおおぉぉぉ!」
「ぐぉふぅううぅぅぅ!」

 一際高く大きく雄叫びが轟いた。男爵のドリルをあろうことか横合いからの頭突きで強引に逸らし、ポッキュンは渾身の右拳を繰り出す。砕けたガスマスクの一部が宙を舞った。必殺のドリルをかわされた男爵もすぐさま迎撃に打って出る。体勢を崩したのはお互い様。タイミングは、ほぼ同時。
 これまでの激戦にポッキュンの左の爪も男爵の指先のドリルも傷と歪みに原型を留めておらず、残されたものはその肉体と気力だけ。最後の武器が、固く握りしめた互いの拳が互いの顔面へと炸裂する。
 がごん、と。まるで巨大な鈍器がぶつかり合うような、およそ殴り合いのそれとは思えぬ程の重低音が耳を衝いた。

「男爵!」

 あたしの叫びにもしかし、応えられるだけの力はとうにない。それでも、虚ろなその目にあたしを捉えて男爵はなお眼光を消さない。一瞬、口元が僅かに笑った気がした。
 ぐらりと二人の身体が揺れ、のけ反って――そうして諸共に、倒れ伏す。二人の巨体が地を震わせた。

「な……ポキュパモン!?」

 黄色い熊と攻防を続けるワルもんざえモンも、横目に戦況を確かめ部下の名を正しく呼ぶ。僅かに気が逸れたかみすみす黄色い拳を腹に受けて。ぐ、と呻きながらもバックステップで距離を取り、再びポッキュンを一瞥する。けれど見えたものは、震える腕をゆっくりと上げ、親指を立ててみせる男爵と、そしてぴくりとも動かぬポッキュンの姿だった。

「ぐっ、貴様らぁ……!」

 決着は相打ち。両者戦闘不能。しかし男爵はかろうじて意識を保ち、対しポッキュンは完全に沈黙している。勝敗は、男爵の判定勝ちといってもそんなには過言でもないだろう。なんにせよ、

「ありがとう男爵! 後は任せて!」

 ぐっと親指を立て返し、歯車を叩き除けながら激情をあらわにするワルもんざえモンへと向き直る。
 残る敵は、後二人。それですべてが終わるのだ。何かを忘れているような気がしないでもないが、きっと思い過ごしだろう。そうに違いない。
 なんて考えていた、ちょうどそんな時だった。傍らの魔術師が辺りを窺いながら眉をひそめたのは。どこか不安げに問い掛けてくる。

「ハナ君、今なにか声がしなかったかい?」
「へ? 声? っていうと……」
「はぐはぐ」
「ああ、これ?」
「そう、そうだ。この声だ。……ん?」
「え?」

 ふと、声に振り返ったあたしたちが目にしたのは、向こうも向こうであたしたちを見詰めるいくつもの目であった。ぎちぎちと金属の擦れる音を立て、八つの巨大歯車――ハグルモンたちがひょこひょこと岩陰から現れる。

「な……!?」
「は、ハグルモぉン!? なんで!?」
「はぐはぐ」

 なんですって!? いやわかんない! いやわかんなくもないこともなんとなくなくもないけれども!

「むぅ、やはり崩落しておったか……」

 ぷるぷる震えながら零したそんな男爵の一言は、現状をこの上なくわかりやすくご説明くださっていた。
 トンネルを真っ直ぐ引き返せと、あたしはそう言った。彼らは言い付け通りに真っ直ぐ進み、やがて崩落した行き止まりを真っ直ぐ引き返してきたのだろう。オーケイ。認めよう。あたしが悪い。男爵も心配していたものね。

「まずいな、こんな時に……!」
「ええと、どうしよう、ウィザーモン?」
「どうすると言われても……。とにかくどこか安全な――」

 まで言ったところで、言葉を遮るように猛々しく雄叫びが轟いた。黒い群れを、大量のトループモンたちを蹴散らしながら舞い戻るのは誰あろう、そう、奴である。よく来てくれた、と、またややこしい時に、という思いは半々といったところだった。
 舞い散るラバースーツの残骸を背に、ツワーモンは凛々しく戦場へ降り立つ。その姿を目にしたワルもんざえモンが抑え切れぬ激情を湛えて牙を剥く。

「ダメモンっ! 貴様よくも我が兵を……!」
「ふふ、悪いなボス? だが付近のトループモンたちはあらかた片付けさせてもらったぞ」

 と、共に倒れる男爵とポッキュンを一瞥し、うむと頷く。

「どうやら指揮官も倒れたようだな。アジトを囲むように罠も仕掛けさせてもらった。遠方に配備されたトループモンたちももはやここへは辿り着けまい」

 さてどうする、とばかりにあたしたちから再びワルもんざえモンへと視線を戻し、小首を傾げて挑発的な笑みを浮かべてみせる。そうして、もう一度あたしたちを見る。見て、空を見上げ、またしかと見る。芸の細かい二度見だな忍者よ。

「ってぇ、ハグルモン!? ホワアアァァァイ!? 逃がしてくれたのではなかったのかいガァァール!?」

 落ち着け。キャラがぶれぶれだぞ忍者よ。ただまあ、その点に関してはすまぬと言わざるを得ないのだが。すまぬな。
 なんて、言ってる場合でなかったことはすぐに、空気を引き裂かんばかりに轟く怒号がいやというほど思い知らせてくれた。怒りと憎しみと、雑多な負の感情をないまぜにしたそれは、己が喉さえ張り裂けようが構わぬと命そのものが叫ぶよう。

「貴様らああぁぁぁ!!」

 拳を突き出すもんざえモンの右腕を、横合いからつかんでそのまま放り投げる。激情を剥き出しにした形相とは裏腹に、その技、その体捌きは冷静そのもの。積み重ねた経験値がそうさせるのだろう。歴戦の猛者たるワルもんざえモンは投げ飛ばしたもんざえモンを一瞥し、あたしたちを睨み据え、ぎりぎりと牙を軋ませる。

「へぶっ! あふぁっ!?」

 と愉快な声を上げて転げ回る。弧を描いて宙を舞った黄色い熊はあたしたちの目の前に勢いよく頭から落ちる。
 敵を一箇所に集めたと、気付いたのはワルもんざえモンが次の行動を起こしてからのことだった。

「ニセアグモン博士えぇぇ!」

 呼び掛ける声はどこへともなく。いずこかへ姿を隠した部下へと降す命令に、即座には意図を理解できなかったあたしたちの反応は遅れる。

「制御はいい! ありったけの歯車を寄越せ! 今すぐだ!」

 言うや否や、ニセ博士の行動は早かった。アジトから飛び立つ黒い羽虫の群れ。としか思えないほどの大量の歯車が飛来する。数える気にもならない無数のそれが、僅か八人ばかりの小さなハグルモンたちから絞り上げたものだなんて俄かには信じがたいことだった。一体どれほどの間、彼らから搾取し続けていたというのか。
 知らず拳を握り締める。黒い群れはワルもんざえモンを取り囲むようにその周囲を旋回し、さながらそれは王を護る城壁のようだった。何をする気か知らないが、大人しく見守っていていい状況では決してないだろう。一度だけ辺りを見渡して、でんぐり返しの途中みたいな恰好で逆さまになって転がる熊の元へと駆け寄る。

「ヌヌ! 大丈夫?」
「お、おうよ! 問題ねえ!」

 ならよし、と熊の肩を叩く。その時だった。黒い渦のその中で、びりびりと肌を刺すような圧力が膨れ上がったのは。黒の間隙に、両腕を掲げるワルもんざえモンの姿が見えた。

「あれは……!」
「ウップス! まずいぞ! 大技が来る!」

 ツワーモンが叫ぶ。咄嗟に飛び出た言葉は今や完全にキャラを見失っていたが、今はそんなことなどどうでもいい。

「もはや許さん! まとめて消し炭にしてくれるわぁぁ!」

 天を仰ぐ両の手の先に、赤黒い炎が点る。波を打ち、脈動し、明滅する業火はまるで地獄そのもの。

「え? え? ええ!? 何なの!?」
「“ハートブレイクアタック”だ! やべえぞ、一気に決める気だ!」
「ハ、“ハートブレイクアタック”!?」
「喰らった相手を超落ち込ませるあいつの必殺技だ! 気を付けろ!」

 喰らった相手を超落ち込ませるですって!?
 そ、それは……! ええと、

「……それだけ?」
「バカ! すげえブルーになるんだぞ!」

 誰がバカだ。いや、ブルーになるって言われても。リアクションがわかんないんだけれども!

「くそ、歯車が厄介だ! あれでは近付けんぞ!」
「だが逃げようにも……!」

 うろたえるあたしを余所にツワーモンと魔術師が交互に言う。それが正解か。そのノリで正解なんだな!? シリアスでいいんだな!? ちゃんと危ない奴なんだな!?
 気持ちの切り替えに若干を要したあたしがきりりと表情を引き締め直すとほぼ同時。回避か、防御か、妨害か、迎撃か。誰もが打つべき手を見付けられないでいる中、ただ一人が、いや、ただ一頭が躊躇いもなく一歩を踏み出してみせた。その背はいやに大きく見えた。
 まさかあんたが、とはもう思わなかった。

「オイラがやる! 下がってろ!」

 そう言ってあたしたちを庇うように毒々しい猛火との間に割って立つ。黄色い熊のその背からは、いつか見た山吹色の光が淡く立ち上る。デジソウルと、ヌヌたちがそう呼ぶ力。

「どうする気?」

 とは、聞くまでもなかった。熊は沸き上がる力の奔流を束ね、連ね、その全身へとたぎらせる。ワルもんざえモンのそれと対を為すかのような、これがもんざえモンの“必殺技”だというのか。

「勿論……真っ向勝負だ!」

 咆哮に、凝縮された力が弾けて爆ぜてほとばしる。五体から放射される閃光は熊の周囲で螺旋の軌跡を描き、次第にその波長を変える。雪解けに色付く春の草花を思わせる、薄紅色に染まるその輝き。その名を――

「“ラブリーアタック”……! 受けたものを優しい気持ちにさせるもんざえモンの必殺技だ!」

 懇切丁寧に解説してくれた魔術師を一瞥し、再び熊を見る。やはりそうなのか。そうなんだな。もう一度確かめるけれども、本当にそれでいいんだな!? 合ってるんだな!? 信じたからね!?

「勇者殿! こっちだ!」

 戸惑うこの気持ちには嘘をつけない、そんな勇者を余所に熊と熊とが黒い壁を隔てて戦意と眼光をぶつけ合う。そうこうしていると背後で巻き上がる土砂とともに男爵が声を上げた。振り返ればよろよろとふらつく男爵と、その前にはクレーターのような浅い穴。意図を察し、あたしは穴に向かって走り出す。

「すまぬ、気休め程度だが……!」
「十分よ、ありがとう!」

 ハグルモンたちを引っつかみ、押し込むようにして一緒に穴へと飛び込む。男爵が残る力を文字通り振り絞って掘ってくれた即席の防空壕。と、呼ぶにはあまりに簡素だろうけれど、あるとないとじゃ大違いだ。

「助かるよ、ニセドリモゲモン!」
「ナイスだモグラ君! 何故いるのかは知らないが!」

 そしてわいわい言ってただけの二人も続く。最後に男爵が倒れ込むように入ればもはやおしくらまんじゅう状態だが、贅沢は言っていられない。ちょっとだけ頭がはみ出してたりとかもするが後はもう運を天に祈るだけだ。
 ちらりと穴から顔を覗かせれば、二色の光は今まさに激突の時を迎えんと互いの手の中でなおも輝きを増す。
 こくりと喉を鳴らす。そんなあたしの背を不意にとんと叩いたのは、魔術師だった。

「ハ、ハナ君! 危険だ、伏せているんだ! そ、それと……!」

 後から飛び込んだ男爵の巨体に半身埋もれながらもぷるぷると腕を震わせて、そうして魔術師が続けた言葉にあたしは、ただただ戸惑うだけだった。

「デジヴァイスを、しっかり握りしめているんだ!」
「え?」

 それはどういう意味だと、聞き返すタイミングは、続けざまに魔術師がツワーモンたちへも呼び掛けたことで逸してしまう。ただその剣幕に押され、あたしは訳もわからないままポケットからデジヴァイスを取り出す。

「ハグルモン! ツワーモン! 頼みがある!」
「む?」
「はぐ?」

 と、言ったと同時だった。熊と熊とがその牙を打ち鳴らす。撃鉄のようなそれ。もはや後は、引き金を引くだけとでも言わんばかり。

「「おおおおおおぉぉぉ!!」

 互いに両腕を掲げる。同じ構えから始まるそれは、けれど決して同じなどではない。ワルもんざえモンが円を描くように両腕をゆっくりと回し下ろせば、もんざえは天を仰いで半身を捻り、ステップを刻み、やがてその場で駒のように回り始める。

「“ハあぁぁぁートブレイぃぃぃぃっク”――!!」

 ワルもんざえモンの両手が腹の前で合わさる。その手が描いたのはそう、名の通りのハート型。

「“ラあぁぁぁブリいいぃぃぃぃぃーー”――!!」

 もんざえモンの全身が激しく回転する。だがそれも束の間、ずだんと荒々しく大地を踏みしだく。その足跡が描くのもまたハート型。

 二つのハートの軌跡に二色の光が満ち満ちていく。夜と黄昏の狭間が如き暗く燃ゆる紫紺。日の下に咲き乱れるが如く煌めき萌ゆる撫子色。
 再び互いに両腕を掲げれば、光が互いの頭上に集束し、輝きが二つのハートを形作る。脈動するように膨れ上がるそれ。紫紺のハートに落雷にも似た亀裂が走り、撫子色のハートはぷりんとみずみずしく照る。

 ぎん、と眼光が強く強く閃いて、それはさながら火箭のよう。視線を交えるその間は永遠にさえ思えるほどに冗長で、けれども刹那に過ぎ去ってゆく。
 荒々しく猛々しく、熊と熊とが雄叫びを上げる。互いを隔てる黒い歯車が蜘蛛の子を散らすように弾け飛んだ。

「「“アタあぁぁぁぁーーック”!!」」

 突き出す両の手を砲身に、ハートとハートが火を噴いてほとばしる。撃ち出されたそれはラブリーさの欠片もない速度で瞬く間に空間を翔ける。炎の尾を引く様はさながら流星のよう。瞬間――二つのハートが激突する。
 衝撃。第一波は音もなく。過ぎ去る圧力に思わず目を細め、かと思えば続く第二波はその比ではない。
 轟音。天が震えて地が揺れる。耳をつんざき頭蓋を貫き脳髄を引き裂くように、暴力的なまでの音の嵐が吹き乱れる。
 閃光。荒れ狂う雷霆を思わせる光の激流。互いが互いに存在すらも許さぬとばかり、己が命の火をもって怨敵を焼き尽くさんと猛進する。

 その光景は、もはや天変地異。余波はのたうち回る雷の蛇となって大気を掻きむしり、大地をえぐる。爆竹のような小規模の爆発が周囲に連続し、絶えず網膜を焼いて鼓膜を衝く。事前に聞いてた話とは大分違う。

「ちょ……ヌ、ヌヌぅ!」

 あたしは思わず叫ぶ。

「なんだ! どうしたハナ!? 今ちょっと手が離せないんだが!?」

 知ってらいそんなこと。だが聞かずにはいられなかった。

「こ、これホントに落ち込むだけえぇぇ!?」
「ああそうだ! ブルーもブルーの真っ青だぞ! 伏せていろ!」

 嘘吐けええぇぇぇ!
 ブルーどころかグレーだよ! フィジカル的な意味でなあぁぁ! 消し炭にするとか言ってたもんね! 撃った本人がさあぁぁ!
 落ち込むだの優しい気持ちになるだの大嘘こきやがって! そんなメンタルオンリーのダメージな訳ないだろうがぁ! だってドラゴンボール的な奴だもんこれえぇぇ!!

 あたしの声なき抗議も飲み込んで、ぶつかり合うハートとハートが甲高い不協和音を立てながらスパーキンする。物理的な攻撃力を有していることはもはや疑いようもない。灰燼には帰りたくないので頭を抱えて必死に身を屈める。
 自然現象のそれではありえない異音と、視界のすべてを塗り潰すほどの閃光が膨れて爆ぜる。

 どおん、と今一度、一際大きく天地が鳴動する。
 あたしの意識は、そこで途絶えた。




 暗転した視界に光が差したのは程なくしてのこと。少しだけ気が遠退いていた。と自覚できた理由は自分でもよくわからない。ただ、状況は見るからに爆発の直後だった。
 小さな瓦礫や土砂は見事に吹き飛んで、辺りは随分とすっきりしていた。大きな岩石や建造物はいまだ形を留めてはいるものの、表面は削れ、崩れ、爆発の残滓が帯電するように火花となって散っている。穴の中へ視線を戻せば、見る限りはどうやら全員無事のようだった。

「っ……ハ、ハナ君、大丈夫かい?」

 男爵とハグルモンたちに埋もれながらもあたしの心配をしてくれるのは魔術師。そんな状態でもしかと握りしめたその杖の先には、よくよく見れば魔術のそれであろう淡い光が輝いていた。
 魔術で守ってくれたのかと、思えばしかし当の本人はツワーモンに向かって、

「ありがとう、ツワーモン。助かったよ」

 そう言って、とんがり帽子を押さえて頭を下げる。
 きょろ、きょろと。あたしは魔術師とツワーモンを交互に見る。

「え? あなたが庇ってくれたの?」
「いやなに、礼を言うなら熊君ネ。ミーは僅かばかりの余波を防いだだけに過ぎんサ」

 肩をすくめてツワーモンは言う。言われて、あたしはすっかり忘れていた立役者の存在を思い出す。我ながら酷いものだ。

「そういえばヌヌは?」

 穴からひょこっと顔を出し、辺りを窺う。ぬっと、当の熊が穴の上からあたしたちを覗き込んだのは直後のことだった。

「ん、呼んだか?」

 なんて言う熊の表情には心なしか覇気がなかった。よたよたと覚束ない足取りで立ち上がり、はあ、と溜息を一つ吐く。

「ヌヌ! ワルもんざえモンは? どうなったの?」

 穴から這い出てもう一度周囲を見渡す。見える範囲にはワルもんざえモンもトループモンたちの姿もなかった。何かの残骸だけがまばらに散らばって、動くものはあたしたち以外に何もない。
 熊はどしんと腰を下ろしてまた溜息を吐いた。どうやら随分と疲弊しているよう。これで決着が付いたのならあたしとていっそこの場で倒れてしまいたかったが、さすがにそれは楽観が過ぎるというもの。なにより、まだ気を抜けてはいない熊の表情がすべてを物語っていた。

「ちょっとだけ押し勝った。と思う。ほとんど相殺されたから倒せちゃいないだろうけど」
「そっか……ヌヌは大丈夫?」
「ん? おう、なんかすげえだりーけど、大丈夫っちゃ大丈夫だ」

 そしてまた大きな溜息を吐く。と、ふとあたしを見詰めて小さく喉を鳴らしてみせる。

「ん、何? どしたの?」
「いや……ハナ、最後なんかしたか?」
「なんか? って何?」

 そう返せば熊も熊で困ったように頭を掻く。ふむと、唸ってツワーモンがぽつりと言った。

「デジソウルだ」

 ほう、と少し感心するように。

「デジソウル? が、どしたんだ?」

 ツワーモンの言葉に熊が首を傾げれば、代わって答えたのは魔術師だった。生き残りに警戒しているのか杖をかざして辺りを窺っていたが、杖はそのままに熊の肩にそっと空いた手を置き、「ああ」と頷いてあたしを見る。

「デジヴァイスとは本来、人とデジモンを繋ぐもの。デジヴァイスを介してハナ君のデジソウルが君に流れ込んだんだよ」

 とは、言われたあたしも訳がわからず目を丸くするばかり。

「あたしの?」
「そうだ。デジソウルとは想いの力。デジタルワールドの処理限界を越えた強い感情がオーバーフローを起こし、物理レイヤにまで表出したものだ」
「元来はデジタイズに伴う量子化ノイズに過ぎないもの……恐らくこの力を初めて発現させたのは、ユーたち人間だったはずネ」
「原始的で単調な思考ロジックしか持たなかった我々の祖先は、進化の過程でより高度な、人間に近しい知性や自我を獲得し、やがてデジソウルを発現させるに至ったのだろう」
「つまりはオーバーライトによる副産物、いや、正確には副作用ネ。余剰データは純粋なエネルギーに昇華され、肉体の内外を血液のように駆け巡り、そのポテンシャルを時に限界以上にブーストする」

 交互に言う魔術師とツワーモンに、あたしと熊は顔を見合わせる。二人に向き直り、熊は神妙な面持ちで腕を組み、あたしはうんと頷く。

「よくわかんない」

 うむと熊が同意する。
 長々とご説明いただいて大変申し訳ないのだが、知らない単語が多過ぎて割と序盤で脳が諦めていた。
 そんなあたしたちにツワーモンは思案するように首を傾げ、そしてややを置いて簡潔にかい摘まんで言い直す。

「要はユーの気合いが熊君に活を入れたわけネ」
「えらく簡単になったな」

 とてもわかりやすくはなったが馬鹿にされている気もすごくする。だがまあいいだろう。あたしたちの頭ではその辺が限界だ。
 魔術師が苦笑いをしつつ咳払いを一つ、相変わらず杖を掲げたまま話を続けた。

「ドッグモンとの戦いでも見せた君の人間離れした力、間違いなくデジソウルの影響だ。心当たりはあるだろう?」
「あ……」

 人間離れ云々は聞き流すとして、そう言われると確かに割とある。
 あたしなんで生きてんだろって場面も多々あった。そうか、そうだったんだな。どっかの誰かに感化されて面白い体質になったわけじゃあなかったんだな。変な属性付いたわけじゃあなかったんだな。あたしはまだ戻れるんだな。人間止めてなかったんだな!
 ずっと目を逸らしていたがどうやら向き合っても大丈夫だったようだ。胸のつかえがしゅぽんと取れた思いだ。

「熊君の倦怠感は恐らくオーバーロードだろう。デジコアが内包する以上の力を使った反動ネ」

 辺りをきょろきょろと窺いながらツワーモンが言えば、魔術師は魔術師で杖を握りしめたままに相槌を打つ。熊が気怠そうに後ろ頭を掻く。

「ああ、どうりで……治んのかこれ?」
「うん、ハナ君のデジソウルとの相性次第だろうね。現状ではさして問題があるようにも見えないが」
「疲れたというだけなら心配ないネ。相性が悪ければ正気を失くして暴走することもあるのだからネ」

 ほう、と頷いて、あたしと熊は互いに互いの顔を見る。なんと言ったかな。暴走と、そう言ったように聞こえた気がしたのだけれど。

「暴走……」

 熊がぽつりと言う。
 あたしは熊を見て、皆を見て、そして自分を指差す。

「え、違うよね? え? あたしの所為なの?」

 初暴走の時からずっとデジヴァイスは持っていたけれど、何をキャラ履き違えて大暴れしてやがんだと上から目線で呆れ返っていたけれど、まさか最初から全部あたしの仕業だったとでも言うのか。うへへとよくわからない感情で苦笑いをすれば、しかし魔術師は首を振る。

「いや、私にはむしろハナ君が暴走が止めたように見えたよ。きっと君たちは相性がいい」

 それはそれで嫌だな。

「ハナ、それはそれで嫌だなとか思ったろ」

 以心伝心か。
 穏やかに微笑んで無言で首を横に振る。
 熊は肩をすくめて溜息を吐く。その横で、魔術師はなおも杖をかざし、ツワーモンは辺りを窺っていた。先程から気にはしていたのだけれど。

「まあいいけどさ。てゆーかさっきからどしたんだ、お前ら?」

 と、いい加減に今更ようやく熊が突っ込めば、ツワーモンはもう一度だけ周囲を見渡して、

「いやなに、あちらはどうなったかと思ってネ。だが……ああ、どうやら首尾は上々と見て構わないようだネ」

 そう言って、地面に転がる黒い何かを踏み付ける。いいやそれは、何度も見てきたその黒い残骸は、

「黒い歯車? おお、そういや最後はなんでか邪魔してこなかったな」

 覗き込んだ熊が拾い上げれば歯車はもはやぴくりとも動かない。そこら中に埋もれた歯車のほとんどはさしたる破損もないように見えた。振り返れば魔術師は閉じていた目をゆっくりと開き、杖をとんと地面に突き立てる。

「ハグルモンたちの体内で生成されたダークネスギアは、体外に射出されようと本来は彼らの制御下にある」

 魔術師はハグルモンたちを一瞥し、アジトのほうへと目を向ける。

「彼らのデジコアを介して黒い歯車を形成するダークネスギアへクラックし、コントロールを阻害する対抗魔術を打ち込んだ」
「え? これウィザーモンがやったの?」
「おお、よくわからんがすげえな。やる時はやるんだな、おい!」

 なんていう、褒めてのるかけなしてるのか判断に困る熊の言葉には魔術師も苦笑する。

「いや、基礎は牢の中で組み上げていたのだが……正直、試運転もなしに実戦投入は賭けだったよ。なにより、ハグルモンたちの協力がなければ到底不可能だった」

 言って、また杖を振る。アジトへ向けたままのその視線をふと追えば、ようやくあたしたちは気付くことになる。ここしばらく活躍できていなかった魔術師の、面目躍如には充分な仕事ぶりを。

「あれだけの数だ。さすがにまとめてコントロールを奪うことはできなかった。精々――」

 ふよふよと宙を漂う謎の物体が視界に入る。黒いモヒカンとトゲトゲ肩パッド。に、一瞬見えたがそんな世紀末な珍客ではない。私が引き受けると、言ったその言葉に偽りはなかったのだ。

「三つが、限度だったよ」

 驚くあたしたちに向けるその表情は見事などや顔だったが、それでいい。あなたは誇っていいとこの勇者が言い切ろう。熊と熊との対決に横槍を入れる歯車を無力化したばかりか、そのうち三つを奪って大元まで絶ってみせたのだから。
 未確認世紀末物体の正体は、どたまに歯車ぶっ刺して両脇も歯車にがっちり拘束された、ニセアグモン博士であった。

「送られてくる信号を逆探知して居場所を突き止めた。これで、残るはワルもんざえモンだけだ……!」

 どやあ、とばかりにマントを翻し杖を一振りすれば、その背後でニセモヒカン博士は微動だにできぬまま地面に落ちて転がる。

「お……おおお! やるじゃねーかウィザーモン! 正直見くびってたぜ!」
「うむ、ミーを盾にするなど何様かとも思ったが、見直したぞ!」
「ホントホント! やればできる子だったのね!」
「私の評価はそんなにも低かったのかい!?」

 勿論途中からは冗談だったが、あたしは優しい笑顔で魔術師の肩をぽんと叩いてやる。言葉もないと言いたげな顔が癖になりそうだ。弄り甲斐のある子だこと。

「ジョークよ、ジョーク。それより、何はともあれ今度こそホントのホントに最終決戦ってわけね!」
「ああ、もうこれ以上は仕切り直しもなしだ! 今度こそケリ付けるぞ!」

 いまだ何やら言いたげな魔術師を尻目に、拳を握りしめて闘志を燃やす。そうとも、後一歩、ほんの少しで戦いは終わるのだ。

「おいツワーモン。ここまで来たんだ、最後まで付き合えよな」
「やれやれ、こき使ってくれるものだな。だがまあ、放り出すわけにもいくまい」

 なんて、拳と拳を打ち合わせて熊とツワーモンは歩み出す。ヌメヌメとうんこだなんて思えない男気がその背から蒸気のように立ち上って見えた。最後の戦場へ向かう二人にあたしも強く頷いて、一度だけ振り返る。

「ハグルモン、しばらく隠れてて。後で迎えに来るから、どっか行っちゃ駄目だよ?」
「はぐはぐ」
「よし、いい子。ね、男爵も一緒にいてあげて」
「むう……面目ない」
「何言ってんの。立派に“勇者一行”してたじゃないの。終わったらみんなで祝勝会だかんね!」
「勇者殿……!」
「はぐはぐ!」

 ハグルモンの頭を撫で、男爵のドリルをぽんと叩いて、あたしは親指をおっ立てる。
 部下はすべて倒した。ハグルモンも奪い返した。アジトや工場はもう使い物にならないだろう。残すは首領たるワルもんざえモンただ一人。いや、ただ一頭。グーチョキパー団の掲げた野望はほぼ潰えた。その、はずなのに。言い知れぬ不安が、胸の奥には燻っていた。
 まだ何かが起こる。そんな気がしてならなかった。
 あたしはもう一度頷いて、魔術師とともに知らず駆け足で二人を追った。どこかで誰かの、声が聞こえた気がした――。






>>その二 魔神復活編へ続く