第六話 『花と縫包(ぬいぐるみ)の乱 後編』



 デジタルワールドに点在する大小様々な“小世界”。個々が独自の自然体系を有し、独自の進化・歴史を歩んできたそれらは、同じ世界の中にありながらそれぞれが独立した別世界として存在している。
 あるいは魔術師たちが暮らす魔法世界。あるいは恐竜たちが跳梁跋扈する古代世界。あるいは闇の眷属がうごめく暗黒世界。交じり合えど、混じり合わず、多様な進化と歴史が、このデジタルワールドには混在しているのだ。

「小世界の地質、気候、生態系や、小世界そのものの自転、公転周期、その軌道、場合によっては進化や歴史の方向性に至るまで……すべてを統括管理するオペレーティングシステム、小世界の心臓部、それが――“コードクラウン”だ」

 そう語る魔術師に、あたしは熊と顔を見合わせて、少し。再び視線を戻せば、魔術師は小さく頷いてみせた。いまいちよく解らなかったのでとりあえず格好いい顔だけしておいたことには、どうやら気付いていないようだった。

「僥倖というべきだろうね、あそこでニセドリモゲモンを倒せたことは。彼らはあの時まさに、目的を遂げるその間際だったんだ」

 拳を握り、苦虫を噛み潰したような顔で魔術師は言う。目的を遂げる間際――つまりそれは、

「え? ちょ、ちょっと待って? じゃあ、その“コードクラウン”っていうのは……」
「そう――あの鉱山の地下に隠されていたんだ。鉱山周辺に毒リンゴが異常発生していたのも、彼らが“コードクラウン”に近付いていた証拠だ」

 魔術師は前方を飛び行く歯車を一瞥し、僅かに眉をひそめた。

「本来ならば幾重ものファイアウォールによって守られ、その存在すら秘匿されているものだが……“黒い歯車”といい、どうやらただの盗賊ではないようだね」
「ああ、確かに聞いたこともねえしな、そんなもん」

 魔術師の言葉に熊は眉間にしわを寄せ、腕を組んでふうむと唸る。ただの盗賊ではない、か。いや、そう言えば確かにあいつらグラ……クラ? クラムチャウダー試食会? 絶対違うな。まあいいか。試食会の連中についてバロモンさんも何か言ってたような気がするな。なんだったかな。確か――

「魔王の部下?」

 記憶を巡り、掘り起こし、頭の片隅に見付けたそれをふと口にする。そうだ。最初にゴブリンがヌヌたちの村へやって来た時、バロモンさんは確かにそんなようなことを言っていた。気がする。

「おお、そういや長様が言ってたな」
「ま、魔王? どういうことだい?」

 熊がぽんと手を打てば、そう言えば何も話していなかった魔術師が目を丸くする。後日談まで完全に終わったイベントだとすっかり油断していたが、魔王配下の生き残りと言っても搾りカスのような連中と侮っていたが、世界の危機には程遠いレベルと舐めていたが、あるいはそうでもなかったのかもしれない。

「なんとかの魔王の部下の生き残りって言ってたよね。なんだっけ? ゴーヤの魔王?」

 言いつつ、自らの言葉に顔をしかめて首を傾げる。そんななんくるないさーな魔王だったかな。少なくともこの空気の中で出て来ていい奴じゃないのは解るのだけれども。

「ハナ、まだ腹減ってんのか?」
「小腹は少し」
「嘘だろハニー」

 ははは、嘘などつくものですか。熊の後頭部にそっと手を置き、遠くを見る。米良さんのご飯から早小一時間である。そりゃお腹も減るともさ。

「ま、待ってくれ! 待ってくれ二人とも! まさか……ご、強欲の魔王のことを言っているのかい?」

 厨房でつまみ食いついでにこっそり拝借していた青リンゴを懐から取り出し、しゃりとかじる。なんてことをしていると、魔術師がわなわなと震えながら声を上げた。その剣幕にちょっとだけどきりとするが、リンゴじゃなくてゴーヤの話だったらしい。てゆーかゴーヤでもなかったらしい。あたしはごくりとリンゴを飲み下し、ふむと唸る。

「強欲? ああ、そうそう!」
「おー、それだそれ!」

 ぽぽんと続けて手を打つ。言われてみれば確かにそう言っていたな。ふふ、思った通りゴーヤではなかったようだな。なんだゴーヤの魔王って。それにしてもこのリンゴ美味しいな。

「バ、バルバモンの配下が関わっているのかい!?」

 しゃりしゃりしゃりしゃり暢気にリンゴをかじる。そんなあたしとは対照的に、魔術師の顔は青リンゴのように見る見る青ざめる。うん。このたとえは上手くないな。ともあれ、見るからに深刻そうな魔術師に、さすがのあたしも間食を止め、きりりと表情を引き締めて問い返す。

「ばゆあおん? あいおれ?」

 顔と台詞のシリアス度には若干のズレもあったが、この流れでは些細な問題であろう。

「バルバモンって何だ? ってよ」

 一拍だけを置いて熊が振り返り、魔術師へそう言った。通訳ありがとう。以心伝心だね。凄く嫌だ。魔術師は何とも言えませんとでも言いたげな顔であたしと熊を見た後、咳払いを一つして語り始める。どういう意味での咳払いかは聞かないでおくことにした。

「この世の闇を七分する“七大魔王”と呼ばれる七柱の王の一人だ。かつてこの世のすべてを我がものにせんとデジタルワールド全土の支配を目論んだそうだよ」

 しゃりしゃりごくりとリンゴを飲み込んで、むうんと唸りながら頷く。

「世界征服かぁ。さすがに魔王はスケールが違うね」
「ああ、そこまで大それた侵攻は後にも先にも……傲慢の魔王と嫉妬の魔王と憤怒の魔王を除けばバルバモンくらいのものだろう」
「割と前例あんのね」

 何回征服されかかってるんだ。てゆーか七大魔王とか言ってたけど半分以上じゃないか。それ後三回起こんない? 大丈夫なのこの世界?
 なんていう、あたしの内心を察したように、魔術師はあたしの言葉に首を振る。

「バルバモンが討たれてからは平和なものだったよ。残る魔王は支配になど興味のない歴々ばかりでね。同じ“魔王”とひとくくりにされてはいたが、仲間意識もまるでなかったようだ。だが、まさか今頃になって残党が動き出すとは」
「聞いた話じゃあ、二、三回くらい別の“勇者”に潰された末の残りカスらしいけどな」
「成る程……しかしバルバモンの配下となれば得心がいくよ。バルバモンは他の魔王の領地や、君たち人間の世界にまで攻め入ろうと考えていたらしいからね。侵攻の足掛かりとして“コードクラウン”に目を付けていたとしてもおかしくはない」

 それはまた、あたしの知らないところで世界はとんでもないピンチに陥りかけていたんだな。ほんの数日前までは自ら待ち望んでいた人生のスパイスだが、こうして目の当たりにしてみれば残り香だけでもう胃もたれしそうだ。刺激なんて好んで求めるものじゃあないな。甘ったるい平和のなんと素晴らしいことか。帰れたら日本列島に向かって「ありがとう」と言ってみよう。
 そう心に誓って、魔王だらけの世界の地平線を見渡す。暮れなずむ空と平野の境目に一番星が輝いて見えた。平和でも願っておこうかしら。あ、それは流れ星か。

「あれ?」

 きらりと輝く星にふと違和感を覚える。だがそれも一瞬。星は次第にその光を強く大きく、閃光となって空を走る。恒星ではない。流れ星でもない。てゆーか、

「ヌヌ!! ま、前っ! 前えぇぇ!?」
「お? おおぉぉ!?」

 振り返る熊の頭を思わずばしんと叩く。目玉が眼鏡を突き破りそうなほどに目を見開いて、声の限りを振り絞って叫ぶ。
 地平線に輝いたその光は、星などではない。見る見る間に近付くそれは人間大の暗く輝く光の球。それが何かはわからない。わからないが、ぼけっと見ていていいものでないことくらいはあたしにもわかった。どこをどう見ても光の球は、他でもないあたしたち目掛けて飛んで来ていたのだから。

「ぅおおぉぉ!?」
「ハナ君! ヌヌく――」

 視認できた次の瞬間には既に目前。咄嗟に熊が腕を振るい、魔術師が杖をかざす。だが、もはや直撃は避けられない。
 があん、と雷鳴に似た空気の震えが鼓膜を叩いた。弾ける光が網膜を衝く。至近で起こる爆発。熱風が吹き荒れて、辺り一帯が氾濫する閃光に包まれる。
 ややを置き、光の中からずるりとはい出る三つの影。黒煙にまみれながらゆっくりと、眼下に広がる森へと落ちていく――




 一陣の風が森の空に細く立つ黒煙を吹き散らす。光の球の射手は十中八九、“黒幕”かその仲間だろう。つまり“黒い歯車”は魔術師の懸念していた通り、あたしたちを燻り出すための罠だったということ。まんまと嵌まったあたしたちは、用意された狙撃地点へ自らのこのこやって来てしまったわけだ。罠の可能性を考慮しつつも具体的にどんな罠かまではまるで考えもせずに。我ながら眩暈のする軽率さである。

「……ええと、どうなったの?」

 ゆっくりと森に降り立った熊の背の上で、熊の顔をわしづかみながら恐る恐る聞いてみる。目立った怪我は、とりあえずのところ誰にもないようだった。覚えているのは爆発の後、そのまま降りて身を隠せという、魔術師の言葉くらいのもの。

「幻影の魔術で撃ち落とされたように見せた。降下する我々の姿は黒焦げで落下するように見えたはずだ。死んだと思ってくれたならいいのだが」

 梢の間に覗く空を見上げて、魔術師は目を細める。相変わらずの老獪。あたしたち共々まんまと罠に嵌まったことには一先ず目をつむるとしてだが。
 熊は釣られるように空を一瞥してから、少しだけ黒く焦げた手を水滴でも払うように無造作に振る。煤がぱらぱらと散った。どうやら大事には至らなかったようだ。大事にはというか中身まではというべきかもしれないが。

「派手な爆発の割にはたいしたことなかったな。ウィザーモンが防いだのか?」
「え? いや、それは……ヌヌ君ではないのかい? 直撃する前に爆発したようだったが」
「お? オイラか? ああ、そいやなんかやった気はすんな。咄嗟でよく覚えてねーけど」

 ぷらぷらと手首を振りながら熊は首を傾げる。むうん、と唸って腕を組む。覚えてないか。どうせまた軽く暴走していたのだろう。厄介な性分だ。あれってどこが手首なんだろうか。

「なんかビリビリしたな。こう、手の先から……」

 そう言って突き出す熊の腕パーツの先端で、言った通りにビリビリと火花が散る。うん、確かにビリビリしてるね。どんな原理で発電できてるんだそれ。

「モヒカンがやってた奴じゃない。ヌヌもできたの?」
「いや、なんかこう……無意識に?」
「“スタティックエレクト”!? いつの間にそんな技を……」
「「スティックエキサイト?」」
「“スタティックエレクト”だ。そんな声を揃えて……。風や雷のアトリビュートを持っていれば誰でも使える初歩の技だよ。そうか、進化した時に体得していたのかもしれないね」

 ばちんばちんとスパークする手を叩きながら、飛び散る火花をしげしげと眺める。そんな熊がシンバルを叩くサルのおもちゃに見えたのは余談である。

「ともかく、先ずはここから移動しようか。ここに留まる意味はないし、追っ手が来るかもしれない」
「お? おお、そうだな。でもどうすんだ? 歯車はもう……」

 歯車が飛んで行った方角を見ながら目を、もとい切れ目を細めて熊が問えば、魔術師はおもむろに懐を探る。一体どう隠し持っていたのか、ゆったりとした服の中からずるりとそれが顔を出す。

「幹部が“四天王”でよかったよ。ゴブリモンたちには埋め込まれていなかったしね」

 しれっと言った魔術師の手には“黒い歯車”が二つ。光沢のない黒一辺の表面には、淡く鎖のような紋様が浮かんでいた。言われてみれば確かに、あたしたちが追い掛けていたのは歯車一つ。後の二つがどうしたかなど気にもしていなかったな。我ながら適当だね。てへっ。

「でもまたそのまま飛ばしたら隠れた意味ないだろ?」
「ああ、だから拘束魔術を少しだけ緩めて羅針盤のように使う。このまま森の中を進んで行こう。あの狙撃は厄介だ」
「時間かかりそうねぇ。食べるものあるかな」
「ハナ、心配するとこズレてるから」

 何を言ってやがるこの熊は。腹が減ってはなんとやらだ。ズレてなどいない。だがまあ、狙撃を逆手にとって奇襲を仕掛けるというのは、作戦としては確かに合理的だろう。他に手がないだけという気もしないでもないが。
 魔術師が短く呪文を唱えると、歯車に浮かぶ鎖の紋様が輝きを帯び、その一端が宙に伸びて魔術師の杖の先端に巻き付いていく。歯車は紐で結ばれた風船のようにふわふわと浮かび、風に漂うようにゆらりと森の奥へ飛んでいく。魔術師は巻き付く鎖でその動きを制し、

「いや、しかしハナ君の言うことも一理ある。直に日も暮れるし、消耗したまま乗り込むのは得策ではないな」
「お? おー、言われてみればそうだな」
「え? ああ、そうそう、そう言いたかったの。でしょ?」

 と可愛く首を傾げてみれば返ってくる視線は随分と冷たかったが、勿論その程度でくじけるあたしではない。ぺろりと舌を出してやる。

「とにかくここを離れようか。どこか身を隠せる場所を探そう」
「そうだな。洞窟でもあるといいんだが」

 一瞥だけしてノーリアクションで話を進める二人に、無言でうんと頷く。あたしの扱いも慣れたものだな。
 肩をすくめて首を振り、アメリカンに溜息を吐く。ちょうど、そんな時だった。森の奥から、なんとなく危なそうな臭いがしたのは。表現のふわふわ感と陳腐さはともかく、ふと感じたその違和に眉をひそめて目を凝らす。

「足跡残さねーほうがいいよな。つってもここじゃ羽広げらんねーし……お? どうした、ハナ?」
「ん? いや、向こうからなんか――」

 がぎん、と。あたしの言葉を遮るように静かな森に響く硬い音に、森の奥を指差したままの恰好で思わず固まる。
 がぎぎぎぎん、と。続けざまに鳴り響く甲高い音はそこかしこから。森の闇にぎらりと、怪しい光が瞬いた。
 やがて暗がりに、異形が浮かび上がる。ひい、と勇者の喉の奥から勇者にあるまじき悲鳴が小さく漏れた。

「ウィザーモン」
「ああ、お早いご到着だ」

 基本的な造形は熊の親戚か何かのよう。けれど、×字に縫われた目や全身の繋ぎ目から突き出す剣山のような突起、毒々しい青紫の体色は、実に不本意ながらも横の熊がかわいらしくさえ思える凶悪さ。口を覆う金属板とそこから伸びる管はガスマスクのようだったが、管の繋がれた先はどういうわけか自身の胸。何のために何があの中を流れているかは考えたくもなかったが。
 三馬鹿ことオーガ三兄弟とはベクトルの違うホラーな不気味さ。おまけにその後ろには防護服のようなラバースーツにガスマスクを被ったこれまた不気味な謎の怪人たち。そんなものをぞろぞろと引き連れてお越しになられては、さすがの勇者もちょこっとくらいは怯まざるを得まい。

「戦うか?」
「いや、まだ増援があるかもしれない……分が悪いな。ここは一端引いたほうがいいだろう」
「そうだな。よし」

 と、振り返る熊の視線の先に、あたしは既にいなかった。

「ハナ、ひゅはま……は、ほうひゅはまっへふ!? ほひ、ひふほ!」
「いいいいから行って行って!? 早く早く!」

 何やら叫ぶ熊に叫び返す。途中から何を言っているのかさっぱりなのは、つかまれと言われそうな気配がした気がしてフライング気味に後頭部に飛び付いたあたしが、熊のお口を取っ手代わりにしていたからだろう。これ中身の口じゃなくない!?

「走るんだ! 後ろは見るな!」

 とうに走り出した熊に向かい、自身も走りながら魔術師は杖を構える。その意図を察し、一度だけ振り返った熊は直ぐさま前を向いて木々の間を駆け抜ける。あたしもまたぐっと前へ向き直る。後方で魔術師の呪文が僅かに聞こえた。その、次の瞬間。激しい光が真後ろで弾けて爆ぜる。直視していなくとも思わず目を細める閃光の中で、熊は一瞬だけ足を取られるように速度を緩めながらもなおひた走る。

「今だ! 振り切るぞ!」
「お? あ、おお、よし!」

 裏地に魔術文字の浮かぶマントを翻し、立ち並ぶ木々の隙間を縫うように魔術師は飛翔する。熊は一瞬の躊躇の後、頭の上のあたしを両手でがしりとつかんで跳躍する。樹上を跳び繋ぐ熊の頭上は生半可なスリルではなかったが、あたしは顔を強張らせながらもどうにか我慢する。今目の前に鏡があったら一週間は立ち直れない顔が見られることだろう。

「目くらましか……効いたのか?」
「わからない! とにかく逃げるんだ!」

 次第に収束する閃光を背に、問う熊の声色にはまだ僅かの戸惑いが混じる。「俺に構わず先に行け」だとでも思ったのだろうか。あたしは思ったけど。それはともかく確かに×字のあの目やガスマスク越しの目がくらまされてくれたかは疑わしいな。生い茂る草木に阻まれ敵の姿は見えず、互いの距離もわからないけれど、ちくちくと背中を刺すようなとても嫌な気配だけははっきりと感じ取れていた。
 勇者の勘が告げるのだ。ゆー逃げちゃいなよべいべー、と。そしてそんな軽い勇者が今また、迫り来る脅威に目敏くアンテナをおっ立てる。

「ヌヌっ!?」
「っ!? ウィザーモン避けろ!」

 葉と葉の隙間の空に僅かに見えた光。同時に気付いた熊もまた危機感に体毛を逆立てる。どうやって逆立ったこれっていやいやそんなこと言ってる場合じゃ――!?

 ほんの一瞬、時間が途切れたような錯覚。射線を塞ぐ森の木々にも構わず放たれた光の球の第二撃。茂る葉を焼き絡む枝を貫き、熊が一動作前に足場にした木へと直撃する。瞬間、爆風と閃光が真後ろで弾けた。

「う、おおお!?」

 背を叩く風圧に熊の体が宙を舞う。勿論頭上に抱えられたままのあたし諸共だ。熊の体は僅かに浮かび上がり、かと思えば次の瞬間には勢いよく落ちていく。浮遊感が心地悪い。あたしは歯を食いしばってただただ耐える。だってできることないんだもん!

「ヌヌ君! ハナ君!!」
「くぅ……うんぬらぁ!」

 腹の奥から搾り出すような裂帛の気合い。雄叫ぶ熊は折り畳んでいた翼を一瞬だけ強く羽ばたかせ、腐葉土の上に着地する。頭上のか弱い乙女を気遣って着地の衝撃を和らげてくれたのだろう。それでも「ぐぉえふっ」という変な声が漏れたけれど、米良さんのお料理もリバースしかけたけれど、多分今青い顔で白目剥いているとは思うのだけれども、とりあえずは生きてます。

「くそ! こっちの位置バレてるぞ!?」
「まさか……!」

 熊の言葉に、魔術師ははたと何かに気付いたように杖に繋がれた歯車を見る。けれど、暢気に考える時間などあるはずもない。

「ウィザーモン! 次が来るぞ!」

 地を踏み抜くほどに強く蹴り、再び走り出しながら熊が声を張る。その言葉から僅かの間も置かず、今の今まで熊のいた場所に第三撃が着弾した。爆風が再度背を叩く。どうやら熊の言う通り、狙撃手はこちらの正確な位置を把握できているらしい。上からは理不尽な狙撃、後ろからはホラーな歩兵。まさに前座の虎に肛門の狼といったところか。いや、何かが違うぞ。

「っ!? ヌヌ君!」
「あ……おう! つかまってろよハナ!」

 熊の頭上でぐったりしながら揺れる脳でよくわからないことを考えていると、不意に熊がそんな言葉を掛けてくる。何が? と問う間もなくふと視界が開け――たかと思えば、落下する。

「ひょ!? にょおおおおぉぉぉ!?」

 鬱蒼と茂る森が突如として途切れ、目の前に見えたのは深い深い、崖だった。対岸にはまた森が広がっているのが見えた。崖の下には大きな川が流れている。森を中程で寸断するかのような巨大な渓谷。その中に、熊と魔術師は飛び込んだのだ。
 あたしのおかしな悲鳴が反響する中を下へ下へ。崖の上でホラーなぬいぐるみとガスマスク軍団がたたらを踏んでいた。辺りの景色がいやにはっきりと見える。死に瀕して感覚が研ぎ澄まされたよう。だから、直後に飛来した光の球さえも、まるでスローモーションのように見えていた。

「ひうぅぅ……!?」

 瞬間、あたしたちの真上を通り過ぎた光が岩肌を貫いた。岩壁が砕けて爆ぜる。

「ヌヌ君! 見えたかい?」
「おうよ! つかまってろよ、ハナ!」
「ひゃい……!」

 よくわからないがとりあえず返事をしてみた。途端に熊は金色に輝く翼を広げ、渓谷の狭間を滑空するかのように飛翔する。その少し上を、再び光の球が通り過ぎた。狙いが甘い。どうやら谷間に隠れたことで射線からは外れたらしい。渓谷の中程、この高さであればたとえ位置がわかろうと狙撃は届かない、というわけか。
 あたしたちを追ってガスマスク軍団が崖の上を疾走する。あるものはその勢いのまま谷に飛び込んでまで来るが、勿論そんな頭の悪い方法で飛んで逃げる相手に追いつけるはずもない。眼下の川に数本の水柱が立った。的外れな狙撃が二度三度、意味もなく岩壁を砕く。
 遠ざかるガスマスク軍団を見ながら、あたしはようやく安堵の溜息を深く深あく吐いた。




 谷間をひたすらに飛んで、飛んで、30分近く。木の枝のように分岐する渓谷を右へ左へ。もう自分たちでさえどこをどう通って来たかもわからなくなった頃、ようやく谷底を流れる川の辺へと降り立つ。両手を折った膝の上について、熊が大きく溜息を吐いた。その頭の上からのそりと降りて、あたしもまた肺の空気を搾り出すように息を吐く。

「はあ……死ぬかと思った」
「ハナでもか。そりゃよっぽどだな」
「よっぽどよ。なんかもっとサクッといくと思ったんだけど」

 三兄弟を苦もなく倒せたものだからてっきり。

「ハナ君、さすがに侮りすぎでは」

 なんて言う魔術師の指摘はもっともなのだけれど。だって熊超強かったんだもの。

「ねえ、さっきのぬいぐるみって……」
「ああ、ポキュパモンだ」

 答えた魔術師に、あたしは眉をひそめて真剣な顔で問い返す。

「ポプタモン?」

 まあ、噛んだけど。

「言えてないぞハナ。ポギュパっプん……モンだ」
「もっと言えてないじゃない」
「似たようなものだと思うが……いや、それはともかく、ポキュぷモンとはダークエリアに棲息するウィルス種のデジモンだ」
「今噛んだ?」
「噛んだな」
「すまない。噛んだが話が進まないので流してもらえるだろうか」
「そうだな。不毛だ」

 もっともだね。

「それでポク……ポッキュンって強いの?」
「そうだね、ある程度の個体差はあるが、おおよそオーガモンたちと同程度だろう」

 早々に同等か。立場ないな三兄弟。ドンマイ、中ボス。

「ポぷ……ポッキュンはかつて、生存競争に敗れたことで闇の領域へと追いやられたデジモンだ。レッドデータ――絶滅危惧種と言われている」
「え? そんなの倒しちゃっていいの?」
「うん? ああ、まあ絶滅したらしたで仕様がないからね」
「そんなもんなんだ……」
「デジタルワールドってのは弱肉強食なんだぜ、ハナ」

 ドライな世界だね。てゆーかその世界観で一体誰が絶滅を危惧してなどいるというのだろうか。あたしとしても向こうが命を狙ってくるなら種の保存なんて正直どうでもいいんだけど。あたしは命が惜しいもの。
 ふう、と息を吐いて、崖の上から僅かに顔を出す森を見上げる。それにしても本当に森にはいい思い出が一つもないな。まったく、森の神様はそんなにあたしが嫌いなのか。薄暗い森の奥からぬっと顔を出すあのホラーなぬいぐるみは、さすがの勇者様もしばらく夢に見そうだ。

「ところで、ポッキュンの後ろにいたのは何だ? オイラ見たことねぇんだけど」

 なんか早速定着してきた。なんかごめんねポッキュン。

「ああ、私も実際に見たのは初めてだが、恐らくトループモンという擬似デジモンだ」
「トループモン……聞いたこともねぇな。ん? 擬似って何だ?」
「またそんな珍しい奴なの?」
「いや、自然発生する種ではないんだ。デジモンの生体エネルギーをあのラバー装甲の中に詰め、プログラムによって動かすオートマトンの一種だ。昔、ある戦争で兵器として運用されていたものだよ」
「強いの?」
「一体一体は……そうだね、ゴブリモン以上・オーガモン未満といったところだろうか」

 熊が疾走してるだけで蹴散らされた小鬼よりは強くて熊に一撃で蹴り倒された大鬼よりは弱い、か。それはなんともまあ、

「しょっぱいね。倒せたんじゃないの?」
「狙撃がなくて増援も来なけりゃな」
「ああ、そっか。って、めんどくさい相手ねぇもう」
「まったくだな。せめてあの狙撃だけでもどうにかなりゃあな。大体あいつらどうやってオイラたちを見付けてんだ?」

 と、熊が問えばなぜだか魔術師がぎくりと小さく震えた。

「う……すまない二人とも。それに関しては完全に私のミスだ」

 申し訳なさげに顔を伏せ、頬をかく。目線は右へ左へ忙しなく、見るからに泳ぎまくっていた。

「え? どういうこと?」
「“黒い歯車”だ。恐らくあれを探知されていたんだ。一撃目の後、少しの間狙撃が止んでいたろう?」
「ん? ああ、確かに」
「私の魔術結界に阻まれていたせいだろう。それを……」
「“羅針盤のように使う。きりっ”とか言って解いちまったせいか」
「うっ……うぅ、そ、その通りだ」

 答えて魔術師はおもむろに両手で顔を覆い、ゆっくりとあたしたちに背を向ける。見えずとも今どんな顔をしているかは容易に想像がついた。熊さんや、その辺で許しておやり。

「で、歯車はどうしたんだ?」
「逃げる時に捨ててきたよ。拘束魔術を解かなければ探知されない、という保証もないからね」
「つまり……」

 熊は崖の上の森を仰いで、小さな溜息とともにうんと頷いた。言わんとしていることは分かっている。つまりは、

「敵の場所が分かんなくなっちゃったわけだ」
「そうなるな。あちこち逃げて来たせいで方角もよくわかんねーし」

 関節もない癖に肩をすくめて溜息を吐く。そんな小憎たらしい熊に、魔術師は少しだけ慌てた風に首を振る。

「い、いや、それは大丈夫だ。方角なら私が覚えているよ。それに……そう遠くもないはずだ」

 とん、と杖をついて、魔術師は周囲を見渡す。

「どゆこと?」
「“黒い歯車”を探知していたとすると、最初の狙撃の時に我々の正確な位置は捕捉できていなかったはずだ」
「ああ、確かに。追っ掛けてただけだしな」
「そう。つまり歯車を探知した後、それを追う我々の姿を視認し、狙撃を行ったのだろう」
「視認、ってことは」
「見える範囲にいるってことね」

 顎に手をやりきりりと格好いい顔をして、言いかけた熊の言葉をあたしが続ける。最後まで言いたかったと言いたげな顔をされるが流してみる。魔術師がこくりと頷いた。こっちは立ち直れたらしい。

「そういうことだ。と言っても視力など個体差が大きいし、僅かばかりの手掛かりにしかならないだろうけどね」
「後は地道に探すっきゃねえわけか」
「あ、前にやった地図は? ほら、デジヴァイス使ってやったやつ」

 ポケットから青い端末を取り出してほうらと差し出す。ぴこーん、と頭の上に電球が浮かんで見えた気がした。そんなあたしのナイスアイディーアに、けれども魔術師はどういうわけかゆっくりと首を横に振る。

「いや、私の見立てでは歯車の探知は魔術のそれに近いものだ。あちらに多少なり魔術の心得があるものがいるなら、こちらの探知魔術そのものを逆探知される恐れがある」
「ああ……そうなんだ」
「それに地形だけでそうと分かるようなアジトとも限んねーしな」
「むぅ……」

 言われてみればもっともか。悔しいが返す言葉もない。でもそんな畳み掛けるように言わなくったっていいんじゃないかなあ。

「拗ねるなよ」

 そんなあたしの内心を目敏く察したように、熊がやれやれと肩をすくめてみせた。心を見透かしてやがる。恐ろしい子。絆が育まれたと喜ぶべきところだろうか。いや、あるいは素直に気持ち悪がっておいて……あ、ほっぺ膨らましてたわ。ぷひゅーとほっぺの空気を抜いて、うんと頷く。

「ねえ、お腹空かない?」
「今そんな話の流れだっけ……」

 息を吐いたらなんか胃に余裕ができた気がしたんだもの。後あたしあんまり考えるのは向いてないや。戦士たるもの己の存在価値は戦いをもって示すべし、である。あたし戦士だっけ。まあいいや。

「腹が減ってはなんとやら。戦の前の腹ごしらえよ」
「十分した上で出発した気もするけど」
「細かいことはいーの。ねぇ〜ん、ウィザえモぉーン。何かなぁい?」

 くねりとバディをよじらせ甘えた声で言ってみる。勿論魔術師は困惑した顔で頬をかくばかりだが、なんだかつれないリアクションが段々癖になってきたのは内緒である。

「その呼び名はまだ続いていたのかい? いや、まあいいが……何かと言われてもね」

 まあ、無茶は百も承知である。たとえばどんなお料理も出て来るテーブル掛けだとか、そんな未来の秘密道具的なものまではさすがに期待していない。でも言ってみるだけならタダだもの。一見不可能に思えることも、やるだけやってみたら案外なんとかなったりするものだ。そうやって暗闇の中に光明を見出だすものを、人は“勇者”と、そう呼ぶのである。その話が今回のケースと関係あるかは一先ず別として。

「たとえば幻覚の魔術でご馳走様の幻を作り、精神錯乱の魔術で満腹になったように錯覚させて……いや、すまない、今のは忘れてくれ。何を言っているんだ私は……」

 腕組みをしながら独り言のようにそんなことを言い、魔術師は頭を抱えて首を振る。完全にあたしの無茶振りのせいなのでちょっと申し訳なく思えた。だが、成る程、奥の手としてはなくもないかもしれないな。忘れてと言われたが一応記憶には留めておくとしよう。
 めもめも、と。心のメモ帳に書き留めていると、そんなあたしと魔術師を交互に見て熊が呆れた風に溜息を吐いてみせた。あたしたちからは少し離れ、川辺に立って「何言ってんだこいつら」とでも言いたげな顔をする。ハサミかなんかないかな。一回あの表情筋の秘密は詳しく調べておきたいところだ。

「つーかさ、ここ川だけど」
「うん?」
「錯乱してまで食った気になんなくても普通に魚いるけど……」

 なんていう熊の言葉に、魔術師と顔を見合わせる。はたと、目と口が一際大きく開いた。

「盲点だったわ!」
「ハナってすげー時とそうでない時の落差でけーよな」

 まったくだな。あたしの閃きは戦いの中でしか真価を発揮しないらしい。なにゆえ神は現代社会じゃ使う機会なんて皆無のこんな才能をあたしに与えたもうたのか。否、これも勇者になるべくして与えられたと、この宿命を受け入れるべきだろうか。うん、そうしよう。そうと決まればやはり先ずは腹ごしらえである。

「火の魔法は前に使ってたよね。魚釣りの魔法はないの?」
「そんなピンポイントな魔術はさすがにないが。しかし、そうだね、水の魔術を応用すればどうにか……」

 そう、あたし同様に魚に気付きもしなかったドジっ子魔術師が杖を構えたそんな時、不意に魔術師の肩を熊がぽんと叩いた。おおっと、なんてわざとらしく声を上げて。

「おいおい待ちなよシニョリーナ。つれないな。一回ぐらいはオイラに頼ってくれてもいいんじゃないか?」
「え? いやいや、だって魔法なんて使えないでしょ?」
「ちっちっち。魔法なんてなくても魚くらいは捕まえられんだぜ?」

 それは、うん、まあ、もっともだけど。確かに熊というのは川で鮭をとったりもするな。皮が布じゃなく中身が綿じゃない真っ当な熊の話ではあるが。そしてどうでもいいが「ちっちっち」の時の指を振ったっぽい動作が無性に鼻についた。あれってどこら辺が指だろう。

「とにかく任せてくれよ。折角覚えたし、実戦の前に試しときたいんだよ」

 と言って熊は川の中をざぶざぶと進んでいく。川の水深は熊の膝丈ほど。あそこ膝かなあ。水を吸って動き辛くなってしまいそうだが、しかし熊は構わず川の中程まで歩いていく。

「試すって?」
「何言ってんだよ。これに決まってんだろ!」

 少しだけ屈んで獲物を探す熊に問えば、そう言いながらあたしに向かって片腕を突き出してみせる。その手の先で火花がばちばちと散った。ああ、と頷いて少し、あたしは魔術師と顔を見合わせた。

「ようし、見てろよ!」
「え? あ……!」
「ヌ、ヌヌ君!?」
「ん?」

 魔術師の言葉に振り返る。振り返りながら、熊の両腕がちゃぽんと水に浸かる。その、瞬間だった。激しい電光が熊の全身にほとばしったのは。

「あばばばばばば!?」

 なんていう面白い絶叫を上げながら、自らの電撃を水面伝いに受けて、熊は屈んだままの恰好で閃光に包まれる。時折骨が透けて見える演出からして心配はなさそうだが、それにしてもこの熊は人を小馬鹿にしておいて自分こそ……その骨どっから出たの!?

「あびゃふぉ!?」

 やがて放電が止み、反動で弾かれるようによろめいて熊は尻餅をつく。電撃でアフロになった頭からはぶすぶすと黒い煙が立っていた。うん。そのダメージの受け方は大丈夫なやつだな。髪とかあったっけ!?

「だ、大丈夫かいヌヌ君?」

 川の真ん中でよろよろじゃぶじゃぶと立ち上がる熊に、魔術師が駆け寄る。真っ黒でアフロで口からは煙を吹いていたが、むしろそこまでいくと逆に安心していいだろう。それ死なないやつだ。

「お、おう。ちょっとびっくりしたけど、オイラは平気だ」

 本人もそう言っていることだし。

「そ、そうかい? びっくりした程度のダメージには見えないが……」
「ねえ、ところで魚は? とれたの?」

 心配性な魔術師の言葉を遮るように、岸から川を覗き込んで聞いてみる。魔術師にはなんだか妙な顔をされるが、まあいいや。

「ん? ああ……うん、とれてはないようだな。てゆーかもうちょい心配してくれてもいいと思うぞ」

 ぷるぷると身体を震わせて、煤とアフロと煙を振り払って熊は呆れたように頬をかく。そう言ったって本人が平気そうにしてるし、大体ちょっと煤を払えば今まさに元通りの黄色い熊にってちょっと待って今どうなった!?

「いい手だと思ったんだけどな。ん? どうしたウィザーモン?」
「あ、い、いや……本当に、平気そうだね……」

 アホの子みたいに口を開ける魔術師の気持ちは痛いほどよく分かった。あたしも同じ気持ちだよ。魔術師は気を取り直すように小さく首を振り、咳払いを一つ。もう気にしないことにしたらしい。そうだね。それがいいと思う。あたしもそうしよう。

「さすがは完全体、といったところだね」
「ん? 完全体?」
「完全体? って何?」
「え?」
「あ、完全体なのかこれ?」

 服の染みでも探すように身をよじらせて、脇の下やら股の下やらを覗き込む。そんなところを見て何が分かるのだろうか。うねる熊に何とも言えない顔をしながら、魔術師は少しを置いてあたしに語る。

「我々デジモンは、進化を繰り返して強くなっていくんだ。完全体というのは、その五段階目の進化を意味する。私や、進化前のヌヌ君は四段階目の成熟期だ」
「四……え? ヌメヌメと同レベルだったの?」
「う……ああ、恥ずかしながら」

 顔を伏せ、帽子の上から頭をかく。そんな魔術師の肩を、あたしはとりあえずぽんと叩いておいてやる。まあ、なんだ。元気出そうぜ。

「おい待て、恥ずかしながらってどういう……」
「それで、この熊がその完全体ってやつなの?」
「あれ、聞いてる? あ、聞いてないやつかこれ」
「今のヌヌ君の姿は、恐らく“もんざえモン”という完全体だと思うのだが……進化したんじゃないのかい、ヌヌ君?」
「さくさく話進めちゃうのな。ええと、でも、“もんざえモン”か……確かになんだか懐かしいような、気持ち悪いぐらいしっくりくる響きではあるな」
「てゆーか何その名前」

 ウィザード、ゴブリン、オーガ辺りからの急勾配がすごいな。一人だけ世界観が違うのはいいのかこれ。いや、ビジュアルの時点で分かりきってはいたけれども。神様、ちゃんとしよう!

「まあ、進化っつっても着ぐるみ着ただけなんだけどな」
「き、着ぐるみ?」
「なんか山に落ちてたの」
「や、山に!? す、すまない、状況がまったく分からないのだが……」

 なんて眉をひそめる魔術師に、あたしと熊は顔を見合わせる。肩をすくめてとりあえず微笑む。

「ふ、奇遇だな」
「ふふ、あたしたちもよ」

 そう答えてやればますます訝しげな顔をされるが、分からないものは分からないのだから仕様がない。「山に落ちてた着ぐるみを拾いました」としか言いようがないのだもの。ところで山といえばあのいちごはとっても美味しかったな。お腹空いたなあ。

「ねえ、そろそろ魚とらない?」
「ぶった切るなぁ……ハナのそういうとこ尊敬するよ」
「そりゃどうも。てゆーか早くしないとここも見付かっちゃうじゃない」
「それもそうだな。さて、そんじゃどうやって……」

 顎に手を当てふうむと唸る。熊のそんなポーズには滑稽という言葉が頭を過ぎったが、さすがに酷い気がするので口には出さないでおくことにした。あたしって優しい。熊がなおも唸っていると、はたと魔術師が声を上げる。

「そうだヌヌ君、先程は言いそびれてしまったのだが」
「ん?」
「狙撃を防いだ時に君が使ったのは、スタティックエレクトではなかったはずだよ。あれは接触しなければ効果がないからね」
「お? ああ、成る程。確かに当たっちゃいなかったな。てことは……」

 熊は自らの手の平、と思しき腕パーツの先端部分をしげしげと見る。魔術師がうん、と頷いて、

「そう、恐らくは」

 まで言ったところで熊は両手を水平に広げ、手から地面に向けてばちばちと放電してみせる。

「ああ、これか」
「さ、さすがだね。そうだ、それが“エレクトリックシュート”だ。……そんなあっさり出されても複雑だが」
「ん? なんか言ったか?」
「いや、何でもない」

 ばちばちばちばちと、目を輝かせながらそこらに放電しまくる熊は、まるで新しいおもちゃでも貰ったお子様のようだった。この間までうんこ投げるしか能がなかったものね。楽しそうなのはなによりだけれども、しかしそろそろ何でもいいからとりあえずお魚をとってはくれないものだろうか。お腹の中の小さいハナさんはさっきから唸りっぱなしである。魔術師があたしを見ながら口を開けていた。

「すげー音だなハナ」
「そう思うんなら遊んでないで魚とってよ」
「遊んでねーって。練習してんだよ。もう感電したくねーし」

 ほら、と火花の散る両手を突き出してみせる。おかしなポーズを決めながらばちばちと放電する様は、あたしには戯れ以外の何物にも見えなかったけれど。関節の可動域の問題だろうか。

「はあ、なるべく早めにお願いね」

 もう自分で手づかみに行こうかしら。任せろと熊が言ったからか、魔術師もでしゃばってはくれない。あたしとしては正直どっちでもいいのに。

「しっかしハナは相変わらず元気だな」
「はぇ? 元気? なにそれ」
「ほら、最初に狙撃された時とか。オイラまあまあビリっときたぞ?」
「確かに、そうだね。私は飛行魔術の風の結界に護られていたが……」
「そういや崖から落ちてもぴんぴんしてたよな」
「が、崖!?」

 三兄弟から逃げた時のあれか。そこは蒸し返すな。自分で自分がちょっと怖かったんだから。そういえばあの時もひもじい思いをさせられたな。キノコも美味しく食べられたのは最初の二、三十本くらいだったし。ああ、思い出したらお腹空いてきたな。ぐー。

「……そんなに腹って減るもん?」
「なんか最近すぐにお腹空くんだもん」
「最近?」
「こっち来てからかなー。連日暴れてるし」

 言われて思い返せば、バロモンさんの村でゴブリンをぶちのめしてからだったろうか。元々まあまあ食べるほうではあったけれど。帰って体重計に乗るのが怖いな。思わず顔をしかめてあの夜からの献立を思い返す。泥団子美味しかったな。ぐー。腹の虫が再びいななくが二度目はスルーされる。

「成る程……恐らく代謝のメカニズム自体がこちらでは異なるためだろう。ハナ君、体重は増えているかい?」

 なんて、さらりとぶち込む魔術師の言葉を脳みその奥で反芻する。数秒の沈黙を置いて、ようやく何を聞かれたを理解してジト目を返す。

「乙女になんて質問してんのよ」
「え!? な、なにか失礼なことを言ったかい?」

 と慌てる魔術師は見たところ本当に戸惑っておられるご様子。彼だけ極端にデリカシーがないのかそういう世界なのかは知らないが、どうやら悪気はないらしいな。ふん、と鼻息を一つ。今回は目をつむることにした。

「まあいいわ。てゆーか体重計もないから増えてるかなんてわかんないけど、それがどうしたの?」
「あ、いや、もしかすると蓄積されたデータがデジ……」
「なあ、ちょっといい?」

 魔術師が顎に手を当てふうむと唸り、何かを言いかけたそんな時、不意に横槍を入れたのは熊だった。ばちばちといい加減に耳障りな音を立てながら。ぶった切るなと人に言っておいてこの熊は。水を差されてあたしたちは同時に振り返る。振り返って、そして固まる。

「困った話を聞いてほしいんだけどな」

 やれやれ、どうしたものかな。とでも言わんばかりの妙に余裕のある顔で、熊は両手を川に向かって突き出した恰好で、かくりと小首を傾げてみせる。その手の先で、火花が舞っていた。

「これって、どうしたらいいと思う?」

 どうしたら、と言われても。あたしとしてはまず、どうしたか、を聞きたいところである。突き出す熊の手の先には、どこか見覚えのあるものが浮かんでいた。黒い光の球、とでも形容すればいいのだろうか。暗雲を丸めたような球体は火花を纏い、辺りの空気を震わせながら唸りを上げていた。触れれば黒焦げになるであろうこと請け合いの、雷の砲弾。こんなにまじまじと見る機会はなかったが、恐らくは先程あたしたちを狙撃したそれと同様のもの。それがなぜ熊の手から出ているのかは、勿論さっぱりである。

「これは……“メガロスパーク”か! あの数度の狙撃で覚えたのかい!?」
「お、おう。ふはは、自分の才能が怖いぜ。……で、どうしたらいい?」

 ぐにーんと顔を歪め、くねくねと身をよじらせる。どうにか引っ込めようとしているのであろうことは分かったが、できてはいないようだった。

「ど、どうするも何も、そうなってはもう撃つしか……!」

 辺りをキョロキョロと見回して、おろおろしながら魔術師が返せば、熊は大量の梅干しを口いっぱいに詰め込まれたような顔をする。ここに来て状況を理解したあたしもまた、似たような顔で声を裏返らせる。

「えっ? 撃つ? えええっ!? ここで!?」

 さっきの狙撃と、魔術師がそう言ったことからも、やはりこれは先程の砲撃と同じ技なのだろう。つまり、撃てば同じ規模と音量でどかんと炸裂するわけだ。あたしの記憶が確かなら、今あたしたちは敵から逃げて身を隠している最中だったような気がしないでもない。魚をとってとは言ったけれど、敵に見付かる前にとも言ったはずだ。言ったよね!?

「ヌ、ヌヌ君! できるだけ出力を抑えて川の――」
「あ、駄目だ。出ちゃう。あふんっ」

 川の上流を指差しながら魔術師が言ったその途端、言葉を中途で遮る気持ち悪い吐息が熊の口から漏れた。少しだけ前屈みになってお尻を突き出し、腕は真っ直ぐに伸ばしたその恰好は潰れたくの字のよう。顔には「限界でごわす」と書きなぐってあった。違うものを連想させる顔とポーズと台詞がただただ不愉快だった。具体的にはうんこ漏らしたみたいだな。と、熊の手を離れて飛んでいく黒い球を眺めながら、あたしは顔をしかめる。時間の流れが酷く怠慢に感じられた。
 そうして――瞬間、電光が弾けて爆ぜた。

「あ……!」

 川辺の澄んだ空気を爆風が撹拌する。轟音が耳をつんざく。閃光が目を焼く。高く高く、水柱が立ち上る。ここにいますと自らの存在を広く強く主張するかの如く。巻き上げられた川の水が雨のように降った。ついでに魚も大漁だった。あたしの隣では魔術師が青ざめた顔で大口を開き、ぷるぷると震えていた。ふと、あたしのお腹が鳴る。ああ、なんと業の深きことか。

「ねえ、このでっかいのって食べても平気なやつ?」
「あ、ああ、それはデジカムルと……そんな場合ではないと思うがっ!?」

 びっちびっちと跳ねる巨大魚を指差して問うあたしに、魔術師が至極真っ当な突っ込みを返す。正論すぎてぐうの音も出なかった。どうでもいいが段々突っ込みが板についてきたな。

「とにかく早くここを離れよう! すぐに追っ手が――」

 まで、言ったところで不意に、崖の上の茂みががさりと揺れる。思わず息を飲んで見上げれば、茂みの中からにゅっと、ガスマスクが顔を出す。ガスマスクはそのままゆっくりとあたしたちを見て、そうして僅か。

「コフー!」

 マスク越しに発せられたそんな声は号令にも聞こえた。茂みの奥から地を叩く沢山の足音が響いて、次の瞬間、崖の上からガスマスクたちが雪崩のように降ってくる。ひーふーみーの、八体か。冷静に数えられたのはむしろ冷静ではなかったからだろう。少し遅れて、ほぎゃあと叫ぶ。

「に、逃げるんだ!」
「くそ! あんな奴ら物の数じゃねえってのに!」

 あたしは踵を返し、一度だけ屈んでから走り出す。そんなあたしと、忌ま忌ましげに舌打ちをした熊と、お魚とを順に見て、魔術師が首を振る。

「すぐに増援が来る! 今は逃げるしかない!」

 言って前へと向き直り、そうして、一拍の間を置いてからまたあたしたちを見る。それはそれは、お手本のように見事な二度見であったという。

「なぜ二人して魚を抱えているんだい!?」

 二度目の突っ込みは今日一番の声量と切れだった。せめてこいつくらいはと、デジカムルなる体長一メートル超の巨大魚だけを抱える控えめなあたし。願わくば一匹残らずとばかり、両脇にエグいほどたんまりと魚を抱える卑しい熊。どちらがより駄目かというなら、まあ、目糞鼻糞であろう。でも逃げた先にも食べ物があるかなんて分かんないじゃない。

「後にしろウィザーモン! もぐもぐ! 今は逃げることだけを考えるんだ!」
「そうよ、今はとにかく逃げないと!」
「えええ!? わ、私が間違っているのかい!?」

 間違っては絶対にないけれど。こちらのお腹にも事情というものがあるのだからしょうがない。それはそうとなんか今「もぐもぐ」って……ちょっと待て何を先に食ってやがんだこの野郎! 熊の口からはみ出たぴっちぴちの尻尾に、そんな場合ではないと言った傍から思わず突っ込む。できることならあたしも食べたかったけれど、さすがにこの巨大魚の踊り食いは人類のキャパシティをぬるりと越えている。

「んごっく! 飛ぶぞ! ウィザーモン、ハナを頼む!」
「こ、心得た! 失敬!」
「え? うぉわっ!」

 熊が金翼を広げ、魔術師がマントを翻す。と思えば魔術師が後ろからあたしの腰に手を回す。がしりと、お腹を抱えられる恰好であたしの身体が浮き上がる。失敬、なんて言われてこんな風に抱えられ、思わずちょっと顔が熱くなる。まるで乙女みたい! 咄嗟に「きゃ!」とか可愛い声を出せなかったことだけが悔やまれる。後で練習しとこう。
 地面を二度三度軽やかに蹴り、熊が飛翔する。魔術師もまたその後に続く。崖から飛び降りたガスマスクたちが川に、川辺に、飛沫と小石を巻き上げながら着地する。あちらはまだ対岸、こちらは既に離陸している。問題ない。今度は簡単に逃げ切れ――

「あ」

 それは、本能のようなものだったろうか。見えもしない遠方から迫るそれを、けれどあたしははっきりと肌に感じていた。反射的に、あたしを抱える魔術師の腕をつかむ。

「だ、駄目! 降りてストップ! 来る!」
「え?」

 躊躇いに、逡巡。一瞬、魔術師が上昇するその速度を緩め、熊も釣られて振り返る。と、同時だった。あたしたちの僅か前方を、黒い球が通り過ぎたのは。
 ひゅ、と息を飲む音は誰のものだったか。すんでのところで運よく難を逃れ、肝がこちんと冷える。黒い球はそのまま川辺に突き刺さるように着弾し、轟音と閃光を撒き散らす。
 間違いない。さっきの狙撃だ。当たり前と言えば当たり前だが、ド派手な爆発で狙撃手にも居場所はバレたらしい。飛び上がったことで再び射線に入ってしまったのだ。熊が舌打ちをする。その視線が遠い空を撫で、少し。何かを捉えたように目を見開いて、再び舌を打つ。

「見えた! 黒い歯車だ! 誰か乗ってんぞ!」
「空からか……まずいな」

 水面ぎりぎりまで高度を落とし、砲撃の飛んで来た方角を見ながら二人は言う。あたしも首を伸ばして見てはみるものの、あるのは白い雲くらいのものだった。どんな視力でおいでだこの熊は。ヌメヌメの時は特別目がいいようにも見えなかったけれど、これも進化の影響だろうか。そこは自前のはずだけれども!
 などとあたしがくだらないことを考えている間にも、第二、第三撃が飛来する。熊と魔術師はそれをどうにか避けつつ低空飛行を続ける。先程よりは狙いが甘い。とはいえ、放っておけるほど的外れでもない。空飛ぶ歯車の上から狙撃をしているらしいが、であればこうして谷間に隠れようと向こうが更に高度を上げればやがて意味はなくなる。狙撃の来る方向と同じ側の壁にでも張り付けば真上くらいしか狙えるポイントはなくなるが、そちらはそちらで今度はガスマスクたちが首を長くしてお待ちだ。まったく、

「厄介な位置取りだな」

 という、熊の零した呟きはもっともだった。この位置は、どう考えてもまずい。四撃目、五撃目を避け、熊がぎりぎりと歯列を軋ませる。ふと対岸に目をやれば、六体どころの騒ぎではないガスマスク軍団が見えた。増援だ。もう来たのか。お早いご到着ですこと。はあ、やれやれ。この状況は、何だろう。何て言うのかな。

「辞世の句とか考えといたほうがいいかな」

 雨宮や〜、海の魚は尽きるとも〜、とか。

「ハナ君っ!?」
「おいぃぃ!? はえーよ、諦めんの!」

 ぼそりと言ってみたら即座に突っ込まれる。お耳がよろしいこと。

「備えとけば憂いもないかなって」
「憂いだらけだよ!?」

 もっともです。

「しっかりしろよ! いいのか、こんなとこで死んで! まだ……まだデジカムルだって食ってねえのによおぉぉ!?」
「ヌ、ヌヌ君、その説得はあまりにも……」

 雄叫ぶ熊に魔術師が呆れ返る。そして当のあたしは、ががーんと雷に打たれたような顔をする。目からは鱗が零れ落ちた。感電にいまだぴくぴくする巨体をぬるりと抱きしめる。

「そう……そうね、その通りだわ!」
「ハナ君っ!?」

 ふ、あたしとしたことが、少し弱気になっていたようだな。だが、今はっきりと思い出した。熊の言葉に気付かされた。そう、そうだとも。あたしのこの胸にはまだ、最後の希望が残されている。危険も省みずどさくさに持って来たこの巨大魚、このデジカムルを食するまでは死んでも死に切れない!

「わかってくれたか! 生き延びるぞ、ハナ!」
「ええ! 必ず食べてみせるわ、デジカムル!」
「二人ともなんだか随分と余裕がないかい!?」

 なんだかんだでひらりひらりと二十撃目くらいまでを避けたところで、決意を新たに拳を握り合う。そんなあたしたちを追うガスマスク軍団は気付けばいつの間にか随分な大所帯になっていた。表情なんて勿論わかるはずもないのだけれど、なぜだかどこか苛立ったようにも見える顔で川辺を疾走していた。何か気に障ることでもあったろうか。
 しかし、どうでもいいがどんどん増えていくな。川の中程を飛ぶあたしたちを挟み撃つように両岸から、今や数にして四、五十体といったところ。まだまだ増え続けている。最初の狙撃の時といい、先程といい、ああも早くあたしたちを追って来られたのは、元々森の至る所に配置されていたからであろう。空から見た限りでは「アマゾンか!」というくらいの広大な森だったが、これほどどこへ行っても鉢合わせるなんて尋常な数ではない。
 考えて、今また諦めが頭を過ぎったがどうにか堪える。

「で、どうするの? 何か手は?」

 と、聞くだけ聞いてみたら熊がぐっと親指を立てる。みたいなポーズをした。

「任せろ! ずっと考えてるとこだ!」
「ずっと思い付いてないってことじゃないのそれ!?」

 勿論安定の熊だったけれど。オッケーごめん。次からは殴る蹴るでどうにかなる場面でだけ声掛けるね。そうとも、こんな時に頼れるのは!

「う……すまない」

 ちらりと魔術師を見上げれば、すぐさま返ってきたのはそんな頼もしいお言葉だった。ふふ、成る程ね。えー、ごほん。雨宮や〜。

「ハナぁー!? また目が死んでないか!? 早くないか!?」

 続々と飛んで来る黒い球をひょひょいと避けながら、叫んだ熊にあたしはただ微笑み返す。そう思うならどうにかしてください。このまま逃げ続けたところで勝機はない。この状況で持久戦なんて成り立つわけがない。たとえ向こうの兵力が尽きるまで逃げようと、あたしたちは敵方の本丸がどこかさえまだつかめていないのだ。
 どうする。どうしよう。攻め手がない。現状を打破する一手がない。誰か、どうにか……!

「やれやれ、ダメダメネ」

 不意に、そんな声が聞こえた。翼が風を切る音、河原の砂利を叩くガスマスクたちの足音、着弾する砲弾の轟音、それらの隙間をすり抜けるように聞こえたその声は、幻聴にしてはいやにはっきりとしていた。いや、

「こっちネ、早く早く!」

 一瞬遅れて熊と魔術師が振り返る。幻聴などではない確かなその声に。あたしたちの視線の先には、岩壁にぽっかりと空いた穴が一つ。疑問を口にする余裕はない。逡巡する暇もない。だから、あたしは咄嗟にその穴を指差した。

「行って!」

 あたしが言うとほぼ同時、がきん、と熊が歯牙を打つ。そうして、翼を寝かせて急旋回する。魔術師もまたそれに続く。川を左右から囲うような岩壁――傾斜はほぼ直角、高さは建物でいえば五、六階に相当するだろうか。その一階部分に、まるで玄関のように大きな竪穴が口を開けていた。
 怪しい。と、落ち着ける状況であれば先の声も含めてそう思ったろうけれど、生憎と今はとても落ち着けるはずもない状況にあった。躊躇はさっき手早く済ませておいた。後は出たとこ勝負だ!
 黒い球を避け、襲い来るガスマスクたちを蹴散らして、頭から滑り込むように竪穴へと飛び込む。直後に一歩遅れた狙撃が竪穴の入口へと着弾する。轟音と爆風が背を叩く。竪穴の内部が激しく震え、そうして――地鳴りとともに、背後から差す明かりが瞬く間に途絶えていく。土砂と落石が、頭の上から降り注ぐ。
 穴が崩れていると、理解できたのは入口が完全に塞がったその直後だった。暗闇の中、薄れゆく意識の中であたしは、ぽつりと呟いた。雨宮や〜……。




「っ〜〜……っどぅあはあぁぁっ!!」

 なんて声とともに薄明かりが目を衝いた。土煙とともに大きく息を吐き出して、常夜灯にも似たほのかな明かりの灯る広々とした空間へ飛び出す。頭からダイブした熊はそのまま地面を顔面で滑っていく。後に続く魔術師はその後ろをあたしもろとも錐揉み状態でごろごろと転がる。一瞬マントを広げ、宙でどうにか堪えようと試みたお陰か、熊よりは随分と勢いも弱かったけれど。それでもド派手に転倒したことには変わりない。

「うぎゅぬぅ〜……!」

 でんぐり返しの途中みたいな格好でおかしな唸りを上げていると、先程あたしたちが通ってきた通路から二度三度、土煙が噴き出した。一拍を置いて、けたたましい音を上げながら通路そのものが跡形もなく崩れ落ちる。と同時、反対側ではぼちゃんと、何か大きなものが水に落ちるような音がした。
 何がどうしてどうなった。さっぱり分からないままに、ふらふらと身を起こす。辺りを見渡せば、野球場くらいはありそうなドーム状の地下空洞だった。天国にしては殺風景である。

「ハ、ハナ君……! すまない、大丈夫かい?」
「だいじょ……え? 何が?」

 地下空間が揺れていた。と思ったが揺れているのは多分あたしの脳みそだろう。ぐわんぐわんと右に左に視界がぶれる。頭を抱えてどうにかこうにか立ち上がる。たたらを踏んで、こめかみ辺りを押さえながらもう一度ゆっくりと周囲を見渡す。どうやらどうにも、辞世の句はまだ必要なかったらしい。
 微かに灯る青い明かりは壁そのものが光っているように見えた。発光するコケか鉱物だろうか。ドーム状の地下洞はよくよく目を凝らせば半分が湖になっている。水面が淡く煌めいていた。そして湖の手前では地面に散らばる沢山のお魚たちが煌めいていた。なぜ地面にというなら熊が落としたのだろう。本人の姿は見えないが、先程聞こえたぼちゃんという音で大体の状況は察しがつく。ので、流すことにした。まあ大丈夫だろう。信じた。

「怪我はなかったかい?」
「うん、大丈夫みたい。そっちは?」
「問題ない。平気だよ」

 あたし同様に熊の安否はスルーした魔術師と、互いの無事を確かめ合って頷き合う。そんなあたしたちの横で湖からぬっと黄色い物体が現れる。熊なのは分かっていたので特にリアクションはしなかった。水を吸ったか上陸は中々に難航しているようだが、まあいいや。がんばれ。

「ねえ、さっきの声って……」

 そんなことより、と、姿の見えないもう一人を探して辺りを窺う。あたしたちをここへ導いた張本人、聞き覚えのない謎の声の主。てゆーか声が聞こえたの外だったけど、あたしたちよりそっちのが大丈夫だろうか。

「ミーのことかい?」

 あたしと同じように魔術師が周囲を窺い、熊がようやく湖から這い上がったそんな時。離れた岩陰からひょこりと顔を出し、それは首を傾げてみせた。いや、顔から手足が生えたようなそのデザインで首といっていいかは分からないけれど。
 やあ、とばかりに片手を挙げて笑うそれ。身の丈はヌメヌメと同じくらい。身体は硬質、色は白と黄色。形はどうだというなら、まあ、うんこであった。

「こんにちは、ミーはダメモン。見ての通りのちっとも怪しくないただの通りすがりのプリティなデジモンだヨ! 危ないところだったネ!」

 爽やかな笑顔でサムズをアップして、メタルなうんこはそう自己紹介をしてみせた。あたしは少しだけ思案してから、笑顔でうんと頷いた。

「あたしはハナよ。あなたが助けてくれたのね、どうもありがとう!」

 笑い返して、サムズもアップし返す。びしいっと真っ直ぐに親指をおっ立てるそんなあたしに、しかし熊と魔術師は当然のように驚いてみせた。

「ちょおぉ! ちょっと待てハナ! 信じるのか!? 今ので!?」
「落ち着くんだハナ君! 口に出すのもはばかられるが、敢えて言わせてもらうなら“とても怪しい”と思うのだが!?」

 なんて口々に喚き立てる。敢えて言いなさんなそんなこと。あたしも言いたくなかったから言わずにおいたのに。熊は濡れた身体から水を絞りながらなおもまくし立てる。

「大体おかしいだろ! さっきどっから声掛けた? そもそもこんなとこにこんな弱そうなのが通りすがるわけないだろ! てゆーかダメモンって何!?」

 片手でもう片方の腕を雑巾のようにねじって捻って、水分を絞り出しながら声を荒げる。まず自分に突っ込めと言わんばかりだが、自覚は多分ないのだろう。なので、とりあえず一個だけ駄目出ししておくことにした。

「ヌヌ、あんまり丁寧に突っ込み過ぎても面白くないよ?」
「面白くなくていいんだよ!? シリアスだからね今!?」

 ぎゅむーんと、今度は両手で左右から頭を挟んで絞る。シリアスならまずそれ止めようか。
 問い詰められたメタルうんこ、もといダメモンは肩をすくめてやれやれと溜息を吐く。恐らく首も振ったと思われるが、首がないのでなんか左右に揺れただけだった。メタルうんこ歴が何年かは知らないが、もうちょっと自分の身体の構造を把握しようぜ。

「やれやれ、質問が多いネ。とりあえず何って言われたら、データのカスが集まってどういうわけかデジモンになっちゃったのがミーたちダメモンなのサ!」
「カスって……」
「ちなみにこっちは相棒のチューチューモン。打算と猜疑心の権化ネ! 嘘と裏切りはお手の物だけど、こう見えてたまにはそこはかとなくほのかにいい奴なんだヨ!」

 と言って体を捻って背を向けてみせれば、よくよく見たら乗ってた変なネズミがにやりと笑う。突っ込みどころしかなかったが、今さっき自分で釘を刺したばかりなので我慢することにした。ふと隣を見れば魔術師は開いた口が塞がらない様子であった。熊も変な顔をしている。元からか。ともあれあたしは突っ込まない。突っ込むものか。なんて、決意を固めて一呼吸。けれど、

「それと、ああ、そうそう。声を掛けたのはミーじゃなくて弟のダメ次郎ネ。今は多分あの辺で安らかに……」
「ちょっと待ってぇ!?」

 落石で塞がった通路を指差して、あっけらかんと言ったダメモンに、思わず面白い顔でほぎゃあと叫んで突っ込んでしまう。

「どしたの?」
「どしたって……え? 冗談? 冗談なの? え、そうだよね? そうだって言って!?」
「言ってほしいなら言うけど……冗談だヨ! これでいい?」

 そう言って首を傾げる。首ってゆーか全身だけどっていや今はそんなことはどうでもよくてね。ちらりと熊と魔術師を見る。見るが、見た途端にそっぽを向かれる。仕方がないので熊のほっぺをわしづかんで引っ張ってみる。無理矢理に振り向かせて、もう片方の手でくいっとダメモンを指差す。

「冗談だって」
「そ、そうか。じゃあ……ええと、次の話をしようか」

 少しの沈黙を置いて、熊は目線だけは反らせたままそう言って頷く。あたしは僅かの逡巡もなく同意した。はは、あはははは。なーんだ、冗談かー。びっくりしたなーもう。このお茶目さんめ! ようし、この話は終わり! 次行ってみようか!

「ハ、ハナ君? いいのかい、その、何と言うか……」
「えー、何がー? あはは」
「いや……うん、そうだね……」

 頬に大粒の汗まで浮かべ、魔術師はなぜだか妙に歯切れが悪かった。その理由はあたしにはさっぱりだったが、ともあれ一先ずこの話は横に置いておくとしよう。今を生き、未来を目指して歩むあたしたちに、過去を振り返る暇などないのだから。byあたし。名言キタコレ。そうでもないか。

「で、それはそれとして、どうしてこんなとこにいたの? てゆーかなんで助けてくれたの?」

 切れのよすぎる切り返しで即座に話を戻す。若干名、着いて来れていないものもいるようだが構うものか。さあ進もう。時間は待ってくれない。

「ここにいたのはたまたまネ。元々この辺りはミーたちの住み処だったんだヨ」

 そんなあたしにもぴったりマーク。何事もなくダメモンは話を続けた。どこまで本気だろう。とは考えても無駄な気がしたので、やはり考えないことにした。

「だった、って、今は違うの?」
「うん、盗賊たちがやって来るまではネ。あいつらが付近にアジトを作っちゃったせいで、ミーたち住み処を追われるハメになったんだヨ」

 ぺしりと額を叩いて、あいや困ったもんだとばかりに溜息を零す。ちっとも深刻そうには見えなかったが、きっと気のせいだろう。

「要はお前らも被害者ってことか」
「だから我々を助けてくれたのかい?」

 熊が腕を組みながら言えば魔術師も続く。ようやく追い付けたらしい。

「まあネ。八割くらいはぷちっとデリられちゃったけど、生き残ったミーたちはこうしてひっそりあちこちに隠れ住んでいるのサ」

 そう言ってどういうわけかドヤ顔で親指を立てる。デリられたという謎の動詞に関しては一先ず言及しないことにした。

「でも助けたっていうのは正確じゃないかナ」
「ん? どういうこと?」
「あやー、ユーたち鈍いネ。ダメダメネ!」

 肩をすくめて両手を広げ、わざとらしく溜息を吐く。恩と後ろめたさがなければ殴っていたところだが、生憎どっちもあるので我慢した。熊がやれやれと頭を掻く。着ぐるみのその手でその頭を掻く意味はない気もするけれど。

「むしろ助けてくれ、って話だろ。他に何があんだよ」
「オウ、ビンゴネ!」

 熊の言葉にダメモンはぱちんと指を打つ。

「馬鹿みたいなカッコの割に冴えてるネ、見直したヨ!」
「お褒めに与り光栄だ。一発だけ殴っていいか?」
「オウ、ノー! 暴力反対ネ!」
「暴言も反対しろおぉ!」

 がおーんと大口を開けて声を荒げる。馬鹿なカッコはお互い様、と反論しなかったのはささやかなプライドだろうか。そう言えば本気で気に入ってたんだっけ。趣味が悪い、とは今更すぎるけれども。まあ、どうでもいいや。
 あたしは二人の間ににゅっと入り、ぱんぱんと手を叩く。

「はいはい、醜い争いはそこまでで。とにかく、盗賊をなんとかしてほしいわけね」
「いや、みにくぎゅむっ!?」
「そういうことネ。アジトの場所なら知ってるから案内するヨ。ユーたち見たとこ腕っ節だけはそこそこデショ? 駄目元でもちょいと行ってさくっと片付けてほしいネ」

 うるさい熊のお口にチャック、もとい骨こん棒で封をして、盛大に横道に逸れた話をぐいっと戻す。なんだかちょいちょい馬鹿にされてる気はしないでもないが、というか明らかに舐められている気がすごくするけれども、今は気のせいということにしておいてやろう。さっきからちょいちょいネズミが何やら耳打ちしてるのも今は見ない振りをする。

「いいわ、任せて。ちょうどそのつもりだったし。ま、渡りに舟ってとこね」
「ワーオ、ホントかい? センキュネ! ユーって美人な上に優しいネ!」
「え? えへ、いやいやそんなぁ……」

 あらもう、正直なんだからぁ。よく見たら中々可愛いうんこね。悪い奴じゃなさそうだわ。

「ハナ、あからさますぎるくらいお世辞だぞ?」

 という熊の戯言は流して、目一杯の可愛い笑顔を浮かべる。なんだかとっても久しぶりに女の子扱いされた気がするわ。

「ようし、それじゃ速やかに盗賊退治といきましょうか! 準備はいいわね、二人とも?」

 なんかやる気出てきた。ほら、あたしって褒められて伸びるタイプだし? これからもこういう扱いを所望するわ! そのせいでこんな命懸けの旅をするハメになったって気も今したけど、それはそれ!
 燃え盛る闘志と勇気と正義を胸に、にっくき盗賊団のアジトへ向けて人差し指をびしりと突き出す。具体的にどこかは知らないのでとりあえずは勘だが、このノリの中では些細な問題である。今振り返ったら背後に火柱が見える気がする。

「え?」

 だが、そんなあたしの熱意に、なぜだか熊はきょとんとした顔をしてみせた。不意に屈んで地面から何かを拾い上げる。燃えるこの魂にバケツでばしゃりと水を差すかのようにあっけらかんと、

「魚は? 折角落ち着けたのに」

 なんてたわけたことを吐かしてみせる。魚、だって? 地上では今まさに悪辣どもが非道の限りを尽くし、か弱き無辜の民が助けを求めるこの状況で、魚はと、そう言ったのか。成る程ね、あなたの言いたいことはよく分かったわ。そろそろ痺れも取れたかぴっちぴっちと跳ね出すお魚たちを抱えて、熊は首を傾げる。そんな熊にあたしは大きく息を吐いて首を振る。びしいっとお魚たちを指差して、曇りなさすぎる眼で即座にこう返してやるのだ。

「食事を終え次第、速やかにいくわよ!」

 反対は、特にされなかった。
 腹が減っては戦なんて、できやしないのだからして。




 ゆらゆらと火の玉が浮かぶ。岩盤に並べられた魚の上で薪もなしに燃えるそれは、魔術師によって作りだされた魔術の炎。魔術師の意思でいい感じの火力を保ちながら、お魚たちをいい感じにこんがりと焼き上げていく。焼き魚の香ばしい匂いが地下洞に立ち込める。入口塞がって換気もできないが、まあ広いから大丈夫だろう。ふといつかのニセモグラを思い出したりもしたがあたしは気にしない。

「この煙、出口までは漏れたりしないのかい?」
「心配ないネ。まだまだ遠いし入り組んでるから、このくらいの煙で見付かることはないネ。多分。ゆっくり腹拵えするといいヨ」

 あたしと熊がお魚の焼き加減だけを気にする中、一人心配そうに辺りを窺う魔術師にダメモンはそう言って笑う。言われてみれば確かに、敵陣真っ只中での潜伏中に暢気にお魚焼くとか、正気の沙汰とは思えないことをしているという気もしなくもなくもないけれど。しかしお腹というのは何もせずとも減るものなのだ。減ったら食べるしかないのだもの。あいむはんぐりーだもの。大丈夫って言ってるもの。多分ってゆーのは聞かなかったことにしよう。

「ところで、他に仲間はどんぐらいいるんだ? もぐ?」

 いい感じの焼き色がついた魚の尻尾をひょいとつかみ、頭から丸一匹を一口で飲み込んで、熊はダメモンに問い掛ける。負けじと二匹目に手を伸ばしたあたしを横目に、ダメモンは細く息を吐いて肩をすくめてみせる。ぐっと、親指を立てて爽やかに笑う。

「さっき逝ったブラザーで最後ネ!」

 一瞬鼻からお魚を噴きそうになりつつもどうにか堪え、鼻息だけを噴いておく。いい加減ただのブラックなジョークじゃないかって気もしてきたけれど、ガチだったパターンを考えると突っ込むに突っ込めない。

「薄々そんな気はしてたんだけど、からかってんのかそれ?」

 と思ったら普通に熊が突っ込んだ。うわーお、言いやがったよこいつ。だがよく言った。
 どうなんだゴルぁとダメモンを見れば、当人は本気で悪びれる様子もなくぺろりと舌を出した。ぅおい。

「てへ、バレた? ホントは十人くらいネ」
「突っ込み辛いサバの読み方だな」
「オウ、ソーリーネ。切羽詰まってるほうが頑張ってくれると思ったネ」
「残り十人なら十分に切羽詰まってる気もするが……」

 呆れて言った魔術師のそんな言葉はもっともだった。本当にどこまで本気なのか。じとりとダメモンを見つつ、そろそろよさ気なデジカムルに噛り付く。あたしはなぜうんこを眺めながら巨大魚を食しているのだろう。

「あやや、可愛い子にそんなに見詰められちゃ照れるネ」

 あら、あらあら。はたと目が合えばダメモンは後ろ頭をかきながらてへっと笑う。どういう仕組みか頬が赤らんで見えた。成る程、やはり悪い子ではなさそうだ。あたしは背筋をしゃんと伸ばし、既に手遅れな気もしたが残り半分ほどの巨大魚を気持ちおしとやかめにいただいてみる。今度は熊も魔術師も何も言わなかった。ただその目にはどういうわけか哀れみのような色が浮かんで見えたけれど、理由はさっぱりである。さっぱりなので、話題は逸らしておくことにした。

「でも十人しかいないのによくうまいこと会えたよね。結構広いでしょ、この森?」
「目立ってたからネ! 爆発する前からとっても騒がしかったヨ!」

 と言われて熊と魔術師を見る。心当たりがとてもありそうな顔をされた。あたしもあった。ふふ、そうよね。隠れてる最中に騒いじゃダメよね。知ってはいたよあたし。ガスマスクもお越しが早いと思ったよ。

「だからこっから先は、辛いだろうけどちょっとだけ静かにネ。それとも喋ってないと窒息する系の人?」
「どんな系よそれ」
「お前やっぱ馬鹿にしてんな?」
「オウ、誤解ネ! 心配してるだけサ。頑張ってくれないとミーたち絶滅しちゃうもの! 絶えちゃうヨ、ダメモン族!」

 自分で自分をぎゅっと抱きしめて、ぶるんぶるんと右へ左へ全身を振る。そんな動作はあたしのような儚げな美少女であれば様になっただろうけれど、うんこなのでただただ滑稽だった。

「でもデータのカスだろ? 絶えてもそのうちまた沸いて来んじゃね?」

 なんていう熊の暴言は、正直言うなら多少は正論という気がしなくもなくもなかったのだが、清く正しく心優しい勇者であるところのあたしは、本音をそっと胸に仕舞っておくことにした。フォローは特にしなかった。ダメモンが頭を抱えて身もだえした。

「があぁぁーん! オウ、酷いネ! 泣いちゃうヨ? ヨヨヨ!」
「あーあ、泣ーかした」
「ヌヌ君、さすがにそれはちょっと……」
「いや、がーんとか自分で言える時点でまだ全然余裕あんだろ。つーかヌメモン族の逆境に比べりゃ屁でもねーよそんなもん。ヌメモン舐めんなよ!」

 成る程、同族嫌悪か。けれど対するダメモンは親近感すら覚えたようににこりと笑う。その目には親しみと、僅かばかりの哀れみが混じっているように見て取れた。

「オウ……ユーもカス系だったのかい?」
「おい待て、何だその嫌な括りは」
「アッハハ、お互いダメダメネ!」
「一緒にすんな!」

 似たようなもんだと思うな。ぺろりと唇を舐め、小さく溜息を一つ。あたしはおもむろに立ち上がってぱんと手を叩く。話の流れとかは、知ったこっちゃない。

「ごちそうさま。じゃ、そろそろ行きましょうか」
「ぶった切るなあ。いつもながらマイペース……あれ? デジカムルは?」
「ここ」

 ぽぽん、とお腹を叩いてげふーと息を吐く。まあまあだったな。熊がなんだか目を丸くしてみせたが理由はよく分からなかった。そんなことよりさっさと行こうぜ。こんな辛気臭い穴ぐら、食事が終われば長居は無用だ。食べる物も他になさそうだし。
 僅かを置いて魔術師が頷き、杖を振る。途端に火の玉が跡形もなく消失する。タイムラグがあった理由は聞かないことにした。

「それじゃよろしくね、ダメモン!」
「オッケー、ついてくるネ!」

 熊と魔術師から視線を逸らし、ばちこーんとウインク一つをかまして可愛く小首を傾げれば、ダメモンもまた同じポーズで答えて笑う。背中をつつく視線が妙に冷たく感じたのはきっと気のせいだ。ダメモンはあたしを見上げながら洞窟の奥を指差すと、短い足でちょこちょこと駆け出していく。

「なあハナ、本当に信じて大丈夫かあいつ?」

 ダメモンの後に着いてあたしが歩き出そうとした時、不意に熊があたしの肩を叩いた。前を行くダメモンに聞こえないよう声をひそめて、訝しげな顔をする。隣では魔術師もまた同意見だとばかりに眉をひそめる。あたしは熊の肩をぽんと叩き返す。

「カス系って、根に持ってんの?」
「いや、そういう話ではなくてね」

 呆れた風に小さく首を振る。ジョークだっての。へっと鼻で笑い、ひょこひょこと歩くダメモンの後ろ姿を見る。変わり者には違いない。違いない、けれど。

「大丈夫」

 そう言って熊の二の腕を二度三度叩いて笑う。

「って、根拠は?」
「ない」
「いやいやいや」

 きっぱりはっきり言い切れば、予想通りの反応が返る。何言ってんだこの馬鹿は、とでも言いたげな二人にまた微笑んで、あたしは真っ直ぐにダメモンを見据える。

「強いて言うなら勇者の勘、かな。目を見て思ったの、悪い奴じゃないって」

 なんて言葉に、嘘はなかった。つぶらな瞳の奥に灯る確かな意志の光。道化の仮面に隠した悲哀と義憤が、おどけた立ち振る舞いの狭間に見えた気がした。理屈じゃない。ただそう思った。信じたいと、そう思ったから、信じようと、そう思った。

「ハナ……」
「あんな風に振る舞ってるけど、寂しくないわけないし、悔しくないわけないじゃない。曲がりなりにも勇者を名乗るなら、あんな子のために戦ってあげなくちゃ! でしょ?」

 それが、勇者の名とともに戦ってきたあたしの、誇りであり責任なのだから。迷いなく、真っ直ぐに、言い放ったあたしに、熊と魔術師は一度だけ顔を見合わせて、微笑を浮かべて頷いた。

「わかった。あいつを信じるハナを、オイラは信じるぜ!」
「ああ、私もだ。僅かでも疑いを持った自分を恥ずかしく思うよ。君の気高い心に、私も殉じよう」
「二人とも……!」

 晴れ晴れとした顔で互いに頷き合う。心が選んだこの道に、後悔はない。

「どうしたネ、行かないの?」
「ううん、なんでもない。今行くから!」

 振り返って首を傾げたダメモンに、あたしたちは揃って笑い、駆け出した。走り出す間際に拳を合わせ、また笑う。あたしを信じると言ってくれたこの二人を、あたしも信じよう。どんな困難も、あたしたち三人ならきっと乗り越えていける。確信にも似た思いを胸に、薄明かりの洞窟を進んで行く。
 そうして、小一時間。
 蟻の巣のように複雑に入り組んだ道を抜け、やがて視界に淡く光が差す。信じて歩んだその道の先に辿り着く決戦の地。勇者としての使命を果たすべきその地へと足を踏み入れて――そしてあたしは、その光景に目を見開くのであった。




 剥き出しの岩肌、時に細く、時に低く、道とも呼べない道はまるで、ここに至るまでの困難を暗愉するかのよう。まさに勇者の旅の縮図とでも言うべき暗がりの道を進み、進み、あたしたちはそこへと辿り着く。
 巨大な壷の中、とでも形容すべきか。半球を縦に伸ばしたような独特の形状。建物でたとえるなら四、五階に相当する高さ。壁際には数本の太い柱が立ち、それを支柱に中央が吹き抜けになったドーナツ状の床板が段々に並び階層を形成する。
 先程差し込んだ光はそこかしこに灯る松明の火。窓もない洞窟の中だが真昼のように明るかった。

 周囲を見渡して、見回して、ほう、とあたしは息を吐く。無表情の熊と魔術師を順に見て、うんと頷く。まあホントは熊は無表情なのが正しいんだけどね! って言ってる場合じゃないや! てへっ!

「うきゃーっきゃっきゃっ! YO! よく来たな! 待ってたZE!」

 沈黙と静寂を無造作に引き裂いて、あまりに場違いな音量とノリでそう叫び、唇を剥き出して猿はおかしなポーズを決めてみせた。
 猿……そう、猿である。何と言うなら間違いなく猿である。上階からスコープの奥に光る両の目であたしたちを見下ろして、なぜだかスニーカーをはめた両の手をびしりとこちらに突き付ける。その容姿は、ピンクのお猿としか言いようがない。前脚という意味なら手のスニーカーもある意味正解か。いや、じゃなくてね。ちがくてね。そんなことはどうでもよくってね。

「ぶひゃひゃひゃひゃ! 来ちゃった? 来ちゃった? ワンダフル! つって! ぶひゃひゃ!」

 なんていう、涙目でよだれを垂れ流しながら明後日の方向に振り切ったテンションで腹を抱えて笑うのは、犬だった。黄色い体で二足歩行の変な犬。大きな目と口の思い切ったディテールは、数世代前のアメコミにでも出てきそう。あたしたちを見ながら隣の猿と仲良さげに笑い合う。犬猿の仲とやらはどうしたのか。いや、そんなこともどうでもよくってね。

「ギャギャギャ! ご苦労だったな、ボスもお喜びになるギャ!」

 まだまだ続いてそんなおかしな語尾で言ったのは、白衣と博士帽の青いミニ恐竜。その言葉に「コフー」となんだか見覚えのあるグロいぬいぐるみが頷いた。

「しっかし随分のんびりさんじゃねーNO? うんこちゃんYO!」

 左から順に猿、犬、博士、ぬいぐるみと来て、そうしてもっかい猿。右腕を掲げ、片脚でくるりと一回転してから、左手でこちらを指差した。スニーカー履いて指見えないけど多分そんな感じ。こちらというかまあ、明らかにダメモンに向かって言っていた。あたしはゆっくりと息を吐き、肩をすくめる。チェケラなチャラい猿と、アメコミな黄色い犬と、ギャギャギャな青い恐竜博士と、やっぱりどっかで見たポッキュンと、その横にあたしたちを取り囲むようにぞろりと並ぶガスマスク軍団とを順に見て、ふと笑う。その手には黒々と鈍く光る機関銃らしきもの。銃口は一つ残らずこちらを向いていた。ぎぎぎと首を捻ってダメモンを見る。深く、息を吐いた。ねえ、と笑顔でダメモンに語りかける。

「お友達?」

 状況がよくわからないのでとりあえず聞いてみた。本当はだいたいわかっていたけれど、現実はまだ直視できない。ダメモンがいい笑顔で頷いた。

「まあ、そんなようなもんかナ!」

 ぴょいーんと小さな身体で大きく跳ねて、そのまま猿たちの元へと駆け寄っていく。去り際にダメモン、もといクソうんこ野郎は力強く親指をおっ立ててみせた。

「てわけで三名様ごあんなーい! 後はグッドラックネ!」

 あたしは熊を見て、魔術師を見て、おもむろに右手を右側頭部へあてがう。続いて同様に左手を左側頭部へと添え、両足は四股でも踏むように大きく開く。あらやだはしたない。そっと、上体を反らして、高い天井を見上げて大きく口を開く。肺と声帯を振り絞るように、魂の雄叫びを上げる。だ……、

「騙されたああああぁぁぁぁーー!?」

 おおぉう、まいごっど! なぜなのほわーい!?

「ハナくぅーーん!?」
「勇者の勘どうしたああぁぁ!?」

 それについては本当にごめんとしか言いようがない。ごめんね。てゆーか空気読んでよ! なんかいける流れじゃなかった!?

「アッハハ、こんな怪しいの信じちゃダメダメネ!」

 おっしゃる通りですね!

「くっ、まんまとしてやられたわ! ねえ!?」
「あ……おお、恐ろしい罠だったな!」
「そ、そうだね……!」

 敵ながらあっぱれ、みたいな顔で同意を求めれば、一拍遅れて熊と魔術師がぎこちなく首を縦に振る。責任の所在を問うても無益であると気付いてくれたのだろう。ノーガードで殴り合うようなものである。一回納得したじゃんね。

「で、どうしよっか?」

 だが今更悔やんでも落ち込んでも仕様がない。高速の切り返しであたしは前を向く。どんまい、あたし。次は気をつけよう!

「どう、って言われてもな……」
「さすがに多勢に無勢か……!」

 無敵の暴走熊と困った時の魔術師様。こんな状況でもきっと何とかしてくれる、と期待を込めて聞いてみるも、返って来たのは何だか頼りのないお返事だった。あれあれ。

「ちょ、ちょっと? なんかあんでしょ? え、ないの?」
「なくもないが、一か八かだな……」

 頬に汗を一筋、じりじりと熊が擦り足であたしとの距離を詰める。だが、その瞬間。一体その頭のどこに汗腺があるんだとか馬鹿を言う間もなく、瞬きよりも速く電光が閃いた。あたしたちの爪先をかすめて岩肌を焦がす電撃。一呼吸も遅れて射手を捉えれば、当の猿は歯列を剥き出しに嫌らしく笑う。

「うっきっき……妙な真似ぁすんじゃねーYO? 命が惜しけりゃな! イエア!」

 唇を尖らせて腰を振る。殴りたいけどできそうもないのがとても悔しい。猿のスニーカーの爪先には火花が散る。魔術師が熊を制止するように首を振り、エセラップ猿を睨み据えた。

「ターゲットモン……索敵能力に特化したデジモンだ。下手なことはしないほうがいい」

 静かに言ったその声には焦りの色が滲む。索敵、ターゲット――こちらの一挙一動までお見通しというわけか。ん? ターゲット?

「ヌヌ君、君だけならともかく……この状況での強行はハナ君が危険だ。どういうわけか向こうも仕掛けてこないし、少し様子を見よう」
「……くそ、しょうがねえか」

 火花を帯びたスニーカーを突き付ける猿と、機関銃を構えるガスマスクたちに、熊は忌ま忌ましげに舌打ちをする。確かにそれはあたしが困るぞ。とっても。あ、いやいや、それも大問題なんだけれども。ターゲットモンという名前に、先程の電撃。まさかとは思うのだが、

「ねえ、あいつってもしかして……」

 耳打ちするようにこそりと問えば、熊はどこかげんなりとした顔で、

「オイラも信じたくはないんだが」

 できれば言いたくもないと、続く言葉を促すように魔術師へと目をやる。魔術師は視線を猿たちから外さぬまま、ゆっくりと頷いてみせた。

「ああ、恐らく先程の狙撃手だろう」

 なんて結論はあたしも聞きたくなかった。嫌な顔で魔術師から猿へと視線を移す。移して、げっそりする。

「「あんなのに……」」

 零れた呟きは熊とハモった。あれに辛酸を舐めさせられていたというのか。あんなふざけたお猿に。苦戦した自分が許せない、とばかりに熊もまた苦虫を噛み潰したような顔をする。そんなあたしたちとは対照的に、猿は口端を吊り上げて一歩を強く踏み出した。

「うっきゃっきゃ! SOさ、そのとーり! オレっちこそが騎士団最強のスナイパー、んタぁぁーーーゲッツモン! 様だZE!」

 くねりくねりと腰を振り、大口を開けて叫びに叫ぶ。何がそんなに楽しいのか、湯気の一つも立ちそうなほどに情熱を燃やす。発情期ですかっての。いや乙女に何言わせんだYO!

「そしてついでだ紹介しYO! クールなグルーブ! ホットなグループ! オウ、イエア! ヘイ、カマン!」

 ずびしっと、吠えた猿が両腕で犬を指す。指された犬は大きな舌をべろんべろんとうねらせて、何がなんだかわからないが得意げに笑う。

「ぶひゃひゃひゃひゃ! ボキね、ボキね、ドッグモぉーン! ぶひゃひゃ!」

 犬がまんまにも程がある名乗りを上げれば、続いてミニ恐竜博士が眼鏡をくいっと上げて前髪をさらりとかき上げる。みたいな動作をする。勿論どっちもないから手は空を切るばかりである。どいつもこいつもなぜに自身のパーツ構成さえ把握できていないのだろう。

「我が名はニセアグモン博士! だギャ!」

 事ここに至ってまだいたパチモンが白衣をなびかせる。だからまずはオリジナルを出せと声を大にして言いたいわけだが、そんなことはお構いなしにグロテスクぬいぐるみが流れるように続く。

「コフー!」

 喋れ!

「イエーイ、ダメモーン!」

 そして最後にうんこが跳びはねる。猿が再びくるりと回り、犬がステップを踏み、博士が両腕を広げ、ぬいぐるみが胸を叩く。清々しいほどに統一感のない決めポーズだった。

「ねえ、思うに今隙だらけじゃない?」
「トループモン以外はな」
「これまだ様子見なきゃいけないのかな」
「そ、そうだね……」

 というかそもそもあたしたちは一体何を見せられているのだろう。冥土の土産的なアレならあたしは閻魔をぶん殴ってでも必ず帰って来てこいつらを塵にする。必ずだ。

「YES! ウィ・アぁぁ〜〜……!」

 そんなあたしの心の内に渦巻く黒い感情もどこ吹く風。猿は奇声を上げながら片足立ちでコマのように回る。一回、二回、そして三回転と半。汚いケツを向けたまま顔だけ振り返り、両腕を大きく広げて咆哮する。

「ザ! ワルモン四天王うぅぅ〜〜〜ゥイェア!!」

 声を揃えて高らかに名乗りを上げる。揃っていたのはタイミングだけだったので一番声の大きい猿以外は何て言っていたのかわからないが、本人たちにも揃える気がないのか構わず気持ちよさそうな顔でポージングを決める。後ろにカラフルな爆煙が見えたのは目の錯覚だろう。どうでもいいけど好きだな四天王。二組目だぞ。てゆーか今五人いたけれども。猿に犬に博士にぬいぐるみに、

「うんこは入ってていいの?」
「オウ!? ノンノン! それじゃ五天ノウ! うんこはノン! 我ら四人で四天ノウ!」

 再びポーズを決める。再び後ろで何かが爆発したような気がしたがやはり気のせいだろう。そして再びうんこが素知らぬ顔で一緒にポーズを決めていたのは気のせいではない。よくわかんないけど仲良いなお前ら。

「とにもかくにもヘイユー! なにはともあれ幽閉! オウケイ?」
「ユーヘー? あ、幽閉? え、捕まるの、あたしたち?」
「ギャギャギャ、我らがボスはお前たちに用があるそうだギャ。ボスがお戻りになるまで大人しくしていてもらうギャ」

 怪しいラップ口調に若干うんざりしながら問い返せば、今度は博士が皮肉げににやりと笑う。ギャギャギャ口調のがよっぽど会話がスムーズだな。だがヘイユ……じゃなくて幽閉か。どうやら妙な真似とやらをしなければこんな状況で一戦交えなくても済みそうだが、さて、

「くそ、どの道ピンチなら今やるか?」
「いやいや、だからそれあたしが一番ピンチだし」
「確かに、ここで分の悪い賭けに出るよりはまだ望みがあるかもしれない。僅かな望みだが……」

 そう、声をひそめて短く言葉を交わす。今死ぬか後で死ぬかというくらいの選択肢でしかないのかもしれない。かもしれないが、あたしは熊の二の腕を引っ張って言う。眉根はきりりと吊り上げる。

「ヌヌ、あたし、蜂の巣、やだ」

 ぐいぐぐいぐい、と。四度引っ張って四言で簡潔に理由を述べる。二対一だぞと表情で言い足しておく。あたしと魔術師とを交互に見て、少し、熊は肩を落として溜息を吐く。

「ハナって勇者な時とそうじゃない時の落差でかいよな」

 などと両手を上げながらもう一度溜息を吐いてみせる。続く言葉の半分はあたしにも言ったのだろう。

「わかった、オイラたちの負けだ。投降する」
「オーウ!? ヘイヘヘーイ! 諦めいいな! ノリは悪いな! 根性見せろよチキン野郎!」
「いやお前さっき妙な真似すんなって……」
「ハッハー! まあいい! もういい! チキンに興味はねえ! 後は任せたZE、ポッキュン!」

 熊の言葉を遮るように鼻で笑い、片手でぺしりと頭を叩いて肩をすくめる。そんな猿には熊でなくともムカついたが今は我慢するしかなかった。奇跡的にポッキュンのあだ名がシンクロしていたがそんなこともどうでもよかった。

「ふ、二人とも、今は堪えて……」

 などと魔術師になだめられる辺り、あたしも熊も相当な顔をしていたのだろう。あの猿いつかぎゃふんと言わせてやる。本当に言う奴いたのかってぐらいはっきりぎゃふんと言わせてやる。絶対言わせてやるからな!
 武器を取り上げられ、銃口突き付けられてガスマスクたちに連行されながら、あたしはそう心に誓う。今の自分の姿が勇者にあるまじき情けなさであることは自覚できていたが、それはともかく心に誓う。絶対だ! 絶対だかんなぁ!
 魂の叫びは、ただただ虚しく心の内に反響した。




 ガスマスクたちに銃口でごりごりと背中を押されながらアジトを下へ下へ。やがて、通路に申し訳程度の松明が点るだけの薄暗い地下牢へと連れてこられる。暗すぎて奥行きもわからない牢へと押し込まれ、あたしはガスマスクたちに見えないようにあかんべーをする。抵抗の仕方があまりに幼稚だったが今はこれで精一杯である。

「コフー」

 とだけ言って牢の扉をがしゃりと閉めたガスマスクにもっかい舌を出す。あいつらの指揮系統どうなってんだろ。本人たちは意思の疎通ができているとでもいうのか。

「さて、とりあえず蜂の巣にはならずに済んだけど……」

 牢の格子の両脇が見張りの定位置なのだろう。機関銃を構えたまま二人のガスマスクがあたしたちに背を向けて立った後、熊は鎖された牢の格子を感触を確かめるように軽く叩く。二度三度叩くと頭を掻いて、ガスマスクたちに聞こえないよう声をひそめる。

「かてーな。こじ開けんのは骨が折れそうだ」
「え? 今の腕力でも?」
「ああ、ただの金属じゃねーなこりゃ」

 ひっそひっそと言いながら、もう一度格子を小突いて小さく首を傾げる。そんな熊を横目に魔術師は格子を指で撫で、ふうむと唸る。

「恐らくクロンデジゾイドだ。純度は低いようだが」
「黒ゴマdeリゾット?」
「クロンデジゾイドだ。高硬度の希少金属だよ。お腹が空いているのかい?」
「小腹は少し。で、よくわかんないけど、壊せないの?」

 熊同様に格子を叩いてみながら聞いてみる。叩いたところでどんな金属かなんてわかるはずもないのだが、感触や見た目はただの鉄の棒でしかなかった。体長三メートルの化け物を空高くぶっ飛ばせる腕力があれば簡単にひしゃげてしまいそうだ。熊は格子を握って小さく唸る。どうやって握ったのだろう。

「壊せなくはないだろうけど……」
「止めたほうがいい。またすぐに囲まれてしまうだけだ」
「ああ、どこをどう逃げりゃいいかもわかんねーしな」

 と言って頭を掻きむしる。成る程、確かに。こんな鉄塊を一生懸命ぶっ壊している間、お好きになさいとほったらかしておいてくれるはずもない。見張りはほんの数メートルの距離、すぐそこにいるのだ。それに、あの塞がってしまった地底湖の入口以外に、あたしたちはこのアジトの出入口を知らない。おまけにあたしをこん棒を、魔術師は杖を取り上げられてしまっている。熊だけ何も取られていないのは納得いかないが、だからと言って何を取り上げるのかはあたしにもわからないので仕方がない。ともかく、仮に牢をぶち破ったところで武器もなく当てもなく、ただ闇雲に逃げるしかできないわけだ。

「ねえ、魔法って杖がないと使えないの?」

 いつまでも格子ばかり眺めていてもしょうがない、と。見張りを二度三度見て、少しでも離れておこうと牢の奥へと腰を下ろす。これ以上近くでやましい話をすることもない。ちょいちょいと二人も手招きし、そうして手ぶらの魔術師に問えば、半ば予想はしていたが苦々しい顔で首を振られる。

「使えないことはないが、時間がかかる上に精度も低い。壁に穴を空けるにしても開通する前に気付かれてしまうだろう」

 呪文唱えたらびかびか光るしね。まさに八方塞がりか。正攻法では手がないな。正攻法、では。

「そんじゃあやっぱり、鍵探して来てもらうっきゃないね」

 となればやはり方法は一つだろう。熊の肩をぽんと叩けば、間抜けな顔でぽかんとされる。ぴんとは来ていないようだった。

「え? オイラ? どうやって?」
「ハナ君、何か考えがあるのかい?」
「ふ、このあたしが無策で捕まるわけないでしょ。ヌヌ、あーんして」
「あーん? え、こう?」

 戸惑いながらも言われるままに、熊は大きく口を開いてみせる。あたしは人差し指を口元にそっと添え、もう一度見張りを見る。こちらを見てはいない。牢の中も薄暗い。今なら大丈夫だろう。

「しばらく静かにね」

 とだけ言って、熊の口へ躊躇なく片腕をずぼりと突っ込む。

「もがっ!?」
「しー。黙って」

 思わず声を上げた熊の腹の上に片足を乗せ、左手で肩をつかんでなおも右腕を奥へ奥へと突っ込んでいく。どうしようもなくなった腹いせに熊に八つ当たりとかでは決してない。

「うわ固っ。ちょっとなにこれ、癒着してない?」
「ハ、ハナ君? 一体何を……?」
「もががががぁ……!」

 白目を剥いてよだれを垂らしながら、大口を開けてびくんびくんと痙攣する熊。その熊の口に右腕を肘まで突っ込み、つかんだそれを力の限り引っ張り続けるあたし。そしてそんな様子にただただ狼狽する魔術師。絵面が間抜け極まりないのは分かっていたが、それは今に始まったことでもないので一先ず気にしないことにした。端から見ればカオスな状況だったろう。

「ん〜……しょっと!」
「ぉぷふんっ!」

 たとえるなら、何重にも重ねて貼って数日寝かせたガムテープを無理矢理引っぺがすような。べりべりべり。ぶちぶちぶち。なんて、生き物の体からはしちゃいけない音を上げながら、やがてそれが熊から引っこ抜かれる。口から飛び出す様はすごい勢いの固形のゲロみたいだった。力を込めすぎたせいで熊の体が吹っ飛んで転がって壁に激突したが、それは一先ずよしとしよう。めり込んだ靴底の跡がはっきりお腹に刻まれてなんかあたしが蹴り飛ばしたみたいな感じになったが、それもよしとしよう。

「コフー!」

 まあ、さすがに騒ぎすぎたせいで見張りも振り返り、他のガスマスクたちも慌てて様子を見に来てしまったが、それはよしとしたくともできないだろう。あたしは咄嗟に手に持ったそれを暗がりに放り投げ、壁際でぐったりする熊に飛び掛かる。

「うおおぉぉー! この穀潰しめぇ! こうしてやる! こうしてやるぅ!」
「コフ!?」
「コーフー!」

 胸倉をつかんでがくんがくんと揺さ振る。前後に揺れる熊の頭が繰り返し壁を叩いた。胸倉というがあたしはどこのパーツをつかんでいるのだろう。それはともかく、荒ぶるあたしにガスマスクたちは困惑し、コフーコフーと互いに何かを言い合う。ついでに魔術師もずっと口を開けて呆けたままだった。

「あたしの人生返せえぇぇー! うおおおお!」
「コフー……」

 あたしの雄叫びに、ガスマスクが若干おろおろしながら格子を軽く小突く。肩を叩く的なあれだったろうか。表情なんてないのに可哀相なものでも見るような顔をされた気がした。

「うおおー!」

 勇者のご乱心。仲間割れ。そう思ったのだろう。顔を見合わせ、首を振り、やがてガスマスクたちは各々の持ち場へと戻っていく。このあたしの、主演女優賞確実な迫真の演技に……!

「ふう、どうやらごまかせたようね」

 ガスマスクたちが立ち去り、見張りがこちらから視線を外したのを見届けて、声をひそめながら額の汗を拭う。やれやれ、少し熱が入りすぎてしまったか。人生返せはまあまあ本音だったが、ともあれバレずには済んだようだ。もう少し、声のトーンを落として暗がりに呼び掛ける。

「ヌヌ。いいよ、出ておいで」
「やれやれ……内臓引きずり出された気分だぜ」

 などとたわけたことを抜かしながら、闇の中より緑色の物体がぬるりと這い寄る。誰あろう、奴である。魔術師がわなわなと唇を震わせた。

「ほ、本当に着ぐるみだったのか。まさか成熟期に戻るだなんて……」
「え、普通はできないの?」
「ありえないことだよ、普通なら」

 普通、を互いに強調しながら、普通じゃないそれを見る。そう、そこにいたのは熊から引っこ抜かれた内臓そのもの、なんだか久しぶりに見た気がする緑の巨大ナメクジ・ヌメモンである。あたしは自分の右手に視線を落とし、ゆっくりと掌を閉じては開く。ヌメヌメをつかんだその手を抜け殻となった熊の肩でそっと拭き、変わらぬぬめり具合にうんと頷く。闇に紛れて壁を天井を自在に這い回る、まさに今この瞬間のために生まれてきたかの如き生態である。

「まあいいわ、戻れたんだし。さあヌヌ、今こそその存在意義を示すのよ」

 力強く親指を立て、有無を言わさぬ目力で微笑みかける。ヌヌはどこか苦々しく笑い返してみせた。

「成る程な……確かにこれならぶっ壊さなくても出られるけど。なあ、ヌメモンの戦闘力がどんな程度かとかもちゃんと計算に入ってる?」
「全然」
「ふ、ハニーのそういうとこ嫌いじゃないぜ」
「ありがとう。じゃ、行って」

 びしりと牢の外を指差して、力強く頷く。せめて武運を祈っているわ。魔術師もそれに続く。そう、望みはこのヌメヌメへと託されたのだ。仕方がなく。

「ヌヌ君、できればアジトの構造も探ってくれ。見取り図が手に入ればなおいい」
「やるってまだ言ってないんだけど……くそ、他に手もないか。何で戻れちまったんだ」

 ぶつぶつと零しながらにゅるりと熊の肩に手をかける。貧乏クジ引いたみたいに言いやがって。旅立ったあの時から当たりクジなんて一個もないっての。ヌヌは熊の肩越しにそろりと牢の外を覗き、ゆっくりと振り返る。爽やかに微笑み、たわけたことを抜かしてみせた。

「ハナ、ハナ。めっちゃ怖い」
「いいから行けっての。みんな死んじゃうでしょーが」

 目玉の間をつかんで塗り込むように壁にぐいっと押し付ける。緑の軟体はいとも容易くその形を変え、壁へと張り付く。はい、いってらっしゃい。ふぁいと。

「退くも地獄、進むも地獄か……」

 一度だけ恨めしそうに振り返り、そんな言葉を吐き捨ててヌヌは見張りの死角となる天井へと上っていく。やれやれ、今頃気付くなんてどうかしてるな。ずっと地獄だよ!

「ハナ君……心配ないよ、ヌヌ君なら。信じて待とう」

 明かりの届かない高い天井の暗がりへヌヌの姿が消えた後、天井を見据えたまま険しい顔をするあたしに、魔術師は優しい声でそう言ってくれる。心配というとちょっと違った気も大分するが、水を差すのも何なのでノリは合わせることにした。あたしは無言で頷いて、もう一度視線を戻す。食糧庫も探しといてって言い忘れたな。それはともかく頼んだよ、ヌヌ。あなたがあたしたちの、最後の命綱なんだからね……!
 思わず熊の二の腕をつかんだその手に、知らず力がこもる。危険は百も承知している。だが、それはあたしたちも同じ。大人しく捕まったお陰か今は拘束も見張りも甘いようだが、ヌヌが見付かればそうもいかなくなるだろう。熊の腕力で真っ向勝負という、最後の選択肢を半ば捨てたに等しいこの作戦。魔術師もヌヌも口にはしなかったが、失敗すれば後はない。
 深く大きく息を吐いて、あたしは牢の隅へと静かに腰を落とす。もはやじたばたしても仕様がない。ただ待とう、魔術師の言う通り。独りぼっちの戦場へと発った小さな勇者の、その帰りを信じて――




 にゅるり、と。微かに聞こえた妙な音に、牢の前に立つトループモンがはたと天井を見上げる。だが、そこに見えたのはいつもと変わらぬ石造りの天井。少しの間だけ辺りを見回して、変わらぬ囚人たちの姿を確認し、トループモンはふいと視線を戻した。気のせいか。とでも言わんばかりの動作だったが、言語機能を持たない彼らが実際にそんな言葉を口にすることはなかった。機関銃を構え直し、再び命令通りに待機する。
 トループモン――それは与えられた命令だけを忠実に実行するアンデッドデジモン。特殊ラバースーツに覆われたその身体は、実体を持たない純粋なエネルギーの塊だけで構成されている。命を持たず、意志を持たず、感情を持たない彼らは創造者の傀儡に過ぎないのだ。意思の疎通と自己判断のために最低限の自我は与えられているものの、基本的に彼らの行動が創造者の命令の範疇を越えることはない。こんな場面の「気のせいか」が気のせいなわけないことさえも、命令になければ夢にも思えないのである。

 へ、この能無しの大間抜けどもが。なんて、そんなトループモンたちを天井の石と石の隙間から見下ろして、緑の軟体生物ことヌヌは声を上げずに嘲笑する。内心びくびくしながら張った精一杯の虚勢であった。作戦決行から僅か数秒で迎えたピンチに、胸が跳ねるように高鳴る。音を立てずに這うなどジャングルではやる機会もなかったことだ。つい油断して粘液の滑る音を立ててしまい、早々ともう駄目かとも思ったが、どうにか咄嗟に石壁の隙間へ潜り込むことで事なきを得た。目玉とか歯とか絶対入るはずもないと思ったが、なんかどうにかなった。こんな状態でどこの臓器がどきどき言っているのかは疑問だが、それはともかくヌメモンってすごい!
 自画自賛をしながら隙間をにゅるにゅると進んでいく。ずっと誰も何も突っ込んでくれないこの孤独には少しめげそうにもなったが、こんなことで諦めたらあの世でもう一回殺されそうな気がするので頑張ることにした。

 牢を後にして十数分。壁の中の隙間を潜航し、やがて人気のない薄暗い廊下に出る。さっきから自分の身体は一体どうなっているのか。気にならないと言えば嘘になるが、別に現状不利益も不調もないので一先ずそれは横へ置いておく。
 通路を見渡して、思案して、どうせどっちへ行けばいいかなんてわかんないことに気付いてやっぱり適当に進みだす。右へ左へ上へ下へあちらへこちらへと、思った以上に広大なアジトの中をひたすらにぬめり回る。構造を探れと言われたが今来た道すら既に怪しかった。どこにあるかわからない見取り図にも期待はできないだろう。だからせめて出口へのルートくらいは覚えて帰ろう。でないと明日はない。
 とりあえずは探り回ることを止め、先に外へ出てみることにした。壁も無視して真っ直ぐに進めばさすがにいつかどこかには出られるだろう。再び潜航を開始する。壁を前にするとさっきはどうやって入ったのかと多少戸惑ったものの、やってみたら普通にまたできた。ここに来て目覚めたヌメモン族の新たな必殺技か。リキッドストライク、パケットトランスミッション、デジ忍法・壁抜けの術、石の中にも三年(ストーンダイバー)、レボリューション・ザ・リバティ〜自由への飛翔〜――さて、どう名付けたものか。
 うん、と頷く。やはり突っ込んでもらえないのは寂しかった。今どうやって頷いたっけ。とかなんとか考えていると、やがて前方がうっすらと明るくなってくる。どうやらどこかへはついたようだが、しかし外はそろそろ夜のはずだ。明かりが見えるということはまだアジトの中か。慎重に、そろりと目玉を壁からぬめり出した。

 にゅっと飛び出た目玉で辺りを探る。これぞまさに壁に目ありである。それはともかく何やら広々とした部屋だった。よくわからない機械類が無造作に置かれ、よくわからない書類がそこらに散らばり、よくわからない博士が何かをしていた。結局ほぼ何もわからないが、そこにいたのがニセアグモン博士と名乗った四天王の一人であることだけは辛うじて覚えていた。こいつ自体もよくはわからないが、所詮は成長期であるアグモンの亜種だろう。他の幹部たちはいないようだし、こいつだけなら成熟期たるこのヌメモン様の敵ではない。いやでもこっちも所詮はヌメモンだしなぁ。所詮は言い過ぎた。それにあいつら火とか吐きやがるしなぁ。成長期の癖に生意気だ。
 少しの思案。よし、と壁の中で粒子状のまま拳を握る。
 やめるか。そうだな、やめよう。そうしよう。ふはは、命拾いしたなこの三下が! 今日のところは見逃してやるぜ!
 物音一つ立てず、微動だにせず、心の中だけでそう言い放ち、また大人しく様子を見る。

 ギャギャギャ、なんて時折呟きながら部屋の中を忙しなく動き回る。そんな博士の動向を見守っていると、ふと部屋の奥で動くものが目に留まる。オイラも語尾にヌメとか付けてみたら可愛いかな。とか思いながら何気なく眺めていると、やがて薄闇の中でうごめくその姿がはっきりと見えてくる。
 最初は何かの機材だと思った。だがすぐにそうではないことがわかった。ひい、と思わず情けない声が出そうになる。目玉以外が原形を留めてもいない状態だったお陰か、幸いにも声は漏れずに済んだが。
 悲鳴を飲み込んで、緑の粒子生物は静かにその場を後にする。




 身体検査の類いはなかった。目に見えてあからさまな凶器を取り上げたことで安心したのか、あるいは隠し持てる程度の武器では丸腰と変わらぬとでも思ったのか。どちらにせよその甘さが、このチャンスに繋がったのだ。
 ヌヌが牢を出て、既に数時間が経っていた。来たる戦いに備えての体力温存、というこれ以上ない大義名分の元にたっぷりめの仮眠を取り、目を覚ましたのがつい先程のこと。窓もなく時計もなく、正確な時間はわからないが、恐らく外はじきに夜明けだろう。もう、ヌヌの帰りを待つ猶予はなかった。あたしは、行動を起こす決意を固める。
 そっと懐を探り、忍ばせておいたそれを取り出す。看守の目を盗むため、熊の抜け殻の陰に隠れる位置に腰掛けて。昨晩から見ているに、どうにも看守たちは中のあたしたちより外からの敵にでも警戒しているようだったが、用心するにこしたことはないだろう。まだ仲間がいると思っているのか。この幽閉もその辺りが理由だろうか。何にせよ、あたしとしてはここが好機。
 音を立てぬよう慎重に、厚めの包み紙を開いていく。見付かったとしても奴らが牢に入るより早く事を済ます自信はあったが、できるなら騒ぎを起こしたくはない。一折り、二折り、細心の注意を払う。高鳴る心臓を押さえ、息を飲み、ベージュの包み紙から姿を見せたそれを、震える指でゆっくりとつまむ。そろり、そろりと口元まで運び、そうして――ぱくりとくわえる。

「何やってんの……?」

 そんな声が聞こえたのは壁の中からだった。心臓が打ち上げられた鮮魚のように跳ねる。今まさに食べかけた干し肉を落っことしそうになった。慌てて干し肉を押し込み、ついでにそのまま声を上げそうになった口を塞ぐ。
 んごご。ヌ、ヌヌか、この声は……。驚かせやがって。
 ばくんばくんと高鳴る胸を押さえ、むしゃりむしゃりと干し肉を咀嚼し、そろりそろりと声のしたほうを見る。

「何でこの状況で小腹が空くんだよ」
「うるさいなぁ、もう。どんな状況だってお腹は……」

 振り返りながら声をひそめてそう返し、そうして、声はすれども姿の見えないヌヌに首を傾げる。

「あれ?」
「ヌヌ君……かい?」

 こっそり干し肉を頬張るあたしになぜだか言葉を失っていた魔術師もまた不思議そうに名前を呼ぶ。こつん、と壁を叩く。その瞬間だった。にゅぷるん、と壁から滲み出た緑のゲル状物体が瞬く間に巨大ナメクジへと形を変え、とてもフランクに片手を挙げてみせたのは。

「おう、ただいま」

 あたしは、当然の如く叫ぶ。

「ほぎゃああぁぁぁお!?」
「コフ!?」

 そして当然の如く看守に気付かれる。
 わざとか!? どんな登場の仕方だこのゲル野郎! てゆーかしばらく見ない間に何がどうしてそうなったぁ!?
 とかなんとか突っ込みたかったが突っ込むわけにもいかなかった。魂の雄叫びを飲み込んで、あたしは必死に脳みそを回す。どうする。もう叫んじゃったぞ。不信がられる。見付かる。かくなる上は――!

「終わりっだあああぁぁぁおお!」
「ハ、ハナ君!?」
「コ、コフぅ!?」

 言葉を変えて吐き出す叫びは天井の暗闇に向けて。

「あおぉぁぁん! おしまいだぁ!」

 吠えながら左手は熊の首元へと伸ばす。胸倉なんてないけど胸倉と思しき辺りの生地を無理矢理つかむ。相も変わらず猛りながら右拳をしかと握りしめる。ぎちぎちと、骨と筋肉の軋む音が聞こえた気がした。左手でしかと標的を捉え、えぐりこむように、

「にゃああぁぁ! こんにゃろおぉぉ!」

 打つべし! 撃つべしっ! 討つべぇし!
 奇声を上げながら熊を殴打する。どうせ中身はないから遠慮はいらない。拳ががらんどうの着ぐるみにめり込む。当たり前だが熊は無抵抗にぐったりしていた。

「うおおぉぉぉ!」
「ハ、ハナ君! 落ち着くんだ! ヌヌ君のせいじゃない!」

 さすがに二度目ともなれば魔術師は察してくれたらしく、慌てた風な演技でそう止めてくれる。少し間があったのと声色が演技に聞こえなかったのは若干気になったが、それはともかくグッジョブである。あたしは鼻息を荒くしつつも歯を食いしばり、魔術師の制止にどうにか怒りを押さえ込む。みたいな演技で殴打を止める。

「コフー……」

 小さく息を吐いて再び見張りに戻ったガスマスクを見るに、どうやらまた上手くごまかせたらしい。ごまかせたとしたら彼らからあたしはどんな風に見えているのだろう。まあいいや。

「なあ、他にごまかし方ないの?」

 なんてたわけたことを抜かすのは熊の陰にへばり付く緑のゲルだった。あんたが普通に出て来たらごまかす必要もなかったんだけどね。お陰で熊さんボッコボコだよ。ったく。

「で、成果は?」

 小さく咳払いをしてぽそりと問えば、途端にヌヌは表情を引き締めてみせた。久しぶりに見たけどやっぱり決まってないなその決め顔。

「ああ、十二分だ。とんでもないもん見付けちまったぜ」
「とんでもないもん?」
「そうだ。聞いたらオイラの有能さに眩暈すらしちまうだろうぜ」

 誉めろ! とでも言いたげにわかりやすく調子に乗る。あたしは真顔で返してやる。

「よくわかんないけど勿体振ってないでさっさと言いなさいよ。ちょっとオチは見えたけど」
「オチとか言うなよ。ないから、そんなもん」

 否定すればするほど前フリに思えてくる。ボケますよ、さあボケますよ! とでも言ってるみたいで、何だか見てらんないような、このまま泳がせて滑り散らすところを見たいような不思議な気分だった。

「いいか、聞いて驚け」
「はいはい」

 一拍、二拍、三拍とたっぷり溜めて、ヌヌは真剣な顔でこう言った。

「“黒い歯車”の工場を見付けたんだ」

 そんな言葉に、あたしと魔術師は顔を見合わせる。少しを置いて、真顔で頷き合う。

「微妙ね」

 一旦逃げるならそのついでの嫌がらせに荒らしていってもいいかもしれないが、どうせ最終的にはまとめて潰すつもりだったわけだし。今急いで向かうほどの場所でもないな。
 七点くらいね。百点満点で。せめて派手にボケなさいな。そしてあたしの期待を返しなさいな。

「いやいや、待ってくれ。違うんだ。そんだけじゃなくてだな……!」

 期待したのと大分違ったらしい反応に、慌てて左右にぷるぷる震える。首を振ってる的な動作だったかそれは。一度だけ看守を横目に見て、気付かれないであろう程度に精一杯の声を張る。

「デジモンが捕まってんだよ。助けなきゃだろ? 勇者的には」

 勇者、の辺りを強調し、ほうら大変だとでも言わんばかりに目を見開く。瞼ないからずっと全開なんじゃないかという野暮な突っ込みは置いといて、確かにそう言われてしまうとほっとき辛いな。

「我々の他にも捕虜がいるのかい?」
「捕虜っつーか、いや、よくわかんねーんだけど、とにかく酷い目にあってる奴らがいるんだよ」
「なんだかふわふわした情報ね」

 とは言え、それが本当なら本格的に反撃する前にどうにかしてやりたいところではあるな。オーガたちの時は奇襲でほぼ壊滅まで追い込んだから人質を気にする必要もなかったが、こんな状況になってしまっては気にしないわけにもいかないだろう。うん、嘘。あん時は人質忘れてた。

「数は?」
「確認しただけで八。他にいるかはわかんねえ」
「それなりの数だね……」

 ここが戦場になれば巻き添えになる危険も大いにある。うちの主戦力は戦いとなれば周りがいまいち見えなくなってしまうバーサーカーだし、どうにか先に逃がしてはやりたいが。しかしそのためにあたしたちが倒れては本末転倒だ。いや、見捨てたいとかそういうんじゃなくてね、森一帯にガスマスク軍団が配備されているのはわかっているし、ただ逃がしたところで危険であることに変わりはない。こういうシチュエーションなら他の奴らも逃がしてその混乱に乗じて、というのがセオリーだが、それって要は自分が逃げるための囮だしね。助ける、となると中々に難易度の高いミッションになるだろう。まったく、勇者は辛いな。

「どうするんだい、ハナ君?」
「ほっとくわけにもいかないでしょ」
「おお、さすがハナだぜ」

 凛々しい顔で答えて頷く。ふふ、そう褒めるな。さすがあたしはわかっているとも。

「それで、具体的にはどうするんだい?」
「とりあえずこっそり工場まで行ったら人質連れて一旦退却。歯車持ってなきゃそう簡単には追跡されないでしょ?」
「それは……そうだが。しかしそう簡単には……」

 眉をひそめた魔術師に、あたしは小さく頷いて、熊の肩を叩く。

「わかってる。で、ヌヌ」
「お? オイラ?」
「うん、ちょっと暴れて」
「うん?」
「その隙にあたしたち脱出するから」
「おう……え? あれ? ええ!? オイラ囮? おいてきぼり!?」

 軟体をめにょーんと伸ばしてびっくらこく。人聞きが悪いな。何だ今の擬音。

「時間稼ぎよ。安全な場所に逃げるまで引き付けてくれるだけでいいから。てゆーかあたしのこと気にしなきゃ普通に勝てるでしょ?」
「ふむ、確かに屋内ならあの狙撃も意味をなさないだろうしね」
「お、おお、そうか。そうだな。……そうか?」
「大丈夫だって。やばくなったら逃げていいから。羽あるんだし」

 なおも納得はしていないヌヌに、あたしはうんと頷いて話を終わらせる。はい、作戦会議終了。
 出鼻を大分念入りにくじかれたが、ともあれ勇者としての戦いを、ここから始めるとしよう。何も見過ごしやしない、誰も見捨てやしない。そんな、勇者の戦いを。さあ、反撃開始だ。

「じゃ、まずはここから出ましょうか。ヌヌ、鍵出して」
「鍵?」
「ん?」

 お寄越し、と手を出せば、どういうわけか首を傾げられる。沈黙。一秒、二秒、三秒を置いて、ヌヌはぽんと手を打つ。

「あ、そっか。オイラ鍵探しに行ったんだっけ」

 そんな戯言にあたしは、穏やかに笑って魔術師の肩を叩く。

「ねえ、ゲル状の生き物にも効く拷問的な魔法とかある?」
「いやいやちょっと待ってごめんごめん違うの。いやあのね、壁ん中通れたからね、ついね?」
「ふむ、無難なところで火あぶりはどうだろうか」
「ウィザーモンまで!?」

 段々ノリがよくなってきたな。毒されたか。ごめんよ。

「わ、わかった、悪かった。すぐ探してくるから、もうちょっと待ってて?」
「いやもう朝だし」

 あんたに期待したあたしが馬鹿だったよ、と溜息を吐いて頭を抱える。あたしの出鼻はべっこべこだよ。さっきの作戦会議なんだったんだ。べちょりと再び壁に張り付く緑の背中に肩をすくめて、そうしてふと、その軟体に光る何かが目に留まる。

「あれ?」
「ん、何だハナ? え、まさか火あぶり?」
「いや、じゃなくて……」

 それがお望みならやってやるのもやぶさかではないのだけれども、そんなことじゃあなくってね。あたしはヌヌの背から突き出たそれを指先でこつんとつつく。明らかに軟体と異なる感触。そっと、指でつまんでみる。

「ねえ、これ」

 ぬちゃりと、それはいとも容易く軟体から引き抜かれる。気ん持ち悪っ。振り返ったヌヌの目玉の前に突き出せば、魔術師もまたそれを覗き込む。大きさはあたしの人差し指ほど、鉛色の金属でできている。輪の先に細い棒状のパーツ、その中程から先端にかけて大小の板状のパーツが並ぶ。端的に言うなら、鍵である。鍵ですと言わんばかりの造形は、どう見ようがとっても鍵であった。

「鍵、だね」
「鍵だな」
「鍵ね」

 満場一致で鍵だった。鍵だったけど、なんで!?

「ちょ、え? どしたのこれ?」
「いや、オイラにもさっぱり。どっかで引っ掛けてきたか?」
「そんな馬鹿な……」

 という魔術師の突っ込みはもっともである。というかゲル生物と違ってそんなもんが壁の中を通れるはずもない。怪しいとかいうレベルではない不自然さだが……まあいいか。

「奇跡よ」
「うん?」
「なんか奇跡が起きたのよ、きっと。行きましょう!」
「ええ!?」
「成る程、奇跡か。それなら納得がいくな!」
「ええええっ!?」

 あたしの異次元解釈に一人を除けば満場一致でゴーサインが出る。神よ、これまで試練という名の数々の嫌がらせであたしを苦しめてくれたが、どうやら遂に折れたようだな! ありがたく頂戴しようこの奇跡! このツンデレさんめぇ!

「ハ、ハナ君? 正気かい? 牢の鍵かすらわからないんだよ?」
「勿論、正気で本気よ。てゆーかもう今からまた鍵探す時間なんてないでしょ」
「そ、それはそうだが」
「大丈夫だってウィザーモン。信じようぜ、ハナの直感を」

 ぐっと、親指を立てたらしき軟体のうねりとともにヌヌが言う。責任逃れという言葉が頭を過ぎったが言わないことにした。魔術師が苦虫を噛み潰して舌の上でれろれろと転がしたような顔をする。

「その結果が今の状態だった気がするが……」

 などと呈された苦言には耳がとても痛かった。げふう。言ってくれるじゃあないか。その節は本当に申し訳ありませんでした。でも大丈夫だ。今度こそ。きっと。多分。根拠は勿論ないけれど、あたしのソウルがそう言っている気がする。

「ウィザーモン、こうなったらやるしかないぞ。覚悟決めろ」
「うぅ……そうだね、ボスとやらのところへ連れて行かれてはチャンスもなくなるか。仕方がない」

 そう頷いた魔術師に、あたしも頷き返す。苦渋の決断、みたいな顔だったのはスルーした。もう一度だけ見張りを横目に見る。声をひそめてはいるが、集まって何やら話し合っているのは一目瞭然。当然だが訝しげにこちらの様子を気にしていた。さすがにこの状態で正面から鍵を開けにいくのは馬鹿過ぎる。さて、と、あたしは牢の外を指差し、ヌヌに呼び掛ける。

「ヌヌ、まずは牢の外に注意を引き付けて」
「おお、任せろ」
「見張りが牢の前から離れたらすぐ鍵を開けるから」
「ああ」
「そしたら戻ってきて熊であいつらぶっ飛ばして!」
「よしきた。……さっきからオイラの仕事多くないか?」
「気のせいよ」
「気のせいか」

 勿論気のせいではなかったが、武器といったら熊しかないのだから仕様がない。ヌヌは格好いい顔で一度だけ振り返ると、再び壁の中へと潜り込んでいく。いいシーンのはずだけど気持ち悪かった。この嫌悪感には嘘をつけない。

「さて、準備はいい?」
「ああ、もう覚悟は決めたよ」

 なぜか悲壮な覚悟に見えた気もしたが流すことにした。唇をぐっと真一文字に結び、互いに頷き合う。ただ静かに、時を待つ。そうしてやがて、作戦決行を報せるその音が通路の奥から響き渡る。
 文字に起こすなら、ぶりっ、べちょっ、みたいな。他に芸ないのかお前。

「コフっ!?」

 牢の中からでは具体的に何がどうなっているのか分からないが、きっと地獄みたいになっているのだろう。同じ音が何度も続いていた。牢を出たらあそこを進むのか……。

「コフー!?」
「コフコフ!」

 なんて叫ぶ見張りのガスマスクたちは、天井を見上げながら慌てて走っていく。作戦自体は、とてもうまくいっているらしかった。

「ええと……じゃあ、いく?」
「そう、だね。いこうか……」

 作戦は順調ですって顔とテンションではなかったが、それはともかく見張りの離れたこの隙に牢の鍵を開けるとしよう。格子の隙間からちらりと見張りたちの走っていった方を見れば、こちらを気にする余裕もない様子でガスマスクたちが地獄の手前に立ち尽くしていた。脱獄後の最初の関門はきっとあそこで間違いない。
 格子の隙間から手を伸ばし、手探りで見付けた鍵穴に先程の鍵を差し込む。ここに来て入らなかったら自棄を起こしていたところだが、どうやら命拾いしたようだな。誰がとはあえて言わないが。がしゃり、と硬い音を立て、牢の扉が開錠される。

「コフ!?」

 けれど誤算が一つ。金属製の重々しい錠前を開く音は、密閉空間に思った以上のボリュームで反響してしまう。あ、気付かれた。やっべ。

「ハ、ハナく……!」
「こっち!」

 それだけ言って、牢の扉を蹴り開ける。突然のことにガスマスクたちの反応が遅れる。その隙に、あたしは牢の外へと飛び出し、ガスマスクたちとは逆方向に走り出す。一瞬遅れて魔術師が続く。この先が行き止まりでない保証はない。おまけに向こうは機関銃を持っている。袋小路に追い詰められればそこで終わり。だが、これだけ注意を引ければ十分だ。後はあんたにぃ……!

「任せたぁ!」
「コフっ!?」

 あたしたちを追ってガスマスクたちが通路を引き返し、牢の前を通り過ぎようとしたその瞬間、格子の隙間からにゅっと飛び出た二本の腕が二つのガスマスクをわしづかみにする。

「任された」

 にやりと笑う。薄闇の中に浮かび上がる笑顔は正義の味方のそれではなかったが、とても今更である。
 ごぎゅ。という嫌な音が、ガスマスクたちが声を上げるよりも早く石造りの廊下に小さく響いた。ガスマスクたちの体から力が抜け、熊が手を放すと糸の切れた人形のように倒れ伏す。その光景に思うところが何もないわけではなかったが、敵だし盗賊だし擬似とか言ってたしあたしは気にしない。気にしないと言い聞かせる。

「はあ、やれやれ。どうにかなったな」
「そのようだね。肝が冷えたよ」

 横たわるガスマスクたちを見下ろし、静まり返った廊下を見渡して、深く深く息を吐く。まったくだ。だが、確かにどうやらどうにかなったらしい。今思えば自棄以外のなんでもなかったが、結果よければまあいいや。気持ちを切り替えて次に行ってみよう。

「よし。じゃ、とりあえず工場ね?」
「ああ、あいつら助けてやんねえとな」

 既に騒ぎは起こした。じきに夜も明ける。何を置いてもまずは動くべきだろう。こんなところ、一秒だって長く留まる意味はない。熊の背を叩き、さあ先頭を行きなさいと目で訴える。と、そんな時だった。

「いや、待ってくれ。ヌヌ君、少しいいかい?」

 魔術師がガスマスクたちの横に膝をつき、そうあたしたちを制止する。熊とガスマスクを交互に見て、難しい顔をする。

「なんだよ?」
「トループモンたちだが、ロードできないかい?」
「ロード?」
「ってなに?」

 魔術師の言葉に熊が首を傾げ、続けてあたしも首を傾げる。問い返せば魔術師はガスマスクの胸に手を置いて、小さく頷く。続く言葉にはさすがのあたしも耳を疑った。

「端的に言えば、捕食だ」
「ほ、捕食? 食べるの?」
「我々デジモンは倒した相手を取り込み、自らのデータ領域を拡大することで進化を続けてきたんだ。もっとも、それが盛んだったのは他に取り込めるデータも少なかった原初のデジタルワールドでの話だが」
「いや、話が見えねえよ。わかりやすく言ってくれ」
「あ、す、すまない。つまり、このトループモンたちは今、ラバースーツが破損して一時的に動けなくなっているだけなんだ。完全に倒せてはいない。だから、スーツを裂いて中のエネルギーをロードできれば、と思ってね」
「え? これまた起き上がってくるの?」
「ああ、少しずつだが自己修復を行っているようだ。それに、ロードできればヌヌ君の強化にもなる」

 倒した相手を食べてパワーアップか。弱肉強食と言っていたが、いみじくもまさにその通りの世界だったわけだ。あたし今までよく生きてこれたな。

「成熟期の私ではコアのキャパシティにも限りがある。やるならヌヌ君がすべきだろう」
「おお、わかった。でもオイラやったことねえんだけどな……こんな感じか?」

 一度だけ頷くと熊はガスマスクをひょいと拾い上げ、そのラバースーツを力任せに縦に裂く。途端に裂け目から白いガスのようなものが噴き出してくる。熊はあーんとお口を開き、ずごごごっとそのガスを吸い込んでいく。やがてラバースーツが空気の抜けた風船のようにしぼむとそれを無造作に放り投げ、もう一匹の捕食へと移る。

「ねえ、これで合ってるの?」
「あ、ああ、多分……」

 見た目があれだと感じだのはあたしだけではなかったらしい。床に転がる食べかす、もといガスマスクの残骸を見ると自分たちが果たして正義の味方なのか疑問に思えてきたが、あたしは我が国の先人たちが遺した便利な言葉で自らを納得させることにした。つまり、勝てば官軍である。その理屈でいくと負けたら自分が賊だけど。

「げっふ。なるほど、悪くない。ちょっと癖になりそうだな」

 おくびを零して口元を拭いながらそう言った熊に関しては、もう大分ダークサイドに足を踏み入れているという気がしなくもなくもなかったが。

「よ、よし。何はともあれ、今度こそ行こうか」
「そうね。無辜の民が勇者の助けを待ってるわ」
「あれ? 何で二人とも目ぇ合わせねえんだ?」

 そんな言葉だけを交わして、薄暗い石造りの廊下を走り出す。なんか都合よくそこら辺に転がってた二つのでかい風船みたいなものをうんこ地獄の橋代わりにして。さあ行こう、邪悪な敵の待つ場所へ。戦おう、正義の名のもとに。勇者として。勇者として。そう、あくまで勇者として!
 言い聞かせるように心の中で叫びながら、後ろを振り返ることはせずひたすらに駆けていく。ただただ前だけを見据えて。

 そうして――あたしたちが立ち去った後、無人となった牢の前に小さな影が現れたことには、勿論気付くはずもなかった。影は肩をすくめて溜息を吐く。

「やれやれ、世話が焼けるネ」

 声は小さく静かに、闇の中へと溶けて消える。




 ごぎゅり。ごりごり。ちゅうちゅう。
 前から聞こえるそんな音が何の音かはさておいて、熊の案内でアジトの中をひた走る。牢を出てすぐに看守の詰め所と思しき部屋で取り上げられた骨こん棒と魔術師の杖を見付け、ついでに食糧庫も見付けて準備は万全。魔術師にこんがり焼いてもらった骨付き肉を平らげ、ぺろりと舐めてから熊が小脇に抱えるゴムの塊の隙間に骨をそっと差し込む。

「ヌヌ、まだ遠いの?」
「ああ、壁通れないと意外と遠かったけど、もうちょっとのはずだ」

 振り向き際に熊もまた食べかすをゴム塊の中へ無造作にぐいと押し込み、頭をぽりぽり掻いて行く先を腕で指す。食べかすっていうかまあガスマスクの残骸なんだけど。そこらに捨てては「ここを通りましたよ」と自分で言っているようなものなのでこうして抱えて走っているのだ。牢を出て十数分。食糧庫で見付けた食べ物もそこそこに、この熊さんは出会ったガスマスクを片っ端から食い散らかしている。そんなに気に入ったのか。言っておくがあたしはずっと引いているからな。

「ところで、ウィザーモンはどうしたんだ? さっきから」

 じとっと冷ややかに熊を見ていると、そんな視線もどこ吹く風と熊はあたしをスルーして隣の魔術師へそう声をかける。我が道を行くな。だが、言われてみれば確かにさっきから一言も口を聞いていなかったな。呆気にでも取られていただろうか。
 魔術師は熊の言葉にはっとなり、意識を脳の奥から引き戻すように二度三度首を振る。

「え? あ、ああ、いや、トループモンたちが少し気になってね」
「お? なんだ、食いたかったなら早く言えよ。次見付けたら……」

 顎に手を当て、思案するように言った魔術師に、熊は少しだけ嬉しそうにそう返す。魔術師の言葉を待つまでもなくそんな話じゃないことはわかった。一緒にしてやんな。当然魔術師は慌てて首を振る。

「い、いや、そうじゃなくて!」
「お?」
「その、牢の周辺には随分少なかったように思えて」
「少なかった?」
「あ、そう言えば詰め所も誰もいなかったね」

 牢はアジトの下層に位置していた。恐らくは地下だったのだろう。階段を上って今いるこの階層に出るまで、確かにあたしたちは牢の見張りをしていた二人以外には会わなかった。森で見た大量のガスマスクからして人手不足でもあるまいに、今思えば地下牢はやたらと手薄だったな。
 あの時は奇跡で流したが、地下牢の中に突然現れた鍵とも合わせていろいろと不自然なことばかりだ。鍵の時点で自然なことなんて何一つなかったが。

「今考えたってしょうがねえだろ。ぶっ飛ばした後でボスにでも聞きゃいいじゃねえか」
「う……それもそうだが」

 身も蓋も無いな。しかし正論と言えば正論か。

「確か、“ボスがお戻りになるまで”とか言ってたよね。向こうは向こうで何かあるんじゃない?」

 あたしたちにばかりは構っていられない、そんな理由が。というかよくよく考えたら別にあたしたちを倒すのが一番の目的なわけもないしね。それこそ魔術師が言っていたコー……コークスクリュー?

「ボスか……まさか例のコットンクローンの場所がもうバレたのか?」

 あ、そうそうそれそれ。

「コードクラウンだね。いや、そんなはずはないと思うのだが」

 それじゃなかった。そうそうそっちそっち。

「っていうと?」
「近付いてはいたが、ニセドリモゲモンたちはまだコードクラウンに辿り着けてはいなかった。私のように探知魔術でも使えば別だが、彼らに魔術の心得があったとも思えないし。まだ、見付けたという認識すらなかったはずだよ」
「魔術か……ニセモグラだしな」
「それに、私も念のために結界を張っておいた。おいそれとは見付からないはずなのだが」

 となるとまた別件だろうか。いや、やはり熊の言うとおり今考えても仕方のないことか。どのみち推測の域を出ない。
 あたしがそう結論付けたちょうどそんな時、測ったようなタイミングで熊がぽんと小さく手を叩く。

「何にせよ後だ後。工場が見えたぞ」

 熊が指した先に見えたのは重々しい鉄の扉だった。近付くにつれて徐々に走る速度を緩め、足音を小さくする。ここへ来るまでにいたガスマスクはすべて出会い頭に始末した。騒ぎも聞こえる限りは起きていない。向こうはまだあたしたちの脱獄に気付いていないはずだ。このまま余計な騒ぎを起こすことなく人質を助けられればそれが一番だが、さて。
 振り返れば熊はこりこりと鼻の頭を掻いていた。あたしは熊の肩をぽんと叩いて扉を指差す。さっきからどこの何が痒いのだろう。

「ヌヌ、壁潜って中の様子見てきて」
「ん? おお、よしきた」

 熊は力強く頷くと口を大きく開き、にゅぽんと緑のゲロ、もとい本体を排出する。もはや自由自在か。緑のゲル生物はそのまま壁に張り付くとじわりじわりと内部に浸透していく。何度見ようが見慣れる気がしなかった。
 やがてゲルが完全に壁の中へと消えて、しばらく。静けさの中で音もなく再び壁から染み出してくる。絵面はホラー以外の何物でもないが、自分でやらせた手前嫌そうな顔をするのは我慢した。

「どうだった?」
「ニセ博士がいる」
「あの青いトカゲ?」
「ああ、ずっと“黒い歯車”を作ってるみたいだ」
「後は捕虜だけかい?」
「見た限りはな。薄暗くて断言はできないけど」

 ニセ博士か。四天王の中じゃ一番弱そうだったな。見た目と名前からしても戦闘要員ではないだろう。倒すだけなら、あるいはガスマスクより容易かもしれないが。

「問題はこの扉ね」
「オイラ以外じゃこっそり入んのは無理そうだな」
「ヌヌが独りででも倒せるならそれでいいんだけど……」
「はっは。無茶言うなよ、ハニー。ヌメモンだぜ。勝てても泥試合さ」

 なぜ誇らしげなのか。
 しかし、確かにゴブリン如きであれだけ騒ぎに騒いで結局トドメはあたしだったしな。気付かれずに入ったところで、仲間を呼ばれる前に倒せなきゃ意味はない。となれば、やはり手は一つか。早ければ早いだけリスクは増すが、隠密行動はここらが限界だろう。一暴れしてもらうとしようか。

「しょうがない。じゃあもう派手に蹴破って……」
「いや、待ってくれ二人とも」

 がらんどうの熊の頭をあたしがぽんぽんと叩き、待ってましたとヌヌが熊の口に飛び込んだ、その折。あたしたちの前にそっと手を差し出して、魔術師が今すぐにでも飛び出しそうな熊を静かに制止する。視線は熊の足元に落として。

「どうせ賭けに出るのなら、一つ思い付いたことがあるのだが」

 そう言って熊の放り出したそれを一つ拾い上げる。あたしと熊は、かくりと首を傾げた。




 ごうんごうん、と。重苦しい金属の摩擦音が窓もない工場内に反響する。照明らしい照明もなく、稼動する機材の明かりだけが点々と灯る室内は薄暗く、目を凝らしても全容は見通せない。視認できる範囲だけでもテニスコートほどの広さはあるが、音の反響を聞く限りはその何倍もありそうだ。
 不意に開いた扉から響く重低音と差し込む光。小さなモニタの前で機械類を操作していた博士帽と白衣の青い恐竜・ニセアグモン博士は、目を細めながら振り返り、そうして首を傾げる。

「何だギャ。何か用ギャ?」

 扉を開けて工場へと入ってくるその姿を一瞥し、ニセアグモン博士は再びモニタに視線を戻してそう問い掛ける。警戒心は、まるで見て取れなかった。それもそのはずだ。そこにいたのは自身の部下であるトループモンだったのだから。
 トループモンは無言のまま、ひょこひょことニセアグモン博士に歩み寄る。こちらを見ていない上にこの薄暗さ。どうやら、思った以上にいい手だったらしい。ついでに名前の通りのボンクラだったらしいな。

「おい、何なんだギャ。早く……」

 もう一度振り返り、言いかけたニセ博士の動きと言葉が一瞬止まる。腕を広げて今まさに飛び掛からんと目前まで迫るガスマスクに、どうやら思考が追い付かない様子であった。

「むギャ……!?」

 咄嗟に口にできたのはそんな呻き声だけ。熊に中身を喰われ、魔術師に風の魔術で操られるガスマスクが、騒ぐ間もなく見事にニセ博士を取り押さえる。
 扉の影に潜んでいたあたしたちは直ぐさま工場内へと駆け込み、ガスマスクの上から更にニセ博士を押さえ込む。轢かれたカエルの断末魔みたいなか細い声が微かに聞こえた。

「いよしっ! いいぞ、ウィザーモン!」

 隙間から僅かに見える手足がぴくぴくと痙攣する。ニセ博士がもはや抵抗もできなくなったことを確認すると、熊はぐったりするニセ博士をガスマスクの下から引きずり出し、その大きな口へさるぐつわ代わりに自らの腕を捩込む。思いの外うまくいった作戦に、当の魔術師も満足げに頷いてみせた。

「ハナ君、扉を頼む」

 それだけ言うと魔術師は杖を構え、小さく呪文を唱え始める。あたしは無言で頷き扉の取っ手に手をかける。身体を傾けながら徐々に扉を閉めていく。差し込む明かりが細く小さくなり、やがて工場内が再び薄闇に包まれる。と同時、短い呪文を唱え終えた魔術師の杖が緑と黄の光を帯びる。
 目配せをして、熊が口を抑えたままのニセ博士へ杖を突き付ける。途端に杖の先端から二色の光の帯が伸びる。黄色の帯はニセ博士の身体へ巻き付いて、緑の帯はその周囲を取り囲むようにふよふよと漂う。

「よし、動きと声を封じた。ヌヌ君、もう離しても大丈夫だよ」

 魔術師はそう言うと再び呪文を唱える。ほんの二言三言の詠唱を終え、杖を振るえば今度は辺りを照らす光の球が現れる。薄暗い室内が随分と明るくなる。しばらく活躍してなかったから忘れていたけれども、そういえばとってもできる子だったな。てゆーか今一番活躍してないのってもしかしてあたしか。もしかしなくてもあたしだこれ。

「さて、彼には後で話を聞くとして……ヌヌ君、捕虜というのは?」
「ああ、こいつらだ」

 勇者としてこれでいいのかと焦燥感に苛まれるあたしを余所に、熊と魔術師は魔法の明かりの中を奥へと進んでいく。いや、奥と言ってもニセ博士が何やら作業をしていたその目の前。ぴたりと、すぐに二人の足が止まる。端からあたしたちの視界の中に、それはいたのだ。こつんと、熊が円筒形の装置を小突けば、ガラス張りの中でそれはぴくりと震え、不思議そうに熊を見る。魔術師が目を見開いた。
 円筒の中でギチギチと機械音を立てるそれ。目の前にありながら今の今までそうだと気付けなかったのは、その姿が装置の一部のような歯車の形であったから。鉛色の生きた歯車が、そこには捕らえられていたのだ。

「これは……ハグルモンか!」

 列柱のように並ぶ十数本の円筒。その一つ一つに、魔術師がハグルモンと呼ぶ生きた歯車が一人ずつ。くるくると回りながら、口のような亀裂から小さな黒い破片を吐き出していた。

「ほら、見えるだろ? あの管の先に……」

 円筒の上部を指差しながら熊が言う。魔術師が熊の視線を追うように光の玉を浮遊させ、その全貌を照らす。円筒の上からは熊の言うように管が伸び、奥に置かれた大きな装置へすべての管が繋がっている。よくよく見れば先程から歯車たちが吐き出してた黒い破片は、円筒から管へと吸い込まれ、奥の装置へと集められているようだった。
 光の玉が円筒の上部から管へ、管から奥の装置へと移動し、ようやくあたしは、熊の言わんとしていることを理解した。
 奥の巨大な装置の側部にはベルトコンベアが設置され、その上を次々に“黒い歯車”が流れていた。この装置によって、“黒い歯車”は造られていたのだ。だが、となればこの生きた歯車たちは――

「ダークネスギア……」
「え?」
「よく見てごらん」

 円筒をまじまじと覗き込みながら、魔術師はそう言って手招きをする。言われるままに円筒の傍へ、魔術師と同じように中を凝視すれば、歯車たちが吐き出す黒い破片の正体を知る。それは、“黒い歯車”だった。大きさこそまるで違うが、それ以外はどこからどう見ようが“黒い歯車”そのもの。

「ハグルモンたちの必殺技だ。ウィルスを組み込んだこの歯車を敵の体内に埋め込み、その精神を狂わせる」
「え? あれ? どういうこと?」
「ん? ちょっと待て、それって……」

 心を操るウィルスが仕込まれた、小さな歯車。それはまるで――いや、答えは見たままだろう。相変わらず言葉の一つも発することなく不思議そうにあたしたちを見る生きた歯車たちに、熊がぐにんぐにんと眉をひそめる。魔術師がゆっくりと頷いた。

「ああ、“黒い歯車”とは、ハグルモンたちのダークネスギアからできていたんだ」

 杖の先で小さく円筒を叩く。魔術師の言葉にあたしと熊は顔を見合わせる。

「ま、待てよ、ハグルモンっつったら成長期だろ? 操られてたのは成熟期だぞ?」
「ああ、確かに。格上の成熟期を自由に操るほどの力など、本来は持っていない。だからこそ、そのための“黒い歯車”なんだ」

 円筒をそっと撫で、魔術師は奥の装置へ視線を移す。そうか、ダークネスギアとやらは要するに、

「“黒い歯車”を造るための材料ってわけね」
「そうだ。大量のダークネスギアを素体に、より高度なウィルスを組み込み、その性能を飛躍的に向上させたのが“黒い歯車”だろう」
「じゃあ、こいつらは……」

 円筒を覗き込み、熊が訝しげに眉間にしわを作る。助けねば、という使命感は成りを潜め、猜疑心と少しの敵意をその目の奥に湛えて。沢山の村人を苦しめた“黒い歯車”の大元。捕虜と思いここまで助けに来たが、あるいは、と。しかし、魔術師はどこか苦々しい顔で小さく首を振る。

「いや、彼らはあくまで捕虜だよ。ハグルモンというデジモンは、善悪の概念を持っていないんだ」
「善悪の……概念? なんだそれ?」
「何が善いことで何が悪いことか、わかってないってこと?」
「ああ、端的に言えばそういうことだ。利用されているだけだろう」

 ふう、と息を吐いて首を振る。困ったものだよ、とでも言いたげな目は誰に向けたものだったろうか。

「じゃ、やっぱり助けなきゃね」
「そうなるか」

 善悪の判別もつかずに利用されていただけ。とはいえ、悪の片棒を担いでいたことに変わりはないが、だからといってこのまま放っておくわけにもいくまい。こんなペースで“黒い歯車”が量産されてはおちおち食事を楽しんでもいられなくなる。しかし、これだけあからさまに拘束されてまだわからないというのは、さすがに暢気が過ぎるぞ歯車たちよ。魔術師が少しだけ微妙な顔をした気持ちもよくわかる。魔術師はもう一度溜息を吐いて、うんと頷く。

「そうだね。では少し待ってくれ。装置を止めてみるよ」
「あん? まとめて壊しちまえばいーじゃねえか」
「馬鹿ねえ、折角見付からずに来れたんじゃない」

 そんなに暴れたいのか。冷静に制御パネルと思しきものを操作し始めた魔術師とは対照的に、血に飢えているらしい熊は頭の悪いことを言い始める。バーサーカーめ。

「そうか。そうだな」

 とだけ言って、どうにも惚けた様子の熊は手の甲で頬を掻く。熊なのに猫みたいな動作だな。その円柱型のどこに甲があるんだ。

「てゆーか、さっきからどうしたの?」

 よくよく考えれば牢を出てからだったか。今までそんな癖なんてなかったろうに。何を体中ぽりぽり掻いているんだ。蒸れたなら中を掻け。

「いや、なんかムズムズするっていうか」
「血に飢えて?」
「違うから。オイラを何だと思ってんの?」

 血に飢えたバーサーカーとか。なんて言ってやろうかとも思ったが、それに頼っているあたしの勇者としてのアイデンティティとかも崩れ落ちそうな気がしたので止めておくことにした。

「成熟期に戻った影響ではないだろうか?」

 キーボードのようなパネルを叩きながら、そう言って魔術師は熊を一瞥する。視線をもう一度装置に戻して、ふむと唸る。

「成熟期に?」
「ああ、正直いまだにそれがどういう現象なのかはわからないのだが、まともな進化でないことは確かだ。身体に異常があるようならあまり多用しないほうがいいかもしれないね」

 半ば独り言のように魔術師は言う。まともな進化じゃない、か。あたし自身がそもそもまともな進化とやらを見たことすらないのだが、まあ、それでも確かにまともじゃないことくらい一目でわかるレベルである。だが、それでもここまでどうにかやってこれたことも事実なわけだし。熊は頬をぽりぽりと掻いてあたしを見る。言いたいことはわかっていた。

「ってぇ、言われてもなぁ」
「そうねぇ、これ使わなきゃみんな死んじゃうし」
「う……た、確かにそうだが」

 途端にぴたりと手を止めて、ちらりと熊を見る。基本頭がいいのにたまに抜けてるよね。こほん、と咳払いをして、再びパネルを操作する。歯車たちの円筒の下部でランプのようなものが点滅し、しばらく。ういん、とゆっくりとした機械音を立て、円筒の一部が扉のように展開していく。

「お、開いたか」

 事ここに至っていまだ状況を理解できていないらしく、自由になったというに逃げるそぶりも見せない歯車たちだったが、ちょちょいと手招きしてやれば何の疑いもなく集まってくる。成る程、これは利用し放題だな。

「ま、そんな心配することねーよ」

 集まった歯車たちを熊は指のない手で指折り数え、魔術師に向かって小さく肩をすくめてみせる。ほらこの通り、とばかりに片腕をぐるぐると回す。

「そもそも、別に不調ってわけでもねえしな。なんつーか――」

 かつん、と。その音は闇の中で細く反響した。
 素直過ぎる歯車たちを整列させ、後は装置そのものを止めればここにもう用はない。という、そんな段階まで来たちょうどその時。あたしたちが入ってきた扉とは真逆、魔術師の明かりが届かない工場の更に奥から、声は薄く笑う。

「例えるなら――」

 胸の奥で、心臓でない何かが脈動する。そんな錯覚。

「血沸き肉踊るよう……かな?」

 暗い暗い闇を湛えて、くつくつと笑うその声。まるで心の内で渦を巻くどす黒い感情が漏れ出たよう。
 慌てて振り返る。魔術師が杖を振るい、姿の見えぬその声の主を探すように光の玉が闇の中を飛ぶ。
 敵? 潜んでいたのか? いや、単純に考えれば他に出入り口があったというだけか。これだけ広い工場だ。考えてみれば出入り口が一つきりというほうが不自然か。まったく、自分の迂闊さに頭が痛くなる。

 やがて彷徨う光が、闇の中にうごめくその影を遠く捉えた。
 見上げるほどに巨大な装置の点検や調整のための足場だろう。音を頼りに光の玉が照らす上方に目をやれば、装置の上部を囲むように金網状のキャットウォークが見えた。かつん、かつん、と。そこから更に奥へと伸びる通路の先から、その闇の中から、それは姿を現した。その声の主に見覚えはない。見覚えは、なかったが――

「私はちょうど、そんな気分だよ」

 尊大にして不遜。闇に埋もれてにたりと笑うそれ。見覚えがないのに、見慣れたようなその姿。呆気に取られたように視線が凍る。その、意識の隙間をかい潜るように、

「ぶひゃ」

 なんておかしな笑い声は至近から。はっと、振り返れば視界の端を何かが過ぎる。それは軽やかな身のこなしで瞬く間に上階へと跳躍する。闇より現れた影の傍らに立ち、また笑うその姿は、おもちゃのような黄色い犬だった。あいつは……ドッグモン! まんまだから覚えてた。片腕に何やら白い塊を抱え、にやにやとあたしたちを見下ろす。あれは……。

「ご苦労。ドッグモン」

 そう言うと影は小さく指を振るう。途端に白い塊の――否、今まさに犬によって連れ去られたニセ博士の、その身体を拘束する魔術の鎖がいとも容易く千切れ飛ぶ。そういえば忘れてたなあいつ。ニセ博士はぷるぷると震えながらもゆっくりと立ち上がる。

「無事か。ニセアグモン博士よ」
「ギ、ギャ……も、申し訳ありませんギャ……!」
「よい。戦闘はお前の仕事ではない」

 片膝をついて頭を下げるニセ博士に、目線はあたしたちを見据えたままに言う。犬も同様に片膝をついて傅いていた。幹部であるはずの二人を当たり前のように従えるその影。誰か、と問うなら、

「あなたが、盗賊たちの親玉……!?」

 否、犬と博士の態度を見れば問うまでもなかった。けれど、あたしは問わずにはいられなかった。口の端がまた歪む。

「随分と品のない呼び名だが……ふ、まあいい。そう、私が君たちの探し求めた“黒幕”というわけだ」

 一挙一動を物々しく、仰々しく。まるでオペラでも見せられているかのよう。あたしはただただ目を丸く、唖然とするしかできなかった。魔術師がこくりと喉を鳴らす。

「ヌヌ君、あれは……」
「ああ、わかってる」

 熊が小さく頷いて、強く歯牙を打つ。

「デジコアが知っている。あいつは……あいつの名前は……!」

 交差する眼光が火花を散らす。刺すような圧力は互いの存在そのものへの根源的な敵意。不倶戴天の宿敵と、生まれながらにそう運命付けられていることを互いが知っていた。ここに相対することさえも必然とばかりに。

「数日前、東の空を衝いた金色のデジソウル――あれを目にした時から、予感はあったよ」

 それは旧友と語らう思い出話のようで、仇敵を呪う怨嗟の言葉のようでもあった。
 熊を一瞥する。予感というならあたしにもあった。だから、あたしは一先ずこの成り行きを静観することにした。今は、迂闊なことをすべきではない。

「前座としては、悪くない余興だな」
「お前、お前は……!」
「ふ、どうやら貴様にも感じ取れていたようだな。そうだ、私の名は――!」

 禍々しい左腕の爪が冷たい金属音を立てる。全身は黄昏の果てを生きるかの如き宵闇の色に染まり、肩に刻まれた一文字がその心の在り樣を語る。
 血の色の外套を翻し、その目に己が敵を睨み据え、それは、高らかに名乗りを上げる。

「ワぁぁルうぅぅ……もんっざえモン様だああぁぁぁ!!」

 盗賊たちの首領は雄叫びとともに己が名を告げてみせた。その背に薄闇を切り裂く爆炎が見えた気がした。
 ワルもんざえモン……! あたしの真横に立つ熊・もんざえモンと対をなすかの如き名と姿。肩に刻まれた“悪”の一文字はまさにその名そのものを意味していたのだ。
 あたしは犬と博士とワル熊を順に見て、ノーマル熊と魔術師を横目に見る。ぴりぴりと肌を刺す緊張。矢のように行き交う視線に空気さえもが張り裂けそう。こくりと喉を鳴らす。あたしの予感は、どうやら的中していたようだ。
 やはりこれは、これは――名前とビジュアルに突っ込んでいい空気じゃない……!

「ヌヌ……!」

 名を呼べば熊は言葉なく頷く。空気の読めるあたしは、きちんとノリを合わせることにした。なので、凛々しい顔で頷き返す。

「まさか、こんなところでボスのご登場とはね」
「へ、言ったろ? 運命ってのはいつだって……」
「気まぐれなお姫様、ね」

 いつかの言葉をそのまま返してやれば熊は不敵に笑う。開き直って酔いに酔って泥酔してみれば、この空気は思った以上に心地がよかった。あたしは一歩を踏み出し、びしりとワル熊を指差す。長い長い道程の果てに辿り着いたこの決戦の地。そこに待ち受けていた最後にして最大の敵を前に、この胸にたぎる勇気と正義が燃え上がる。

「ワルもんざえモン!」

 視線は真っ直ぐにワル熊を捉え、瞳には義憤の炎を点す。

「罪なき無辜の民を苦しめるその非道の数々、お天道様が許そうとあたしは決して許さない! あなたの野望もここまでよ!」
「ふっ、ふはははは! 面白い! 小娘風情がこの私をどう許さないのか、とくと見せてもらおうかあ!?」

 心を操る“黒い歯車”で配下を増やし、小世界の心臓部たるコール……コードクラウン! そう、コードクラウンを手にし、いずれは世界のすべてを掌中に収めんと目論む悪辣外道。こんな奴に、世界を思い通りになどさせてなるものか! あたしは、この野望を挫くがためにこの世界へとやって来たのだ。偶然だった始まりも、今は運命と、そう思える。
 さあ、気まぐれな運命の女神様に導かれて辿り着いたこの時、この場所で、すべての戦いに決着をつけるとしよう。ここに、勇者の物語は終幕を迎えるのだ。
 静かに息を吐く。もう一度、心を熱く燃やして視線を鋭く研ぎ澄ます。その双眸の真芯に最後の敵の姿をしかと捉え、雄叫びのように言い放つ。

「コードクラウンは……絶対に渡さない!!」
「ふはは! 貴様らの首をバンチョーレオモンへの手土産にしてくれるわ!!」

 交わる正義と悪意、希望と野望が空気を焦がすほどに激しく火花を散らす。まるで鍔ぜり合う刀剣にも似て、あたしは――あたしは……ワル熊を指差した恰好のままにしばし動きを止める。
 そう、バンチョーの……バンチョー……。

「バンチョー……?」
「コード……?」

 互いにぽつりと呟く。何かがおかしかった。何かが噛み合っていない気がした。雲行きが、ここに来て何だかあやしかった。
 沈黙。沈黙。沈黙。互いに微動だにしないままただ押し黙る。沈黙。沈黙。誰も何も言ってはくれない。沈黙。はもうこの辺で止めたかったが、何と言えばいいかがわからない。
 指先がぷるぷると震える。あたしは、固く握った残る四本の指をそっと開く。すいっと、掌をワル熊へ向け、

「タイム」
「いいだろう」

 試しに言ってみたら間髪も容れずにあっさり了承される。そう、戦いの最中といえどインターバルは必要なのである。身体を半転させ、片手で口元を隠してこそっと魔術師に問う。

「バンチョーなんとかって、何だっけ?」

 まるで記憶が抜け落ちたように覚えがなかった。抜け落ちたっていうか、イベントそのものを飛ばして来たろうか。魔術師は頬に汗を一筋、眉をひそめながら答えてみせた。

「聞いたことはある。単騎で魔王の軍勢と渡り合ったとも言われる伝説の豪傑だ。なぜこのタイミングで名前が出て来たのかは……ちょっとわからないが」
「そう……」

 念のために熊も見てみる。即座に首を振られた。

「おい、コードなんとかというのは一体……」

 向こうでも何かひそひそ言っているのが聞こえた。気がした。気がしただけかもしれないが、一応確かめておくことにした。

「ねえ、聞いてもいい?」
「いいだろう」

 即答だった。だったので、思い切って聞いてみる。

「その、ええと……あ、あなたたちの目的は何だか言ってみなさぁーい!」

 テンションだけは若干定まっていないままだったが、まあいい。ワル熊はふんと鼻で笑い、両腕を大きく広げてみせる。

「ふはは! よかろう! そこまで言うなら教えてやる! 我らグリードゴート眷騎士団の崇高なる目的をなあ!!」

 何かまた知らない名前が出た気がしたがきっと気のせいだ。ここは流そう。あたしはワル熊の言葉を真剣な顔で待つ。

「そう、それは……神の復活だ!」
「かみ……?」
「この小世界のいずこかに眠る伝説の怪物! マグマを啜り山脈を喰らい、無限の進化を続けると伝えられる究極の魔神!!」

 天を仰ぐように、天上の神に祈りを捧げるように、闇を見上げて嬉々と語る。例の単語は、今のところ出て来てなかった。

「魔王にさえも匹敵するとされるその力を手にし、我らは再びこの世界を席巻するのだ! そう……!」

 再びあたしたちを見据え、さあ恐れ戦けとばかり、運命に呪われた呪詛の如き名を告げる。

「その名をぉぉぉ……“ブラストモン”!!」

 名を聞くと同時、落雷が脳天を突き貫く錯覚。何度思い返そうがやはり間違いはなかった。全部初耳だ。
 ワル熊の声が工場内に反響する。尾を引くこだまが闇の中へとやがて溶け、再びの静寂。僅かの沈黙を置き、ワル熊は声のトーンを落とす。とても静かな問い掛けだった。

「して、コードなんとかというのは……その、何だ」

 何だ? ですって。
 魔術師を見る。だが当の魔術師はあたしを見ていなかった。俯いて両手で顔を覆っている。手と肩が小さく震えていた。

「ウィザーモン……」
「……少しそっとしておいてもらえるだろうか」

 声も震えていた。あたしは無言で頷いて、ワル熊へ視線を戻す。

「えっと……何でもないわ」
「そうか」

 お互いに、うんと頷く。
 魔術師がぼそりと零した。

「穴があったら入りたい……」
「自分で掘りゃいいじゃねえか」

 熊さんや、優しくしておやり。
 ワル熊がごほんと大きめに咳払いをして、腕を組みながら天井を見上げる。視線は露骨に逸らされていた。

「それで……何だ、貴様らはバンチョーレオモンの……」
「バンチョー?」
「……いや、何でもない」
「そう」

 そんな短いやり取りの後、再びの沈黙が場を包む。歯車は噛み合った。完成形は思ってた奴じゃなかったが一先ずは噛み合った。だから、よしとしよう。それで、ええと、何だったか。ああ、そうだ、ブラストモンだ。そう、つまりは世界の危機である。そしてこれは紛れも無く最終決戦である。あたしは意を決し、二本の指をびしりとワル熊に突き付ける。

「テイクツー!」
「ええ!?」
「いいだろう!」
「えええっ!?」

 あたしのナイスな提案に、ワル熊のクールな即答に、それ以外の皆が目を真ん丸くしておかしな声を上げた。あたしは構わず再びワル熊を指差す。

「ワルもんざえモぉーン! あなたの野望もここまでよ! ブラストモンの復活は、このあたしが阻止してみせる!!」
「ハ、ハナ君!? さっきのはなかったことになるのかい!?」
「何もなかったわ!」

 人生はいつからだって、どこからだってやり直すことができるんだ! 諦めるな!

「ふはははは! 笑わせるな、どこの馬の骨とも知れん小娘が! 我が野望! 我が覇道! 止められるものなら止めてみよ!!」

 ほうら、どうにかなったぁ! ワルもんざえモン、できることならあなたとは違う形で出会いたかったわ!
 数奇なる運命の歯車に迷い、惑い、彷徨って、そうしてここに、あたしたちは対峙する。並列する歯車には別の未来もあったろうか。考えようと答えは出ない。それは選んだ未来か、選ばされた未来か、いずれにせよ勇気を持って歩み続ける者にしか道は拓かれることなどないのだ。何の話というなら後ろは振り返らずにとにかく進めという話だ。
 義憤の炎が心髄に点る。熱き血潮がマグマのように迸る。最後の敵を真っ直ぐに射抜くその眼光は灼熱にも似て、我が身さえをも焦がさんとばかりに勇気と正義が燃え上がる。相対するは邪悪なる魔神の力を以て世界の征服を目論むグリ……グリンピース血気盛ん団の首領・ワルもんざえモン。今ここに、世界の命運を賭した最後の戦いの、その幕が開かれる――!






>>最終話 『花とヌヌ』へ続く







<登場キャラクター紹介>


■ハナ
 物語の主人公。いろんな勘違いで勇者(自称)になるがついに本物の世界の危機に直面する。今回あんまり活躍できていないが、一応生身の人間の女の子なので大目に見てあげてほしい。

 ハナ


■ヌヌ
 物語のもう一人の主人公。山で拾った汚い着ぐるみを着て完全体に進化するも意外とあっさり着脱が可能。初期の役立たずっぷりが嘘のように着でも脱でも大活躍してみせた。

  ハナ


■ウィザーモン
 旅の魔術師。いろいろあって世界の危機を見付けてしまう。思ってたやつとはちょっと違ったけど世界の危機には違いなかった。相変わらず活躍したりしなかったりする。


■ダメモン
 謎のメタルうんこ。メタルなので臭わないと思いきやガスは出る。ヒロインからはクソうんこ野郎の称号を授かった。


■ワルモン四天王
 チェケラ猿と黄色い犬とニセ博士とポッキュン。ふざけた見た目だが完全体を手古摺らせる謎の実力者たちである。


■ワルもんざえモン
 ついに姿を見せたラスボス。見た目はふざけきっているが目的はちゃんとラスボスだった。心は広い。


■神
 ついにデレたらしい。