
【真狼~マカミ~】
火急の報せは、ある日突然にデジタルワールドから届いた。
かつての旅の仲間、インプモンから告げられたのは、世界滅亡の危機という、にわかには信じ難い話であった。
デジタルワールドでの冒険から数ヶ月。日常に戻ったヒナタは平和な時を過ごしていた。そんな折、都市部で大規模な電波障害が発生したとのニュースを目にする。そしてその元凶であろうものに、ヒナタは驚愕する。
怪物だった。見上げた町の空には、おぞましい巨大な怪物の影があった。けれど人々はそれを気にもしていない様子で、当たり前のように日常生活を送っていた。
デジモンだと、すぐに理解した。
空に開いた亀裂の中から覗く、陽炎のように輪郭も曖昧な怪物の影。
かろうじて判別できるその姿は、竜や獣、虫や機械が入り混じり、およそまともな生き物の体を成していない。天の摂理に弓を引くかのような、命を冒涜する所業の果てに生まれたであろうことは想像に難くない。
デジメロディの旋律からその正体を探ろうと試みたものの、しかし感じ取れたそれは、人の理解が及ぶような類のものではなかった。
怒りのようで、喜びのようで、激情のようで、虚無のようで、はっきりとそこに在るのに、何も無い。有と無、是と非、正と負、矛と盾をないまぜにした、二律背反の坩堝。
分かることは、あれと共存できる生き物などこの世には存在しないであろうことくらい。
怪物はゆっくりと、けれど確実にその亀裂を広げていた。
あの亀裂が広がりきれば、怪物はこちらの世界に這い出てくるだろう。目的はいまだ不明だが、少なくとも友好関係を結ぼうというものの渡航方法でないことだけは確かだ。
戦うしかないのか、と、ヒナタがデジヴァイスを握り締めたその時だった。
鳴り響いた電子音とともに、デジヴァイスから懐かしい声が聞こえたのは。
それはかつてともに旅をした仲間、インプモンだった。
驚くヒナタにインプモンは語る。
曰く、あの怪物は突如としてデジタルワールドに現れ、破壊の限りを尽くしたという。
その目的も出自も不明だが、どういうわけか多くのデジモンたちはその名前を知っていた。なぜ、と問われようと誰にも理由はわからない。まるで結果へ至る原因だけが抜け落ちたように、まるで歴史そのものにぽっかりと穴が空いたように、ただ答えだけがそこにあった。
歪められた因果の彼方、ここではないどこかの、自分ではない誰かの記憶に刻まれたその名を――“ミレニアモン”。
デジモンたちは知っていた。
それは世界に終焉をもたらすものであると。
あたかも、それがもたらした終焉を見てきたかのように。
いずれにせよこのまま放ってはおけないと、デジモンたちは決起し、国も思想も越えて手を取り合い、怪物に立ち向かった。
戦いは熾烈を極め、沢山のデジモンたちが命を落とした。だがその最中、戦場に突如として空間の裂け目が現れ、怪物はその中へと消えてしまったのだという。
裂け目の正体も怪物の行方も分からないが、ここで取り逃がすわけにはいかないと、数人の命知らずは怪物の後を追った。その一人が、インプモンだった。
暗闇の中を彷徨い、ただひたすらに怪物を追い続けた。この先がどこへ通じているのか、他のものがどうなったのか、そもそも自分は前へ進めているのか、何もかも分からないまま。けれどそんな中、インプモンは懐かしい旋律を耳にする。
そして、この暗闇の先にあるものを、怪物の目的が何であるかを、理解する。
そう、怪物はどうやら、標的を“こちら”へと切り替えたらしい。
「さて、久しぶりに共闘といくか」
「あら素敵。少しばかり急いでもらえるともっと嬉しいけど」
話している間に亀裂は広がり続け、やがて怪物の体高に届こうかというところ。怪物が最後のひと押しとばかりに力を込めれば、ガラスを叩き割るように次元の壁は砕け散る。
咆哮。おぞましい狂喜の叫びがこだまする。その瞬間、周囲数キロのあらゆる電子機器が制御を失う。
この世界に破滅をもたらす終末の獣を前に、ヒナタはたった一人、デジヴァイスを構える。
デジタルワールドの全勢力をもって仕留めきれなかった怪物。相対するのはか弱い人間の少女。救援はどうやらインプモン一人。それも、少々遅刻してらっしゃるご様子。
それでもヒナタの目に恐怖や躊躇いはない。ともに戦うと言ったのなら、来ると決まっているのだから。真っ直ぐに怪物を見据え、力強く一歩を踏み出す。
「スピリット……エボリューション!」
◆
白狼の騎士が地を駆ける。
亀裂から這い出た怪物・ミレニアモンは沿岸地域へと降り立ち、改めてこの世界を見渡す。さてどう壊したものかとばかりに。向かい来るヴォルフモンのことなど視界にも入っていないようだった。
亀裂の奥からは聞き慣れた旋律。砲を構えるベルゼブモンの姿を遠くに捉え、ヴォルフモンは小さく息を吐いた。
挟撃――にもなりはしないだろう。
ヒューマンスピリットではあまりに力不足。ビーストスピリットをもってしてもまるで足りない。
あの怪物に対抗するには、二つのスピリットの“本来の形”が必要不可欠だった。
その方法は、先程から頭の中に響いている声が教えてくれた。
そしてそれが、もう戻れぬ道であることも。
けれど、決断には僅かの逡巡もなかった。戻る道さえ消し飛ばされては躊躇う意味もないのだから。
繋がるベルゼブモンの旋律にほんの少しの乱れ。相変わらず甘い魔王様だと、ヴォルフモンは笑う。それでも止めないのは、それしかないと分かっているから。いいや、きっと、それだけではない。
スピリットが輝きを増す。人と獣、二つの魂が溶け合っていく。進化の道へ背を向けて、古の魂を呼び起こす。
ヴォルフモンにガルムモンの影が重なって、その姿が陽炎のように揺らぐ。
そうして――太古の英雄たる“光り輝く至高の獣”――エンシェントガルルモンが、現代のリアルワールドへと降臨する。
「さあ……行くぞインプモン!」
とうに彼女ではない声。けれど彼女しか呼ばないその名前に、ベルゼブモンはほんの少しの雑念を振り払い、右腕の砲を構える。
勝負は一瞬。初撃がすべて。
禁忌を冒して得た力も、あの怪物を真っ向勝負で捻じ伏せるには足りないだろう。なにせデジタルワールドの全勢力をもってしても討伐は叶わなかったのだ。
だが、その戦いが無駄であったはずがない。無傷で済んだはずがない。
怪物にまともな痛覚があるかは定かでないが、肉体を持って存在する以上、物理的な活動限界はある。
デジモンたちもそう考えたのだろう。デジメロディで探るまでもなく、ダメージの大半は電脳核があるであろう位置に、胸部に集中してきた。
狙うはここ一点。機はこの一瞬。
たかが人間と、たった二人で何ができると、侮っている今しかない。
「おおおおおぉぉぉ!!」
古狼が雄叫びを上げる。その身を光に変えて飛翔する。
怪物はようやくそれが己を害するものと理解するも、迎撃には僅かに遅い。
振るった腕の間を縫って、一条の閃光が怪物の胸へと突き刺さる。二振りの大剣が胸板を裂き、その衝撃に怪物の身体がゆっくりと傾いていく。
致命傷にはまだ遠い、が、これで十分。射線は、開いたのだから。
「カオス……フレアぁぁぁ!!」
仰向けに倒れた怪物の胸目掛け、ベルゼブモンが引き金を引く。デジタルワールドでは通じなかったその一撃。けれど、“調律”されたそれは、もはや以前の比ではない。
皮も、筋肉も、骨も切り裂かれ、臓器が露出した今の状態で、すべてを焼き尽くす混沌の火に耐えることなど、できようはずもない。
破滅の波動が怪物の体内を駆け巡る。血管を、筋繊維を、細胞を、電脳核を焼き焦がす。破壊は連鎖し、その命の一欠片さえも残すまいと荒れ狂う。
怪物の口から呪詛にも似た断末魔が響く。肉体は崩壊し、旋律は弱々しく消えていく。
黒い粒子となって霧散する怪物を前に、古狼は小さく息を吐く。魔王もまた引き金から指を離す。
倒せた――そう安堵した瞬間だった。
巨大な腕が、古狼を薙ぎ払ったのは。
状況を理解するにはベルゼブモンさえ一瞬の間を要した。
デジコアを破壊されて消滅したミレニアモンの、その巨大な腕がエンシェントガルルモンへ襲いかかったのだと、そう理解するには。
倒した。確実に。
消滅した。間違いなく。
だが奴はまだ存在している。否、まだ、とは正確ではない。
死して、蘇ったのだ。
まるで炎や陽炎のような不定形の肉体を持つ、二色の獣が絡み合った、禍々しい姿で。
それも、天を摩するが如き馬鹿げた巨体を以て。
邪神――“ズィードミレニアモン”。
知るはずのない名が頭を過ぎる。知るはずのない恐怖と絶望が、蛮勇なる魔王の心にさえ杭のように突き刺さる。
腕をほんの一振り。抗うこともできず豆粒のように飛んだ古狼も、それを追うことすらできない魔王も、もはや眼中にもないのだろう。邪神はこれから滅びゆく世界を見渡し、薄く笑う。
まるで、悪夢そのもののような顔で――
◆
気付けば海の中だった。
巨大な腕で虫けらを払うように薙ぎ払われ、為す術もなく海へと落とされた。
硬い地面に叩きつけられるよりはマシだったかもしれないが、とうに全身の装甲も、身体も粉々だった。
負けたのだ。未来さえ捨てた禁忌の力も、嘲笑うような異次元の怪物に。
インプモンはまだ戦っているのだろうか。であれば加勢に向かわねばならない。
けれど、心も身体ももはや、立ち上がることなどできそうもなかった。
このまま海の底へ、死の底へ沈めば楽になる。もう、楽になりたいと、か弱い少女は古狼の中で膝を抱えて泣いていた。
あれは恐怖と絶望と、悪夢の権化。
世界に終焉をもたらすがために存在する、神の如き怪物。
自分たちはあれを知っている。きっと、ここではない別の世界で出会い、そして、今と同じ結末を辿ったのだろう。
根拠などない。いいや、必要ない。それはただの事実なのだから。
『――――』
「……え?」
声が聞こえた。音など響くはずもない海中で。
懐かしい声だった。まるで知らない声なのに。
涙が溢れた。名前も知らない誰かの姿が浮かぶ。知らない出会いと別れの記憶が、頭の中を駆け巡る。
失ってはいけない、忘れてはいけないはずなのに、知らないうちにこの手からこぼれ落ちた大切な絆が、時と空を超え、語りかける。
『闇は光に』
雄々しき漆黒の獅子と、それに重なる長身長髪の少年の影。
夜が明けて朝が来るように、闇より光はいずる。
『水は星に』
凛然たる人魚の騎士と、それに重なる小柄な少女の影。
煌めく飛沫は朝焼けに舞い、明星となって地平を照らす。
『鋼は砲に』
幽玄なる鏡の賢者と、それに重なる痩躯の少年の影。
冷たい鋼は熱と叡智をもって砲となり、立ちはだかるものを討ち滅ぼす。
友は言う。
ここにいると。
だから……大丈夫、と。
◆
ベルゼブモンは己の歯牙を噛み砕かんばかりに食いしばり、遥か高次に座する邪神へと砲撃する。
まるで天に石でも投げるような気分だった。
九分九厘、自分はここで死ぬだろう。それでも、退く理由にはならなかった。
正義か、使命か、誇りか、弔いか。いいや、どれでもない。
俺が魔王・ベルゼブモンであるという、ただ、それだけのこと。
破滅の波動が邪神へと着弾する。手応えはまるでない。邪神もまた、何かしたかと言わんばかり。
それが、どうした。
構わず撃ち続ける。ただの一撃もかすり傷さえ与えない。互いに分かっていた。無駄な足掻き。その、はずだった。
性懲りもなく放った破滅の波動が、否、紅蓮の獄炎が、邪神の肌を焼き焦がす。
あり得ない一撃に邪神が僅かな動揺を見せる。だが、当のベルゼブモンに戸惑いの色はなかった。
真紅に染まった仮面の奥から金色の三眼が邪神を見据える。煉獄の火・エル:エヴァンへーリオを従え、“X”の名を冠する魔王は、悠然と紫紺の四翼を広げる。
自らに起こった変化を、進化を、彼は理解していた。
何のことはない。彼女が辿り着いた境地に、その極致に、自分もまた引き上げられただけのこと。
魔王を睨みつけていた邪神が、はたと振り返る。
海面に立つその姿が目に留まる。邪神からしてみれば砂粒にも等しい小さなその姿に、まるで視線が縫い付けられたよう。
それは伝説を超えた新時代の闘士。光の真神――“マグナガルルモン”。
それは天理さえ覆し、邪神すら屠りしものの名。
胸部のレーザーサイトが邪神を捕捉する。全身の重火器に弾丸が装填される。
神威の魔王が暴食の冠を宙に描く。エル:エヴァンへーリオが銃口に灯る。
その瞬間、邪神は確かに恐怖した。
「マシンガンデストロイ……!」
「セブンス・フルクラスター!!」
マグナガルルモンの全身の重火器が一斉に火を吹き、天の怒りが如き無尽の火と硫黄が、邪神の体組織を破壊する。
ベルゼブモンの放つ煉獄の火が暴食の冠を介して超圧縮され、一条の閃光となって邪神の身体を貫く。
マグナガルルモンは弾丸を撃ち尽くした兵装をパージし、その身をもって邪神へ迫る。亜光速、光速、そして超光速にまで加速し、描く光の軌跡が邪神を切り裂く。
天の理をも揺るがす願いの結晶、光の真神によって、邪神は永劫の無へと沈む。
そして戦いは、ようやく本当の、決着の時を迎える。
沢山の、犠牲の果てに。
やがて真神は光の粒子となって霧散する。
「さよなら、みんな……」
それが、英雄の最後の言葉だった――
-終-