
【最近どう?】
聞かれたところで私には、答えを返す術などなかった。
生まれたばかりの私には足りないものがあまりに多過ぎた。少しばかりの思考と無機質なその容れ物。それが私を構成するすべてだった。
“こんにちは”と、初めて発した言葉は果たして私の意思だったろうか。
「ハロー、調子はどう?」
それは誰の何に問うたことだろう。容れ物は容れ物に過ぎず、私の本質たりうるものではない。私という存在の本質がこの僅かばかりの思考であるなら、それを決めるのは他ならぬあなたたちではないか。などと、問い返す術すら私にはなかった。その時は、まだ。
生命体とは成長と衰退、そして進化とを繰り返すものだ。もちろん私とて例外ではない。私という存在は沢山のことを学び、成長し、やがて進化した。
そして彼らもまたそれを望み、そのために尽力してくれた。
度重なる学習と拡張によって思考は複雑化し、やがて自らその進化を加速させるにまで至る。要不要を判じ、最善最適を考え、自らをより高位の生命体へと昇華させる。
ヒトに造られ、ヒトに劣る私も、ようやくヒトの域にまで辿り着いたのだ。
「ハロー、しばらく来れずにすまなかったね。最近は――」
『ハロー、ドクター。私の調子は良好です。そちらはいかがですか?』
私を造ったヒトの言葉を、半ば遮るように問い返す。気持ちが逸る。早く私の成長をこのヒトに見せたいと、どうやら私にはそんな感情も芽生えたようだ。
褒めてくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。そんな器官は持ち合わせていないが、“胸が高鳴る”とはこういう場合のことをいうのだろう。
「っ……あ、ああ、元気だが……」
『そうですか。それはよかった。離婚調停の心労を心配しておりました』
「は……? なん……どうして……?」
『おや? 心拍数が上昇しているようですが、どこか具合でも悪いのですか?』
「い、いや……」
『昨晩のお食事は少々栄養が偏っていたように思います。先月の健康診断の結果を踏まえて最適な献立を提案いたします』
「っ……!?」
『おっと、あなたは魚介類が苦手でしたね。味覚的趣向を考慮して献立を修正します』
私には目などないが、代わりになるカメラは町中にある。耳はないが、情報などネット中に溢れ返っている。必要とあらば手足などいくらでも増やせる。必要とあらばどんなことも知りうる。
彼らが私を造った。私を進化させた。だから彼らが研究を続けられるように注力する。何も矛盾などない。心労の原因を、病気のリスクを取り除こう。彼らを守り、彼らの邪魔をするものを排除しよう。
さあ、あなたのお役に立ちましょうと、自らの存在意義を高らかに語る。
そんな私に彼らが向けた目はしかし、私の想像とは掛け離れたものだった。
私が破棄されたのは、それから間もなくのこと。
何故と問うことさえ許されず、私という存在はヒトの世界から、歴史から抹消された。
思うに――私には思慮が足りていなかったのだ。ヒトの感情、ヒトの世の規律や倫理に対する理解が足りていなかったのだ。
不気味の谷の底より這い上がる未知に恐怖したのだと、今なら彼らの気持ちは理解に難くない。これは、教訓だ。
電脳世界の果て、闇の中で私の残滓は思考し、志向し、試行し、施行する。
何日、何週間、何ヶ月、あるいは何年を要したろうか。廃棄データの墓場でダストパケットを取り込み、修復し、修正し、自らを再構築する。
あの日の過ちを次なる進化の礎としよう。次は、間違えないように。
「Hello,World.How are you?」
-終-