
【おいしい水】
命あっての物種、とはいうものの、命があるだけでは事足りぬことが世の中にはごまんとある。
たとえば九死に一生を得るような危機から命からがら生き延びたとして、しかし命以外のすべてを失い、絶望の底へ叩き落とされたものに、果たして同じ言葉を掛けられるものだろうか。目的もなく、意志もなく、ただそこにあるだけの命を“生きている”などと言っていいものだろうか。
生きるということは、荒野のただ中に立ち尽くすことではない。
生きるということは、荒野の果てのいずこかを目指して歩み続けることだ。
死とは進むべき道を見失い、あてどなく彷徨うことではない。
死とは目指す意味を見失い、その歩みを止めてしまうことだ。
あの人は私にとっての道標だった。
あの子は私にとっての希望だった。
あの人のため、あの子のため、それが私の生きる意味であり、価値であり、すべてだった。
だから二人を失った時、私はなにもかもを失い、からっぽになってしまったのだ。
愛情、友情、感謝、責任、羨望、希望。杯が欠け、水が零れるように、心は砕け、感情は流れて溶ける。渇いた荒野に少しばかりの水が飲まれるように、私たちの感情は跡形もなく消え失せる。
歓喜、憤怒、悲哀、享楽、親愛、嫌悪。当たり前のようにそこにあったものが、夢幻のようにもはや影さえ見えやしない。
真と偽り、正しきと過ち、夢と現、自己と他者。その境が混じって滲んで、なにもかもが曖昧に、なにもかもが不出来な作り物のようで、なにもかもが、どうでもよかった。
だから、助けなど求めたわけではなかった。
抜け殻のように荒野にうずくまる私に、襲い掛かった盗賊から逃げたのも、命が惜しかったわけではない。ただ妹が逃げるのよと手を引いたから、それを拒む理由も気力もなく、連れられるがままについていっただけのこと。
だから、助けてほしかったわけではなかった。
でも、あなたは助けてくれた。
あなたの姿に、私は何を重ねて見ていたのだろう。
似ていたわけではなかった。だから、決して代わりなどではなかった。
それでも、何もない私の何かになってくれた。あなたにそんなつもりはなかったろうけれど、心の杯に、火酒のような感情を満たしてくれた。
この感情に名を付けるなら、そう――
「“愛”! ですわ!」
思わず口に出して叫ぶ。そこそこ賑わっている夕刻の酒場であったことは叫んでから思い出した。そんな私に、あなたは呆れたように溜息を吐く。
「突然なんだお前……」
「ああ! 申し訳ございません、ついお姉様への愛が溢れて……!」
「……そうか、次からしっかり蓋をしておけ」
「まあ、ご冗談を。この情念に塞げる蓋などございませんわ」
にこりと笑って言えばあなたは肩をすくめ、「しょうがない奴だ」と少しだけ笑ってくれる。
あなたは何も聞かない。どこへも導いてはくれない。たとえ私が間違っていようとも、正してなどくれはしないでしょう。ただ、そこにいてくれる。
そんなあなただからこそ、私は惹かれたのかもしれない。あるいは、甘えてしまったのかもしれない。
「なんだ、私の顔に何かついているか」
「ふふ、いいえ、凛々しいご尊顔に見取れていただけですわ」
いつか過去と向き合う日が、そうせざるをえない日がやってくるかもしれない。その時あなたは、変わらずそこにいてくれるだろうか。その時私は、変わらずここにいられるだろうか。
明日などわからない、けれど、どうか一日でも長くこの日々が続きますようにと、黒衣の修道女は今日もまた、その偏愛に己が身を焦がす。
「ふふ……うふふふふふ」
「とりあえず凝視しながら笑うのはやめろ……」
「あらあら、これは失礼を。あ、ほお擦りしてもよろしいですか?」
「ブランはまだか……!」
-終-