
【真夜中のラブレター】
噂を聞いたのは、つい先日のことだった。
カーテンの隙間から細く朝日の差し込む部屋の中で、少女は眉をひそめていた。
視線は勉強机の上。参考書が整然と列ぶ卓上からは少女の几帳面な性格が伺える。昨夜に日課の予習と復習を終えた後、いつも通りに片付けたその机。置かれているのは白い端末だけだった。
そう、いつも通り。いつも通りの、はずなのだが。何かが引っ掛かる。違和感が拭えない。何かを忘れている気がしてならなかった。
時刻は午前8時を少し回ったところ。いつもよりは随分と遅い目覚め。土曜日だから早く起きる必要はないのだけれど、早寝早起きは物心ついた頃からの習慣だった。その習慣が崩れたのは、起床が遅くなったのは、そう――就寝が遅くなったからだ。
なぜ、と自問する。
何に対してだったろうか。
朝には強い少女の頭は、起きて数分足らずで既に普段の回転速度を取り戻しつつあった。
だから、その疑問はとうに昨夜のことではなかった。昨日の夜に何をしていたかはもう思い出せた。思い出せたからこそ、わからないのだ。
机の上に、スマートフォンしか置かれていない理由が。
その瞬間の表情を形容するに最も相応しい言葉は、“血の気が引く”であろう。
青ざめて、少女はわなわなと震える。
何がどうしたかなどわからない。わからないが、事態は深刻だった。机の上からはあるはずのものがなくなっていたのだ。
深夜のテンションに任せて書いてしまった、あの手紙が。
あんなもの、絶対に人には見せられないというのに。
なぜ書いたのかというなら、魔がさしたとしか言いようがない。
そう、あれは週半ばのことだった。クラスメートが噂をしていたのだ。
元はとある電子掲示板から広まった都市伝説、所謂ネットロアだという。他愛のない、おまじないのようなものだった。
好きな人へと宛てた手書きのラブレターとスマホを夜中に机の上へ置いておけば、妖精がその想いを伝えてくれるという、こっくりさんの類にしてもいまひとつ練られていない感のある、陳腐な噂話。単なる世間話の種だった。
信じた訳ではない。ただ深夜のテンションに、つい魔がさしただけだった。
本当に妖精が手紙を持って行ってしまうだなんて、夢にも思えるはずがないのだから。
少女は膝から崩れ落ち、両手で顔を覆う。よくよく内容を思い返せばラブレターと呼ぶのもおこがましい、ただの痛々しいポエムになってしまっていた気もする。いやきっとそうだった。
家族が悪戯心に持ち去った。書いた後に自分で捨てたかどこかへ仕舞っていた。そんな可能性にすら思い至れないほど、少女は打ちのめされていた。
そして事実、それは取り越し苦労などではなかったのだ。
同じ頃、少女の想い人である少年が差出人不明の謎のポエムメールにただただ眉をひそめていることなど、今はまだ知る由もないことだった。
そしてそのすべてが、本当に妖精の仕業であることもまた。
少女の誤算は、小学生が考えたようなその妖精がまさか実在したということと、もう一つ。
自分たちの暮らす世界へやって来た時からずっと、妖精はその少年に興味を持ち、コンタクトの機会を窺っていたということ。
電子の妖精・デジノームは、その小さな羽に人々の想いを乗せ、今日も電脳の海を舞う。
それは言語を持たない彼らなりのコミュニケーションであり、そこにあるのは何よりも純粋な善意であった。
惜しむらくはただ、何をどう伝えることが最も望ましいかをフレキシブルに判断する能力を、彼らが持ち合わせていないということだけだった。
「違うんですよ、アユムさん!?」
程なくして少女から掛かってきた電話に、少年は眼鏡をくいと上げ、益々眉間のしわを深くするのであった。
「何の話だ……」
-終-