
【8/1】
金属板に刃物で刻まれたその文字は、たとえどれほどの月日を経ようと消えることはなかった。
まるで、忘れないでと声を枯らすほどに叫び続けるように――
デジタルワールドの中層を形成する広大な海のレイヤ、通称“ネットの海”。地軸が貫くその中心点には小さな島が浮かんでいる。
名を、はじまりの島――“ファイル島”。
それは世界が始まった場所。原初のデジタルワールドはその小さな島からすべてが始まったのだ。
島の中心には“ムゲンマウンテン”と呼ばれる巨峰が聳え、その麓には小さな町があった。
デジタルワールドに存在するすべてのデジモンが生まれ、旅立ち、やがて死しては還る“はじまりの町”。それは遠きリアルワールドより招かれた救世主たちの多くにとっても、長く壮大な冒険の出発点となっていた。
すべてが始まるその地に、それはあった。
町外れの小高い丘の上には、リアルワールドでいうところのトネリコに似た木がただ一本きりでぽつんと佇んでいる。その木の根元には、金属の板が埋め込まれていた。
誰がどんな目的でそうしたかは分からない。あるいは、初めからそうだったろうか。有機物と無機物の混在などこの世界では珍しくもない。
ただ、いずれにせよ金属板自体が何であるかはさして重要ではなかった。見るもの誰もが目に留める訳は、そこに刻まれた文字にあった。
“8/1”――深く深く、強く強く、刻まれたその文字は何を意味しているのだろうか。
恐らくは日付であろうそれ。選ばれし子供が残したものだと町の古い住人たちは語る。ただ、彼らとて伝え聞いた話でしかないそうだ。
記念碑のようでもあった。だとするなら彼らがこの世界にやって来た日か、あるいは去った日か。
墓標のようでもあった。だとするなら誰かの命日だろうか。子供たちと心を交わした、共に戦い散った仲間への弔いか。
日付ではなく“いちぶんのはち”と、“8人で1人”を意味しているのではというものもいた。
かつてのデジタルワールドは実に不安定だった。
情勢という意味でも、地質や気候も、デジモンたちの進化に至るまで。善と悪、生と死、正と否、その境に世界が絶えず揺れ動いていた。
かつてのすべてを知るものは、少なくとも町には残っていなかった。
だからそれが何を意味するか、はっきりとしたことは誰にもわからなかった。
けれど、誰もがそこに不思議な感情を抱いた。
僅か3文字の、何かを伝えるにはあまりに言葉足らずが過ぎるそれ。事実何一つとして伝わってはいないのに。だというのに。
望郷、哀愁、懐古、感謝、悲嘆、安堵、惜別、あるいは歓喜。あらゆる感情がないまぜになったような、そのどれでもないような、言い表す言葉の見付からない感情だった。
ただ、とめどなく涙が溢れて仕方がなかった。
ともすれば、本当に伝えたいことに多くを語る必要はないのかもしれない。
想いさえあればいい。
それはどんな言葉よりも深く、どんな力よりも強く、世界に爪痕を残すだろう。
あるいは、とうに誰か一人のそれではないのかもしれない。
沢山の人間たちと、沢山のデジモンたちと、数え切れない誰かの想いがそれを形作っているようにも思えた。
誰かの想いがまた違う誰かの想いとなり、手と手を固く繋ぐように、耳元で優しく囁き合うように、想いは無限の連なりとなって未来へと続いていく。
そんな風に、ふと思う。
8月1日。そして今日もまたこの地から、生まれたばかりの真白い蝶が飛び立っていく。
無限大の、夢を抱いて――
-終-