
【カーネーションの花言葉】
「ありがとうございました」
丁寧に飾り付けられたカーネーションの花束を受け取って、ふうと息を吐く。母の日に贈り物なんていつ以来だったろうか。思ったよりも高くついたが、まあいいさ。店員のお姉さんに小さく礼をして店を後にする。
帰りの道すがら、夕焼けに染まる街を優しい春風が吹き抜けた。花束に添えられたリボンを見て、思わず笑みが零れる。
俺は今、恋をしている。
何か大いなる誤解が生まれた気がするので言っておくが、俺は手の施しようがないレベルのマザコンとかでは決してない。
俺が恋する相手は、この花束を飾り付けてくれた花より可憐な花屋のお姉さんだ。
ああ、アオイさん。俺は今、君に恋している。
それが実らぬ恋と、いや、実ってはならない恋だと知りながら――
事の始まりはそう、高校一年の学年末。まだ少し肌寒い3月のとある日のことだった。ひょんなことから俺は、デジモンという不思議な生き物たちと出会ったのだ。
「来たゾ」
と声を掛けるのは相棒のサンダーボールモン。青いボールに手足が生えたような、見るからにこの世界の生き物ではないその姿。常人には見えも聞こえもしない相棒の言葉に、俺は無言で頷く。
何がと問い返す必要はない。デジモンが現れたのだ。戦いが、今日もまた始まるのだ。
人間に善悪があるように、デジモンだって千差万別だ。中には、人に害を為すものもいる。そして、そんなデジモンたちから人々を守るために戦うものもまた。
そう、俺と相棒たちは悪のデジモンから街の平和を守るため、日々こうして人知れず戦いに身を投じているってわけだ。
人々の、変わらぬ笑顔だけを報酬に。
だから、決して巻き込むわけにはいかない。俺に惚れると火傷するぜ、なんて冗談にもなりゃしねえ。戦火に身を焦がすのは、俺一人で十分だ。君に火の花は似合わない。
相棒とともに人気のない路地裏を駆け抜ける。ビルの谷間に異形の影を認め、頷き合う。
「スピリット……エボリューション!」
閃く紫電を身にまとい、黄昏の街を駆る。標的は成熟期、黒炎の邪竜・ダークリザモン。相棒に目配せをし、廃ビルの屋上へと追い詰める。
悪く思うな。
呟くように零し、必殺の一撃を叩き込む。分解されゆくデータをデジヴァイスにスキャンする。
はあ、と息を吐き、路地裏へと引き返す。置いてきてしまった荷物を拾い、花束を抱え上げる。赤い花弁が風に揺れる。
赤いカーネーションの花言葉は“母への愛”、あるいは“真実の愛”。だが、西洋においてはまた別の意味がある。
“My heart aches for you”――“君に会いたくてたまらない”。
苦しいほどに、狂おしいほどに恋い焦がれるこの心に、添えるべき花は赤いカーネーションを置いて他にない。真っ赤な花弁はまるで、恋に焦がれるこの心のよう。
まったく、運命って奴はどうしてこうも意地が悪いんだろうな。
やれやれと、肩をすくめて少年は帰路につく。
けれど彼はまだ知らなかった。この街でかつて、デジタルワールドへと繋がるゲートが開かれていたことを。その影響によって揺らいだ次元の壁に、度々極小規模のゲートが開いていたことを。多くの子供たちが、デジモンと出会っていたことを。
そして街の花屋“フラワーショップ・マリアージュ”で働くその女子高生が、自分よりずっと以前にデジモンと出会っていたことも。比べものにならないほどの激戦を経験していたことも。ついでに特に異性として意識されてはいないことも。
少年は、まだ知らなかった。
-終-