■5周年リクエスト小説①:「-NiGHTMARE-」スピンオフサイドストーリー
-NiGHTMARE:hidden-
【あたしがデジモンになった日】
プロローグ
◆Ⅰ
前編
◆Ⅱ
◆Ⅲ
◆Ⅳ
◆Ⅴ
後編
◆Ⅵ
◆Ⅶ
◆Ⅷ
◆Ⅸ
◆Ⅹ
エピローグ
◆ⅩⅠ(a)
◆ⅩⅠ(b)
◆ⅩⅠ(c)
気が付けば少女は、星の海にいた。
小さな光がぽつぽつと点る、上も下も判らない闇の中だった。
――これは――
あまりにも現実味のない光景に、きっと自分は夢を見ているのだと少女は思う。
宇宙空間のような場所をぷかぷかと漂うなど、夢以外の何物でもあるはずがないのだから。
――あなたと――
夢、だろうけれどと、しかし少女はおもむろに記憶を辿る。
そうだ、今日は夏休み最後の日。買い換えたばかりのスマホの調子が悪く、暑い中、大通りのスマホショップへ向かうことにしたのだ。向かって、それから……?
――世界の――
そうして次第に思い出す。
そうそれは、道すがら届いた一通のおかしなメールだった。
ノイズの走る画面に浮かび上がったのは便箋型のアイコン。タップした途端、開いた便箋から白い霧と、白い羽が溢れ出したのだ。
画面の中でそんなアニメーションが再生されたという話ではない。画面の中から、現実の世界へとそれは飛び出したのだ。
そして……そして気付けばここにいた。
――運命を決める――
ふと頬をつねる。
漫画でしか見たことのない確認方法を人生で初めて試せば、大概の漫画でそうであるように、頬はじんじんと痛かった。
いひゃい、と零した声は闇の中に響いては溶けて消える。
目の前に広がる摩訶不思議な光景は、どうやら現実らしい。
――戦いです――
声が聞こえた。いや、聞こえていた。ずっとずっと、耳元で語りかける声が聞こえていた。どうして気が付かずにいられたのか不思議なほどはっきりと。
誰、と。手応えもない闇を掻くように身を翻し、何処とも分からず誰とも分からぬ声へと問い掛ける。
姿のない誰かが、小さく息を飲んだ気がした。
こつん、と、宙でばたつく片足の爪先が何かに当たる。と思えば、足元に彩りと重力が生まれ、心地の悪い浮遊感が途端に消える。
今の今まで影も形もなかった足場に降り立ち、少女は数歩たたらを踏む。
闇に浮かぶそれは彩り鮮やかな、まるでステンドグラスのような円形の舞台だった。青を基調とした硝子の絵画。よくよく見るならそこに描かれていたのは、穏やかな海原を優雅にたゆたう人魚姫。その両手に大粒の真珠を乗せ、微笑みを湛える。
さあ、と。
まるで手渡すように、差し出すように、手に取れと言われた気がして少女はふらふらと硝子の舞台を歩いてゆく。真珠が描かれたそこに、その上に、淡い光を纏ってふよふよと浮かぶのは不思議なアーティファクトだった。青く、流線型を描くそれは魚か何かの身体の一部のようにも見えた。
ようやく会えたわね。
そんな声が聞こえた。先程までとは違う、ずっと幼いその声は、どこか聞き覚えのある声だった。
そっと手を伸ばす。そうして二人は、少女は光の中に立つ彼女と、握手を交わす――
気が付けば少女は、真っ白な砂浜に伏していた。
長い黒髪を白浜に投げ出す様はまるで難破船からの漂流者のようだったが、その髪や服は濡れてもおらず、怪我の一つもしていなかった。
ううん、と小さく唸り、少女は身を起こす。辺りを見回して、目をぱちくりとさせる。しゃり、と手が砂を掻く。夢、とは到底思えないリアルな触感。思わず握りしめた手を顔の前まで上げて、そっと開けば指の隙間から砂粒がさらさらと零れ落ちる。
砂の感触。波の音。髪を撫でる潮風。すべてがこれ以上もなく現実味に満ちて、頬をつねるよりずっと確かにずっと痛いほど、これが現実の出来事なのだと少女に突き付ける。
「ここ、は……」
だからこそ、尚のこと訳がわからない。街中にいたはずの自分がどうしてこんな砂浜にいるのかなんて。
「どこ……?」
誰にともなく問い掛けた言葉は海風にさらわれ消えて、答えなど返ってくるはずもない。はずも、ないと思っていたのだけれど。
「さて、どこだろうな」
「ふぅうぇ!?」
ざり、と砂を踏み締める音とともに聞こえた声に、少女はびくりと震えておかしな声を上げる。
振り返ればそこには少年が立っていた。歳の頃は少女と変わらない、14、15歳といったところだろう。白いシャツと黒いスラックスは、暑い日差しの照り付けるビーチにはあまりに不釣り合い。眼鏡を指でくいと押し上げ、はあ、と溜息を吐く。
「えっとぉ……どちらさま?」
少年の後ろ、海と逆側には鬱蒼としたジャングルが広がり、どうやらそこから出て来たようだが、そんな場所をうろつく服装にも見えなかった。
少年は砂浜に座り込む少女を見て、ふむと唸る。
「君も、奇妙なメールを受け取ったのだろう」
「え? あ……うん、そう!」
言われて、途端に記憶が鮮明に蘇る。
「そして暗闇でおかしな声を聞いた」
「そう! そうそう、それ!」
人差し指をぴんと立て、じゃりじゃりと砂浜を這うようにして少年へと詰め寄る。
「で、気付けばここにいたと」
「そお~なの! わ~、もう訳わかんない! ねえ、ここどこ!? あなたは?」
「私も同じだ」
「同じ? ほぇ?」
「君と同じ経緯でここにいる。だから、悪いがそれ以上のことはわからない」
「あぅ! そうなんだ……」
少年の言葉に少女は「ガーン」なんて効果音が聞こえてきそうな顔でわかりやすく肩を落とす。
「あ、ねえ、ここにいるのってあたしたちだけ?」
「いや? もう一人……」
そこまで言ったところでジャングルへ目をやると、ちょうど同じタイミングで草木をがさがさと掻き分け、また別の少年が姿を見せる。
歳はやはり同じくらいか。しかし眼鏡の少年とは随分とタイプが違った。長身に、トレーニングウェアのような服の上からでもわかる筋肉質。長い髪を髷のように結い、険しい表情を浮かべる。サムライみたい、というのが、少女の抱いた第一印象だった。
「木の上から見てみたが、やはりこちら側はどこを向いても海だ」
「他に人は?」
「見える範囲には誰も。いるとすればジャングルだが……」
二人の少年は腕を組んでちらりと少女を一瞥し、小さく頷く。
「どうやら我々だけのようだな」
「ほえ? え、なんで?」
「君は自分の声の大きさを自覚していないのか」
「あ……あー、なるほど」
あれだけ騒いでいまだ姿を見せないのだ。少なくともこの付近にいるのは自分たち三人だけ、と、少年たちの言わんとしていることを遅れて理解し、少女はぽんと手を叩く。
「あ、てゆーか、どこ向いても海って……ここ島なの?」
少女が首を傾げて問えば、眼鏡の少年はジャングルの更に奥をくいと指差す。見渡すその先には高い高い、岩山がそびえ立っていた。
「あの向こうも海ならそうなるな」
「ほあー、なるほど……。あー、んじゃあ、えっと、とりあえず行ってみる?」
「簡単に言ってくれるな。随分と距離もある。着いたところで登山道があるようにも見えんが」
「そだけどぉ……でもここにいてもしょーがなくない?」
自分の頬をぷにっと突いてもう一度首を傾げてみせた少女に、眼鏡の少年はふむと唸る。長髪の少年が腕を組みながら小さく頷く。
「……そうだな。埒が明かん」
「やれやれ、仕方ないか」
「いよっし、じゃ決まりね! えっと……あ、名前聞いてなかった。あたし露崎真理愛! マリーちゃん、って呼んでくれていーよ」
なんて言われて少年たちは一瞬顔を見合わせ、何事もなかったというような顔をする。
「仙波歩。まあ、好きに呼んでくれ」
「百鬼、灯士郎だ。よろしく頼む」
「オッケ、アユムに灯士郎ね! あたしはマリー! よろしく!」
ぐっと、顔の前で力強く親指をおっ立て、念を押すように今さっき言ったことをもう一度言う。
眼鏡の少年、ことアユムは眉間を指でぐっと押さえ、深々と溜息を吐いて問う。
「なぜそうも愛称で呼ばせたがる」
「え~? だってぇ、なんか“真理愛”って大袈裟じゃない?」
「は、なら苗字で呼んでやる。よろしくな、つ・ゆ・さ・き君」
「ぶー、いじわるー」
などとわいわい言い合う二人を、長髪の少年、灯士郎は腕組みをしながらどこか遠い目で見る。そんな彼の顔を不意にひょこっと覗き込み、少女、マリーは悪戯っぽく笑いかける。
「灯士郎は呼んでくれるよね、マリーちゃんって」
「ぅ……ぬ、努力する」
「うーん、そんな力むやつでもないんだけど。ま、いいや」
ふふ、と微笑んで、マリーは砂浜をさくさくと跳ねる。
「そだ、歳は? あたしね、14歳。中2!」
問われてアユムは眼鏡をくいと上げ、灯士郎は小さく息を吐く。「元気な子だな」と、二人して同じ感想を浮かべる。ただ、この訳のわからない状況下にあっては少し、ほんの少しくらいは心強いような気がしないでもなかった。
「15。君の一つ上だ」
「同じく。学年はもう一つ上だが」
「はうあ!? 年上だった! あ、タメ口きいちゃった」
「はあ……別に構わん。好きに呼べと言ったろう。見ての通り体育会系でもないものでな」
アユムが言えば見た目がちがちの体育会系な灯士郎もまた、さして気にする風でもなく頷いてみせる。
「あ、そう? じゃ遠慮なくー」
というけろっとした返しは若干予想外ではあったけれど。
そうこうしながら浜辺を進んでいるとふと、アユムが「ああ」と声を上げる。
「そういえば露崎君、スマホは持っているか?」
「ういー、マリーちゃんは買ったばっかで壊れたスマホを持ってまーす。あ、そっか、助け呼んだらいいんだ! って……あれ?」
アユムの言葉にマリーはバッグを探り、ふと、指先の感触に眉をひそめる。バッグの中のそれを取り出し、そして、ますます眉間のシワを深くする。手に取ったそれは、自分のスマートフォンなどではなかった。
「やはりか。我々もだ」
「ほえ?」
「俺たちも同じものを持っている」
アユムに続いて灯士郎が言い、ポケットから卵形をした玩具のような端末を取り出してみせる。アユムもまた同じものを手に、肩で息を吐く。二人の言葉通りそれは、マリーのバッグに入っていたものと同じ形のデヴァイスだった。
マリーは青と水色、アユムは濃淡の緑、灯士郎は黒と灰色。配色こそ違えど、三人が手に持つのはどう見ても同じものだった。
「で、こいつの代わりにスマホが見当たらない、と」
親指と人差し指でデヴァイスをつまみ、中央の液晶画面を見ながらアユムは言う。マリーはもう一度、食い入るようにデヴァイスを覗き込み、
「どゆこと?」
なんて問う。アユムは深々と溜息を吐く。
「私にわかるはずがないだろう」
「あぁ、うん。そっか。そりゃま、そだよね」
うんうんと、腕を組んでマリーは素直に頷く。もう一度、デヴァイスをまじまじと眺め、液晶の下部にあるいくつかのボタンをこちこちと弄ってから、ぷうと頬を膨らませる。
「ねえ、結局この状況ってなんだと思う? 誘拐とか?」
どこを押しても何の反応もないデヴァイスを、マリーは詰まらなそうに再びバッグへ仕舞い、もう一度、アユムと灯士郎へ向き直ってそう問い掛ける。わからない、とは言われたばかりだけれど、見るからに賢そうなこの少年のこと。推測くらいは立てているはずだろうと――いうことまで考えての問いではなかったが、とりあえず聞いてみる。
アユムは顎に手を当て、ふむと唸り、おもむろに灯士郎を見る。
「私と君ならともかく、この男を誘拐するのは骨が折れそうだがな」
「あはは、確かにー。ね、灯士郎ってなんかスポーツやってんの?」
「剣道を少し」
「ああ! っぽいね!」
「確かにな」
「む……そうか?」
交互に頷く二人に灯士郎は不思議そうに首を傾げる。少し、どころか実家が古くから続く剣道場で祖父が師範、父が師範代、物心ついた頃には竹刀を振り、高校でも剣道部に所属している限りなくサムライな男だなんて、勿論二人は知る由もなかったのだが、聞くまでもなく大体想像した通りであった。
「でもさぁ、誘拐じゃなかったらなんだろね、これ? なんかファンタジー的なあれ?」
「ともすればただの夢かもしれんな」
「えー? ほっぺつねっはらいひゃいよ?」
などと本当につねりながら言ったマリーに、アユムは少し意地の悪い顔で返す。
「失った手足が痛む幻肢痛というものもある。人の脳はしばしば誤作動を起こすものだ。夢の中で痛みを感じないとも限らんぞ?」
「うへぇ!? そうなの? ええ~、これ夢?」
そんな反応は予想通りすぎてある意味予想外。アユムはどこか毒気を抜かれたように肩をすくめて溜息を吐く。
「素直だな。ある意味からかい甲斐がない」
「ええ!? からかってたの?」
そう、わいわいと騒ぎながら砂浜を進んでいると、不意に灯士郎が立ち止まる。二人の行く手を遮るように片腕を広げ、密林の奥を見据える。
どうした、とアユムが問い掛けるその間際、二人もまた異変に気付いて顔をしかめた。
プロペラ音、のようにも聞こえた。鬱蒼と木々の繁るジャングルからは聞こえるはずもない、鋭く重厚な風切り音。だがそれが機械などでないことはすぐにわかった。進路を塞ぐ樹木などお構いなしに薙ぎ倒し、枝葉の雨とともにジャングルから姿を見せたのは――虫だった。
いや、果たしてそれを“虫”などと言っていいものか。体長はゆうに5メートルはあろうか。甲冑にも似た鉛色の外殻を纏う、巨大なクワガタムシだった。きちきちと不気味な唸りを上げ、目もない顔を三人に向ける。
「なに……これ……」
引き攣った声で問うマリーに、アユムと灯士郎は返す答えなど勿論持ち合わせてもいない。
突然のことに身体も思考も硬直する。睨み合いは、あるいはほんの一瞬だったろうか。沈黙を破ったのは巨大クワガタの雄叫びだった。
ぎしゃあ、と、およそ虫の鳴き声には思えぬ咆哮を上げ、巨大クワガタが顎の鋏をがばりと広げる。
逃げろと、叫んだのは誰だったか。言われるまでもなく三人は駆け出していた。
鉛色の凶刃が砂浜へ突き立てられたのは、その直後のことだった。
転がるようにその場から飛び退く。今の今まで自分たちのいた場所に巨大クワガタの鋏が突き立てられ、かと思えば地雷でも爆ぜたように砂浜が弾け飛ぶ。我が身で受ければどうなっていたかなど、考えたくもなかった。
ぎい、と巨大クワガタが鎌首をもたげ、砂浜で尻餅をついたままそれ以上動けないでいたマリーを見る。声にもならない悲鳴が肺を震わせる。そんな時、
「こっちだ!」
そう叫んだのは灯士郎だった。辺りに落ちていた木の枝や木の実を巨大クワガタ目掛けて投げ付け、自らへ注意を引き付けるように、マリーから注意を逸らすように挑発する。
勇敢、とはとても言えない。蛮勇でしかないことは誰の目にも明らかだった。重機のような化け物クワガタにそこらで拾った棒きれで立ち向かうなど、どんな剣の達人だろうができようはずもないのだから。
「っ……!」
名を呼ぼうとするも声さえ出ない。呼べたところで何をどうしていいかもわからない。
そんなマリーから巨大クワガタを引き離そうと、灯士郎が再び足元の木の実を投じる。ヤシの実に似た硬い殻の実がクワガタの開いたアギトに勢いよく当たり、殻が僅かに裂ける。中から黄色い汁が飛び散り――かと思えば、途端にクワガタが叫びを上げる。毒でもあったか、単に食えたものでない味だったかは定かでないが、クワガタは頭を振ると、嫌悪感と敵意を剥き出しにして灯士郎へと振り返る。
狙い通り、と言えばその通りなのだけれど。生存本能が命じるままに灯士郎が踵を返してジャングルの奥へと駆け出したのは、クワガタが灯士郎に飛び掛かるその間際のことだった。
「……立て! 行くぞ!」
姿の見えなくなる灯士郎に、どうすることもできずうずくまったままのマリーの手を引いて、怒鳴るようにアユムが言う。
置いては行けない。行けるはずもない。けれど、何ができるわけでもない。
マリーはアユムに半ば引きずられるようにして立ち上がり、どうにか走り出す。
「と、灯士郎は……!?」
「今は自分の心配をしろ!」
絞り出すようなマリーの問いに、返すアユムの言葉もまた先程までの余裕などない。
どこへ逃げる? 開けた海岸に身を隠す場所などない。唯一遮蔽物だらけのジャングルは見るからに向こうのテリトリー。どこへ……どうやって……?
くそ、と。己の頭の不出来とこの理不尽への憤りを込め、思わずアユムが吐き捨てたと同時。木々を切り裂く鋭い音とともに、ジャングルから鉛色の巨体が飛び出す。
二人が振り返ればジャングルの真上に巨大クワガタと、その鋏に捕われた灯士郎の姿が見えた。枝と脚を支え棒に鋏の隙間でどうにか持ちこたえてはいたものの、どう見ても時間の問題でしかなかった。
「灯士郎っ!?」
叫んだところで何がどうなるわけもない。ないけれど、マリーは叫ばずにはいられなかった。知り合ったばかりとはいえ目の前で人が、訳のわからない化け物に襲われているのだ。それも、自分を庇って。
ぎりぎりと、低く響くのは誰の何が軋む音か。枝が裂けて折れ、灯士郎の手足も次第に鋏を支えきれずに縮こまっていく。
アユムとマリーは逃げることも忘れてただその光景を見ることしかできない。
ぎい、と、巨大クワガタが不格好に笑った気がした。
ばぎん、と鈍い金属音が空を震わせる。
思わず目を逸らし、腰が抜けたようにマリーは砂浜に座り込んでしまう。アユムもまた動くことさえできないでいた。
ただ――その理由は、違っているようだった。
声が、聞こえた気がした。
知っているようで、知らないようで、どこか懐かしい声だった。
砂浜に何かが落ちる。切断された人の首、だなんて想像が一瞬頭を過ぎったが、視界の端に見えた鉛色に、マリーははっとなって振り返る。隣でアユムが、空を見上げて呆けていた。
「……え?」
ぎいい、と苦しげに呻き声を上げるのは巨大クワガタ。その鋏は片側が中程で断たれ、折れた鋏と思しきものがどういうわけか砂浜に突き刺さっている。
巨大クワガタの鋏の、残る片刃の上には見知らぬ誰かがいた。
騎士だった。獅子を模した黒い甲冑に身を包む、騎士だった。その手に槍を携え、巨大クワガタと対峙する。騎士の槍がクワガタの鋏を断ち切ったであろうことは、なぜだか一目で理解できた。
時が止まったと錯覚するほどに、その一瞬、一場面が長く長く感じられた。やがて一呼吸ほどの間も置かずに時計の針が動き出し、もがき暴れる巨大クワガタの鋏から騎士が振り落とされる。騎士が宙を舞い、その、刹那。
翼もない騎士がその身を翻す。瞬間に光が閃く。そして騎士はゆっくりと地へ落ちて――クワガタの巨躯が、一拍を置いて二つに裂ける。
クワガタの屍は宙で風化するように黒い塵へと変わり、そのまま風にさらわれ跡形もなく消える。
騎士はジャングルへと降り、すぐにその姿は生い茂る木々の影に隠れてしまう。
マリーとアユムはただ、その様を呆然と眺めることしかできなかった。
アユムの制止を振り切ってマリーがジャングルへと分け入り、舌打ちをしながらアユムもまたその後に続く。二人が灯士郎を見付けたのは、程なくしてのことだった。
「さっきの、は……!」
蔦の巻き付く太い木に力無く寄り掛かり、灯士郎は心ここにあらずといった様子でいた。そんな灯士郎に息を弾ませながらマリーが発した第一声は、問い掛けだった。
「灯士郎、だったの?」
その問いへ至った理由はなんだろうか。黒い騎士に変身して巨大クワガタを倒したのか、なんて、あまりにも突拍子がなさすぎる。なのに、マリーはどこか確信してさえいるかのようにそう問い掛ける。アユムも口を挟むそぶりさえなく、黙って答えを待っていた。
灯士郎は、ただこくりと頷いてみせる。
「何が起きた?」
アユムが問えば灯士郎は険しい顔をし、ゆっくりと首を振る。
「よくは、わからない……」
眉をひそめがら、独り言のように言う。
「ただ、声が聞こえた」
「……声?」
灯士郎の言葉にアユムもまた眉をひそめる。何を言っているのかわからない、というよりも、何かが引っ掛かるといった風に。
「一体、これは……?」
「と、灯士郎!?」
ずるずると、木にもたれ掛かりながらその場に座り込み、灯士郎は頭を抱える。見たところ怪我はないようだったが、酷く疲弊しているように見えた。
「少し休むか。落ち着いてからでいい」
「……ああ。すまない」
アユムが灯士郎に肩を貸し、三人は、ジャングルを後にする。
日が落ちて、夕闇の砂浜。焚火を囲んで三人は休んでいた。
巨大クワガタが暴れたお陰で三人は、自分たちの置かれている状況が想像以上に厄介なものだと思い知る。あんな生き物がいる、ということだけではなく、この場所そのものが異常だったのだ。切り倒された木々の中からはどういうわけか機械的なケーブルが顔を出し、海も海水と思えばただの色水。日暮れは電灯を切り換えるように突然色や明るさが変化し、よくよく見るなら空に浮いているのも太陽ではなく銀色の機械球。
空も陸も海も、すべてが作り物じみた世界。さすがのアユムや灯士郎も、マリーの「ファンタジー的なあれ」説を支持したい気持ちであった。
ぱちぱちと火の弾ける焚火を見詰め、三人は黙り込んでいた。
野性動物を避けるため、切断されたケーブルの火花を火種に起こした焚火であったのだが、あの巨大クワガタのような生き物が松明ごときで怯んでくれるかは正直疑問だった。
はあ、とおもむろにアユムが溜息を吐く。
「黙りこくっていても仕様がないな」
言われて、マリーは少しだけ笑顔になって姿勢を崩す。灯士郎も同感だとばかりに頷く。
「もう落ち着いた。大丈夫だ」
「そうか。なら改めて聞くが……あの時、一体何が起きた?」
灯士郎は記憶を辿るように少しだけ目を閉じて、小さく息を吐く。
「誰かの声が聞こえた。暗闇の中で聞いた声に似ていた」
「って、なんかあのステンドグラスみたいなとこ?」
「そうだ。獅子のステンドグラスの上で聞こえた声、だったように思える」
「ふうん。……しし?」
灯士郎の言葉にマリーは眉をひそめる。アユムもまた少しだけ顔をしかめ、問い返す。
「百鬼、お前が見たステンドグラスは獅子だったのか?」
「む? ああ、黒い獅子のように見えたが」
「えー、あたし人魚だったよ?」
「私は魔法使いに見えたな」
互いに言い合って、顔を見合わせる。
「お互い違うものを見たということか。まあ、現状ではだからどうしたという話でしかないが」
アユムは視線を落としてふむと唸り、再び灯士郎を見る。
「だが獅子というなら、昼間のお前の姿はまさにそう見えたがな」
「あー、そうそう。確かに。なんか胸のとことかライオンの顔みたいだった」
「俺が……そうか」
客観的に自分を見る暇も手段もなかったろう。けれど、灯士郎は自分の掌を見ながらどこか納得した風に頷く。まるで、そうあったことに心当たりでもあるかのように。
「まあ、変身したこと自体はいい」
「え? いいのそれ?」
「今の状況なら好都合だ。問題は“どうやって”かということだ」
アユムは灯士郎をぴっと指差し、問い掛ける。
「今、やれと言われればできるのか?」
そんな問いに、少しだけの沈黙。
灯士郎は頷くとおもむろに立ち上がり、懐から例のデヴァイスを取り出す。
「言葉が、頭の中に浮かんできた」
右手にデヴァイスを握りしめ、左手を見詰める。何も持ってはいないはずのその手に何かを認めるように、眉間にしわを寄せる。途端に、左手を包む輪のような光の帯が浮かび上がる。
「スピリット……」
目の前で起きていることが理解できず、戸惑うマリーたちを余所に、灯士郎は光の帯の一端にデヴァイスを近付ける。帯とデヴァイスが接触した瞬間に激しい火花が散って、けれど灯士郎は気にもせず、言葉とともにデヴァイスを大きく振り抜いてみせる。
「エボリューション」
火花が閃光となる。思わず目を閉じた二人の前で、雷鳴にも似た電子音を伴ってそれは硯現する。
そっと瞼を開けばそこに、今の今まで灯士郎のいた場所に、黒い騎士が立っていた。
「と……灯士郎?」
マリーが問えば黒い騎士はこくりと頷いてみせた。
「“Spirit Evolution”……魂の進化?」
ふうむと唸りながら、アユムは騎士をまじまじと見詰めて呟く。その目を騎士へと真っ直ぐに向け、矢継ぎ早に問い掛ける。
「意識はあるのだな?」
「ああ……はっきりしている」
「制御はできるのか?」
「思い通りに動けるようだ」
「身体に異常は?」
「戦った後は少し疲れたが、その程度だ」
「元に戻る方法は?」
四つ目の質問に騎士はそっと目を閉じて、一拍を置く。
「理屈はわからないが、感覚的にわかるようだ」
言うが早いかその身が輝く粒子と光の帯に包まれて、瞬く間に人の姿へと戻る。灯士郎はゆっくりと息を吐き、感触を確かめるように拳を握る。
「変身……いや、進化と呼ぶべきか? いずれにせよあの化け物への対抗策として使えはするようだな」
「ああ、ひとまずは任せてくれ」
あんな怪物がまだいるのか、なんて判りはしないけれど、もういない、なんて楽観できようはずもなかった。灯士郎が力強く頷けば、不意にマリーが二人の間に割って入り、その手元を覗き込んで問い掛ける。
「ねえねえ、その機械で変身するの?」
「む? ああ、そのようだ」
言いつつ灯士郎が差し出した端末には、これまで何の反応も見せなかったその端末の液晶画面には、獅子を象った不思議なオブジェクトが映し出されていた。「あれ?」と、マリーはふと眉をひそめる。
「なんかこれ……あたし、こんな感じのやつ見た気がする」
「奇遇だな、私もだ」
アユムが間髪も容れずに言えば、灯士郎もまた同意する。
「ステンドグラスの舞台で、意識が途絶える間際に見たものだ」
二人もそうだということは、問うまでもなくその表情が物語っていた。
マリーとアユムは自分のデヴァイスを取り出し、数個のボタンを押してみる。しかし、相変わらず反応はないままだった。
「むー、なんでだろ……灯士郎だけ?」
「先程の光の帯のようなものは? どうやって出した?」
言われて、灯士郎は腕を組み、考え込むように顔をしかめる。
「それも、“感覚的に”か?」
「ああ、まるで身体の一部のような……元からそういうものであったような感覚だ」
「ふん……後で検証してみるか。手数は多い方がいい」
「うん、そうだね。あたしもちょっと変身してみたいし!」
ふすー、と鼻息荒く言ったマリーに、アユムは肩を落として小さく溜息を吐く。そういう話ではないと、いちいち突っ込むのは面倒なので止めておくことにしたらしい。
「とりあえず今日は休むとするか」
何だか少し疲れた顔で言い、アユムは灯士郎を指差す。
「百鬼、お前は特にな。有事の際にはまたあの騎士に……」
「レーベモン」
「……なに?」
「レーベモン、という名だそうだ」
目の前ではないどこかを見ているように、譫言のように言った灯士郎に、アユムは思わずマリーと顔を見合わせる。
「まるで、誰かに聞いたような口ぶりだな。また例の声か?」
「だと思う。それも、初めから知っていたような感覚だ」
「なんか不思議ぃ。まあ、ずっと不思議なことばっかだけどさー」
なんて言葉にはもう溜息しか出ない。三人は話すことを止め、今日はもう身体を休めることにした。
砂浜に大きな葉を敷いて横になり、空を見上げて少し。こんな状況で羨ましいくらいに寝付きのいいマリーの寝息が聞こえ始めた頃、しかしアユムは冴えたままの頭で思考を続けていた。
「“Lowe”……独語で獅子か」
誰にともなく呟いて、アユムはふと奇妙な感覚を覚える。どこか懐かしい、聞き覚えのある響きに思えた。
誰が言ったわけでもない。そのはずなのに、その名は奥底から滲み出るように脳裏に浮かんだ。
「……メル、キューレ……モン?」
一つ、次いで二つ。歯車は、確かに噛み合い始めていた。
気が付けばマリーは、知らない場所で立ち尽くしていた。
薄く青みがかった白い空。真っ平らな同色の床が地平の果てまで広がっている。足元には踝が浸かるほどの水が張られ、マリーの前では、大きな蓮の葉の上で誰かが丸くなって寝息を立てていた。
人ではなかった。肌は澄んだエメラルドグリーン。身体の所々にはヒレのようなものが生え、全体的な印象は水棲生物を思わせるが、四肢を持つその身体構造は人間そのもの。あえて呼称するなら“半魚人”だろうか。しかしRPGで見るような怪物然とした姿ではない。顔付きや体格は愛らしい少女のそれ。むしろ人魚や妖精といった類のものに思えた。
ねえ、と呼び掛ける。
恐怖はなかった。見た目ゆえ、ではない。怖がるようなものではないと、どうしてか理解できていたのだ。
少女の瞼がゆっくりと開かれる。とろんとした目でマリーを見詰め、欠伸を一つ。目を擦り、伸びをして、その動作はあまりにも人間くさい。
ねえ、と呼び返される。
聞き覚えのある声だった。ずっと前から知っていたような、知っていることが当然であるかのような、そんな感覚だった。
待ちくたびれたと、少女は頬を膨らませる。
あたしを? と問い返せば、他に誰がいるのよと悪戯っぼく笑い掛けられる。
さあ、と少女が手を伸ばす。マリーは何の躊躇いも疑問もなく、その手を取った――
気が付けばマリーは、砂浜で空を見上げていた。
ジャングルから毟ってきた大きな葉の上に横たわり、寝ぼけ眼で青い空を仰ぐ。目覚ましは、電灯の明かりが点くように夜から朝へと変わったその空。要は、昨夜のままだった。
一晩眠れば何事もなく自分の部屋で目を覚ますのではないか、などという淡い期待を込めて目を閉じた昨晩と、まったく同じ場所で目を覚ましたのである。
この状況は、やはり現実だったらしい。
むくりと起き上がり、辺りを見回す。昨晩と違うこと、といえば、ここにいるのが自分一人だということだろうか。そこだけ幻覚だったとしたらもう泣くしかなくなるが、幸いにも葉っぱのベッドはもう二人分ちゃんとあるし、自分のものではない足跡も辺りに沢山あった。
「どこ行ったんだろ……」
空が極端なせいで時間はよくわからないが、早朝という気はしない。まさかおいてきぼりを食らった訳もあるまいし、恐らく付近を見て回っているのだろう。多分。きっと。
なんて思っていると案の定、背後からがさがさと草を掻き分ける物音がする。何してたの、と振り向き様に問おうと口を開きかけ、て――しかしそのまま固まる。
「なんだ、ようやくお目覚めか」
「ほぁ……!? あ……え?」
「こんな状況でよくもそうぐっすりと眠れたものだな。羨ましい限りだ」
などと皮肉げに肩をすくめるのは、怪人だった。トンガリ帽子のような円錐形の頭。四肢は妙に細く、その顔と腹は鏡張り。両手にも大きな鏡を持っている。
突然現れてさも当たり前のように話し掛けてくるそんな怪人カガミ男に、マリーは一瞬戸惑って、けれども眉をひそめてこう問い掛けた。
「えと……アユム?」
カガミ男は、ああと頷く。
服の裾でも払うように片手を振れば、光とともにその姿が人間へと、アユムへと変わる。
マリーは、わなわなと震えながらぽつりと言う。
「ちょ」
「ん?」
「ちょおっとぉ! ずるい! どうやったの?」
きー、と歯を食いしばってアユムの肩をがくがくと揺さ振る。
「お、おい待……!」
「ずーるーいー!」
「い、いや、とにかく離し……!」
「露崎、その辺で」
見るからにインドア派なアユムはマリーにされるがままパンクロッカーのように頭を振らされ、しかしぽんと、マリーの肩を叩いた灯士郎がそれを止める。
「あ、灯士郎。おはよ。どこ行ってたの? まさか二人で特訓してたとか?」
「特訓、という訳ではないが」
「はあ、まったく……」
解放されたアユムは揺れる頭を抱えながら眉間にシワを寄せ、深々と溜息を吐く。襟を直してこほんと、わざとらしく咳ばらいをしてマリーへ向き直る。
「慌てなくとも話してやる。まずは落ち着け」
「うぃ~、むっしゅ。マリーちゃん落ち着きまーす」
なんて言って唇を尖んがらせる。アユムはもう一度、更に大きな溜息を吐いてから語り始める。
「君が眠った後、一人でこいつと、辺りを調べていた」
言いつつデヴァイスを手にし、ジャングルを振り返る。誰ぞのせいでずれた眼鏡をくいと上げ、肩をすくめる。
「調べるって、こんな訳わかんないだらけなとこを?」
「確かに常識の通じない世界だが、それでも思考を放棄していい理由にはならん」
ベッド代わりの葉を一枚拾い上げ、アユムは再びマリーへと向き直る。
「観察し、検証し、推測し、また検証する。そうしてトライアル・アンド・エラーを繰り返すことで、僅かなり現状を脱する糸口も見付かるやもしれん」
「ふ~ん、ふんふん。うん……なるほど」
うんうんと、頷くマリーが本当にわかっているかは甚だ疑問であったが、ひとまずそれは置いておくことにした。アユムはもう何度目かもわからない溜息を吐く。
「そうこうしていると声が聞こえた。どうにも嫌味ったらしい声だった」
「嫌味……どーぞくけんお?」
「否定はしない。そして夢を見た。ここではないどこかであいつと、メルキューレモンと向かい合っていた」
「メルキューレモンって、さっきの?」
「そうだ。気が付けばまたジャングルだった。後は、昨日の百鬼と同じだ」
ついと指差せば、灯士郎は腕を組んで深く頷く。アユムはその右手をマリーの顔の前へと突き出して、と思えば掌に光の輪が現れる。
「この通り、な」
そうしてそっと手を戻せば光の輪は音もなく消える。
「へー。ん、あれ? てゆーかさ……アユムって戦ったわけじゃないんだ?」
「ん? ああ、そうだが」
「なんかピンチに目覚める的なのかと思ったんだけど、違うんだ。灯士郎はそうだったもんね?」
マリーが問えば灯士郎はうむと小さく頷く。
「きっかけもそれぞれということだろう。君のそれがどういったものかは、残念ながら見当もつかんがな。さて、他に聞きたいことはあるかな、露崎君?」
問われてマリーはぼーっとアユムを見詰め、少し考えて、そして二人を順に見る。
「ね、二人はあたしのことマリーちゃんって呼ぶ気ある?」
なんて質問には、アユムと灯士郎も顔を見合わせる。
「今聞くことかそれは」
「この心の距離があたしと二人の差かなって」
「安心しろ。呼ぶ気はないが関係もない」
「じゃあ……」
と眉をひそめるマリーに、ぽつりと言ったのは灯士郎だった。
「恐らくだが、差はないと思う」
「え?」
「ああ、百鬼の言う通りだろう」
マリーを真っ直ぐに見据え、真っ直ぐに指差して、アユムは問う。
「覚えはないか。自分を呼ぶスピリットの声に」
「スピリッ、ト?」
「そうだ。どこかで聞いたはずだ。我々と同じように。今、同じようにこうしてここにいるのだからな」
そんな言葉に根拠などない。自分らしくない物言いだと、そう思いながらもアユムは確信を持って言い放つ。それが確かであることは、すぐにマリー自身が証明することになった。
「ラーナ、モン……」
少しだけ考えて、いや、思い出すように自らの心を探り、マリーはその名を口にする。
「そう、ラーナモンだ! 夢で見た!」
もう一度、はっきりと告げたその名に、アユムと灯士郎は不思議な感覚を覚えていた。知っている名だと、そんな気がしたのだ。
マリーは唇をきゅっと結び、眉を逆八の字にして何度も小さく頷く。今朝方見た夢、だけではない。初めてではなかった。知っていた。この世界へやって来たあの時、あの場所で、とうにラーナモンとは出会っていたのだから。
「そうか。なら時間の問題だろう。焦ることもない」
それが幸か不幸かは定かでないが。という言葉は飲み込んで、アユムは近くの木へともたれ掛かる。疲れた様子に見えたのはマリーとのやり取りだけが原因ではないだろう。ろくに寝ていないことは目の下の隈ですぐにわかった。
「さて、話が終わったなら出発するとしようか。いつまでもここにいても始まらん」
「あー、そだねー。てかあたしお腹空いちゃったなぁ……」
こちらへやって来たのが昨日の昼頃。思えばもう丸一日食事を取っていないのだ。今回ばかりはマリーに同意だと、アユムと灯士郎は小さく溜息を吐く。とはいえ、
「先程、食べられるものはないかと辺りを見て回ってきたのだが……」
「え? 探してくれてたの? あぁ~、ごめん! ちょーぐっすり寝てた」
「構わない。丈夫さには多少自信がある。ただ……」
といって灯士郎はジャングルを振り返る。鬱蒼と繁る密林の木々、草花は、見るからに見覚えのないものばかりだった。
「どうにも食用かの判断がつかない。下手なものを採って毒でもあっては事だ」
「確かにな。まあ、とりあえずは我慢してもらうほかないだろう」
「うえぇ~? あたし成長期なんだけどなぁ」
「全員そうだ。辛抱しろ」
次第に面倒になってきたのかぞんざいにあしらえば、マリーはぷうっと頬を膨らませる。が、すぐにしぼませてぽんと手を打つ。
「あ、そうだ海は? 魚とか取れないかな」
「どうだろうな。まずもって海水でもない。淡水魚がいるにしてもこんな砂浜近くの浅瀬ではな」
「あー、そっか。んじゃあ、なんか磯? 的なとこないか探してみようよ」
「ああ探すとも。だから早く行くぞとさっきから言っている」
言うが早いかアユムは踵を返し、マリーの返事も待たずに歩きだす。てへっと笑ってぺろりと舌を出したのは見えていたが、華麗にスルーした。
「ああ~ん、待ってよぉ」
すたすたと先を行くアユムに、鼻に掛かった甘い声でそう言って、マリーは駆け足で後を追う。そんな口が達者な二人の一連のやり取りの中で、一言も口を挟めないでいた灯士郎は、とりあえず腕を組んだままうんと頷き、特に何も言わずに少し遅れて歩きだす。
間違いなく息は合っていないが大丈夫だろうか。という懸念は、先送りにした。
三人は当初の予定通り山を目指し、ジャングルを迂回するように海岸を進んでいた。本当は一刻も早く先へ進みたいところだが、密林を突っ切ってはいつまたあんな化け物に出くわすかわからない。まあ、密林にしかいない保証など欠片もないので気休め程度という気もおおいにするのだが。
ついでに道中で食糧になりえそうなものを探し、足を遅らせない程度に辺りも見て回っていたが、こちらも正直微妙なところだった。食べられそうなものもないことはない。野草やキノコ、果実がそこらにあった。ふんだんにあった、のだけれども。
それは菜の花やシイタケ、リンゴ、なんてものでは勿論なかった。およそ日本の八百屋やスーパーでは見掛けないものばかり。灯士郎の言った通り、食用かの判断はどうにもつきかねた。ただ――
「う~ん、なんかイヌサフランに似てる。仲間だったら毒あるかも?」
眉をひそめる男二人の横で、マリーは球根に長い葉の生えた植物を指差して言う。
ただ一つ、灯士郎やアユムにとって嬉しい誤算もあった。
「こっちはオニオンウィードっぽい気もするけど、食べらんないかなぁ」
マリーはまた別の場所でよく似た植物を指差して言う。そんな物言いには灯士郎もアユムも驚いて目を丸くする。
「判るのか?」
「むう、ホントにあたしの知ってるやつだったら~、だけど」
「そうか……いや、だが感心した」
「え? えへへ、そう?」
「ああ、たいしたものだ」
「へへ~。うち花屋でね、昔から好きなの」
マリーが言えばアユムは少し眉をひそめ、野草を一瞥する。
「こんな野草までか? 花屋では扱いそうもないが」
「えへへ。多分パパの遺伝。こういうの好きなの。あたし、小さい頃は絵本代わりに植物図鑑ばっかり見てたんだって」
少し照れたように頬を掻くと、マリーはもう一度、ジャングルに生えた野草やらに視線を戻す。今度は僅かに困った風に、
「ただね、なんか季節とか地域とかごちゃまぜっていうか。ここ何月で地球のどの辺なの? って感じ」
「成る程……まあ、もはや地球かどうかも怪しいがな」
「うう~ん、確かに。あんまし役に立たないかー」
「ふ、気落ちするな。正直少し見直したぞ」
思えば初めて聞いた気がするアユムからのそんな素直な褒め言葉に、マリーはどこかむず痒そうにはにかむ。
「うへへ、褒められた~」
灯士郎はそんな二人の横で、今の今まで見損なっていたのか、というツッコミをそっと飲み込むことにした。
「ふむ、しかしそれだけ絞り込めるなら、後は可食性テストでもしてみるか」
「かしょくせー?」
「食べられるものかどうかのテストだ。刺激臭はしないか、肌に触れてかぶれはしないか、舌に乗せて体調に変化はないか……といった具合で段階的に人体に害がないかを確認していくんだ」
「へー、それで食べられるかわかるんだ」
「茎や葉の部位ごとにそれぞれ24時間ずつ掛かるがな」
「うぇ~、そんなにぃ~?」
がくっと肩を落とし、マリーは物欲しそうに野草を見る。
「露崎君? “待て”だぞ」
「うー、わん……」
なんて言って舌を出すマリーに、アユムは肩をすくめ、灯士郎は何か言いたげな顔をする。
先は、まだまだ長かった。
そうこうしながら砂浜をひたすらに進み、巨大クワガタのような化け物に遭遇することもないままやがて昼を過ぎた頃、ようやく景色が代わり映えをする。砂の海岸が途切れて姿を見せたのは、ごつごつとした岩場であった。
海から突き出た岩を足場にちょっとしたアスレチックのような地形を進めば、誂えたような釣りスポットも何箇所か見付かった。海といっても海水ではなかったが、目を凝らせば魚影も見えた。さすがになんという魚か、食べられるのかどうかまではわからなかったが、ここらには釣り人などいないのだろう、随分と警戒心も薄いようで、ともすれば手づかみでも捕まえられそうに思えた。
「あ、ねえ見た今の? でっかい魚! ピル……ピクルス! あれ?」
「ピラルクと言いたいのか」
「そうそれ! そんなの!」
「生憎と私は気付かなかったが、百鬼はどうだ?」
「ああ、確かにいるようだ。ナマズや鮭のような魚も見えたが……」
「こんなところにか? つくづく出鱈目な生態だな」
海水魚も淡水魚もお構いなし。こうなると本当に自分たちの知る魚かも怪しいものだった。果たして食べていいものか疑問だったが、もはやそれを言い出すと餓死するしかなくなってしまう気もした。
アユムは岩山を見上げ、目の前の磯を見渡す。山まではもう半分といったところか。だが起伏が激しい上に波を被って滑りやすいこの悪路。山に着く頃には日が暮れはじめてしまうだろう。そこまで考えて、アユムは小さく唸って灯士郎を見る。
「百鬼、一足先に山の向こう側を確認してきてもらえるか。君一人ならすぐだろう」
「ああ、わかった。任せてくれ」
言うが早いか灯士郎はレーベモンへと姿を変え、人間離れした跳躍力で岩場を飛び交い、山へと向かう。残されたマリーは首を傾げてアユムを見る。
「あたしたちは?」
「こっちだ。とりあえず捕まえてみるとしよう」
アユムが磯を指差して答えれば、心なしマリーの目がきらきらと輝く。そしてお腹がきゅうと鳴る。
「あ……てへ」
と舌を出せばアユムは溜息を吐くが、こればかりはマリーに呆れてのことではなかった。
「さすがに限界だな。山を越えた程度で人里に辿り着けるとも思えん。本格的にサバイバルを考えるべきだろう」
「助けもきそうにないもんね」
「ああ、来られるとも思えん」
「だね。そんじゃあ……えっと、どーするの?」
磯を見ながらマリーが問う。岩に囲まれた浅瀬に入り込んだ魚もちらほらと見えたが、それでも手づかみはまだまだ難しいだろう。
「ふむ、そこらの木の枝で釣竿でも作ってみるか、素潜りか……木の中のケーブルが届けば感電させるという手もあるか」
「わお、過激。てゆーかカガミ怪人は?」
「メルキューレモンだ。そうだな、まだ何ができるか把握しきれてはいないが、試してはみるか」
デヴァイスを取り出してアユムが言えば、マリーは岩の上をひょいと跳んで磯を見て回る。どこかいい場所はないかと海を覗き込み、そうして、ふと大きな魚影に気付く。
いや、魚ではないようだった。一抱えほどもある影はうにうにと動いて絶えず形を変えていた。
なんだろう、とマリーは身を乗り出す。
「どうした、何かいたのか?」
「あー、うん。なんかね……」
海を指差しながら振り返り、その、瞬間だった。ざざんと飛沫を立てて影がその正体を現したのは。
「露崎っ!?」
「へ?」
先にその姿を目の当たりにしたアユムが叫びを上げる。マリーは一瞬遅れて振り向いて、けれど視界に認めた途端に景色が一変する。
それが何だというなら、触手だった。真っ白な触手がマリーを捕らえ、一瞬のうちに海へと引きずり込む。人の身のままであったアユムが動き出せたのはマリーが海中へ消えてしまったその後のこと。
迂闊だったと、腹立たしげに舌を打ち、アユムはメルキューレモンへと姿を変える。
鋼鉄の具足で岩を叩き、マリーを追うべく岩場を駆ける。が、それと同時に更なる障害が目前に現れる。
海中より飛び出したのは、両前足に鋏を持つ巨大な甲殻生物だった。アユムの知識の中でもっとも近しいのは“アノマロカリス”だろうか。サイズ以外は、だが。昨日のクワガタと遜色ないその巨体でメルキューレモンの行く手を遮るように立ち、耳障りな唸り声を上げる。
どう見ても先の触手の主ではない。生物種からしてまるで別物。そのはずが、巨大アノマロカリスは明らかに後を追わせまいとしている。
生態の異なる生物同士が連携していると、知性と明確な目的を持って行動しているとでもいうのか。
アユムは、いや、メルキューレモンは再度舌打ちをし、鏡の盾を構えて巨大アノマロカリスと対峙する。マリーの姿はいまだ、海中へと消えたままであった。
気が付けばマリーは、水の中にいた。
我が身に何が起きたのかは不思議と冴えた頭が理解していた。海の中から伸びた触手に捕まり、引きずり込まれてしまったのだ。
それが何というなら、イカだった。
昨日の巨大クワガタ程もある巨大イカの足が、自分の身体に巻き付いていたのだ。海中の薄闇からは更に巨大なエビやらタコまで現れる。海鮮特盛りである。くう、とお腹が鳴る。
マリーは冷静だった。このままでは食い殺されるか溺れ死ぬとも理解できていた。すぐに助けが来ないこともわかっていた。それでも、マリーに焦りはまるでなかった。
なぜというなら、言葉にするのは難しい感覚だった。
いいや。なぜというなら、あたしがいるからだ。
『ほら、いくよ』
あたしの言葉にうんと頷く。
そして青の少女は、目覚めの時を迎える。
鏡の賢人・メルキューレモン――アユムが把握している限りのスペックにおいては、決して戦闘を得手とするものではなかった。
両手に持った二対の鏡は一方から物質を取り込み、もう一方から排出することができる。一定以上の質量は取り込めないものの、それはまるで極小規模のワームホール。いまだSFの範疇でしかない所謂“ワープ”を実現し、物理学に革新をもたらすであろう代物だったが、この現状においては、残念ながら役に立ちそうもなかった。
アノマロカリスは厄介だった。飛び道具などなく、ただ単純な打撃を繰り返すだけだが、どうやらそれが、メルキューレモンにとっては一番の難敵であるようだった。
ち、と舌を打つ。焦るなと自分に言い聞かせる。的確に、かつ迅速に、目前の敵を排除してマリーを助け出さねばならない。そのためには、冷静であらねばならないのだ。一手間違えるたびに一歩以上を出遅れる。常に最速最短で最善手を打ち続けろ。牛歩に思えようとそれ以外に道はないのだから。ないの、だけれども……!
だからと言って人の命が懸かったこの状況で、一切の感情を殺してクールにクレバーにい続けるなど、平和な国に生まれ育った15歳の少年にはあまりに酷な話だった。
何か、何か手はないのか……!?
抑え切れない感情の一端が思考を放棄して周囲へ目を向けさせる。そこに――起死回生の一手が現れたことは単なる偶然だったろうか。
光が瞬いた。一瞬遅れてアノマロカリスも気付き、その場を飛び退く。一拍を置いて遠方から飛来した光球が磯を掠めて海へと落ちて、閃光とともに弾けて爆ぜる。
射線を追って射手を見付けることは容易だった。光弾の主を、レーベモンの姿を遠く捉えたのはメルキューレモンもアノマロカリスもほぼ同時。と思えば、第二、第三射が立て続けに迫りくる。黒騎士の甲冑の胸、獅子の意匠より人の頭ほどもある光の弾丸が放たれる。だが――
「これは……!」
あるいはその人ならざる身が持つ本能か、異変を察して引き返してきた騎士はしかし、助勢というにはあまりに遠かった。
不意打ちの初撃すらかわすアノマロカリスの反応速度に、姿を見せた上での馬鹿正直な狙撃など、通じるはずもない。
アノマロカリスはその節足で磯を跳ね、いとも容易く光弾を回避する。
いや、騎士とてそれで倒せるとは端から思ってもいないのだろう。既に駆け出していた騎士の意図は単なる牽制。白兵戦が本分であろう騎士が、己の間合いまで詰め寄るに要する、この状況ではあまりに長いその時間を僅かなり稼ぐための。
間に合うか? もう一度牽制を? マリーの姿が見えないが、状況はどうなっている?
思考に思考を重ね、焦りに集中を欠き、それでも騎士は仲間を救おうと岩肌を駆ける。それを――“待て”と、視線で制したのは他でもないメルキューレモンだった。
「ここだ!」
右手を突き出し、ただ一言を発する。昨日会ったばかりの赤の他人に意図を伝えるにはあまりに言葉が足りない、この距離と波の音に聞こえるかも定かでない、ただその一言。けれど、レーベモンには逡巡などまるでなかった。
駆け出す足を止め、岩肌を踏み締めて、力強く構えを取る。甲冑の獅子頭があぎとを開き、その砲口に光が集束する。
「“エントリヒ……メテオぉぉぉーール”!」
雄叫びとともに放たれる一撃は先程までの比ではない。一回りも大きい光の砲弾、内包する力は一回りどころではない。着弾を見るまでもなく感じ取れる圧力が、その威力を物語っていた。勿論、幾ら威力だけを上げようと当たらねば何の意味もないのだが。
アノマロカリスはきいと鳴き、軽やかに身をかわす。あっさりと的の消えたその軌道上に、しかして踊り出るのはメルキューレモンであった。
アノマロカリスとてメルキューレモンへの警戒は解いていない。だが、その行動には理解が追い付かない。何をどう警戒していいかもわからない。それゆえに、メルキューレモンからの攻撃は完全に不意を衝かれる形となった。
「“ジェネラスミラー”……!」
射線へ飛び込んだメルキューレモンの、その鏡の盾が光弾を受け止める。鏡面が激しく発光し、かと思えば次の瞬間、光弾が鏡に反射されて翻る。前方からの単調な攻撃を回避した直後、後方からの予想だにしなかった攻撃に、アノマロカリスは対応できるはずもなかった。
アノマロカリスの背の甲殻に光球が着弾し、があん、と落雷のような轟音が空気を震わせる。アノマロカリスの背が反り返り、全身が痙攣し、一瞬の後にその身が黒い塵となって霧散する。
はあ、と一度だけ息を吐き、メルキューレモンはすぐに海へと視線を移す。目を凝らし、海面を注視する。
少しを置いてレーベモンが駆け寄り、メルキューレモンの様子に顔をしかめる。
「メルキューレモン! マリーは……!」
「海だ。捕まった。とにかく――」
簡潔に返し、急がねばとメルキューレモンが一歩を踏み出して、ちょうどその時だった。海面が渦を巻き、水柱が高く高く上がったのは。
飛沫とともに何かが海から飛び出す。あまりの勢いに人の身では何がどうしたかもわからなかったろうけれど、人ならざる騎士と賢人の目は確かにその正体を捉えていた。
探し人、ではなかった。巨大なイカが宙を舞っていたのだ。マリーが消える瞬間を見ていたメルキューレモンには、それが彼女をさらった触手の主であろうことは想像に難くなかった。だが、なぜ今そうなっているかなどはわかるはずもない。
僅かの逡巡。そこへ続けざまに二本目の水柱が上がり、再び海面から巨大生物が飛び出す。今度はタコだった。低く低く、水切り石のように海面を跳ねて磯へと転がる。一拍を置き、打ち上げられていた巨大イカも磯へと落ちる。
「これは……!」
二匹の巨大海洋生物を順に見て、メルキューレモンとレーベモンは海へと視線を戻す。いまだ渦を巻く海面から、続けて三度の水柱。現れたのはイカともタコともまるで違う、人間大の何かだった。
蒼と碧。人のような四肢を持ち、魚のようなヒレを持つ。半魚人とでもいうべきその姿は、けれど愛らしい少女のようでもあった。
外的要因によって無理矢理海から弾き出されたように見える先の二匹とは明らかに違う。海の青と空の青とが繋がるように、自らの意志で泳ぐように青の少女は宙へと踊り出る。その目が磯で起き上がるイカとタコと、傍に立つ騎士と賢人とを順繰りに捉える。
ぱちん、と。彼女が指を鳴らせば、ともに海より舞い上がった水流が、意志を持つかの如く逆巻き、うねり、矢のように形を成す。そうして、青の少女が指差せば、無数の水の矢が磯目掛けて飛来する。
迫りくる矢の雨。しかし騎士と賢人は避けるどころか身構えることさえしなかった。それが自分たちを狙ったものではないと、彼女が誰であるかをとうに知っているように。事実そのとおり、水の矢は二人を避けてイカとタコだけを射抜いてみせたのだ。
無数の風穴が空けられた二匹の身体が、黒い塵となって風にさらわれる。
少女は宙で身を翻し、眼下の海に向かって手招きするように手を振る。落ちゆく少女の真下で応えるように水柱が上がり、その上を、少女はひょいと跳ぶ。その足元に再び、磯に向かって次々と水柱が立つ。段々に高さを変え、それはまるで水の階段。優美な所作でそれを跳び、渡り、少女は磯へと降り立った。
「よっと。あー、えっと、ただいま」
片手を軽く上げて少女が言えば、騎士と賢人は安堵の溜息を吐く。
「無事でなによりだ」
「あれ、驚かないんだ?」
「驚く理由がどこにある」
とは青の少女・ラーナモンにとっても、いや、マリーにとっても、理解に難くない感覚だった。自分たちは互いを知っている。初めて出会ったはずの昨日よりずっとずっと前から、ともに戦う仲間だった。そんな気がした。
「ね、中にもう一匹……あ、二匹いた。片方ちょっと手ごわめかも」
「そうか。まあ、問題ない」
「ああ」
そんな物言いもどうしてか納得できた。自分たちが揃えば恐れるものなどないのだと、そう思えた。
「だね。んっふっふ。にわか仕込みのチームワーク、見してやるぜ!」
「自分で言うか」
「二人とも、来るぞ」
荒磯に並び立つ三人の前に、波を掻き分け現れたのは半魚人だった。だがラーナモンとはまた随分と趣が違う。いや、というより、こちらのほうがわかりやすいベーシックな半魚人であろう。半分魚の癖してなぜだかウェットスーツを着込み、ダイバー然とした恰好で銛を構える。
半魚人は三人の姿を目にして僅かに怯んだように後退り、けれど少しの躊躇の後に意を決したように磯を踏み締め、銛を握り直す。
相対する三人に、恐れや憂いはまるでなかった。両者の表情だけで、とうに勝敗は決しているようにさえ思えた。
「さあ……いくよ!」
青の少女・ラーナモンが高らかに鬨の声を上げる。鏡の賢人・メルキューレモンが余裕たっぷりに両腕を広げ、黒獅子の騎士・レーベモンが静かに槍と盾を構える。
そうして、戦いは始まりを告げる。決着を語る必要は、もはやないだろう――
「これで三人……か」
間もなく三闘士が半魚人を退ける頃、その遥か頭上には天使が舞っていた。砂色のローブを身に纏い、フードを目深に被り、背には真白き翼を抱く。“サタナエル”と、そんな名を自らに冠した一羽の天使であった。
「鋼の闘士・メルキューレモンか……あれは中々に興味深いな」
品定めをするように、値踏みするように三闘士を見据え、口端を歪めてぽつりと呟く。侮蔑と愉悦、激情と非情、無垢と邪悪をないまぜにして、サタナエルはくつくつと嗤う。
「いい手駒に、なってくれそうだ……!」
その言葉の意味を、これより始まる戦いの真実を、今の彼らはまだ、知る由もなかった。
「……そうか。ご苦労、エビドラモン」
時は三闘士と半魚人の戦いより少し後。三闘士と戦うことなく姿を消した巨大エビ・エビドラモンは戦いの場より遠く離れたとある島にいた。仲間を見捨てて逃げ帰った、訳ではない。元より偵察部隊であった彼は、隊長である半魚人・ハンギョモンの命により戦いの最中に戦線を離れ、アジトへと帰還したのだ。
人間の子供たち。それが姿を変えた、いや、進化を果たした青の少女、鏡の賢人、黒獅子の騎士――エビドラモンからの報告を受け、闇色の竜はふむと頷く。傍らで金の兜の海竜と赤銅の機竜が息を吐く。
伝承通りの姿形。人の身と電脳の魂の融合。間違いあるまい。
「遂に現れたか、“選ばれし子供”……!」
がん、とその手の槍を地へと突き立て、闇色の竜は遠い空を見据えて両の目を見開く。それは歓喜であり、憎悪であり、明確なる敵意を抱きながらも待ち侘びたとばかり。
神に弓引く敵対者、闇色の竜・ダークドラモンは、戦いの始まりを告げるように高らかな咆哮を上げる。
「では、やはり島だったということか」
「ああ、他に陸も見えなかった」
時は再び戻り、三闘士が半魚人を退けたすぐ後のこと。マリー、アユム、灯士郎の三人は岩場に座り込み、これからのことを話し合っていた。一足先に山を越えた灯士郎が見たのは、今いるこの磯と何も変わらない景色。どこを見渡そうがどこまでも海が広がる、ここは絶海の孤島だった。
「はあ、参ったねこりゃ」
「あまり深刻には聞こえんな」
「あはは、なんかもう落ち込み疲れた」
なんて言って笑うマリーに、アユムと灯士郎も無意識に笑みを零す。
相も変わらず置かれた状況は訳がわからないまま。これからどうしていいかも見当がつかない。前途は多難、一寸先からずっと暗闇。けれど……三人の心はどうしてか晴れやかだった。
自分たちが揃えば敵わぬものなどないのだと、戦いの最中にも覚えたそんな感覚。それは出会いではなく、再会であったような。見えない何かに導かれるように、今この時、この場所で、いつか交わした約束の元に自分たちは再び巡り逢えたのだ。根拠もなく、そう思えた。
待ち受ける幾多の困難を予感しながらも三人は立ち上がり、どこともしれない場所を目指してやがて歩き出す。
それは暁を探して夜を彷徨う旅の如く。悪夢に惑う三匹の子羊たちはやがて、“四人目”とともに光差す夜明けへと辿り着くのだが――それはまた、別の物語である。
-NiGHTMARE:hidden-
【あたしがデジモンになった日】
-終-
>>【-NiGHTMARE-】第一夜へ続く