-NiGHTMARE:DiTHERiNG-
episode R『烏玉(ぬばたま)のペリルーン』



◆プロローグ
◆Ⅰ  ◆Ⅱ  ◆Ⅲ  ◆Ⅳ  ◆Ⅴ  ◆Ⅵ  ◆Ⅶ  ◆Ⅷ





 はあ、と零した吐息は降り注ぐ水の音に紛れて消える。溜息だったろうか。後悔はしていないはずなのだけれど。時々、自分の気持ちさえよく解らなくなる。
 この水が汗ごと悩みも流してくれたらいいのにと、そんなことを考えてふと笑う。花を模した銀の蛇口を捻る。シャワー口から細く水が漏れて、濡れた髪から水滴が落ちる。
 こんなことを考えるのもきっと今が平和である証拠だろう。たとえそれが、戦いと戦いの間にある僅かな小休止に過ぎないとしても。
 神経が過敏になっているのだろうか。乳白色のタイル床に跳ねる飛沫を眺めながら小さく息を吐く。そうして――不意に胸を圧迫する謎の感触に、私はびくりと震える。

 声にならない声が喉の奥に反響する。柄にもなくきゃあと叫びそうになりながらも、どうにか堪えて息を飲む。
 振り返る。ずびしっと、手刀を見舞って目を細める。てへっと舌を出す闖入者にまた溜息を吐く。

「何してるの、マリー?」

 それもまた、平和な朝の一幕であった。



【-NiGHTMARE:DiTHERiNG-】

-episode R-
烏玉(ぬばたま)のペリルーン』



◆Ⅰ:晴天の朝に


 ベリアルヴァンデモンとの戦いから、1週間が過ぎた。
 ホーリードラモン率いるアポカリプス・チャイルドとの戦いは今なお続き、私こと葵日向はいまだ、デジタルワールドの地を離れることができずにいた。

 ゼブルナイツ改めゼブブナイツの騎士たちが活動の拠点とする移動要塞・エルドラディモン。巨大な亀そのものであるこのデジモンの背に聳える古城の一角、左肩付近に立つ塔が私たち人間の居住区画である。
 全12階からなる塔は最上階の展望フロアと最下階のエントランスを除いた2階から11階にそれぞれ1室から4室、大小合計27の部屋がある。その5階、中程度の2部屋に区切られた階が、私とマリーの居住スペースになっている。

「もう、何してるのよ」
「うん、つい……」

 髪を乾かしながら溜息を吐けば、素直に反省しているらしくマリーは正座でうなだれる。いや、というより随分と浮かない顔で沈んでいるようにも見えた。そこまで強く叱ったつもりはなかったのだけれど。

「どうかしたの?」
「いや、確かめとこうかと思ったんだけど……本物だなーって」
「え?」

 言っている意味がよくわからずきょとんとする。するも、振り返って見たマリーの手の動きに、先程私に抱き着いた両手で何かの大きさと感触を確認するかのように少しだけ閉じては開くを繰り返すその動作に、そして何故だか自分の胸元に落とした視線とに、一拍遅れてようやく理解する。

「あ……当たり前でしょ!」

 思わず大きな声を出してしまう。少し裏返ってもいた。きっと頬は赤い。
 この階にはあたしとマリーの部屋しかないとはいえ、上下階の住人が通り掛かることは当然ある。何より、ジェネラルなのだからと展望台を除いた最上階である11階を奨められた私が、上り下りが面倒だからと選んだこの階には、食堂や作戦室のある中央棟への連絡通路が設けられているのだ。
 直に朝食の時間だし、この塔には私たち以外に人間大のデジモンも住んでいる。聞こえてしまったろうかと、何とも言えない表情になっているであろう顔をタオルに埋める。

「はあ、牛乳飲んでんだけどなー。効かないの?」
「……知らない」

 やはり11階にすべきだったろうか。
 せめて男子二人が聞いていないことを祈り、気を取り直して食堂に行くべくのそのそと着替えを始める。
 ちなみにマリーはわざわざラーナモンの姿で窓から忍び込んできたらしく、人間に戻れば服は濡れてもいない綺麗なままだった。伝説の闘士は草葉の陰で一体どんな顔をしていることだろう。

「ねえねえ、ヒナー」
「はいはい、なあに」

 鼻に掛かった甘い声で私を呼ぶマリーに、肩をすくめてそう返す。なんだか妹でもできた気分だ。悪い気はしなかった。少しだけくすりと笑う。
 見るとマリーは壁に掛けておいた私の制服を物珍しそうに眺めていた。

「前から思ってたんだけどこの制服ってさ、丘の上のお嬢様学校の?」
「おじょ……え? 知ってるの?」
「うん、見たことある」

 言ったマリーと、顔を見合わせて目をぱちくりとさせる。

「あれ? 意外と近くに住んでた?」

 と、いうことになるのだろうか。随分とご近所の話をしているように聞こえたけれど。

「学校からそう遠くないわ。駅を挟んで反対側よ」
「え? あたしもあたしも! あのね、うちね、駅前の商店街の花屋なの!」
「もしかして“マリアージュ”?」
「そうそう、それ! あたしんち!」

 へえ、と思わず少し呆けたような顔をする。“フラワーショップ・マリアージュ”――何度か行ったこともあるお店だった。また何とも奇妙な偶然だ。
 それにしても、だから“マリア”なのだろうか。名前が気に入らないと言っていたのはその辺りが理由だろうか。確かに、我が身に置き換えれば少し気恥ずかしくも思えてくる。

「おーい、ヒナター」

 そんな話をしていると、不意に外から私を呼ぶ声が聞こえてくる。しゅたん、と軽やかに出窓の縁に降り立つのは現11階の住人であった。姿を確認するまでもなく私は溜息を吐く。

「だからどうして窓から入ってくるの」

 次から次へと。扉ってご存知ないかしら。
 そんないつもどおりのインプモンは、いつもどおりの悪びれた様子もない顔であっけらかんと返してみせる。

「いやだってちけーし」
「あはは、確かにー。飛び降りたほうが早いもんね」

 はいそこ、同意しない。ただの人間が11階から飛び降りたら地上はむしろ遠ざかる。空の上へと一直線だ。一緒にしないでもらいたい。

「んなことより飯いこーぜ。ヒナタも走ったら腹減ったろ?」

 言われて、はあ、とまた溜息を一つ零す。

「そうね、無益だわ」

 窓から以前に着替えてたりもするんだから勝手に入るなという話なのだが、何度言っても理解すらしてもらえそうにないのでもう止めておく。性別がないせいかこの手の話はどうにもぴんと来ないらしい。自衛するとしよう。
 もう一度だけ深く溜息を吐いて部屋を後にする。なんだか色々疲れた。

 元気な二人の後を追って石橋の渡り廊下を歩いていく。食堂は中央棟の1階、集会場も兼ねた大広間だ。何気なく橋から中庭を見下ろすと、同じように食堂へ向かうであろうデジモンたちの姿がちらほらと見えた。

「つーかヒナタってなんでいつも走ってんだ? 鍛えて戦うのか?」

 ひょいと欄干へ飛び乗って、危なっかしい後ろ歩きでインプモンがそんなとんちんかんなことを言う。

「そんな訳ないでしょう。私をなんだと思ってるの」

 朝のジョギングはエルドラディモンのお城に腰を落ち着けてからは日課になっている。塔と中央棟の間にある中庭は石畳もしっかりと整備が行き届き、景色もよくて誂えたようなジョギングコースだった。
 だが、私もさすがにそんなことで戦力の足しになれるだなんて思ってはいない。

「ヒナってなんかスポーツしてたの?」
「そうね、乗馬は少しだけ」
「乗馬ぁ!? ヒナってやっぱお嬢様なの?」

 なんて言うマリーに一瞬言葉に詰まる。

「べ……別にお嬢様じゃなくても乗馬はするでしょう」

 私もそうよ、とは言わなかったけれど、マリーはさして気にする風でもなかった。

「と、とにかく、体力ないと余計に足手まといだって思っただけよ」

 こほんと咳払いをして、少し早口に言う。
 ただでさえ何の力もない人間。その上スタミナまで人並み以下ではお話にならない。正直、ベヒーモスにしがみつくのも中々に大変なのだ。
 ふうん、とマリーも中庭を眺める。

「そいや灯士郎も朝よく走ってるよね」
「ええ、毎朝会うわ」
「二人ってなんか話したりするの?」
「話? 特に……おはよう、くらい?」
「えー、駄目だよー。もっとコミュニケーション取らないと」
「そう言われても……」

 と言えばぴょこんと、ちょうど橋を渡り終えたところで欄干から飛び降りて、インプモンが意地悪そうな顔をする。

「ヒナタもトーシロも口数多かねーからなぁ」
「……いや、コミュニケーションなら一番駄目なのインプモンでしょ」

 なんて呆れて返す私に、マリーとインプモン当人までもが口を揃えて「確かに」と笑う。自覚はあるのね。
 けれど、確かに私も私か。任せろと言った覚えはないが、ジェネラルとは要するに軍の指揮官なのだそうだ。現状では何ができる訳でもないが、とはいえ仲間のことはよく知っておくべきだろう。
 選ばれし子供に二つの魔王の軍勢、そしてレイヴモンやミラージュガオガモン。改めて考えてみると、今こうして一緒にいることが不思議で仕方ないような面子ばかり。ここ数日彼らと過ごしたが、やはりまだどこかぎこちなくもある。
 特に、選ばれし子供によって討伐されたという魔王デーモン配下のスカルサタモンたちは、マリーたちに思うところがあるようだった。ダークドラモンも私をよくは思っていないらしい。

「ま、なんにせよ飯だ飯。小難しいこたぁ後にしようぜ」
「小難しいこと?」

 私の腰をぽんと叩いて、言ったインプモンにマリーはきょとんとする。私は、溜息混じりに笑って返した。まったく、時々妙に鋭いんだから。

「そうね。腹が減ってはなんとやら、かしら」

 城に常駐しているだけでも数百に上る兵たち。用意されたその大量の朝餉の香りに、中央棟は満たされていた。
 今日もまた、私たちゼブブナイツの一日が始まる。



◆Ⅱ:朝餉の後に


「いとま?」

 首を傾げてオウム返しに問う私に、レイヴモンは膝をついたままこくりと頷いてみせた。
 食堂の奥、半ば私たちの定位置と化した一角で食事を終えた、ちょうどその頃。いつも通りどこからともなく現れて、いつも以上に神妙な面持ちで切り出したレイヴモンに、私とインプモンは顔を見合わせる。
 ベリアルヴァンデモンとの激戦の傷もまだ癒えぬ、そんな折。ゼブブナイツの騎士たちがアポカリプス・チャイルドとの決戦に備え、諜報と軍備を進めている最中のことだった。

「いとま、って休暇がほしいの?」
「は。三、四日、城を離れる許可をいただきたく」

 片膝をついて頭を垂れたまま、言ったレイヴモンに周囲の注目が集まる。場は食堂代わりの大広間。時刻はまだ日も低い朝。本当ならそろそろ学校へ行く頃だろう。私やインプモン、マリーの他にも、これから任務へ赴く騎士たちの姿もまばらに見える。マリーが眉をひそめながら声を上げた。

「ちょ、ちょっと待ってよ! 何でこんな時に……!」

 そんなマリーの言葉には、レイヴモンを怪訝な目で見る騎士たちも同意見だと言わんばかり。
 確かにアポカリプス・チャイルドとの決戦を控えたこんな時。なのだけれど。私は短い思考を置いて、うんと頷く。

「いいんじゃない?」

 そう、問い掛けるようにインプモンへ目をやる。驚くマリーを尻目にインプモンもまた事もなげに、

「ん? ああ、いいぞ」

 とだけ言って目の前の大皿に盛られた紫色の得体の知れない果物に噛り付く。しゃり、とかじればみずみずしい果汁が跳ねる。これで五つ目か。見た目はいかにも毒ですと言わんばかりだが、どうやら害はなさそうだ。私も食べてみようかな。

「え、ええ? そんなあっさり? いいの?」
「別にいいけど。ねえ、ところでこれって人間が食べても大丈夫?」
「あ、うん。結構美味しかった。……じゃなくてぇ」

 ぐねぐねと眉を歪めるマリーの肩を叩き、私はふうと息を吐く。いまだ傅いたままのレイヴモンへ目をやり、

「どうせ今は暇でしょう。それに、ちゃんと理由もあるみたいだし」

 心静かに、曇りなく。耳を澄ませば聞こえる旋律に澱みはない。そう、いつも通りのレイヴモンだ。真面目で馬鹿正直で、私は、そんな彼を信用している。デジメロディがなくとも疑いはしなかっただろう。
 けれど、とは言えマリーたちがそれで納得しないのも当たり前と言えば当たり前か。

「ちなみにどこまで?」

 彼に限って臆病風に吹かれたわけもあるまいし、単なる休暇というわけでもないだろう。生真面目な理由を半ば想像して問えば、レイヴモンは真っ直ぐに私を見据えて答えてみせた。

「故郷の村へ」
「故郷?」

 というと、確かリリスモンの城に程近いゴツモンたちの村だったか。
 レイヴモンはこくりと頷いて、おもむろに腰の刀を差し出す。献上するようにゆっくりと引き抜いてみせたその刀は、刀身が中程で折れていた。外ならぬこの城で、ブラックセラフィモンと戦った時に砕かれてしまったものだった。

「戦いに備え、刀を打ち直したく存じます」
「村に鍛冶屋がいんのか?」
「は。村のゴツモンは近辺でも名の知れた刀鍛冶でございまして」
「ゴツモン?」

 不意に出た聞き覚えのある名前に、レイヴモンとインプモンを交互に見る。

「それって……」
「俺らが会ったあいつか」
「え? 二人とも知ってるの?」
「ええ、村ではお世話になったわ。ゴーグルもゴツモンに貰ったの」
「へえ、そうなんだ」

 思えばまだほんの十日前か。なんだか随分と懐かしく感じる。

「ま、ならいいさ。勝手に行ってこい」
「は。ありがとうございます」
「なんだか休暇でもない気がするけどね」

 肩をすくめる。どう考えても軍備の一環だろうに。
 城には武器庫もあるのだが、元々ここにいたデジモンたちの性質ゆえ、置いてあるのは火器が大半であるらしい。と、先日武器庫の前で会った灯士郎君が言っていた。騎士を名乗ってはいるが、確かに剣や槍で戦うのは彼らくらいしか見た覚えがない。
 戦力的にレイヴモンは単なる一兵卒ではないし、戦略的にも万全で戦いに臨んでもらいたいところであろう。

「もう今日にも発つの?」
「は。すぐにでも」
「そう。気を付けてね」
「お心遣い痛み入ります」

 片膝をついて深々と頭を下げたレイヴモンに、大袈裟ねと言葉には出さずに笑い掛ける。そんな時、ふとインプモンが窓から城の外を眺めてふうむと唸る。ああ、と声を上げ、私を見る。

「ヒナタ、お前も行ってきたらどうだ?」

 なんていう、インプモンの唐突な発言には、私だけでなくレイヴモンやマリーも目を丸くする。

「え?」
「自分で言ったじゃねえか。どうせ暇だろ。ベヒーモス貸してやっから」
「確かに暇だけど……」
「それに、こいつ一応お前の護衛だろ」

 とは、確かにその通りなのだけれど。
 言ってそれきりふいと視線を逸らし、インプモンは果実を一つ手に取ってぴょんと椅子から飛び降りる。しゃりしゃりと果物をかじりながらまた外を見る。
 ああ、と私は理解する。

「しかしベルゼブモン様、このような私用に……」
「そうね、行ってこようかな」
「ヒ、ヒナタ様……!」
「いいじゃない。ゴツモンやパンプモンにも会いたいし。マリーもどう?」
「え? あぁ、ヒナが行くんなら」

 いまだ戸惑うレイヴモンを余所に私たちが言えば、インプモンは片手を軽く上げ、振り返りもせずにすたすたと去っていく。最後に、

「そか。んじゃ気ぃ付けてな」

 とだけ言って。

「ええ、それじゃあ少し空けるわ」

 そう返し、私は食後の紅茶を一口。
 まったく、素直じゃないんだから。まあ、私も人のことが言える性格ではないのだけれど。

「ええと……」
「息抜きしてこい、って言ってるのよ。お言葉に甘えましょう」

 私たちがダークドラモンたちと上手くいっていないことくらい、とうに気付いていたわけだ。確かに、少し距離を置いて気持ちを切り換えてみるのもいいだろう。
 リリスモンのお膝元でそうそうやんちゃをするものもいないだろうし、危ないこともあるまい。最初にレイヴモンが言った通り、休暇にはちょうどいい。

「成る程……では、準備が整い次第参りましょう」

 レイヴモンは得心がいったとばかりに頷いて、また頭を下げる。インプモンの不器用さにはいつも仏頂面のレイヴモンすら、心なしか口角が緩んで見えた。
 私たちは去っていくインプモンの後ろ姿にくすりと笑い合い、ごちそうさまですと手を合わせて食堂を後にする。



◆Ⅲ:朝焼の号砲


 着替えを済ませてエントランスホールに降りると、先に準備を終えたマリーとレイヴモンが待っていた。隣にはベヒーモスもいる。古めかしいお城にバイクが何ともミスマッチな光景だった。

「お待たせ」
「よーし、んじゃあ行ってみよう!」

 握り拳をぐっと掲げて元気に言ったマリーに、レイヴモンもこくりと頷く。
 大亀の背に建つこのお城にも、一応の出入り口というものはある。ホールを抜けた正門の向こうはちょうどエルドラディモンの首の付け根辺り。頭を地面の高さまで下ろせば、首がアーチ状の橋になる。勾配が急過ぎて私一人では到底上り下りなどできはしないのだが、デジモンたちの多くはここから城の内外を行き来している。

「あたしベヒーモスと一緒に降りるよ。ラーナモンなら平気」
「ではヒナタ様は某が」
「ええ、ありがとう。お願いね」

 息抜きということで灯士郎君とアユム君にも声は掛けたのだが、二人はお城に残るそうだ。「ベヒーモスに4人も乗れんだろう」というアユム君の尤もな意見に、「カイザーレオモンがいるじゃない」とマリーが満面の笑みで返したことも一因であったかもしれない。ひたすら走る方もその不安定な背中に乗る方も、確かに休暇にはなりそうもない。

「そうだマリー、これ持っててくれる?」

 進化してベヒーモスに跨がるマリーに、私がそう手渡したのは一冊の古びた本だった。首を傾げながらマリーが受け取ると、そのページがひとりでにめくれて淡い光を放つ。開かれた本の上に浮かび上がるのは、書の賢人の姿。

「やあ、ラーナモン」
「ワイズモン! なんで?」
「さっきアユム君に渡されたの」

 着替えを終えてここへ降りてくる途中、借りていた本を返しに図書館へ立ち寄ると、いつも通り朝から入り浸っていたアユム君に声を掛けられたのだ。気が変わったのかと思えば差し出されたのはこの本だった。
 ワイズモンは本を通じて遠隔地からの通信ができる。つまり、ワイズモンを介せば外にいても城の中と連絡が取れる。念のため、だそうだ。それに、

「ゴツモンの話は少し小耳に挟んだことがある。興味があってね」
「へえ、そんな有名なんだ」
「いや、噂ではとある名工の弟子だそうでね。それが本当なら是非とも話を聞いてみたいんだ」
「ふうん」

 とだけ返してマリーは目をぱちくりとさせる。面識もないのだから無理はないけれど、あまり興味はない様子だった。
 私はレイヴモンに目配せをし、マリーに向かって頷く。

「何はともあれ、それじゃあ出発しましょうか」
「オッケー!」
「御意に」

 開かれた正門からベヒーモスが先行し、大亀の首を駆け降りる。私を抱えてレイヴモンが後に続く。
 しばらくぶりの空は吹き付ける風が心地よかった。何度も飛んだお陰かいい加減に空も慣れたものだ。悪路のベヒーモスに比べればなんてことはない。なんてことあるそのベヒーモスに跨がったマリーの方は今にも投げ出されそうなほど小さな身体をがくがく揺らしていたが、表情と声色からして本人はどうやら絶叫マシン気分のよう。ワイズモンは大丈夫だろうか。

「マリー、舌噛まないようにね!」
「だぁ~いじょ~うっ! わはっ! あはは!」

 本当に大丈夫かしら。
 なんて心配する私を余所に、マリーは楽しそうに笑う。久しぶりの遠出ということもあるだろう。なにより、戦いと関係なくこの不思議な世界を旅するなんて、考えてみれば初めてのことなのだ。かくいう私も、正直に言えば少しわくわくしていたりする。

 ベヒーモスが大亀の頭を後ろから駆け登り、その鼻先から宙を跳ねるように飛び降りる。着地と同時に車体が左右に揺れて、車輪が土煙を巻き上げる。横這いに滑りながらやがて、けたたましいブレーキ音とともにベヒーモスは静止する。
 レイヴモンも徐々に高度を下げ、ゆっくりとベヒーモスの側へ降り立つ。

「あはは、びっくりした!」
「もう……本は持ってる?」

 笑いながら人間の姿に戻り、マリーはワイズモンの本を片手にぐっと親指を立て、ぺろりと舌を出す。ご無事でなによりです。
 車体側面の溝に足を掛け、ポニーほどもあるベヒーモスに半ばよじ登るように飛び乗る。ここだけは乗馬の経験が活きた気がする。ベヒーモスの背にマリーと並んで座り、レイヴモンにも目配せをして、準備はできたと互いに頷く。

 ヴぉおお、と。そんな私たちの後ろで大亀が次第にゆっくりと首を上げ、低く喉を鳴らした。
 いってらっしゃい。とでも言ってくれているようで、私たちは顔を見合わせて笑い合う。
 いってきます。と手を振って、私たちは城を後に、果ても見えない荒野へと舵を切る。

「ようし、しゅっぱーつ!」

 マリーが音頭を取ればベヒーモスが走りだし、レイヴモンもそのすぐ隣を低空飛行で並走する。
 もう一度、エルドラディモンの地鳴りのような声が低く響いた。



◆Ⅳ:望郷の帰路


 覚えているのは、四人でご飯を食べたことだった。
 何を食べたろうか。何かを取り合って喧嘩になった気がする。誰かが泣いて、誰かが慰めていた。
 残っている一番古い記憶はそんな、他愛のないある日のことだった。

「幼年期って、人間で言ったら幼稚園児くらい?」
「あたしもぼやーんとしか覚えてないなー」

 なんて言う私たちに、レイヴモンは遠い目で穏やかに微笑んで、そして小さく頷いてみせた。

 城を発ってから小一時間が過ぎた。
 道中の時間潰しにと始めた世間話の種は、レイヴモンとゴツモンの思い出話だった。
 同じ村で生まれ育った彼ら、レイヴモンとゴツモンと、ミラージュガオガモンとパンプモン。彼らは今も昔も、ずっと変わらず友達なのだという。

「成長期の頃のことは、今でも鮮明に覚えております」

 ファルコモンとゴツモンと、ガオモンとキャンドモン。生まれたのも進化をしたのも同時期だった。
 彼らの転機は他でもない、ベヒーモスが村にやって来たその日のこと。以前にも聞いた話であったが、自らに相応しい乗り手を探して放浪していたベヒーモスが村に現れ、暴れ回っていた時、偶然立ち寄ったベルゼブモンがベヒーモスを手なずけたことで、幼いレイヴモンは結果的に命を救われることになったのだ。
 インプモンが言うには「ベヒーモスが欲しかっただけ」だそうで、事実その通りなのだろう。後から聞いた話ではリリスモンの城でベヒーモスの噂を聞いて興味を持ち、暇潰しに目撃情報のあった付近をぶらぶらしていたのだという。
 しかし、レイヴモンにとってはその魔王こそが命の恩人であり、ゴツモンたちにとっても友人を救ってくれた大恩ある相手。デジモンたちの思考は極めて人間に近しい。成長期だった彼らは人間の子供とそう変わらない心を持っていた。だから、憧れを抱く気持ちは理解に難くない。彼らにとっては自らの行く末を左右するほどの、ヒーローだったのだ。

 だが、人間に近しいがゆえに彼らは、誰一人として同じではなかった。
 レイヴモンは叶うのであればいつか、その恩を返したいと願った。そのための力を求め、この世界でも稀であるという究極体への進化にまで辿り着いた。憧れが忠義の騎士を形作ったのだ。
 ミラージュガオガモンはそうなりたいと願った。恩人のために、ではなく、恩人のように、と。友人を助けることもできなかった自分の弱さが悔しいと、彼の強さそのものを羨望した。憧れが信念の騎士を築き上げたのだ。
 けれどゴツモンとパンプモンは、元より戦うことを得意としなかった二人に限っては、強さに憧れることはなかったようだ。ただ友達が無事でよかったと安堵し、感謝した。同時に、恐怖した。桁外れの力に対する畏怖と、それが為す術もなく友を奪っていってしまうような、どうしようもない不安に苛まれた。
 だからその旅立ちは、決して笑顔で見送られるものではなかったのだという。

「それから……その、顔を見せてあげたりはしていたの?」
「片手で数える程ではありますが」
「そっかぁ。心配だろーね」

 ええ、と頷いたレイヴモンはどこか申し訳なさげで、少し寂しそうな顔をしていた。

「あ、じゃあさじゃあさ! レイヴモンってどんな風に修行したの? 山篭もりとか?」

 ねえねえと、明るく問い掛けたのはマリーなりの気遣いだったろう。レイヴモンは穏やかに微笑んで、遠い空を一瞥する。

「は、師がおります。たまたま村へいらっしゃった折、ガオモンと……ミラージュガオガモンとともに弟子入りを志願いたしました」

 リリスモンの城に程近い彼の村には、魔王を訪ねてくるデジモンたちも度々立ち寄るのだという。
 配下に加えてもらいたいと遠路遥々やって来るものもいれば、逆に魔王討伐に馳せ参じたという自称勇者もいたらしい。もっとも、後者が村に来るのは決まって片道だけだったというが。

「前から思ってたけどリリスモンってさ、なんか世界征服的なこととかはやんなかったの? 魔王なんでしょ?」
「いえ、某の知る限りは一度も」

 元より“七大魔王”の名はこのデジタルワールドそのものより与えられた称号であり、押し付けられた役割でしかない。と、ワイズモンはそう語っていた。本人が何を望み、どう生きるかはまた別の話なのだという。
 世界征服なんて企みそうもないどこぞのちんちくりんな魔王を思い浮かべ、これ以上ない説得力だと私は思わずくすりと笑う。

「どうかされましたか?」
「ううん、なんでも。それで、レイヴモンのお師匠様はどんな人だったの?」

 私の様子に首を傾げたレイヴモンへそう返せば、さして気にする風でもなく遠い空を仰ぐ。言葉を探るように腕を組んで小さく唸り、レイヴモンは短く答えてみせる。

「破天荒な方でした」

 なんて返答にはどこか苦々しさも混じっていた。今へ至るまでの道程は決して平坦ではなかったのだと、その表情が語る。彼の様子からして並大抵の破天荒ではないのだろう。

「修行、そんなに厳しかったの?」
「ええ、しかしそれを強要するようなことは一度も。他者より己に厳しくある方でした」
「へえ、ししょーも修行するんだ」
「生涯これ精進と、そう言っておりました」
「ストイックな人なのね」

 私がそう言えばレイヴモンは少しだけ笑みを浮かべ、「ええ」と返す。

「何かを成し遂げるに必要なのは確固たる意志一つ……それが師の教えのすべてでした」
「すべてて。あはは、チョーこんじょー論じゃん」

 マリーが笑えばレイヴモンもこくりと頷き、

「確かに」

 と、苦笑する。しかしその表情はいつになく穏やかで、彼の師への尊敬と信頼が見て取れた。
 ただ実のない精神論を語るだけの人を彼が師と仰ぐはずもない。どれほどの人物なのか、一度会ってみたいものだと、どこへ続くとも知れぬ遠い空を仰ぎ見る。

 その邂逅が、幾程の時もせぬ間に果たされるなど、この時はまだ知る由もなく――



◆Ⅴ:友との再会


「おや……?」

 薪割りの最中にふと、遠く聞こえた轟音にゴツモンは眉をしかめる。小さな頃に聞いた忘れられるはずもないその音、つい最近にも聞いたばかりのそれは、鉄の獣の駆動音。
 またベルゼブモンが? 一体今度は何の用だろうかと、ゴツモンは薪割りの手を止め、町の外へと目を向ける。そうして、まだ豆粒ほどにしか見えないその姿に目を見開く。思わず落とした斧が足元に転がるのも構わず、ゴツモンは駆け出した。どこで何をしていたのかパンプモンも屋根から飛び降りてくる。お互い顔を見合わせて、二人は懐かしい友を出迎えた。

「ファルコモン!」

 駆け寄る二人は友の名を呼ぶ。今の姿のそれではない、子供の頃の名を。呼ばれた彼は、レイヴモンはどこかぎこちなく呼び返す。

「ゴツモン、キャンドモン……」

 そんなレイヴモンに、二人は笑い掛ける。

「おかえり」

 と。レイヴモンはほんの一瞬だけ言葉を詰まらせ、けれどもすぐに笑い返す。いつも冷静沈着な彼が見せたはじめての顔に、私とマリーも顔をほころばせる。

「ただいま」

 久しく口にしなかった言葉は、どこかくすぐったくて、レイヴモンは少し照れたように頬をかく。

「んひひ、レイヴモンうれしそうだね」
「ふふ、そうね」

 幼馴染の友人の顔を思い浮かべながら、穏やかに微笑む。
 そんな私たちに気付いて、というより思い出して、ゴツモンは少し慌てたように居住まいを正す。パンプモンは呑気に手を振ってみせた。

「あぁ、と……すみません、ご挨拶遅れまして。ええと、ヒナタ様、ご無沙汰しております」
「おひさー」
「こんにちは、ゴツモン、パンプモン。覚えててくれたんだ」
「あたしはマリーちゃんだよー。よろしくねー」
「よろしくー」
「よ、よろしくお願いします、マリーチャン様」
「あはは、様はいいよー」

 なんてマリーが言うものの、ゴツモンは相変わらずぺこぺこと腰が低い。

「今日は魔王様もいないことだし、気を遣わなくていいのよ」
「あ、は、はい……!」
「ゴツモンって照れ屋さん?」
「うん、そんな感じー」

 パンプモンが答えればレイヴモンも肩をすくめて頷く。てっきり魔王様に萎縮していたものと思っていたが、元々の性格だったらしい。
 ゴツモンは少し照れたように石の顔を赤らめ、ごほんと咳払いをする。

「そ、それで今日はどういった……いや、ええと、いろいろ経緯からお聞きしても?」

 魔王様の連れと、一緒に戻ってきた友人とを見てゴツモンは改めて眉をひそめる。まあ、それは本当に説明が要るだろう。
 立ち話もなんだからと言うゴツモンの好意に甘え、私たちはゴツモンの家へお邪魔させてもらい、これまでの経緯と、ここに来た目的を二人に話す。
 私たちが村を出てからリリスモンの城でレイヴモンと出会ったこと、そして、アポカリプス・チャイルドとの戦いを。

「ほえー、大変だったねー」
「なんとまあ……」

 話を聞き終え、ゴツモンは少し頭を抱えて溜め息を吐く。パンプモンも多分驚いているようだが、リアクションはどこか呑気だった。二人の反応からしてレイヴモンも詳しいことまでは話していなかったのだろう。

「すまない。あまり多くを語る訳にもいかず……」
「まあ、無事だったのなら……と、それで、刀でしたか」

 言いたいことはまだまだ山程ありそうな様子だったが、ゴツモンはそれを飲み込むように頭を振り、机に置かれたレイヴモンの刀へ視線を移す。けれど、どこかバツが悪そうに目を逸して、頭を掻く。

「む、なにか問題でも……いや、他の仕事で立て込んでいたか?」
「そういうわけでは、ないのですが……その、それ以前の問題で……」
「問題?」
「実は、少し前から鉱石が届かなくなってしまって……」

 ゴツモンは困ったような顔で頭を掻く。

「鉱石って、えっと、材料がないってこと?」
「ええ、北の鉱山の麓にある製鉄所から仕入れているのですが、その、少し前からぱったりと……」

 そう言いながら窓の外を見やる。確かに遠く山が見えるが、あれが鉱山だろうか。

「えー、なんかあったのかな? てかもう一つもコーセキってないの?」
「いえ、並の鉄なら無くもないのですが、これほどの業物の代わりとなると……」

 折れた刀を抜き、その刀身に視線を滑らせ、ゴツモンは溜め息を吐く。
 確か、銘を『烏王丸』と言っていたか。レイヴモンほどの実力者とともにあれほどの激戦をくぐり抜けてきた刀だ。並の刀であるはずがない。そもそもそこらの刀で妥協できるならわざわざ鍛冶屋を訪ねることもなかっただろう。
 さて、となるとここは、

「なら、私たちで様子を見てきましょうか」
「え、よ、よろしいのですか?」
「ええ、もちろん。ね?」

 問えばマリーも異論などあるはずがないという顔で頷く。レイヴモンは一瞬躊躇ったが、

「お心遣い、かたじけなく存じます」

 なんて大袈裟に頭を下げる。
 私の護衛という名目でここにいる以上、レイヴモンからは言い出しづらかったろう。私だってレイヴモンの足を引っ張りについて来たわけではないのだ。なにやらトラブルの予感はあるが、さすがにただの鉱山で世界の命運が懸かるほどのことまでは起きていないだろう。

「鉱山ってあの向こうの山だよね? なら早速行こうよ!」
「そうね、ベヒーモスならそこまで時間もかからなそうだし」
「は、道案内は某にお任せください。鉱山には以前にも――」

 そう、話しながらゴツモンの家を出た、その瞬間、ふと白い何かが視界の端を過る。それはレイヴモンの頭目掛けて飛び掛かり、

「だーれだ」

 などと言ってレイヴモンの両目を塞ぐ。

「……っ!?」

 驚愕、警戒、レイヴモンのデジメロディが僅かに乱れる。平時とはいえ、あのレイヴモンが不意をつかれたというのか。
 けれどレイヴモンはすぐに平静を取り戻す。

「兄者……?」

 自分の後頭部に張り付き両目を塞ぐ白い何かを、レイヴモンはそう呼んだ。

「え? えと……」
「オウ、イエス! ぴんぽんダヨ!」

 そう言いながら白い何かはレイヴモンの頭の上で親指を立てる。それは背丈30センチほどの小さなデジモン。白い輪を三段に重ねたような身体に、金色の手足が生えた機械の……ええと、ソフトクリーム、型?
 どう形容したものか困っていると、マリーがとてもストレートに表現する。

「メカうんちモン?」
「オウ、ひどいネ! ミーはダメモン! 間違えちゃダメダメネ!」
「ダメモン?」

 ダメ、というのは、ええと、駄目、ということだろうか。
 だとしたらなんて名前を付けているのだろうか。いや、誰が付けているのかは知らないけれど。

「はっはっは、失礼した。我々も刀工殿に用があってな」

 そんな声に振り返ればまた知らないデジモンの姿。
 二足歩行のライオンが学ランを羽織り、丸太のような太い腕を組んで豪快に笑っていた。その姿に、レイヴモンのデジメロディが再び乱れる。

「し、師匠……?」



◆Ⅵ:師との再会


「ししょー?」

 私とマリーは顔を見合わせて、レイヴモンの言葉を反芻する。

「って、ええ!? レイヴモンの?」
「お師匠様……?」
「うむ。私はバンチョーレオモンという。以後お見知りおきを」

 そう言って学ランライオン、いや、バンチョーレオモンは柔和な笑顔で大きな手を差し出す。私たちは戸惑いながらも順に握手を交わす。

「あ、はい……えと、葵日向と申します」
「マリーちゃんでーす。と、もーします」
「はっはっは。そうかそうか。よろしく頼む」

 豪快に笑うそんな師匠に、しばし呆然としていたレイヴモンもはっと我に返る。後頭部にダメモンが張り付いたまま片膝をついて頭を下げる。

「ご無沙汰しております、師匠」
「うむ。息災であったか、与一」
「は、お陰様で。師匠もお元気そうでなによりです」

 畏敬と、喜びと。少しだけ照れくさそうにしているレイヴモンの肩を叩き、師は穏やかに笑う。

「本当に……うむ、よき友と戦場に巡り会えたようだな」
「……はい!」

 心の底から弟子の成長を喜ぶように、まるで我が子のように。これがレイヴモンの師匠・バンチョーレオモンか。なるほど、レイヴモンが尊敬するのも頷ける好漢だ。いつか会ってみたいとは思っていたが、まさかこんなところで早々に会えるとは。

「それと、えっと、ダメモン? 兄者って言ってたけど、兄弟子的なこと?」
「イエース、アイ・アム!」
「は、剣は兄者にご教授いただきました」

 剣? なんて持てるようにすら見えないが……いや、なんだかおかしなデジメロディだ。見えている姿と聞こえる音の形がちぐはぐで、その音さえどこかくぐもっているような。十闘士のように姿を変えるデジモンは他にもいると聞いたが、その類だろうか。

「ワオ、そんな見詰められると恥ずかしいネ」
「あ、ごめんなさい。つい」
「侮れぬな」
「え?」
「なんでもないネ」

 なんだか妙に低い声が聞こえた気がするが、ダメモンはわざとらしく口笛を吹いて目を逸らす。閉鎖的な旋律は「これ以上聞くな」と言葉なく語っているようだった。まあ、特に踏み込む理由もないのでいいけれど。

「それよりブラックスミスさんはご在宅ネ?」
「え、ああ、それってさっき言ってた刀工殿? だったら……」
「おや?」

 なんてわいわい言っていると、外の騒ぎにゴツモンが不思議そうな顔を覗かせる。

「これはこれはバンチョーレオモン様」

 けれど、噂の刀工殿はさして驚く様子もなくバンチョーレオモンに会釈をする。

「え、知り合いだったの?」
「たまに刀のメンテをお願いしてるんダヨ」
「なんと。そうでしたか……」
「うむ、話そうとは思っていたのだがな」
「誰かさんがあちこちフラフラしてて全然会えなかったからネ!」
「む、う……申し訳ありません」
「よいよい、便りがないのは元気な証拠よ」

 バツが悪そうなレイヴモンの肩を優しく叩き、バンチョーレオモンは呵呵と笑う。魔王やらに関わって音信不通だった相手に使う言葉ではない気もするが、器が大きいというかなんというか。

「でもさ、ししょーさんもわざわざ会いに来るって、ゴツモンやっぱすごいヒトなの?」
「そりゃあの鍛冶神さまの弟子だもんネ」
「い、いえ、弟子だなんてそんな……!」
「ほう、それは是非とも詳しく聞いてみたいものだ」

 かじしん? と、私たちが首を傾げていると、懐から不意に忘れていた声が響く。そういえば確かにそんな話をしていたなと、古書を取り出して思い出す。
 書の賢人ワイズモンは、顎に手を当てながら興味深げにゴツモンを覗き込む。

「君は本当にウルカヌスモンの弟子なのかい? 弟子入りの経緯は? 今も交流はあるのかい?」
「あ、え、えと……」
「ワイズモン、戸惑ってるから」

 そう静止すれば「おっと」なんてわざとらしく肩をすくめる。

「ごめんね、ゴツモンのお師匠様に興味津々らしくて」
「は、はぁ……」
「おやおや、興味を持つなというほうが無理な話だよ。オリンポス山の謎多き神々、その一柱である鍛冶神ウルカヌスモンだよ?」

 大仰な身振り手振りでそんなことを言われても誰だか知らないが、まあ、その口ぶりと肩書でなにやらすごいデジモンらしいことはわかった。
 オリンポス山というと、ギリシア神話だろうか。神話を元に生まれ、神と呼ばれるデジモンたち。そこに属する鍛冶の神様がゴツモンのお師匠様というわけか。あのワイズモンが謎多きと称するほどだ。滅多に表舞台には出ないような神様たちなのだろう。確かに興味はあるけれど。
 ゴツモンは好奇の目に二度三度視線を逸らすも、こくりと喉を鳴らして語る。

「あの……お会いできたのは、本当にただの偶然です。勢いで弟子入りを申し出ましたが、その、しばらくそばで見ていただけでして、弟子と認めていただけていたかどうか……」

 自信無さげにそう言って、また視線を逸らす。
 そんなゴツモンの肩をパンプモンが優しく叩く。

「でも出てけって言われたりもしなかったよねー。おねーちゃんも照れてるだけって言ってたよー」
「そう、だといいのですが……」
「うん? お姉ちゃんって?」
「あ、えと、ウェヌスモン様です。寝床や食事でお世話に……」
「なんだって?」

 ゴツモンの言葉を遮ってまたワイズモンが声を上げる。察するにまた別の神様か。

「それは……」
「キリがなさそうだから私たちはそろそろ鉱山に向かいましょうか」
「あはは、たしかに」
「ゴツモン、ちょっとこれ置いてくから。手が空いたら相手してあげてくれる?」
「え? あ、はい」

 ゴツモンには申し訳ないが、尚も何やら言っているワイズモン、の本をゴツモンに渡し、私はマリーとレイヴモンに目配せする。と、そんな時、バンチョーレオモンが腕を組みながらふむと唸り、その様子にダメモンが肩をすくめて言う。

「やれやれ、しょうがないからミーもついてくネ」
「え、鉱山に? って、どうして……」
「察するに鉱石が届かないのであろう。我々も少々気になっていてな」
「スミっちゃんにはお世話になってるからネ」

 ワイズモンに律儀に応対しているゴツモンには聞こえないよう声をひそめ、ダメモンはにやりと笑う。あだ名はもう原型もなかった。
 見た目はびっくりするほど胡散臭いが悪意の音は聞こえない。なにより、あのレイヴモンが兄者と慕う相手だ。私は小さく息を吐き、ダメモンと握手を交わす。

「わかった。ならよろしくね」
「わあ、『ダメモンがなかまになった』だね!」
「ファンファーレがほしいとこネ。与一、なんか吹くネ」
「は、え……?」

 戸惑うレイヴモンの肩を叩き、スミっちゃんことブラックスミスさんことゴツモンに手を振って、私たちは鉱山に向けて出発するのであった。



◆Ⅶ:暗雲の気配


「てゆーか、ヨイチってなに?」

 町を発った私たちは一路、鉱山を目指す。
 その道中、後部座席のマリーが私の肩に顎を乗せ、カウルの上に座るダメモンへと問う。先程の会話でずっと気になっていたことだった。バンチョーレオモンもレイヴモンを同じ名で呼んでいたようだが。
 レイヴモンにも視線を向けるが、ふたりとも言葉を探すように腕を組んで首を傾げる。

「名前というわけではないの?」
「『レイヴモン』って、あたしたちなら『人間!』って呼ばれてるようなもんだよね?」
「うーん、まあそうなんだけど、あだ名? みたいなもんネ」
「お二人の名前とは少々毛色の異なるものです。道場に入門した折、師よりいただいたものでして」

 つまりは本名ではなく通名のようなもの。いや、本名自体がないなら通名というのも少しおかしいか。

「へえ、道場じゃあだ名で呼び合うんだ。そーいう、しきたり? みたいな?」
「ノンノン、無意味に付けてる訳でもないネ」

 ちっちっちと指を振り、あとは説明よろしくとばかりにレイヴモンへウインクをしてみせる。
 レイヴモンは小さく唸り、

「我々が扱う“デジソウル”と呼ばれる力は、心の力なのです」
「心?」
「はい。ゆえに修行の第一段階では、己の心と向き合うのです。己を知り、その本質を正しく識ることでデジソウルは発現します」

 心の力、自分の本質を知る……か。言葉を反芻して、その意味に思い至る。

「もしかして……進化、するから?」
「ザッツライ! ジェネラルちゃんは賢いネ」

 デジモンは進化によって名も姿も、時として人格すらも変容する。
 ビーストスピリットによる進化も、はじめはその攻撃性、凶暴性の制御に苦労したと言っていた。可逆性を持った横軸の進化でさえ己を見失うほどの振れ幅ともなれば、不可逆の縦の進化はその比ではないだろう。
 移り変わる自己の不変の本質を捉えるための目印、自己同一性の指標となるものが、名前というわけだ。

「えっと、名札付けとけば急におっきくなっても誰だかわかる、みたいな?」
「ハハ、だいたいそんな感じネ」

 そんな育ち盛りの小学生みたいな。

「でもさ、なんで今まで隠してたの? 気に入ってないの?」
「いえ、そのようなことは。ただ、名前自体があまり一般的ではないものでして」
「人間の文化が好きくないのもいるしネ」

 私たちにとっては一番わかりやすい自己紹介だが、名乗ることで逆に説明しなければならないことが増えてしまう、ということもあるわけだ。それに加えて、嗚呼……と誰かの顔が浮かぶ。確かに、彼らとは名乗らないほうがうまくいきそうだ。
 しかし、ヨイチ……与一、か。

「んー……」
「どうされましたか?」
「うん、私そっちのほうが親しみやすいかも」
「あ、わかる。ねー?」
「そう……でしょうか」

 レイヴモンに進化したデジモンが彼ひとりとも限らないわけだし、私たち人間の感覚としてはそちらのほうがしっくりとくる。
 そんな私たちにレイヴモンはふむと頷き、

「師からいただいた名は、“黒鉄之与一”と申します」
「くろがね! つよそーだね」
「デジソウルの性質で冠名をつける、とかなんとか言ってたネ」
「ですので、呼び名はもっぱら“与一”と。よければそうお呼びください」

 胸に手を当て、穏やかに微笑みながら与一は言う。

「ならそう呼ばせてもらおうかな、与一」
「はい、ヒナタ様」
「あー、あたしもあたしも、与一!」
「はい、マリー様」
「じゃあミーも呼んじゃおっかナー?」
「兄者には元から呼ばれておりますが」

 弟分のそんな返しにダメモンはぷうと頬を膨らませる。膨らむのかそれ。

「うーん、でもダークドラモンたちの前では呼ばないほうがいいのかな」
「ほえ? あー、好きくないってそゆこと?」
「ふむ、多少思うところはあるやもしれませんが、それほど気にされる必要はないかと」
「そう?」
「うんうん、ジェネ子ちゃんもラナ子ちゃんも優しいネ」
「あはは、あたしラナ子になった」

 なんて笑うマリーと、微妙な顔をする与一を交互に見て、私は肩をすくめる。
 さっきも呼んでいたな。うっかりにしては随分とわざとらしい。試しているのだろうか。試される筋合いはないので一旦流したが。
 なぜまだ話してもいないジェネラルとラーナモンを知っているのかと、聞いたところで彼は素直に答えてくれるだろうか。うん、まあ面倒だからいいか。スルーの方向でいこう。
 そんな私を見透かすように、ダメモンは横顔でにやりと笑ってみせる。試すというよりからかっているだけだろうか。食えないデジモンである。

「あ、そういえばダメモンも名前って……」
「おや、誰か来るネ」
「え?」

 ダメモンの声色が少しだけ変わる。視線の先にはまだ何も見えない。一瞬遅れて与一の双眸がそれを捉える。次いで私の耳を弱々しい音が微かに撫でた。

「鉱夫のようです」
「ベヒーモス!」

 言うが早いかベヒーモスが速度を上げる。
 やがて荒野をふらふらと歩くデジモンの姿が見えてくる。
 どうやら息抜きは、もう少し先になりそうだ。



◆Ⅷ:争乱の足音


 私たちの姿を認めると彼は糸が切れたように倒れ込む。
 ベヒーモスから飛び降り、駆け寄れば、荒野に倒れていたのは背を甲殻で覆われた四足獣型のデジモンだった。デジヴァイスを向ければ「アルマジモン」の名前が表示される。仮想ウインドウに映し出されたイメージと違い、目の前のアルマジモンは黄色いヘルメットを被っていた。与一の言うように鉱夫なのだろう。傷か泥か、全身が酷く汚れている。
 目は虚ろだが、小さく呻きながらも私たちをしっかりと見ていた。どうやら意識はあるようだ。

「与一、どう?」
「外傷はそれほど。デジソウルの乱れからして精神的な疲労かと」
「お水あるけど、飲めるかな?」

 マリーが水筒を差し出せば、アルマジモンはそれを一息に飲み干して、深く細く息を吐く。その様子に安堵し、私はデジヴァイスを仕舞う。

「ありがとう、ございます……」
「すまない、何があったか話せるだろうか」
「は、はい。その、鉱山が突然、見知らぬデジモンに襲撃されまして……」
「襲撃? というと、鉱石を狙った盗賊団、とか?」
「いえ、単独でした。それもただ暴れ回るだけで……いったい何が目的なのか」

 目的もわからない暴走デジモン、か。穏やかではないな。
 しかし、となると……

「それは、いつの話? 鉱石は少し前から届かなくなったと聞いたけれど」

 ゴツモンの話では昨日今日のことではなさそうだったが。謎のデジモンが現れてからの奇妙な空白期間は何なのだろうかと、問えばアルマジモンは少しだけ言いづらそうに目を伏せる。

「その、ひと月ほど前に、天使さまがやってこられたのです」
「天使?」

 と、言われて思わず顔を見合わせる。
 天使と言えば思い浮かぶのは絶賛抗争中の彼らだが……ふむと一つ唸り、与一は問い掛ける。

「彼らは何と名乗っていただろうか」
「あ、えと、アポカリプス・チャイルド、と」

 その返答に、私たちは息を呑む。
 曰く――アポカリプス・チャイルドはひと月ほど前に現れ、「鉱山に“危険な古代の遺物”が眠っている可能性がある」と、発掘された際には言い値で買い取らせてほしいと申し出てきたのだという。採掘作業の手伝いや怪我人・病人の手当て、護衛まで無報酬で引き受け、鉱山の責任者もその遺物とやらを渡すことに異存はなかったという。
 そんな中で現れたのが件の襲撃者。けれどアポカリプス・チャイルドはどういうわけか、この件を外部に漏らさないよう箝口令を敷き、自分たちだけで解決に当たったのだという。しかし、坑道の奥深くまで侵入した襲撃者に手を焼き、事態が好転しないまま時間だけが経ち――

「昨夜遅くに爆発音のようなものが聞こえて……落石が起こったのです」

 坑道内での戦闘の余波か、落石は製鉄所を襲い、避難していたアルマジモンたちも巻き込まれることになったのだという。

「親方たちとも離れ離れになってしまって……このままではいけないと思い、その……」

 落石のどさくさに天使さまの目を盗み、助けを呼びに行ったというわけか。
 うつむくアルマジモンに、私はしゃがんで目線を合わせる。

「あなたのことは伏せておくから、心配しなくて大丈夫よ」

 と言えば彼はほっと息を吐く。
 勝手に仕切りだした余所者にアルマジモンたちが従う道理など、もとよりないのだけれど。まあ、彼らからすればよくわからない武装集団に占拠されたようなものか。報復を恐れるのも当然だ。
 しかし、ここまでして外部に情報を漏らさないということは、やはり――

「ヒナタ様、マリー様、お二人はアルマジモンを連れて村へ」

 思案する私に、与一はそう言って頭を下げる。

「え? って、ひとりで行くの?」

 レイヴモンの言葉にマリーは私の顔を伺う。まあ彼ならそう言うか。
 いや、提案自体はもっともだ。この先にいるのは宿敵アポカリプス・チャイルド。加えて、正体不明の襲撃者。

 “危険な古代の遺物”とやらがスピリットなら、謎の襲撃者も当然それが狙いだろう。
 アポカリプス・チャイルドが手を焼いていたのはこれまでゼブブナイツとの戦いに戦力を割いていたから、とするならそろそろ増援がきていてもおかしくはない。
 最悪、スピリットを巡る三つ巴の闘争となるだろう。
 隠密行動に秀でた与一がこっそり掠め盗ってくるのが一番穏便だが……

 ふむと、腕を組んで眉をひそめる。
 そんな私に与一とマリーと、アルマジモンの視線が刺さる。

 何かが引っ掛かった。
 言語化の難しい、とても曖昧で、抽象的な感覚。
 もう一度鉱山へ目を向ける。
 そうしてふと、違和感を覚えた。

「マリー、ちょっと進化してみてくれない?」
「え? あ、うん」

 戸惑いながらもマリーは素直に応じてくれる。
 デジヴァイスを取り出し、ラーナモンへと進化を果たす。その姿を間近で見て、再び鉱山へ目を向ける。

「ラーナモンたちと似た音が鉱山から聞こえる。ような気がする」

 山を指差しながらそう言えば、マリーと与一は小さく息を呑む。アルマジモンに至ってはずっと意味不明だと思うが、一旦後回しにさせてもらおう。

「ほんとだ……いるかも、十闘士」
「確かに、このデジソウルの波長は……」

 感覚を研ぎ澄ますように目を凝らし、二人は言う。やはりそうか。
 どうやらスピリットは、すでに誰かの手に渡っているようだ。となれば、もはや戦いは避けようもない。

「与一、私も連れて行って」

 この感覚を言葉にすることは難しい。ただ、行くべきだと、「私の役目」がそこにあると、そう感じるのだ。私の護衛である与一に余計な仕事をさせるに足る理由とは、到底言えないけれど。
 しかし与一の逡巡は僅か。私の目を見据え、

「御意に」

 とだけ。信頼か、盲信か、諦めか。デジメロディを自在に聞き取ることができれば心の内を盗み見ることもできたのだろうけれど、今の私に彼の真意はわからない。
 だからただ、「ありがとう」と返す。後はもう、精一杯その役目を果たすだけだ。彼の判断を誤りにしないために。覚悟を決めて、拳を握る。

 振り返り、ベヒーモスに呼び掛けながらアルマジモンの前にしゃがむ。

「後は私たちに任せて。あなたはこの子に乗って村に」

 アルマジモンを抱え、ベヒーモスに乗せる。

「しっかりつかまっていて。村まで連れて行ってくれるから」
「あ、は、はいっ」
「ベヒーモス、お願いね」

 ぶおんと、応えるようにエンジンを鳴らし、ベヒーモスはゆっくりと村へ向かって走り出す。その背を見送り、鉱山へ目をやって、私たちは頷き合う。と、ふとマリーが首を傾げた。

「あれ、そういえばダメモンは?」

 言われてはじめて姿が見えないことに気付く。というか、先程からずっと大人しかった。まさかベヒーモスに乗ったままかと、振り返ったその時、視界の上から金色の姿が降ってくる。

「オウ、“天使さま”がいっぱいネ。急いだほうがいいかもしれないヨ」

 なんて、人の目には見えるはずもない遠い鉱山の様子を語る。そもそも起伏の大きい荒野に製鉄所の影すらまだ見えない。一体どこまでどうやって跳んだのか。
 まあいい。どうせこの先は出し惜しみしていられる状況ではないだろう。
 頷いて、皆へ声を掛ける。

「行きましょう」


続く