-NiGHTMARE:DiTHERiNG-
episode R『烏玉(ぬばたま)のペリルーン』



◆プロローグ
◆Ⅰ  ◆Ⅱ  ◆Ⅲ  ◆Ⅳ  ◆Ⅴ  ◆Ⅵ  ◆Ⅶ  ◆Ⅷ
◆Ⅸ  ◆Ⅹ  ◆ⅩⅠ  ◆ⅩⅡ  ◆ⅩⅢ  ◆ⅩⅣ





 はあ、と零した吐息は降り注ぐ水の音に紛れて消える。溜息だったろうか。後悔はしていないはずなのだけれど。時々、自分の気持ちさえよく解らなくなる。
 この水が汗ごと悩みも流してくれたらいいのにと、そんなことを考えてふと笑う。花を模した銀の蛇口を捻る。シャワー口から細く水が漏れて、濡れた髪から水滴が落ちる。
 こんなことを考えるのもきっと今が平和である証拠だろう。たとえそれが、戦いと戦いの間にある僅かな小休止に過ぎないとしても。
 神経が過敏になっているのだろうか。乳白色のタイル床に跳ねる飛沫を眺めながら小さく息を吐く。そうして――不意に胸を圧迫する謎の感触に、私はびくりと震える。

 声にならない声が喉の奥に反響する。柄にもなくきゃあと叫びそうになりながらも、どうにか堪えて息を飲む。
 振り返る。ずびしっと、手刀を見舞って目を細める。てへっと舌を出す闖入者にまた溜息を吐く。

「何してるの、マリー?」

 それもまた、平和な朝の一幕であった。



【-NiGHTMARE:DiTHERiNG-】

-episode R-
烏玉(ぬばたま)のペリルーン』



◆Ⅰ:晴天の朝に


 ベリアルヴァンデモンとの戦いから、1週間が過ぎた。
 ホーリードラモン率いるアポカリプス・チャイルドとの戦いは今なお続き、私こと葵日向はいまだ、デジタルワールドの地を離れることができずにいた。

 ゼブルナイツ改めゼブブナイツの騎士たちが活動の拠点とする移動要塞・エルドラディモン。巨大な亀そのものであるこのデジモンの背に聳える古城の一角、左肩付近に立つ塔が私たち人間の居住区画である。
 全12階からなる塔は最上階の展望フロアと最下階のエントランスを除いた2階から11階にそれぞれ1室から4室、大小合計27の部屋がある。その5階、中程度の2部屋に区切られた階が、私とマリーの居住スペースになっている。

「もう、何してるのよ」
「うん、つい……」

 髪を乾かしながら溜息を吐けば、素直に反省しているらしくマリーは正座でうなだれる。いや、というより随分と浮かない顔で沈んでいるようにも見えた。そこまで強く叱ったつもりはなかったのだけれど。

「どうかしたの?」
「いや、確かめとこうかと思ったんだけど……本物だなーって」
「え?」

 言っている意味がよくわからずきょとんとする。するも、振り返って見たマリーの手の動きに、先程私に抱き着いた両手で何かの大きさと感触を確認するかのように少しだけ閉じては開くを繰り返すその動作に、そして何故だか自分の胸元に落とした視線とに、一拍遅れてようやく理解する。

「あ……当たり前でしょ!」

 思わず大きな声を出してしまう。少し裏返ってもいた。きっと頬は赤い。
 この階にはあたしとマリーの部屋しかないとはいえ、上下階の住人が通り掛かることは当然ある。何より、ジェネラルなのだからと展望台を除いた最上階である11階を奨められた私が、上り下りが面倒だからと選んだこの階には、食堂や作戦室のある中央棟への連絡通路が設けられているのだ。
 直に朝食の時間だし、この塔には私たち以外に人間大のデジモンも住んでいる。聞こえてしまったろうかと、何とも言えない表情になっているであろう顔をタオルに埋める。

「はあ、牛乳飲んでんだけどなー。効かないの?」
「……知らない」

 やはり11階にすべきだったろうか。
 せめて男子二人が聞いていないことを祈り、気を取り直して食堂に行くべくのそのそと着替えを始める。
 ちなみにマリーはわざわざラーナモンの姿で窓から忍び込んできたらしく、人間に戻れば服は濡れてもいない綺麗なままだった。伝説の闘士は草葉の陰で一体どんな顔をしていることだろう。

「ねえねえ、ヒナー」
「はいはい、なあに」

 鼻に掛かった甘い声で私を呼ぶマリーに、肩をすくめてそう返す。なんだか妹でもできた気分だ。悪い気はしなかった。少しだけくすりと笑う。
 見るとマリーは壁に掛けておいた私の制服を物珍しそうに眺めていた。

「前から思ってたんだけどこの制服ってさ、丘の上のお嬢様学校の?」
「おじょ……え? 知ってるの?」
「うん、見たことある」

 言ったマリーと、顔を見合わせて目をぱちくりとさせる。

「あれ? 意外と近くに住んでた?」

 と、いうことになるのだろうか。随分とご近所の話をしているように聞こえたけれど。

「学校からそう遠くないわ。駅を挟んで反対側よ」
「え? あたしもあたしも! あのね、うちね、駅前の商店街の花屋なの!」
「もしかして“マリアージュ”?」
「そうそう、それ! あたしんち!」

 へえ、と思わず少し呆けたような顔をする。“フラワーショップ・マリアージュ”――何度か行ったこともあるお店だった。また何とも奇妙な偶然だ。
 それにしても、だから“マリア”なのだろうか。名前が気に入らないと言っていたのはその辺りが理由だろうか。確かに、我が身に置き換えれば少し気恥ずかしくも思えてくる。

「おーい、ヒナター」

 そんな話をしていると、不意に外から私を呼ぶ声が聞こえてくる。しゅたん、と軽やかに出窓の縁に降り立つのは現11階の住人であった。姿を確認するまでもなく私は溜息を吐く。

「だからどうして窓から入ってくるの」

 次から次へと。扉ってご存知ないかしら。
 そんないつもどおりのインプモンは、いつもどおりの悪びれた様子もない顔であっけらかんと返してみせる。

「いやだってちけーし」
「あはは、確かにー。飛び降りたほうが早いもんね」

 はいそこ、同意しない。ただの人間が11階から飛び降りたら地上はむしろ遠ざかる。空の上へと一直線だ。一緒にしないでもらいたい。

「んなことより飯いこーぜ。ヒナタも走ったら腹減ったろ?」

 言われて、はあ、とまた溜息を一つ零す。

「そうね、無益だわ」

 窓から以前に着替えてたりもするんだから勝手に入るなという話なのだが、何度言っても理解すらしてもらえそうにないのでもう止めておく。性別がないせいかこの手の話はどうにもぴんと来ないらしい。自衛するとしよう。
 もう一度だけ深く溜息を吐いて部屋を後にする。なんだか色々疲れた。

 元気な二人の後を追って石橋の渡り廊下を歩いていく。食堂は中央棟の1階、集会場も兼ねた大広間だ。何気なく橋から中庭を見下ろすと、同じように食堂へ向かうであろうデジモンたちの姿がちらほらと見えた。

「つーかヒナタってなんでいつも走ってんだ? 鍛えて戦うのか?」

 ひょいと欄干へ飛び乗って、危なっかしい後ろ歩きでインプモンがそんなとんちんかんなことを言う。

「そんな訳ないでしょう。私をなんだと思ってるの」

 朝のジョギングはエルドラディモンのお城に腰を落ち着けてからは日課になっている。塔と中央棟の間にある中庭は石畳もしっかりと整備が行き届き、景色もよくて誂えたようなジョギングコースだった。
 だが、私もさすがにそんなことで戦力の足しになれるだなんて思ってはいない。

「ヒナってなんかスポーツしてたの?」
「そうね、乗馬は少しだけ」
「乗馬ぁ!? ヒナってやっぱお嬢様なの?」

 なんて言うマリーに一瞬言葉に詰まる。

「べ……別にお嬢様じゃなくても乗馬はするでしょう」

 私もそうよ、とは言わなかったけれど、マリーはさして気にする風でもなかった。

「と、とにかく、体力ないと余計に足手まといだって思っただけよ」

 こほんと咳払いをして、少し早口に言う。
 ただでさえ何の力もない人間。その上スタミナまで人並み以下ではお話にならない。正直、ベヒーモスにしがみつくのも中々に大変なのだ。
 ふうん、とマリーも中庭を眺める。

「そいや灯士郎も朝よく走ってるよね」
「ええ、毎朝会うわ」
「二人ってなんか話したりするの?」
「話? 特に……おはよう、くらい?」
「えー、駄目だよー。もっとコミュニケーション取らないと」
「そう言われても……」

 と言えばぴょこんと、ちょうど橋を渡り終えたところで欄干から飛び降りて、インプモンが意地悪そうな顔をする。

「ヒナタもトーシロも口数多かねーからなぁ」
「……いや、コミュニケーションなら一番駄目なのインプモンでしょ」

 なんて呆れて返す私に、マリーとインプモン当人までもが口を揃えて「確かに」と笑う。自覚はあるのね。
 けれど、確かに私も私か。任せろと言った覚えはないが、ジェネラルとは要するに軍の指揮官なのだそうだ。現状では何ができる訳でもないが、とはいえ仲間のことはよく知っておくべきだろう。
 選ばれし子供に二つの魔王の軍勢、そしてレイヴモンやミラージュガオガモン。改めて考えてみると、今こうして一緒にいることが不思議で仕方ないような面子ばかり。ここ数日彼らと過ごしたが、やはりまだどこかぎこちなくもある。
 特に、選ばれし子供によって討伐されたという魔王デーモン配下のスカルサタモンたちは、マリーたちに思うところがあるようだった。ダークドラモンも私をよくは思っていないらしい。

「ま、なんにせよ飯だ飯。小難しいこたぁ後にしようぜ」
「小難しいこと?」

 私の腰をぽんと叩いて、言ったインプモンにマリーはきょとんとする。私は、溜息混じりに笑って返した。まったく、時々妙に鋭いんだから。

「そうね。腹が減ってはなんとやら、かしら」

 城に常駐しているだけでも数百に上る兵たち。用意されたその大量の朝餉の香りに、中央棟は満たされていた。
 今日もまた、私たちゼブブナイツの一日が始まる。



◆Ⅱ:朝餉の後に


「いとま?」

 首を傾げてオウム返しに問う私に、レイヴモンは膝をついたままこくりと頷いてみせた。
 食堂の奥、半ば私たちの定位置と化した一角で食事を終えた、ちょうどその頃。いつも通りどこからともなく現れて、いつも以上に神妙な面持ちで切り出したレイヴモンに、私とインプモンは顔を見合わせる。
 ベリアルヴァンデモンとの激戦の傷もまだ癒えぬ、そんな折。ゼブブナイツの騎士たちがアポカリプス・チャイルドとの決戦に備え、諜報と軍備を進めている最中のことだった。

「いとま、って休暇がほしいの?」
「は。三、四日、城を離れる許可をいただきたく」

 片膝をついて頭を垂れたまま、言ったレイヴモンに周囲の注目が集まる。場は食堂代わりの大広間。時刻はまだ日も低い朝。本当ならそろそろ学校へ行く頃だろう。私やインプモン、マリーの他にも、これから任務へ赴く騎士たちの姿もまばらに見える。マリーが眉をひそめながら声を上げた。

「ちょ、ちょっと待ってよ! 何でこんな時に……!」

 そんなマリーの言葉には、レイヴモンを怪訝な目で見る騎士たちも同意見だと言わんばかり。
 確かにアポカリプス・チャイルドとの決戦を控えたこんな時。なのだけれど。私は短い思考を置いて、うんと頷く。

「いいんじゃない?」

 そう、問い掛けるようにインプモンへ目をやる。驚くマリーを尻目にインプモンもまた事もなげに、

「ん? ああ、いいぞ」

 とだけ言って目の前の大皿に盛られた紫色の得体の知れない果物に噛り付く。しゃり、とかじればみずみずしい果汁が跳ねる。これで五つ目か。見た目はいかにも毒ですと言わんばかりだが、どうやら害はなさそうだ。私も食べてみようかな。

「え、ええ? そんなあっさり? いいの?」
「別にいいけど。ねえ、ところでこれって人間が食べても大丈夫?」
「あ、うん。結構美味しかった。……じゃなくてぇ」

 ぐねぐねと眉を歪めるマリーの肩を叩き、私はふうと息を吐く。いまだ傅いたままのレイヴモンへ目をやり、

「どうせ今は暇でしょう。それに、ちゃんと理由もあるみたいだし」

 心静かに、曇りなく。耳を澄ませば聞こえる旋律に澱みはない。そう、いつも通りのレイヴモンだ。真面目で馬鹿正直で、私は、そんな彼を信用している。デジメロディがなくとも疑いはしなかっただろう。
 けれど、とは言えマリーたちがそれで納得しないのも当たり前と言えば当たり前か。

「ちなみにどこまで?」

 彼に限って臆病風に吹かれたわけもあるまいし、単なる休暇というわけでもないだろう。生真面目な理由を半ば想像して問えば、レイヴモンは真っ直ぐに私を見据えて答えてみせた。

「故郷の村へ」
「故郷?」

 というと、確かリリスモンの城に程近いゴツモンたちの村だったか。
 レイヴモンはこくりと頷いて、おもむろに腰の刀を差し出す。献上するようにゆっくりと引き抜いてみせたその刀は、刀身が中程で折れていた。外ならぬこの城で、ブラックセラフィモンと戦った時に砕かれてしまったものだった。

「戦いに備え、刀を打ち直したく存じます」
「村に鍛冶屋がいんのか?」
「は。村のゴツモンは近辺でも名の知れた刀鍛冶でございまして」
「ゴツモン?」

 不意に出た聞き覚えのある名前に、レイヴモンとインプモンを交互に見る。

「それって……」
「俺らが会ったあいつか」
「え? 二人とも知ってるの?」
「ええ、村ではお世話になったわ。ゴーグルもゴツモンに貰ったの」
「へえ、そうなんだ」

 思えばまだほんの十日前か。なんだか随分と懐かしく感じる。

「ま、ならいいさ。勝手に行ってこい」
「は。ありがとうございます」
「なんだか休暇でもない気がするけどね」

 肩をすくめる。どう考えても軍備の一環だろうに。
 城には武器庫もあるのだが、元々ここにいたデジモンたちの性質ゆえ、置いてあるのは火器が大半であるらしい。と、先日武器庫の前で会った灯士郎君が言っていた。騎士を名乗ってはいるが、確かに剣や槍で戦うのは彼らくらいしか見た覚えがない。
 戦力的にレイヴモンは単なる一兵卒ではないし、戦略的にも万全で戦いに臨んでもらいたいところであろう。

「もう今日にも発つの?」
「は。すぐにでも」
「そう。気を付けてね」
「お心遣い痛み入ります」

 片膝をついて深々と頭を下げたレイヴモンに、大袈裟ねと言葉には出さずに笑い掛ける。そんな時、ふとインプモンが窓から城の外を眺めてふうむと唸る。ああ、と声を上げ、私を見る。

「ヒナタ、お前も行ってきたらどうだ?」

 なんていう、インプモンの唐突な発言には、私だけでなくレイヴモンやマリーも目を丸くする。

「え?」
「自分で言ったじゃねえか。どうせ暇だろ。ベヒーモス貸してやっから」
「確かに暇だけど……」
「それに、こいつ一応お前の護衛だろ」

 とは、確かにその通りなのだけれど。
 言ってそれきりふいと視線を逸らし、インプモンは果実を一つ手に取ってぴょんと椅子から飛び降りる。しゃりしゃりと果物をかじりながらまた外を見る。
 ああ、と私は理解する。

「しかしベルゼブモン様、このような私用に……」
「そうね、行ってこようかな」
「ヒ、ヒナタ様……!」
「いいじゃない。ゴツモンやパンプモンにも会いたいし。マリーもどう?」
「え? あぁ、ヒナが行くんなら」

 いまだ戸惑うレイヴモンを余所に私たちが言えば、インプモンは片手を軽く上げ、振り返りもせずにすたすたと去っていく。最後に、

「そか。んじゃ気ぃ付けてな」

 とだけ言って。

「ええ、それじゃあ少し空けるわ」

 そう返し、私は食後の紅茶を一口。
 まったく、素直じゃないんだから。まあ、私も人のことが言える性格ではないのだけれど。

「ええと……」
「息抜きしてこい、って言ってるのよ。お言葉に甘えましょう」

 私たちがダークドラモンたちと上手くいっていないことくらい、とうに気付いていたわけだ。確かに、少し距離を置いて気持ちを切り換えてみるのもいいだろう。
 リリスモンのお膝元でそうそうやんちゃをするものもいないだろうし、危ないこともあるまい。最初にレイヴモンが言った通り、休暇にはちょうどいい。

「成る程……では、準備が整い次第参りましょう」

 レイヴモンは得心がいったとばかりに頷いて、また頭を下げる。インプモンの不器用さにはいつも仏頂面のレイヴモンすら、心なしか口角が緩んで見えた。
 私たちは去っていくインプモンの後ろ姿にくすりと笑い合い、ごちそうさまですと手を合わせて食堂を後にする。



◆Ⅲ:朝焼の号砲


 着替えを済ませてエントランスホールに降りると、先に準備を終えたマリーとレイヴモンが待っていた。隣にはベヒーモスもいる。古めかしいお城にバイクが何ともミスマッチな光景だった。

「お待たせ」
「よーし、んじゃあ行ってみよう!」

 握り拳をぐっと掲げて元気に言ったマリーに、レイヴモンもこくりと頷く。
 大亀の背に建つこのお城にも、一応の出入り口というものはある。ホールを抜けた正門の向こうはちょうどエルドラディモンの首の付け根辺り。頭を地面の高さまで下ろせば、首がアーチ状の橋になる。勾配が急過ぎて私一人では到底上り下りなどできはしないのだが、デジモンたちの多くはここから城の内外を行き来している。

「あたしベヒーモスと一緒に降りるよ。ラーナモンなら平気」
「ではヒナタ様は某が」
「ええ、ありがとう。お願いね」

 息抜きということで灯士郎君とアユム君にも声は掛けたのだが、二人はお城に残るそうだ。「ベヒーモスに4人も乗れんだろう」というアユム君の尤もな意見に、「カイザーレオモンがいるじゃない」とマリーが満面の笑みで返したことも一因であったかもしれない。ひたすら走る方もその不安定な背中に乗る方も、確かに休暇にはなりそうもない。

「そうだマリー、これ持っててくれる?」

 進化してベヒーモスに跨がるマリーに、私がそう手渡したのは一冊の古びた本だった。首を傾げながらマリーが受け取ると、そのページがひとりでにめくれて淡い光を放つ。開かれた本の上に浮かび上がるのは、書の賢人の姿。

「やあ、ラーナモン」
「ワイズモン! なんで?」
「さっきアユム君に渡されたの」

 着替えを終えてここへ降りてくる途中、借りていた本を返しに図書館へ立ち寄ると、いつも通り朝から入り浸っていたアユム君に声を掛けられたのだ。気が変わったのかと思えば差し出されたのはこの本だった。
 ワイズモンは本を通じて遠隔地からの通信ができる。つまり、ワイズモンを介せば外にいても城の中と連絡が取れる。念のため、だそうだ。それに、

「ゴツモンの話は少し小耳に挟んだことがある。興味があってね」
「へえ、そんな有名なんだ」
「いや、噂ではとある名工の弟子だそうでね。それが本当なら是非とも話を聞いてみたいんだ」
「ふうん」

 とだけ返してマリーは目をぱちくりとさせる。面識もないのだから無理はないけれど、あまり興味はない様子だった。
 私はレイヴモンに目配せをし、マリーに向かって頷く。

「何はともあれ、それじゃあ出発しましょうか」
「オッケー!」
「御意に」

 開かれた正門からベヒーモスが先行し、大亀の首を駆け降りる。私を抱えてレイヴモンが後に続く。
 しばらくぶりの空は吹き付ける風が心地よかった。何度も飛んだお陰かいい加減に空も慣れたものだ。悪路のベヒーモスに比べればなんてことはない。なんてことあるそのベヒーモスに跨がったマリーの方は今にも投げ出されそうなほど小さな身体をがくがく揺らしていたが、表情と声色からして本人はどうやら絶叫マシン気分のよう。ワイズモンは大丈夫だろうか。

「マリー、舌噛まないようにね!」
「だぁ~いじょ~うっ! わはっ! あはは!」

 本当に大丈夫かしら。
 なんて心配する私を余所に、マリーは楽しそうに笑う。久しぶりの遠出ということもあるだろう。なにより、戦いと関係なくこの不思議な世界を旅するなんて、考えてみれば初めてのことなのだ。かくいう私も、正直に言えば少しわくわくしていたりする。

 ベヒーモスが大亀の頭を後ろから駆け登り、その鼻先から宙を跳ねるように飛び降りる。着地と同時に車体が左右に揺れて、車輪が土煙を巻き上げる。横這いに滑りながらやがて、けたたましいブレーキ音とともにベヒーモスは静止する。
 レイヴモンも徐々に高度を下げ、ゆっくりとベヒーモスの側へ降り立つ。

「あはは、びっくりした!」
「もう……本は持ってる?」

 笑いながら人間の姿に戻り、マリーはワイズモンの本を片手にぐっと親指を立て、ぺろりと舌を出す。ご無事でなによりです。
 車体側面の溝に足を掛け、ポニーほどもあるベヒーモスに半ばよじ登るように飛び乗る。ここだけは乗馬の経験が活きた気がする。ベヒーモスの背にマリーと並んで座り、レイヴモンにも目配せをして、準備はできたと互いに頷く。

 ヴぉおお、と。そんな私たちの後ろで大亀が次第にゆっくりと首を上げ、低く喉を鳴らした。
 いってらっしゃい。とでも言ってくれているようで、私たちは顔を見合わせて笑い合う。
 いってきます。と手を振って、私たちは城を後に、果ても見えない荒野へと舵を切る。

「ようし、しゅっぱーつ!」

 マリーが音頭を取ればベヒーモスが走りだし、レイヴモンもそのすぐ隣を低空飛行で並走する。
 もう一度、エルドラディモンの地鳴りのような声が低く響いた。



◆Ⅳ:望郷の帰路


 覚えているのは、四人でご飯を食べたことだった。
 何を食べたろうか。何かを取り合って喧嘩になった気がする。誰かが泣いて、誰かが慰めていた。
 残っている一番古い記憶はそんな、他愛のないある日のことだった。

「幼年期って、人間で言ったら幼稚園児くらい?」
「あたしもぼやーんとしか覚えてないなー」

 なんて言う私たちに、レイヴモンは遠い目で穏やかに微笑んで、そして小さく頷いてみせた。

 城を発ってから小一時間が過ぎた。
 道中の時間潰しにと始めた世間話の種は、レイヴモンとゴツモンの思い出話だった。
 同じ村で生まれ育った彼ら、レイヴモンとゴツモンと、ミラージュガオガモンとパンプモン。彼らは今も昔も、ずっと変わらず友達なのだという。

「成長期の頃のことは、今でも鮮明に覚えております」

 ファルコモンとゴツモンと、ガオモンとキャンドモン。生まれたのも進化をしたのも同時期だった。
 彼らの転機は他でもない、ベヒーモスが村にやって来たその日のこと。以前にも聞いた話であったが、自らに相応しい乗り手を探して放浪していたベヒーモスが村に現れ、暴れ回っていた時、偶然立ち寄ったベルゼブモンがベヒーモスを手なずけたことで、幼いレイヴモンは結果的に命を救われることになったのだ。
 インプモンが言うには「ベヒーモスが欲しかっただけ」だそうで、事実その通りなのだろう。後から聞いた話ではリリスモンの城でベヒーモスの噂を聞いて興味を持ち、暇潰しに目撃情報のあった付近をぶらぶらしていたのだという。
 しかし、レイヴモンにとってはその魔王こそが命の恩人であり、ゴツモンたちにとっても友人を救ってくれた大恩ある相手。デジモンたちの思考は極めて人間に近しい。成長期だった彼らは人間の子供とそう変わらない心を持っていた。だから、憧れを抱く気持ちは理解に難くない。彼らにとっては自らの行く末を左右するほどの、ヒーローだったのだ。

 だが、人間に近しいがゆえに彼らは、誰一人として同じではなかった。
 レイヴモンは叶うのであればいつか、その恩を返したいと願った。そのための力を求め、この世界でも稀であるという究極体への進化にまで辿り着いた。憧れが忠義の騎士を形作ったのだ。
 ミラージュガオガモンはそうなりたいと願った。恩人のために、ではなく、恩人のように、と。友人を助けることもできなかった自分の弱さが悔しいと、彼の強さそのものを羨望した。憧れが信念の騎士を築き上げたのだ。
 けれどゴツモンとパンプモンは、元より戦うことを得意としなかった二人に限っては、強さに憧れることはなかったようだ。ただ友達が無事でよかったと安堵し、感謝した。同時に、恐怖した。桁外れの力に対する畏怖と、それが為す術もなく友を奪っていってしまうような、どうしようもない不安に苛まれた。
 だからその旅立ちは、決して笑顔で見送られるものではなかったのだという。

「それから……その、顔を見せてあげたりはしていたの?」
「片手で数える程ではありますが」
「そっかぁ。心配だろーね」

 ええ、と頷いたレイヴモンはどこか申し訳なさげで、少し寂しそうな顔をしていた。

「あ、じゃあさじゃあさ! レイヴモンってどんな風に修行したの? 山篭もりとか?」

 ねえねえと、明るく問い掛けたのはマリーなりの気遣いだったろう。レイヴモンは穏やかに微笑んで、遠い空を一瞥する。

「は、師がおります。たまたま村へいらっしゃった折、ガオモンと……ミラージュガオガモンとともに弟子入りを志願いたしました」

 リリスモンの城に程近い彼の村には、魔王を訪ねてくるデジモンたちも度々立ち寄るのだという。
 配下に加えてもらいたいと遠路遥々やって来るものもいれば、逆に魔王討伐に馳せ参じたという自称勇者もいたらしい。もっとも、後者が村に来るのは決まって片道だけだったというが。

「前から思ってたけどリリスモンってさ、なんか世界征服的なこととかはやんなかったの? 魔王なんでしょ?」
「いえ、某の知る限りは一度も」

 元より“七大魔王”の名はこのデジタルワールドそのものより与えられた称号であり、押し付けられた役割でしかない。と、ワイズモンはそう語っていた。本人が何を望み、どう生きるかはまた別の話なのだという。
 世界征服なんて企みそうもないどこぞのちんちくりんな魔王を思い浮かべ、これ以上ない説得力だと私は思わずくすりと笑う。

「どうかされましたか?」
「ううん、なんでも。それで、レイヴモンのお師匠様はどんな人だったの?」

 私の様子に首を傾げたレイヴモンへそう返せば、さして気にする風でもなく遠い空を仰ぐ。言葉を探るように腕を組んで小さく唸り、レイヴモンは短く答えてみせる。

「破天荒な方でした」

 なんて返答にはどこか苦々しさも混じっていた。今へ至るまでの道程は決して平坦ではなかったのだと、その表情が語る。彼の様子からして並大抵の破天荒ではないのだろう。

「修行、そんなに厳しかったの?」
「ええ、しかしそれを強要するようなことは一度も。他者より己に厳しくある方でした」
「へえ、ししょーも修行するんだ」
「生涯これ精進と、そう言っておりました」
「ストイックな人なのね」

 私がそう言えばレイヴモンは少しだけ笑みを浮かべ、「ええ」と返す。

「何かを成し遂げるに必要なのは確固たる意志一つ……それが師の教えのすべてでした」
「すべてて。あはは、チョーこんじょー論じゃん」

 マリーが笑えばレイヴモンもこくりと頷き、

「確かに」

 と、苦笑する。しかしその表情はいつになく穏やかで、彼の師への尊敬と信頼が見て取れた。
 ただ実のない精神論を語るだけの人を彼が師と仰ぐはずもない。どれほどの人物なのか、一度会ってみたいものだと、どこへ続くとも知れぬ遠い空を仰ぎ見る。

 その邂逅が、幾程の時もせぬ間に果たされるなど、この時はまだ知る由もなく――



◆Ⅴ:友との再会


「おや……?」

 薪割りの最中にふと、遠く聞こえた轟音にゴツモンは眉をしかめる。小さな頃に聞いた忘れられるはずもないその音、つい最近にも聞いたばかりのそれは、鉄の獣の駆動音。
 またベルゼブモンが? 一体今度は何の用だろうかと、ゴツモンは薪割りの手を止め、町の外へと目を向ける。そうして、まだ豆粒ほどにしか見えないその姿に目を見開く。思わず落とした斧が足元に転がるのも構わず、ゴツモンは駆け出した。どこで何をしていたのかパンプモンも屋根から飛び降りてくる。お互い顔を見合わせて、二人は懐かしい友を出迎えた。

「ファルコモン!」

 駆け寄る二人は友の名を呼ぶ。今の姿のそれではない、子供の頃の名を。呼ばれた彼は、レイヴモンはどこかぎこちなく呼び返す。

「ゴツモン、キャンドモン……」

 そんなレイヴモンに、二人は笑い掛ける。

「おかえり」

 と。レイヴモンはほんの一瞬だけ言葉を詰まらせ、けれどもすぐに笑い返す。いつも冷静沈着な彼が見せたはじめての顔に、私とマリーも顔をほころばせる。

「ただいま」

 久しく口にしなかった言葉は、どこかくすぐったくて、レイヴモンは少し照れたように頬をかく。

「んひひ、レイヴモンうれしそうだね」
「ふふ、そうね」

 幼馴染の友人の顔を思い浮かべながら、穏やかに微笑む。
 そんな私たちに気付いて、というより思い出して、ゴツモンは少し慌てたように居住まいを正す。パンプモンは呑気に手を振ってみせた。

「あぁ、と……すみません、ご挨拶遅れまして。ええと、ヒナタ様、ご無沙汰しております」
「おひさー」
「こんにちは、ゴツモン、パンプモン。覚えててくれたんだ」
「あたしはマリーちゃんだよー。よろしくねー」
「よろしくー」
「よ、よろしくお願いします、マリーチャン様」
「あはは、様はいいよー」

 なんてマリーが言うものの、ゴツモンは相変わらずぺこぺこと腰が低い。

「今日は魔王様もいないことだし、気を遣わなくていいのよ」
「あ、は、はい……!」
「ゴツモンって照れ屋さん?」
「うん、そんな感じー」

 パンプモンが答えればレイヴモンも肩をすくめて頷く。てっきり魔王様に萎縮していたものと思っていたが、元々の性格だったらしい。
 ゴツモンは少し照れたように石の顔を赤らめ、ごほんと咳払いをする。

「そ、それで今日はどういった……いや、ええと、いろいろ経緯からお聞きしても?」

 魔王様の連れと、一緒に戻ってきた友人とを見てゴツモンは改めて眉をひそめる。まあ、それは本当に説明が要るだろう。
 立ち話もなんだからと言うゴツモンの好意に甘え、私たちはゴツモンの家へお邪魔させてもらい、これまでの経緯と、ここに来た目的を二人に話す。
 私たちが村を出てからリリスモンの城でレイヴモンと出会ったこと、そして、アポカリプス・チャイルドとの戦いを。

「ほえー、大変だったねー」
「なんとまあ……」

 話を聞き終え、ゴツモンは少し頭を抱えて溜め息を吐く。パンプモンも多分驚いているようだが、リアクションはどこか呑気だった。二人の反応からしてレイヴモンも詳しいことまでは話していなかったのだろう。

「すまない。あまり多くを語る訳にもいかず……」
「まあ、無事だったのなら……と、それで、刀でしたか」

 言いたいことはまだまだ山程ありそうな様子だったが、ゴツモンはそれを飲み込むように頭を振り、机に置かれたレイヴモンの刀へ視線を移す。けれど、どこかバツが悪そうに目を逸して、頭を掻く。

「む、なにか問題でも……いや、他の仕事で立て込んでいたか?」
「そういうわけでは、ないのですが……その、それ以前の問題で……」
「問題?」
「実は、少し前から鉱石が届かなくなってしまって……」

 ゴツモンは困ったような顔で頭を掻く。

「鉱石って、えっと、材料がないってこと?」
「ええ、北の鉱山の麓にある製鉄所から仕入れているのですが、その、少し前からぱったりと……」

 そう言いながら窓の外を見やる。確かに遠く山が見えるが、あれが鉱山だろうか。

「えー、なんかあったのかな? てかもう一つもコーセキってないの?」
「いえ、並の鉄なら無くもないのですが、これほどの業物の代わりとなると……」

 折れた刀を抜き、その刀身に視線を滑らせ、ゴツモンは溜め息を吐く。
 確か、銘を『烏王丸』と言っていたか。レイヴモンほどの実力者とともにあれほどの激戦をくぐり抜けてきた刀だ。並の刀であるはずがない。そもそもそこらの刀で妥協できるならわざわざ鍛冶屋を訪ねることもなかっただろう。
 さて、となるとここは、

「なら、私たちで様子を見てきましょうか」
「え、よ、よろしいのですか?」
「ええ、もちろん。ね?」

 問えばマリーも異論などあるはずがないという顔で頷く。レイヴモンは一瞬躊躇ったが、

「お心遣い、かたじけなく存じます」

 なんて大袈裟に頭を下げる。
 私の護衛という名目でここにいる以上、レイヴモンからは言い出しづらかったろう。私だってレイヴモンの足を引っ張りについて来たわけではないのだ。なにやらトラブルの予感はあるが、さすがにただの鉱山で世界の命運が懸かるほどのことまでは起きていないだろう。

「鉱山ってあの向こうの山だよね? なら早速行こうよ!」
「そうね、ベヒーモスならそこまで時間もかからなそうだし」
「は、道案内は某にお任せください。鉱山には以前にも――」

 そう、話しながらゴツモンの家を出た、その瞬間、ふと白い何かが視界の端を過る。それはレイヴモンの頭目掛けて飛び掛かり、

「だーれだ」

 などと言ってレイヴモンの両目を塞ぐ。

「……っ!?」

 驚愕、警戒、レイヴモンのデジメロディが僅かに乱れる。平時とはいえ、あのレイヴモンが不意をつかれたというのか。
 けれどレイヴモンはすぐに平静を取り戻す。

「兄者……?」

 自分の後頭部に張り付き両目を塞ぐ白い何かを、レイヴモンはそう呼んだ。

「え? えと……」
「オウ、イエス! ぴんぽんダヨ!」

 そう言いながら白い何かはレイヴモンの頭の上で親指を立てる。それは背丈30センチほどの小さなデジモン。白い輪を三段に重ねたような身体に、金色の手足が生えた機械の……ええと、ソフトクリーム、型?
 どう形容したものか困っていると、マリーがとてもストレートに表現する。

「メカうんちモン?」
「オウ、ひどいネ! ミーはダメモン! 間違えちゃダメダメネ!」
「ダメモン?」

 ダメ、というのは、ええと、駄目、ということだろうか。
 だとしたらなんて名前を付けているのだろうか。いや、誰が付けているのかは知らないけれど。

「はっはっは、失礼した。我々も刀工殿に用があってな」

 そんな声に振り返ればまた知らないデジモンの姿。
 二足歩行のライオンが学ランを羽織り、丸太のような太い腕を組んで豪快に笑っていた。その姿に、レイヴモンのデジメロディが再び乱れる。

「し、師匠……?」



◆Ⅵ:師との再会


「ししょー?」

 私とマリーは顔を見合わせて、レイヴモンの言葉を反芻する。

「って、ええ!? レイヴモンの?」
「お師匠様……?」
「うむ。私はバンチョーレオモンという。以後お見知りおきを」

 そう言って学ランライオン、いや、バンチョーレオモンは柔和な笑顔で大きな手を差し出す。私たちは戸惑いながらも順に握手を交わす。

「あ、はい……えと、葵日向と申します」
「マリーちゃんでーす。と、もーします」
「はっはっは。そうかそうか。よろしく頼む」

 豪快に笑うそんな師匠に、しばし呆然としていたレイヴモンもはっと我に返る。後頭部にダメモンが張り付いたまま片膝をついて頭を下げる。

「ご無沙汰しております、師匠」
「うむ。息災であったか、与一」
「は、お陰様で。師匠もお元気そうでなによりです」

 畏敬と、喜びと。少しだけ照れくさそうにしているレイヴモンの肩を叩き、師は穏やかに笑う。

「本当に……うむ、よき友と戦場に巡り会えたようだな」
「……はい!」

 心の底から弟子の成長を喜ぶように、まるで我が子のように。これがレイヴモンの師匠・バンチョーレオモンか。なるほど、レイヴモンが尊敬するのも頷ける好漢だ。いつか会ってみたいとは思っていたが、まさかこんなところで早々に会えるとは。

「それと、えっと、ダメモン? 兄者って言ってたけど、兄弟子的なこと?」
「イエース、アイ・アム!」
「は、剣は兄者にご教授いただきました」

 剣? なんて持てるようにすら見えないが……いや、なんだかおかしなデジメロディだ。見えている姿と聞こえる音の形がちぐはぐで、その音さえどこかくぐもっているような。十闘士のように姿を変えるデジモンは他にもいると聞いたが、その類だろうか。

「ワオ、そんな見詰められると恥ずかしいネ」
「あ、ごめんなさい。つい」
「侮れぬな」
「え?」
「なんでもないネ」

 なんだか妙に低い声が聞こえた気がするが、ダメモンはわざとらしく口笛を吹いて目を逸らす。閉鎖的な旋律は「これ以上聞くな」と言葉なく語っているようだった。まあ、特に踏み込む理由もないのでいいけれど。

「それよりブラックスミスさんはご在宅ネ?」
「え、ああ、それってさっき言ってた刀工殿? だったら……」
「おや?」

 なんてわいわい言っていると、外の騒ぎにゴツモンが不思議そうな顔を覗かせる。

「これはこれはバンチョーレオモン様」

 けれど、噂の刀工殿はさして驚く様子もなくバンチョーレオモンに会釈をする。

「え、知り合いだったの?」
「たまに刀のメンテをお願いしてるんダヨ」
「なんと。そうでしたか……」
「うむ、話そうとは思っていたのだがな」
「誰かさんがあちこちフラフラしてて全然会えなかったからネ!」
「む、う……申し訳ありません」
「よいよい、便りがないのは元気な証拠よ」

 バツが悪そうなレイヴモンの肩を優しく叩き、バンチョーレオモンは呵呵と笑う。魔王やらに関わって音信不通だった相手に使う言葉ではない気もするが、器が大きいというかなんというか。

「でもさ、ししょーさんもわざわざ会いに来るって、ゴツモンやっぱすごいヒトなの?」
「そりゃあの鍛冶神さまの弟子だもんネ」
「い、いえ、弟子だなんてそんな……!」
「ほう、それは是非とも詳しく聞いてみたいものだ」

 かじしん? と、私たちが首を傾げていると、懐から不意に忘れていた声が響く。そういえば確かにそんな話をしていたなと、古書を取り出して思い出す。
 書の賢人ワイズモンは、顎に手を当てながら興味深げにゴツモンを覗き込む。

「君は本当にウルカヌスモンの弟子なのかい? 弟子入りの経緯は? 今も交流はあるのかい?」
「あ、え、えと……」
「ワイズモン、戸惑ってるから」

 そう静止すれば「おっと」なんてわざとらしく肩をすくめる。

「ごめんね、ゴツモンのお師匠様に興味津々らしくて」
「は、はぁ……」
「おやおや、興味を持つなというほうが無理な話だよ。オリンポス山の謎多き神々、その一柱である鍛冶神ウルカヌスモンだよ?」

 大仰な身振り手振りでそんなことを言われても誰だか知らないが、まあ、その口ぶりと肩書でなにやらすごいデジモンらしいことはわかった。
 オリンポス山というと、ギリシア神話だろうか。神話を元に生まれ、神と呼ばれるデジモンたち。そこに属する鍛冶の神様がゴツモンのお師匠様というわけか。あのワイズモンが謎多きと称するほどだ。滅多に表舞台には出ないような神様たちなのだろう。確かに興味はあるけれど。
 ゴツモンは好奇の目に二度三度視線を逸らすも、こくりと喉を鳴らして語る。

「あの……お会いできたのは、本当にただの偶然です。勢いで弟子入りを申し出ましたが、その、しばらくそばで見ていただけでして、弟子と認めていただけていたかどうか……」

 自信無さげにそう言って、また視線を逸らす。
 そんなゴツモンの肩をパンプモンが優しく叩く。

「でも出てけって言われたりもしなかったよねー。おねーちゃんも照れてるだけって言ってたよー」
「そう、だといいのですが……」
「うん? お姉ちゃんって?」
「あ、えと、ウェヌスモン様です。寝床や食事でお世話に……」
「なんだって?」

 ゴツモンの言葉を遮ってまたワイズモンが声を上げる。察するにまた別の神様か。

「それは……」
「キリがなさそうだから私たちはそろそろ鉱山に向かいましょうか」
「あはは、たしかに」
「ゴツモン、ちょっとこれ置いてくから。手が空いたら相手してあげてくれる?」
「え? あ、はい」

 ゴツモンには申し訳ないが、尚も何やら言っているワイズモン、の本をゴツモンに渡し、私はマリーとレイヴモンに目配せする。と、そんな時、バンチョーレオモンが腕を組みながらふむと唸り、その様子にダメモンが肩をすくめて言う。

「やれやれ、しょうがないからミーもついてくネ」
「え、鉱山に? って、どうして……」
「察するに鉱石が届かないのであろう。我々も少々気になっていてな」
「スミっちゃんにはお世話になってるからネ」

 ワイズモンに律儀に応対しているゴツモンには聞こえないよう声をひそめ、ダメモンはにやりと笑う。あだ名はもう原型もなかった。
 見た目はびっくりするほど胡散臭いが悪意の音は聞こえない。なにより、あのレイヴモンが兄者と慕う相手だ。私は小さく息を吐き、ダメモンと握手を交わす。

「わかった。ならよろしくね」
「わあ、『ダメモンがなかまになった』だね!」
「ファンファーレがほしいとこネ。与一、なんか吹くネ」
「は、え……?」

 戸惑うレイヴモンの肩を叩き、スミっちゃんことブラックスミスさんことゴツモンに手を振って、私たちは鉱山に向けて出発するのであった。



◆Ⅶ:暗雲の気配


「てゆーか、ヨイチってなに?」

 町を発った私たちは一路、鉱山を目指す。
 その道中、後部座席のマリーが私の肩に顎を乗せ、カウルの上に座るダメモンへと問う。先程の会話でずっと気になっていたことだった。バンチョーレオモンもレイヴモンを同じ名で呼んでいたようだが。
 レイヴモンにも視線を向けるが、ふたりとも言葉を探すように腕を組んで首を傾げる。

「名前というわけではないの?」
「『レイヴモン』って、あたしたちなら『人間!』って呼ばれてるようなもんだよね?」
「うーん、まあそうなんだけど、あだ名? みたいなもんネ」
「お二人の名前とは少々毛色の異なるものです。道場に入門した折、師よりいただいたものでして」

 つまりは本名ではなく通名のようなもの。いや、本名自体がないなら通名というのも少しおかしいか。

「へえ、道場じゃあだ名で呼び合うんだ。そーいう、しきたり? みたいな?」
「ノンノン、無意味に付けてる訳でもないネ」

 ちっちっちと指を振り、あとは説明よろしくとばかりにレイヴモンへウインクをしてみせる。
 レイヴモンは小さく唸り、

「我々が扱う“デジソウル”と呼ばれる力は、心の力なのです」
「心?」
「はい。ゆえに修行の第一段階では、己の心と向き合うのです。己を知り、その本質を正しく識ることでデジソウルは発現します」

 心の力、自分の本質を知る……か。言葉を反芻して、その意味に思い至る。

「もしかして……進化、するから?」
「ザッツライ! ジェネラルちゃんは賢いネ」

 デジモンは進化によって名も姿も、時として人格すらも変容する。
 ビーストスピリットによる進化も、はじめはその攻撃性、凶暴性の制御に苦労したと言っていた。可逆性を持った横軸の進化でさえ己を見失うほどの振れ幅ともなれば、不可逆の縦の進化はその比ではないだろう。
 移り変わる自己の不変の本質を捉えるための目印、自己同一性の指標となるものが、名前というわけだ。

「えっと、名札付けとけば急におっきくなっても誰だかわかる、みたいな?」
「ハハ、だいたいそんな感じネ」

 そんな育ち盛りの小学生みたいな。

「でもさ、なんで今まで隠してたの? 気に入ってないの?」
「いえ、そのようなことは。ただ、名前自体があまり一般的ではないものでして」
「人間の文化が好きくないのもいるしネ」

 私たちにとっては一番わかりやすい自己紹介だが、名乗ることで逆に説明しなければならないことが増えてしまう、ということもあるわけだ。それに加えて、嗚呼……と誰かの顔が浮かぶ。確かに、彼らとは名乗らないほうがうまくいきそうだ。
 しかし、ヨイチ……与一、か。

「んー……」
「どうされましたか?」
「うん、私そっちのほうが親しみやすいかも」
「あ、わかる。ねー?」
「そう……でしょうか」

 レイヴモンに進化したデジモンが彼ひとりとも限らないわけだし、私たち人間の感覚としてはそちらのほうがしっくりとくる。
 そんな私たちにレイヴモンはふむと頷き、

「師からいただいた名は、“黒鉄之与一”と申します」
「くろがね! つよそーだね」
「デジソウルの性質で冠名をつける、とかなんとか言ってたネ」
「ですので、呼び名はもっぱら“与一”と。よければそうお呼びください」

 胸に手を当て、穏やかに微笑みながら与一は言う。

「ならそう呼ばせてもらおうかな、与一」
「はい、ヒナタ様」
「あー、あたしもあたしも、与一!」
「はい、マリー様」
「じゃあミーも呼んじゃおっかナー?」
「兄者には元から呼ばれておりますが」

 弟分のそんな返しにダメモンはぷうと頬を膨らませる。膨らむのかそれ。

「うーん、でもダークドラモンたちの前では呼ばないほうがいいのかな」
「ほえ? あー、好きくないってそゆこと?」
「ふむ、多少思うところはあるやもしれませんが、それほど気にされる必要はないかと」
「そう?」
「うんうん、ジェネ子ちゃんもラナ子ちゃんも優しいネ」
「あはは、あたしラナ子になった」

 なんて笑うマリーと、微妙な顔をする与一を交互に見て、私は肩をすくめる。
 さっきも呼んでいたな。うっかりにしては随分とわざとらしい。試しているのだろうか。試される筋合いはないので一旦流したが。
 なぜまだ話してもいないジェネラルとラーナモンを知っているのかと、聞いたところで彼は素直に答えてくれるだろうか。うん、まあ面倒だからいいか。スルーの方向でいこう。
 そんな私を見透かすように、ダメモンは横顔でにやりと笑ってみせる。試すというよりからかっているだけだろうか。食えないデジモンである。

「あ、そういえばダメモンも名前って……」
「おや、誰か来るネ」
「え?」

 ダメモンの声色が少しだけ変わる。視線の先にはまだ何も見えない。一瞬遅れて与一の双眸がそれを捉える。次いで私の耳を弱々しい音が微かに撫でた。

「鉱夫のようです」
「ベヒーモス!」

 言うが早いかベヒーモスが速度を上げる。
 やがて荒野をふらふらと歩くデジモンの姿が見えてくる。
 どうやら息抜きは、もう少し先になりそうだ。



◆Ⅷ:争乱の足音


 私たちの姿を認めると彼は糸が切れたように倒れ込む。
 ベヒーモスから飛び降り、駆け寄れば、荒野に倒れていたのは背を甲殻で覆われた四足獣型のデジモンだった。デジヴァイスを向ければ「アルマジモン」の名前が表示される。仮想ウインドウに映し出されたイメージと違い、目の前のアルマジモンは黄色いヘルメットを被っていた。与一の言うように鉱夫なのだろう。傷か泥か、全身が酷く汚れている。
 目は虚ろだが、小さく呻きながらも私たちをしっかりと見ていた。どうやら意識はあるようだ。

「与一、どう?」
「外傷はそれほど。デジソウルの乱れからして精神的な疲労かと」
「お水あるけど、飲めるかな?」

 マリーが水筒を差し出せば、アルマジモンはそれを一息に飲み干して、深く細く息を吐く。その様子に安堵し、私はデジヴァイスを仕舞う。

「ありがとう、ございます……」
「すまない、何があったか話せるだろうか」
「は、はい。その、鉱山が突然、見知らぬデジモンに襲撃されまして……」
「襲撃? というと、鉱石を狙った盗賊団、とか?」
「いえ、単独でした。それもただ暴れ回るだけで……いったい何が目的なのか」

 目的もわからない暴走デジモン、か。穏やかではないな。
 しかし、となると……

「それは、いつの話? 鉱石は少し前から届かなくなったと聞いたけれど」

 ゴツモンの話では昨日今日のことではなさそうだったが。謎のデジモンが現れてからの奇妙な空白期間は何なのだろうかと、問えばアルマジモンは少しだけ言いづらそうに目を伏せる。

「その、ひと月ほど前に、天使さまがやってこられたのです」
「天使?」

 と、言われて思わず顔を見合わせる。
 天使と言えば思い浮かぶのは絶賛抗争中の彼らだが……ふむと一つ唸り、与一は問い掛ける。

「彼らは何と名乗っていただろうか」
「あ、えと、アポカリプス・チャイルド、と」

 その返答に、私たちは息を呑む。
 曰く――アポカリプス・チャイルドはひと月ほど前に現れ、「鉱山に“危険な古代の遺物”が眠っている可能性がある」と、発掘された際には言い値で買い取らせてほしいと申し出てきたのだという。採掘作業の手伝いや怪我人・病人の手当て、護衛まで無報酬で引き受け、鉱山の責任者もその遺物とやらを渡すことに異存はなかったという。
 そんな中で現れたのが件の襲撃者。けれどアポカリプス・チャイルドはどういうわけか、この件を外部に漏らさないよう箝口令を敷き、自分たちだけで解決に当たったのだという。しかし、坑道の奥深くまで侵入した襲撃者に手を焼き、事態が好転しないまま時間だけが経ち――

「昨夜遅くに爆発音のようなものが聞こえて……落石が起こったのです」

 坑道内での戦闘の余波か、落石は製鉄所を襲い、避難していたアルマジモンたちも巻き込まれることになったのだという。

「親方たちとも離れ離れになってしまって……このままではいけないと思い、その……」

 落石のどさくさに天使さまの目を盗み、助けを呼びに行ったというわけか。
 うつむくアルマジモンに、私はしゃがんで目線を合わせる。

「あなたのことは伏せておくから、心配しなくて大丈夫よ」

 と言えば彼はほっと息を吐く。
 勝手に仕切りだした余所者にアルマジモンたちが従う道理など、もとよりないのだけれど。まあ、彼らからすればよくわからない武装集団に占拠されたようなものか。報復を恐れるのも当然だ。
 しかし、ここまでして外部に情報を漏らさないということは、やはり――

「ヒナタ様、マリー様、お二人はアルマジモンを連れて村へ」

 思案する私に、与一はそう言って頭を下げる。

「え? って、ひとりで行くの?」

 レイヴモンの言葉にマリーは私の顔を伺う。まあ彼ならそう言うか。
 いや、提案自体はもっともだ。この先にいるのは宿敵アポカリプス・チャイルド。加えて、正体不明の襲撃者。

 “危険な古代の遺物”とやらがスピリットなら、謎の襲撃者も当然それが狙いだろう。
 アポカリプス・チャイルドが手を焼いていたのはこれまでゼブブナイツとの戦いに戦力を割いていたから、とするならそろそろ増援がきていてもおかしくはない。
 最悪、スピリットを巡る三つ巴の闘争となるだろう。
 隠密行動に秀でた与一がこっそり掠め盗ってくるのが一番穏便だが……

 ふむと、腕を組んで眉をひそめる。
 そんな私に与一とマリーと、アルマジモンの視線が刺さる。

 何かが引っ掛かった。
 言語化の難しい、とても曖昧で、抽象的な感覚。
 もう一度鉱山へ目を向ける。
 そうしてふと、違和感を覚えた。

「マリー、ちょっと進化してみてくれない?」
「え? あ、うん」

 戸惑いながらもマリーは素直に応じてくれる。
 デジヴァイスを取り出し、ラーナモンへと進化を果たす。その姿を間近で見て、再び鉱山へ目を向ける。

「ラーナモンたちと似た音が鉱山から聞こえる。ような気がする」

 山を指差しながらそう言えば、マリーと与一は小さく息を呑む。アルマジモンに至ってはずっと意味不明だと思うが、一旦後回しにさせてもらおう。

「ほんとだ……いるかも、十闘士」
「確かに、このデジソウルの波長は……」

 感覚を研ぎ澄ますように目を凝らし、二人は言う。やはりそうか。
 どうやらスピリットは、すでに誰かの手に渡っているようだ。となれば、もはや戦いは避けようもない。

「与一、私も連れて行って」

 この感覚を言葉にすることは難しい。ただ、行くべきだと、「私の役目」がそこにあると、そう感じるのだ。私の護衛である与一に余計な仕事をさせるに足る理由とは、到底言えないけれど。
 しかし与一の逡巡は僅か。私の目を見据え、

「御意に」

 とだけ。信頼か、盲信か、諦めか。デジメロディを自在に聞き取ることができれば心の内を盗み見ることもできたのだろうけれど、今の私に彼の真意はわからない。
 だからただ、「ありがとう」と返す。後はもう、精一杯その役目を果たすだけだ。彼の判断を誤りにしないために。覚悟を決めて、拳を握る。

 振り返り、ベヒーモスに呼び掛けながらアルマジモンの前にしゃがむ。

「後は私たちに任せて。あなたはこの子に乗って村に」

 アルマジモンを抱え、ベヒーモスに乗せる。

「しっかりつかまっていて。村まで連れて行ってくれるから」
「あ、は、はいっ」
「ベヒーモス、お願いね」

 ぶおんと、応えるようにエンジンを鳴らし、ベヒーモスはゆっくりと村へ向かって走り出す。その背を見送り、鉱山へ目をやって、私たちは頷き合う。と、ふとマリーが首を傾げた。

「あれ、そういえばダメモンは?」

 言われてはじめて姿が見えないことに気付く。というか、先程からずっと大人しかった。まさかベヒーモスに乗ったままかと、振り返ったその時、視界の上から金色の姿が降ってくる。

「オウ、“天使さま”がいっぱいネ。急いだほうがいいかもしれないヨ」

 なんて、人の目には見えるはずもない遠い鉱山の様子を語る。そもそも起伏の大きい荒野に製鉄所の影すらまだ見えない。一体どこまでどうやって跳んだのか。
 まあいい。どうせこの先は出し惜しみしていられる状況ではないだろう。
 頷いて、皆へ声を掛ける。

「行きましょう」



◆Ⅸ:使との再会


 製鉄所と思しき施設はあちこちが落石によって倒壊していた。辺りには沢山の天使たち、と鉱夫であろうデジモンたち。協力して落石を退かせているようだった。良好な関係というのは本当らしい。場合によってはカルマーラモンで陽動を行い、その隙に、とも思ったが、どうやら私たちに構っている暇もなさそうだ。
 彼らの様子からして建物内にまだ取り残されたものがいるのか。可能であれば私たちも手伝いたいところだが、今出ていけば話が拗れるだけだろう。
 後ろ髪を引かれながら与一の姿隠しに身を潜め、彼らの脇をすり抜け、私たちは鉱山内部へと潜入する。

 トロッコの線路が敷かれた坑道を進み、奥へ奥へ。遠く反響する轟音を頼りに、やがて開けた空間に辿り着く。ドーム状の空間は野球場くらいはゆうに収まろうかという広さ。横穴がそこかしこに掘られていた。その一つから、爆音とともに炎が噴き出した。
 私たちは頷き合い、積まれた鉱石の陰に隠れ、様子を伺う。
 一瞬の静寂、そうして――横穴から雄叫びを上げて赤い竜が飛び出す。

 四肢と尾を持ち、背には翼。恐らく二足歩行であろう人に近い体躯。赤い鱗に覆われた竜だった。
 炎のような翼を広げ、長い尾を振り回し、壁や地面に身体を擦りながら出鱈目に飛び回る。狂ったような叫びと真っ赤な瞳に理性は感じられない。
 竜を追って天使たちも横穴から飛び出すが、その尽くが竜の腕の一振り、尾の一振りに薙ぎ払われる。どれほど長く戦い続けたのだろう、天使たちの動きは以前と比べて精彩を欠いて見えた。そんな中、白翼の天使たちの隙間を縫って、一際目を引く銀色の天使が飛翔する。
 全身を覆う鎧も翼も銀色の剣。忘れようもないその姿。剣の天使・スラッシュエンジェモンが赤い竜へとその刃を見舞う。だが、竜は己が爪をもって天使の剣を受け止め、その刃が手に食い込むことにも構わず反撃の尾を振るう。
 スラッシュエンジェモンはその一撃に吹き飛ばされ、岩壁に激突する。すぐさま立ち上がろうとするも、見るからに疲労困憊の身体は言うことを聞かず、小さく呻いて膝をつく。けれど、そんなスラッシュエンジェモンに竜は追撃の素振りも見せず、そのまま別の横穴へと飛び去っていく。
 その背を見送り、私たちは顔を見合わせて息を吐く。嵐のようなデジモンだった。そして、おそらくあれが……。

「ね、さっきの竜みたいなデジモンが十闘士、よね?」
「うん、そうだと思う」
「あの姿、おそらく“炎のヴリトラモン”でしょう」
「大暴れだったネ」

 声を潜めて問えばマリーたちはそう答える。
 ラーナモンたちと似た、先程聞いたデジメロディの主だ。けれどラーナモンたちとは違う、荒々しい不協和音。ノイズの正体は、おおよそ見当がついた。

「たぶん、鉱夫さんだと思う」

 荒れ狂うスピリットの奥深く、まるで檻の中に囚われているような、怯え、苦しみ、助けを求めるか細い音が一つ。

「つまり“襲撃者”は――」
「ハナからいなかった、ってわけネ」
「ええ、おそらく」

 アポカリプス・チャイルドが警備をする中、どうやって入り込んだか疑問だったが、答えは単純だった。外からやって来たのではない。はじめから、鉱山の中にいたのだ。
 たまたまスピリットを発掘した誰かが、スピリットに呑まれて暴走してしまったのだろう。

「助けないと」

 誰にともなく言った言葉に、マリーと与一、ダメモンが頷く。
 そんな中マリーはややを置き、

「あのさ」

 と、珍しくおずおずと言う。

「えっと、協力とか、できないかなー。なんて」

 紆余曲折を経て敵同士となったものの、マリーにとってはかつての仲間。敵対することに、やはり思うところはあるのだろう。

「マリー……」
「あ、ごめん。駄目だよね。うん」

 私の言葉にぱたぱたと手を振って、マリーは努めて明るくそう返す。
 いつも明るい彼女が抱えた胸のトゲ。ひとり飲み込もうと笑う。今は道を違えた敵同士、手を取り合うことなどできはしない。ゼブブナイツのジェネラルとしての判断はそんなところだろう。
 けどまあ、今は休暇中なのでそんなものは知ったことではないわけで。
 友達として、お姉さんとして、掛けるべき言葉はそうではない。

「言うだけ言ってみましょうか」
「え、えぇ? ほんとに?」
「ワオ、肝据わってるネ」

 与一に目をやるも、特に何を言うでもない。ただじっと、言葉を待っているようだった。

「ごめん、与一。面倒かけるけど」
「いいえ、承知しました」

 彼も彼で多少なりとも思うところはあるのかもしれない。友人であるミラージュガオガモンもまた、かつてアポカリプス・チャイルドに属してたのだから。

「よーし、そんじゃ声掛けてみるネ」
「え?」

 言うが早いかダメモンは物陰から飛び出し、躊躇なくスラッシュエンジェモンたちの元へと駆けていく。おーい、などと声を上げながら。
 あ、と、思わず私たちが身を乗り出したところで、ちょうどダメモンに気付いたスラッシュエンジェモンたちと目が合ってしまう。

「あなたたちは……」

 勿論彼らは即座に臨戦態勢。やってくれたな。
 だがまあ、考えたところでやることは変わらないか。

「待って。戦う気はないの」

 両手を上げながら立ち上がる。こうなれば正面突破以外にないだろう。
 戦いの傷と疲労からか、彼らもすぐに襲ってくる様子はない。どこかのならず者よりはよほど理性的に見える天使たちに、言葉を選びながら語り掛ける。

「少し、手を組まない?」



◆Ⅹ:一時の休戦


「いいでしょう」

 ここまでの経緯を軽く説明し、その上での一時休戦を提案すると、スラッシュエンジェモンは驚くほどあっさりそう答えた。その返答に私たちはもちろん、エンジェモンたちも呆気に取られたように口をぱくぱくとさせる。

「今は鉱山の安全が最優先です」

 そう言って、制するようにエンジェモンたちを一瞥する。エンジェモンたちもそれ以上はなにも言わず、「休戦の建前」に頷いてみせる。もとより、疲労困憊の彼らに私たちと事を構える余裕はない。あちらも本音は戦いたくないはずだと踏んでの交渉だったが、まさかここまですんなりいくとは思いもしなかった。その物分りのよさを初対面でも発揮してくれていれば話はだいぶ前に終わっていたのだが。

「それでは、短い間ですがよろしくお願いします。ヒナタさん、でしたね」
「ええ、葵日向よ。よろしく、スラッシュエンジェモンさん」

 握手はしなかった。ここを出れば再び敵同士。
 ほんの束の間の共闘が、こうして始まる。

 私たちはまず、互いに情報を共有することにした。とはいってもこちらから提供できるのはあのデジモンがおそらく鉱夫さんだということくらいなのだが。
 スラッシュエンジェモンたちも確信はないものの、その可能性には思い至っていたらしく、さほど驚く様子はなかった。あまり役には立たないか、とも思ったが、スラッシュエンジェモンは首を振る。

「これで行方不明者“2名”を含む全員の安否が確認できました。もう取り残されたものはいません」

 アルマジモンの話は少々ぼかしたが、おそらくおおよその経緯は見当がついているのだろう。隠したかったのがスピリットならもうその意味もないのだけれど。
 スラッシュエンジェモンたちによれば、先程のデジモン・ヴリトラモンはああして坑道内を暴れ回り、どういうわけか頑なに外へ出ようとはしないらしい。どれだけ誘導しようとしても無理矢理に包囲を突破し、奥へ奥へと進もうとするのだそうだ。

「確かに……何かを探しているようにも思えたけど」
「そこまで判るのですか?」
「はっきり思考が判るわけではないけれど、感情は何となく」

 泣きじゃくる迷子のような、あるいは探し物が見つからずに部屋中ひっくり返して癇癪を起こしているような。理由もわからず彷徨う子供のようで。何かを、どこかを目指してるように思えた。

「あれ? あ……!」

 ふと、マリーが声を上げる。

「スピリット、かも」

 鉱山の奥、ここからでは岩壁しか見えないその視線の先に、何かを捉えるように。

「ヴリトラモンの気配に紛れて分かりづらいけど、スピリットがもう一つ……あるような気がする」
「まさか……いえ、あなたが言うのならそうなのでしょう」
「だとしたらそれが目的なのかな。スピリットは惹かれ合う、って言ってたっけ」
「ならばそちらを確保してしまえばヴリトラモンを鉱山の外に誘い出すことも可能かもしれませんね」

 スラッシュエンジェモンはふむと唸り、少しだけ躊躇うようにポツリと言った。

「しかし、我々に明かすべきではなかったように思えますが……」
「え……ああっ!?」

 そんな言葉にマリーは一瞬ぽかんとして、すぐに気付いて声を上げる。彼らが知らなかったもう一つのスピリット。黙っていれば容易に手に入れることもできたかもしれない。だがしかし、

「別にいいでしょう。今は協力関係なんだから」

 鉱山の安全が最優先という彼の言葉に嘘はないだろう。なら私たちも、協力関係の妨げとなるような隠し事はすべきではない。

「二つのスピリットをどうするかは解決した後でいいでしょう。まずは鉱夫さんを助けなきゃ」
「……ええ、その通りですね」

 正義を掲げる天使様にはこういう正論が一番だろう。という思惑もなくもないが、大体本音である。何なら私はジャンケンで決めてもいいくらいなのだが、ダークドラモン辺りが本当に怒りそうなのでそうもいくまい。奪い合い、か。後のことを考えると少し気が重い。
 とりあえず後のことは後回しにするとしよう。がんばれ後の私。

「場所はわかる?」
「うーん、なんとなく……わかるようなわからないような」

 スピリットからもデジメロディは聞こえる。ような気はするが、マリーに言われるまで気付かない程度のもの。ヴリトラモンの音はそれなりにはっきり聞こえるが、スピリットの状態ではデジメロディをほとんど発しないのだろう。マリーの感覚だけが頼りだが、どうやら中々に難航しそうだ。

「ヴリトラモンも、放っておくわけにはいかないのよね?」
「ええ、このまま暴れられては崩落の恐れもあります」
「生き埋めはやだなぁ……」

 ふむ、と腕を組んでしばし、私は皆の顔を見渡して、

「私とレイヴモンでヴリトラモンの拘束、その間に他全員でスピリットの捜索。を、提案したいのだけど、どうかな?」

 と言えばマリーたちも天使たちも目を丸くする。

「理由を聞いても?」
「ええ。私のデジヴァイスには、デジメロディを調律する機能があるの」

 見た目はマリーたちの持つ「ディースキャナ」と酷似しているが、搭載された機能は大きく異なる。リリスモンの城でいつの間にかスマホに仕込まれたデジヴァイスのコアプログラムが、エルドラディモンの城の地下で砕けたベルゼブモンの肉体データを取り込み、変化したと、有識者たちは言っていた。そのひとり、ワイズモンが付けた名は「ディーチューナ」。
 即ち“調律”のデジヴァイスである。
 いずれ敵対する相手に手の内を明かすような真似をしているが、まあ、ベリアルヴァンデモンとの戦いである程度は察しがついているだろう。たぶん。

「感情や衝動の抑制も可能なはずよ。傷つけずに抑えるなら適任だと思う」
「なるほど……」
「与一は悪いけど私のお守りをお願い。一人じゃ怖い」
「御意に」

 そもそも現実問題としてスラッシュエンジェモンたちにこれ以上の戦闘継続は難しいだろう。デジメロディを聞き取るまでもなく既に満身創痍。セフィロトモンでの決戦から傷も癒えないうちにここの対処に当たっていたのだろう。
 問題はマリーが彼らと、敵対している相手と行動をともにせざるを得ないことだが……
 ちらりとダメモンへ目をやる。彼は肩をすくめ、小さくため息をつき、にやりと笑ってみせた。与一も無言で頷く。与一がここまで信頼を寄せるのなら、任せても大丈夫だろう。
 スラッシュエンジェモンは少しの逡巡。エンジェモンたちを見てから、私に向き直る。

「こちらに異論はありません。そちらは?」
「ミーもいいネ」
「あたしも。てかスピリット探せるのあたしだけだもんね。うん、がんばる!」
「よし、なら決まりね。早速……ああ、そうだ」

 デジヴァイスを取り出し、スラッシュエンジェモンたちへ目を向ける。

「“調律”で少しくらいなら怪我や疲労を和らげることもできると思うのだけど……どう?」

 と、問えば彼らは当然、戸惑うように顔を見合わせる。
 まあ、今しがた休戦したばかりの敵のことなんて信用できるわけもないか。それも聞いたことのない治療方法となれば尚更だ。アルマジモンにはこっそり施してみたが、さすがに彼らに断りなくはばれたら面倒そうなのでやめておいた。一応言ってみただけ。そう思い、デジヴァイスを仕舞おうとしたとき、スラッシュエンジェモンが事も無げに言う。

「では、私で試してみてはいただけませんか」

 まさかの返答に少しの沈黙。エンジェモンたちも呆気にとられていた。
 休戦のことといい、随分と私たちを信用しているようだ。私なら疑うが。しかしまあ、当人がいいと言うならやってみるか。
 デジヴァイスのパワーボタンを押し、空中に展開された仮想ウインドウを指で操作する。表示されたファイルを、ワイズモンたちと作成し、実験したそのデジメロディを選択・再生する。指向性を持った音の波は対象選択されたスラッシュエンジェモンへ向かって飛び、彼のデジメロディへと干渉する。乱れた旋律をあるべき正しい音階へと調律していく。

「なるほど……確かに随分と楽になりました。ありがとうございます」

 不安げに見つめるエンジェモンたちを一瞥し、彼はそう言って私に小さく礼をする。
 物理的に傷自体を治療したわけではないのだから、全快には程遠いだろうけれど。心なしか声色は先程より調子がよさそうに思えた。その態度に私は、少しの違和感を覚える。
 彼は私たちを警戒している。それは間違いない。けれど、敵意や害意といったものはとても薄い。まるで、敵かどうかを見定めているような。
 はじめて会ったときならともかく、明確に敵対している今となって敵かどうかなんて、おかしな話だ。もちろん、私がそう感じたというだけのことでしかないのだけれど。
 いや、今は考えても仕方がないか。気を取り直し、私の態度に首をかしげるスラッシュエンジェモンへ気にしないでと声を掛ける。
 心にほんの僅か、しこりのような不思議な感覚を残しながら。



◆ⅩⅠ:一時の共闘


「ね、あれやらないの? 名前つけたやつ」

 おおよその作戦を話し合い、いよいよヴリトラモンの元へと向かおうという時、ふとマリーが言う。

「音声認識のこと?」

 音にかかわる機能を持つためか、このディーチューナには音声認識機能が備わっている。具体的には、あらかじめ作成したデジメロディに名前をつけておくことで、音声入力によって呼び出すことができるのである。マリーや、なぜかマミーモンも一緒になっていろいろな名前をつけてくれたのだが、私が手で操作していたことを疑問に思ってだろう。なぜというなら、二人が張り切りすぎたという以外にないのだが。

「必殺技みたいでかっこいいのに」
「必殺技みたいで恥ずかしいからよ」

 ちょっと元気になる、とかその程度のことしかできないのにやたら大仰な名前をつけられるのは、なんというかとても恥ずかしい。しかもそれを叫べだなんて、無理を言ってくれるものだ。
 だがまあ、戦いとなれば手も視線も塞がらない音声入力が理に適っているのは確かだ。
 私はディーチューナを取り出し、マリーに向き直る。

「ちょっと進化してみて」
「おっけー」

 マリーの身体が光に包まれ、ラーナモンへと進化する。
 私はディーチューナの機能ボタンを押し、楽曲再生モードを起動する。保存されたデジメロディの一覧が宙に浮かび、帯状にディーチューナの周囲を取り巻く。マリーたちが進化するときに発生するテジコードにも似た光の帯。先程はここから選択ボタンを使って曲を選んだが――私はデバイスを口元に寄せ、曲名を音声入力する。

「“活性:1番”」

 私の言葉にディーチューナが反応し、光の帯が回転すると、登録された「ほんのり元気になる曲」が選択される。トリガーボタンを引き、選択曲を決定すると、ラーナモンの身体に一瞬、仄かな光が灯る。

「おおー、ほんのりかすかに力が湧いてきた! って、なんか名前ちがくない?」
「そう? 大体同じでしょ。あの、なんとかの……なんとかと」
「一文字も覚えてなくない?」

 そう言われれば、まあそうなのだけれども。

「一文字も覚えられないなら実戦で使えないじゃない」
「……確かに!」

 理解が早くて助かる。
 私はディーチューナを仕舞い、皆の準備はどうだろうと辺りを見回す。
 その視線が、不意に一点で止まる。

「どしたの、ヒナ?」
「うん、ちょっとね」

 ふと、静かに佇むスラッシュエンジェモンに気付く。視線の先には与一の姿があった。なにか気にしている様子だったが、声をかけようとはしなかった。いや、どう声をかけたものかと迷っているように思えた。
 与一も気付いてはいるようだったが、こちらもこちらでただ静観するばかり。
 放っておくのも気が引けて、二人の間に入るようにして、スラッシュエンジェモンに声を掛ける。

「なにか気になることでもあった?」

 彼は少し迷うように視線を泳がせる。兜の奥で息を呑む音が聞こえた気がした。
 意を決したように一歩、歩み寄って、

「ミラージュガオガモンは、息災でしょうか」

 そんな問いに、私と与一は顔を見合わせる。
 こちらの戦力に探りを入れているのか。なんて勘繰るべきだったろうか。とてもそうは思えない様子に、与一も拍子抜けしたようだった。

「……傷も癒えてきたようだ。今朝も鍛錬に精を出していた」
「そうですか」

 とだけ言って、スラッシュエンジェモンはそれきり黙り込む。
 悪意の音なんて聞こえない。何の裏もない。まるで本当にただ旧友の様子が知りたかっただけだとばかり。いや、おそらくはそのとおりだろう。元来彼らは、そういうデジモンなのだ。
 私は口を開きかけ、わずかな逡巡。ぎゅっと拳を握り、その疑問を口にする。

「ね、あなたたちは……世界をどうしたいの?」

 事ここに至って交わす議論ではない。そんなことはわかっている。けれど、聞かずにはいられなかった。
 スラッシュエンジェモンはほんのわずかな間を置いて、私の顔をまっすぐに見据える。

「無論、誰もが平穏に暮らせる世界を望んでいます」
「……そのための手段が、“サタン”の復活だけなの?」

 私の問いに、彼は少しだけ目を伏せる。

「ままなりませんね。互いにただ、平和を願っているというのに」

 きっと、その言葉に偽りはない。
 私は少しだけ息を呑む。彼は、どこまで答えてくれるだろうか。
 アポカリプス・チャイルドが目指す場所。表向きは世界の脅威となり得る魔王の討伐だが、その真意は、魔王という楔によって封印されたサタンの復活と、それによる世界の浄化。
 客将ゆえか、ミラージュガオガモンやマリーたちにはサタンに関することは伏せられていたらしく、彼らにとっても寝耳に水だったという。
 正直なところ、ゲームでもあるまいし世界のやり直しなんてできるわけがないと思っていたが、本当に、彼らはただ世界を壊そうとしているだけではないのだろうか。まさか“この世界”には、リセットボタンがあるとでもいうのだろうか。

「サタンが世界を滅ぼした後には、いったい……」

 そんな私の問いは、しかし中途で遮られてしまう。遠い爆発音と、地響きに。
 何が、とは問うまい。皆が一斉に音源であろう鉱山の奥へと視線を向ける。
 スラッシュエンジェモンは私に向き直り、ただ一言。

「話はここまでにしましょう」
「……そうね」

 答えながら、私は顔をしかめる。爆音に混じる悲痛な声に。
 感情の音だけではない。まるで命そのものが軋むような不協和音。
 考えてみれば当たり前だ。マリーたちだって進化して戦った後は消耗しているのだ。ああしてずっと暴れ続けては、核となった鉱夫さんの負担は並々ならぬものだろう。
 確かに、お喋りしている暇はなさそうだ。

「行きましょう、与一」
「御意に」
「ヒナ、気をつけてね!」
「ええ、マリーこそ」

 軽く手を振って、鉱山の奥へと目を向ける。与一に抱えられ、暴竜・ヴリトラモンのもとへと向かう。
 戦いのときは、もう目前であった。



◆ⅩⅡ:狂乱の暴竜


「グるぅオオぉぉぉーー!!」

 狂乱の咆哮が坑道に反響する。怒りと悲哀と苦痛をない交ぜに、負の音が不協和音を奏でる。
 胸を締め付けられるようなその音に思わず顔をしかめる。そんな私の様子に気付いた与一がわずかに速度を緩めるも、その腕に手を置いて「大丈夫」と一言だけ言えば、彼は無言で頷いて再び速度を上げる。
 ぐずぐずしている暇はない。誰より苦しんでいるのはヴリトラモンなのだから。
 与一は時に翼を広げ、時にその脚で、入り組んだ坑道を駆けていく。まるで岩壁の向こうが透けて見えているかのように。そうして程なく、遂にヴリトラモンの姿を捉える。
 距離にしておおよそ20から30メートルほどの直線通路。縦横幅は3メートル弱といったところか。私たちは直前の曲がり角で足を止め、様子を窺う。
 与一であれば難なく動き回れる広さだが、ヴリトラモンにはあまりに窮屈。翼を広げることもままならず、壁に身体をぶつけながら這うように進んでいた。単純な肉弾戦なら与一に圧倒的有利な状況。しかし、あちらには炎がある。スラッシュエンジェモンたちを襲ったあの炎が。余波しか見てはいないが、横穴から噴き出したあの火勢を考えれば、この通路くらいはゆうに埋め尽くすだろう。下手に手を出せば丸焦げだ。

「姿を消して接近できる?」
「可能です。しかし“音”を当てた時点で気付かれるでしょう」

 与一の姿隠しも万能ではない。最大効力を発揮できるのは「認識される」までだ。そこに何かいると分かった時点で反撃を食らう危険性がある。与一単身ならともなく、私というお荷物がいては思うように動けない。
 チャンスは一度。だが、たった一度、ほんの一瞬であれほど暴れ狂う相手を無力化することなんて、果たしてできるものだろうか。握り締めたデジヴァイスから浮かぶのは「ほんのり落ち着く曲」「ほんのり眠くなる曲」「ほんのり力が抜ける曲」等々、手持ちのカードはあまりに頼りないラインナップ。適任だなどと大口を叩いておいてこのざまか。

「ここは某が。ヒナタ様はお待ちを」

 早くも万策尽きた情けないジェネラルに、代わって与一が一歩を踏み出す。
 と、その時、はたと思い至る。

「待って。30……いえ、10秒だけ」

 ああ、簡単なことだった。無いなら作ればいいのだ。“逆の見本”は、目の前にあるのだから。
 ディーチューナの機能ボタンを二度押しし、編曲モードを起動する。宙に浮かぶ白紙の楽譜に指を滑らせ、曲を組み立てる。先の言葉通り10秒足らずで、難なくそれは完成する。
 目の前で響く不協和音をほぼそのまま反転させた、対ヴリトラモン専用の曲が。

「これは……」
「うん、いけるかも」

 通路の奥に目を向ける。

「向こうに開けた空間があるみたい。追い抜きざまに当ててみましょう」
「御意に」

 与一に抱えられ、身体が浮き上がる。そして一瞬のうちにヴリトラモンの背後へ迫り、私は風圧に目を細めながらディーチューナのトリガーボタンを引く。タイミングはジャスト。発射された音の弾丸がヴリトラモンを背から撃ち抜く。

「ガっ……!? ギ……っ!」

 そのまま通路を駆け抜け、奥の空間へ。距離を取って着地し、即座に背後を振り返る。
 うめき声を上げるヴリトラモンは、その身体のところどころがブロックノイズに変じていた。複雑に混じり合っていたデジメロディが解けるように分かれ始める。
 私は先のデジメロディの楽譜を再び開き、指を走らせる。“今の形”に合わせて少しばかり書き換える。

「与一、もう一度お願い」
「はっ」

 再びヴリトラモンに接近し、ディーチューナのトリガーを引く。
 先程は混じり合った二つの音の正常化、そして今度は、分断化。曖昧になっていた境界にパーティションを敷くように、二つの音を分断する。
 ヴリトラモンの姿が大きく揺らぎ、ブロックノイズが全身に広がる。そうしてほどなく、竜は一体の小さなデジモンと、竜を模したアーティファクトへと分かれる。
 緑の肌の小鬼のようなデジモンは、スラッシュエンジェモンたちから聞いた行方不明の鉱夫さん・ゴブリモンで間違いないだろう。そして彼から分かれたこの、ヴリトラモンのミニチュアのようなアーティファクトが、炎のビーストスピリットか。どうやら成功のようだ。

「はぁ、なんとかなったみたいね」
「ええ、感服いたしました。よもやこうも容易く無力化できるとは」
「うん、私もびっくりした」

 ゴブリモンにデジメロディによる応急処置を施しながら頬を掻く。
 そう、どうしてかできると思ったのだ。ベリアルヴァンデモンと戦ったときにも似た感覚を覚えた。
 私がデジメロディーを操るというより、デジメロディーが私を導いてくれるような。おそらくはディーチューナの核となったベルゼブモンの力だろう。
 当初の予定では私たちがヴリトラモンを抑えている間にマリーたちがスピリットを確保、ヴリトラモンを鉱山の外へ誘い出す手筈だったが、もうその必要はなくなった。後はこのままゴブリモンとスピリットを連れ出すだけでミッションコンプリートだ。さすがは魔王さまのデジヴァイスといったところか。
 残る問題はマリーたちがスピリットを見つけ出せるか……いや、見つけ出したそれをどうするか、だ。話し合いで解決できればいいのだが。辺りを探る。さすがに正確な位置まではつかめないが、恐らくラーナモンの音は先程から動いていない。向こうもスピリットを見つけてくれたのだろうか。
 兎にも角にも外へ出てからだ。
 乱れていたゴブリモンの音が少し落ち着いたのを確認し、私は与一に向き直る。

「もう大丈夫みたい。一旦外へ出ましょう」
「はっ」

 それにしても、今更ながらヴリトラモンはどうしてスピリットを探していたのだろうか。
 スピリットは惹かれ合う。という話は聞いていたが、その理由についてはマリーたちもよくは分からないそうだ。
 十闘士とひとまとめに呼ばれていても異なる十人のデジモン。どうして彼らだけが他のデジモンとは違う繋がりを持っているのだろうか。

「……あれ?」

 十人、の?
 自分の言葉を反芻し、ふと疑問が過る。

「如何されましたか?」
「あ、ううん。ただ、十闘士って……その、十人なのよね?」
「ふむ? そうですが、それが?」
「だったら、スピリットってもしかして……」

 ふと浮かんだ一つの推論。だが、私が口にした言葉は、突如として響いた耳鳴りのような高音にかき消される。
 それは目の前にあるヴリトラモンのスピリットから。そして、共鳴するかのように鉱山の何処から。

「これ、は……!」

 スピリットが呼び合っている?
 一体、なにが……

「ヒナタ様!」

 与一の言葉にはっとなる。
 ヴリトラモンのスピリットから赤黒いモヤのようなものが噴き出していた。それはまるで触手のように伸び――私は咄嗟に、モヤとゴブリモンの間に割って入る。

「なっ、ヒナタ様!?」

 モヤが私の腕に絡みつく。ゴブリモンを再び取り込もうとすべく迫ったそのモヤが。
 与一が私を助けようと手を伸ばす。どうしてこんなことを、とでも言いたげな顔で。
 何故というなら、多分魔王さまのせいだろうから、文句は後でそっちに言ってほしい。
 だが今は多くを話す時間もない。だから私は、一言だけ伝えることにした。

「信じて」
「は……?」

 与一の手が空を切る。
 そして私は赤黒いモヤに全身を包まれ、その身は、ヴリトラモンへと変容する。
 直後、坑道を揺るがす爆発音が轟いた。



◆ⅩⅢ:背信の天使


 時は遡り、ヒナタたちがヴリトラモンと接触する少し前。
 マリーたちはラーナモンの感覚を頼りに、まだ見ぬ二つ目のスピリットを探し、坑道の奥深くまでやって来ていた。彼らは掘削中の鉱床を前に、ツルハシを振るっていた。

「ラナ子ちゃん、ホントに間違いないネ?」
「うん、これだけ近付けばわかる。絶対この下!」
「違ってたらただの鉱夫体験ネ……」
「喋る暇があれば手を動かしてください」

 ラーナモンが探知したスピリットの在り処は、地面の下、鉱床の中だった。
 幸い採掘途中ゆえ、近くにあったツルハシを使い、必死に掘り進める。
 遠くではいまだにヴリトラモンの暴れ回る音が響いている。こちらに気付かれる前に掘り出さなければならない。
 スラッシュエンジェモンたちも土砂に塗れながらツルハシを振るう。

「あっ……!」

 ひとりのエンジェモンが声を上げる。その直前、ガギン、と鉱石とは違う硬い音が響いた。
 皆が一斉に振り返る。鉱物の間に覗くのは薄茶色のアーティファクト。顔を見合わせ、頷き合い、皆で周囲を掘り出していく。やがて程なく、それは全容を現す。
 鼻先に大きな角が生え、巨大な腕を持つ屈強な亜人を象ったスピリットであった。

「ギガスモン……」

 ラーナモンの記憶がマリーの知らないその名を告げる。

「土のビーストスピリット、ですね。てっきり炎のヒューマンスピリットかと思いましたが……」
「あ、そっか。だから位置がよくわかんないんだ。あたしも水のスピリット以外はふわっとしてるし」
「そうなのですか? しかし、その割には随分あっさりと見つけられたようですが」
「え? あ、確かに……」

 首をひねり、ふと、先程の出来事が頭をよぎる。
 『“活性:1番”』――本人曰く「ほんのり元気になる程度」のそれ。あの時は僅かに活力が湧く程度の感覚だったが、改めて今の自分の感覚を確かめてみると、最初に気付いた時よりギガスモンのスピリットの気配が明らかに強く感じられる。まさかこんな感覚まで活性化されているのだろうか。

「ともあれ、さっさとこれ持って外出るネ」
「そうですね。向こうも心配――」

 スラッシュエンジェモンのそんな言葉は、鋭い風切り音に遮られた。
 咄嗟に飛び退いたラーナモンたちの眼前を、金色の棍が掠める。先程までともにスピリットを採掘していた、エンジェモンの棍が。
 何故彼はそんな暴挙に出たのか。スラッシュエンジェモンや他のエンジェモンたちも状況を飲み込めていない様子だった。その混乱の隙を突き、裏切りの天使はスピリットに手を伸ばす。

「やめっ……!」

 スラッシュエンジェモンが慌てて駆け出すが、とうに間に合うはずもなかった。
 天使がスピリットに触れ、何事かを呟いた瞬間、その身は光の繭に包まれて――土の巨人・ギガスモンへと変貌する。

「うぅるぅああああぁぁぁーーー!!」

 雄叫びを上げながら巨大な腕を振り上げる。前腕の筋肉が膨れ上がり、赤熱を帯びて振動する。

「まずい……退避を!」

 スラッシュエンジェモンが叫ぶと同時、双腕が振り下ろされる。
 炎が爆ぜたような轟音と爆風が坑道に吹き荒れる。それと同時、共鳴するかのようにヴリトラモンの咆哮が遠く響き渡った。



◆ⅩⅣ:困惑の胸中


「う……ん、あれ……?」
「ご無事ですか、ラーナモン」

 気付くとマリーはスラッシュエンジェモンに抱えられていた。どうやら一瞬気を失っていたらしい。
 辺りを見渡せば、土煙が立ち込め、大小様々な岩が転がっている。その所々に、白い網のようなものが張り付いていた。

「スラッシュエンジェモンが助けてくれたの? ありがとう……」
「おかしなことを。あなたが助けてくれたのでしょう」
「え?」
「それに、あなたにもお礼を言わねばなりませんね」

 そんな言葉にスラッシュエンジェモンの視線を追う。見慣れぬデジモンが立っていた。金の装甲を纏う武人が、肩をすくめて溜息を吐く。
 いや、知らないはずなのに、どこか見覚えがあった。彼が言葉を発した時、その声に、マリーは正体を知る。

「やれやれ、とんだ災難ネ……」
「あ……え? ダメモン!?」
「ツワーモン、と呼んでほしいネ。もう少しカッコいいタイミングで明かしたかったが」
「十分でしょう。あなたが破砕片を防いでくれなければどうなっていたことか」

 戯けるように笑うツワーモンの手には白い糸のようなものがあった。辺りの岩に張り付いている網は彼が投じたものか。粘着性の網で飛び散る岩や崩れる岩壁を押し留めてくれたらしい。

「さて、ラーナモン? 無事ならまずは奴を追うネ。話は道中でもできるネ」
「え? あ、そうだ! ヒナが……!」
「私も行きます。……いえ、申し開きが先でしょうか」

 そう言ってスラッシュエンジェモンは目を伏せるが、ツワーモンは首を振る。

「謀ったとは思ってないネ」
「まあ、あたしを助けてくれたし、一緒に吹っ飛んだしね」
「……感謝します」

 エンジェモンたちには退避するよう命じ、スラッシュエンジェモンは既に限界であろう身体に鞭打つように立ち上がる。
 ギガスモンの近くにいたエンジェモンたちも負傷はしているようだが無事だったらしい。
 三人は頷き合い、遠く聞こえる地響き――ギガスモンを追って坑道を駆け出す。

 土の闘士・ギガスモンは地中を掘り進めながらヴリトラモンのもとへ向かったらしい。彼の掘った穴を進むのが一番の近道ではあるが、しかしながらただ岩盤に無理矢理空けただけの穴だ。崩落の危険もあると三人は正規の坑道を進むことにした。
 その道中、スラッシュエンジェモンから先程の出来事について聞かされる。

「あたしが?」
「ええ、そう見えましたが」
「ミーの“蜘蛛の巣”だけじゃ到底防ぎ切れる規模じゃなかったネ」

 ギガスモンの近くにいたエンジェモンたち、彼らがどう助かったか不思議だったが、スラッシュエンジェモンとツワーモンが言うには、巨大な触手がエンジェモンたちを捕まえ、引き寄せ、さらには盾のように辺りを覆ったらしい。
 思い当たるのはカルマーラモンの触手くらいなものだが、マリーにはまるで覚えがなかった。そもそもラーナモンのまま気絶していたのだから、あの一瞬だけ無意識にカルマーラモンに進化していたというのもおかしな話ではある。

「まあいいネ。それより今は向こうが気掛かりネ」
「うん、ギガスモンとヴリトラモンの気配が近付いてる。ヒナたちは大丈夫かな……」
「ヴリトラモンの気配はまだあるのですね? 抑えることはできなかったのでしょうか」
「うん……あれ? なんだかさっきとは違う感じもする、かも?」
「違う?」
「ふむ、どうにもややこしくなってきたネ」

 曲がりくねった坑道をひたすらに駆け、ヒナタたちが向かっていた付近までやって来る。
 そこで脇道から飛び出す影があった。見知った黒翼の武人であった。

「マリー様、兄者!」
「与一!? え? なんで……」
「ゴブリモンは救出しました。しかし……ヒナタ様が、ヴリトラモンに取り込まれました」
「え……」

 苦々しく語るその言葉を、マリーはすぐには飲み込むことができなかった。

「こちらも土のスピリットを見付けたネ。エンジェモンのひとりが奪って逃げたがネ」
「……先程の音はそういうことでしたか」

 与一はスラッシュエンジェモンを一瞥するも、咎めることはしなかった。
 信頼できる仲間と兄弟子がいまだ行動をともにしているのだ。信じる理由はそれで十分だった。
 坑道を並走しながら互いに情報を共有する。それぞれの側で起こったことを。与一は後ろ髪を引かれながらもゴブリモンを連れて一度その場を離れ、途中で会ったエンジェモンたちにゴブリモンを任せてきたそうだ。
 しかしながら、共有したところで分からないことだらけだった。
 一度は鎮静化した炎のスピリットは、何故また暴走したのか。スピリットから噴き出した赤黒いモヤはスピリット自体のものか、あるいは別のなにかによるものか。それは土のスピリットを持ち去ったエンジェモンと関わりがあるのか。この騒動自体がなにものかの策略なのか、スピリット自体の暴走なのかさえ分からない。
 そして、ヒナタが最後に発した「信じて」という言葉の意味も。彼女は何かに気付いたのだろうか。何らかの意図があって取り込まれたとでもいうのか。
 一体、今ここで何が起こっているというのか。
 何もかもが分からないまま、四人は二つのスピリットのもとへと辿り着く。そこで見た光景は――答えどころか、また新たな疑問を投げ掛けるのであった。


続く