ここに一隻の船がある。
 時に荒波を越え、嵐を越え、暗礁を越え、それでもなお大海原を駆る。夢を乗せ、想いを乗せ、そうして長きに亘り人々を彼方の地へと送り届けた、傷だらけの船である。苦楽を共にした船員たちにとってあるいは、家族や友にも等しいものやもしれない。
 ここに一つの問いがある。
 時に破れた帆を張り直し、破損した舵を取り替え、穴の空いた船体を補修する。そうして修理に修理を繰り返しやがて、すべての部品が建造当初と別物になった時、果たしてそれは、同じ船だろうか。

 “テセウスの船”――アイデンティティの命題である。
 あるオブジェクトの構成要素がすべて本来とは異なるものへと置き換わった時、それは同一のものと言えるのか。
 物体の本質は何処に在ろうか。物体は何を以ってその同一性を証明されるのか。
 無機物に限った話ではない。生物とて同じことだ。細胞分裂と新陳代謝、生物を構成する細胞は日々入れ替わり、やがてそれは誕生時点とは異なる物体となるのだから。その時それは、果たして同一の生き物と言えるのだろうか。その時あなたは、果たしてまだあなたであろうか。
 生命の本質は何処に在ろうか。仮にそれを魂と呼ぶのなら、人はいまだその存在を立証できてはいないことになる。

 そしてそれは――我々デジモンとて同じことである。

 新たなデータを取り込み、組み替え、排斥し、やがて進化によって身体構造を一新し、時に思考回路さえも書き換える。まるで別の生き物へと変異する我々は、果たしていつからいつまで同じ生き物であろうか。私はいつから私であり、いつまで私でいられるのだろうか。

 ふと瞼を開く。
 目に映る光景は私の視覚が捉え、思考が理解したものか。あるいは眼球というカメラが記録し、電脳核という計算機が分析したものに過ぎないのか。

 “我思う、故に我あり”と、そう語った識者がリアルワールドにはいたという。成る程、こうして思い悩むことが自我の証明に他ならないという訳だ。思うことさえもが仕組まれたプログラムであるという可能性を考えないのであれば、だが。

 命とはなんだろうか。心とは、魂とは、私とはなんだろうか。生命はどこから来てどこへ往くのだろう。私はなんのために生まれ、なんのために存在しているのだろう。
 生きることは果てのない旅であり、私は今日も、その荒野へと歩み出す。何処に答えがあるとも、知れぬまま――



いたる花と緑の
~タンブルウィザード見聞録~




▼note.1
「四聖獣と黙示録の怪物に関する考察」





「四聖獣?」

 私の言葉に師は、珍しく興味深げに問い返した。

 デジタルワールドの歴史を紐解けば、そこには多くの謎と矛盾がある。
 一つ例を挙げるなら、この世界に初めて誕生した究極体とはなんであったか。

 かつて世界の深層、闇の領域より、“火の壁”と呼ばれる隔離障壁を越え、“黙示録の怪物”がこの世界に顕現した。それは理の外より来たりし万物万象の敵。
 デジタルワールドはこの怪物に対抗するため、世界の“外”へと助力を求めた。すなわちリアルワールドからの助勢者、最初の“選ばれし子供”が、現れたのである。彼らはパートナーとなるデジモンとともに戦い、やがて怪物を“火の壁”の向こう側へと封印するに至った。
 その戦いの過程で、この世界における最初の究極体、“四聖獣”は誕生したと伝えられている。

 だが、そこに一つ、矛盾する“別の歴史”がある。

 かつてこの世界では、デジモンは“ヒューマン”と“ビースト”の二つに分かれていたという。
 二種族はいがみ合い、憎み合い、終わることのない戦いを繰り返した。不毛な戦争を終わらせたのは、突如として現れた一羽の天使。その名を“ルーチェモン”。神の子と呼ばれた最古の王。
 終戦の英雄は、しかしやがて圧政を敷く暴君となり、十の勇士によって討伐されたという。
 その勇士、“十闘士”こそがこの世界で初めて究極体への進化に至り、現代のデジモンたちの祖となったそうだ。

 ここに矛盾がある。“最初”が二つある矛盾。そしてそれ以上に、それ以前に不可解な、まるで繋がらない二つの歴史。
 どちらが先か、などという単純な話ではない。
 世界の歴史を変えうるものたちは、もう一つの歴史の中で何をしていたというのか。そう、そもそもの話としてこれは本当に、一つの世界の歴史であろうか。

 ここに仮説がある。一つの世界に二つの歴史が共存し得ぬのなら、二つの世界に存在したのではないかという、ある意味で至極単純明解な。
 平行宇宙、パラレルワールド。歴史の彼方に分岐した、別の可能性の世界。その存在自体は、ある意味で既に証明されている。我々のルーツ、魔術師の起源である“ウィッチェルニー”こそ、この世界のパラレルワールドであるとされているのだから。
 もっとも、我々のようにデジタルワールドで生まれ育った“二世代目以降”にとっては、伝え聞いただけの場所でしかないのだが。

 少し話が逸れてしまったが、何が言いたいかというならつまり、この仮説は決して突拍子もない妄想などではないということだ。
 だからこそ、当事者に確かめてみたいのだ。間違いなく実在する歴史の生き証人、四聖獣たちに。

「なるほど、面白い」

 書に浮かぶ師・ワイズモンの小さな幻影は、私を見ながらくつくつと笑い、少しだけ何かを思案するように唸り、そして言う。

「いいだろう、行ってきたまえ」
「ほ……本当ですか? ありがとうごさいます、師匠!」
「ふふ、構わないよ。しかし君はつくづくタイミングがいい」
「タイミング?」

 私が問い返せば師匠はふふと笑う。

「ちょうどそこに用事のあるものがいてね。話は通しておくから相乗りさせてもらうといい。君一人では命が幾つあっても足りないだろう」
「そんな、何から何まで……師匠、何か裏でもあります?」
「好意は素直に受け取っておくものだよ。まあ裏はあるが」
「あるんですね」
「大したことではないさ。気にせず見聞を広めてきたまえ」

 そんな気にせずにいられるわけもない物言い。けれどまたとない機会であることも事実。私は少しの思案を置いて、「よろしくお願いします」と頭を下げる。





 地平まで続く広大な大地。空に浮かぶリアルワールド球はどんな小世界より大きく見える。師匠に言われるままやってきたのは、デジタルワールドの表層・物理レイヤの荒野だった。
 荒れ地をひたすらに進み、ようやく辿り着いたのは白亜の城。正門前に立つ黒衣のデジモンは私の姿を見るなり恭しく礼をし、城の中へと案内してくれる。
 堕天使型の完全体、レディーデビモン。強大な力を持つ闇の眷属だ。だが、私が会いに来たのはどうやら、目の前の彼女ではないようだった。師匠は面白がってか相手の名を告げなかったが、私も噂くらいは耳にしたことがあった。
 辺境の荒野に居を構える、その王の噂を。

 じんわりと、額に汗が滲み出る。喉が渇く。電脳核が早鐘を打つ。
 深紅の絨毯が敷かれた廊下を進み、案内されたのは私室のような部屋だった。玉座で謁見するものと思っていたが、城の主はソファベッドで寛ぎながら煙管を吹かせ、優しげな笑みを浮かべてみせた。端麗な容姿、優美な所作、鈴の音のような声で語りかける。

「よう来たのう……ほほほ、そう怯えずとも取って食いはせぬ」

 なんて、そう言われても滲む脂汗は抑えられず、言葉もうまく出てこない。悪意や害意を向けられたわけではない。否、向けるまでもない。彼女の前で私は、それほどまでにちっぽけな存在でしかなかった。

 それは世界の闇を七分せし七柱が王の一人。七大罪は“色欲”を司るもっとも古き闇の王。
 名を、リリスモン。
 神話の時代より生きる七大魔王が一柱にして、恐らくは四聖獣と同等かそれ以上に、世界の核心へ触れうるもの。

「そなたが賢者殿の弟子か。話は聞いておる」
「は、はい! この度は……!」
「ほほ、よいよい。楽にせい。それに……」

 と、横合いを一瞥し、意味深長に薄く笑みを浮かべる。訝しげに振り返ればその視線の先からかつかつと足音が響く。

「同行するのは、こちらの坊やでの」

 薄闇の中から、彼は気だるげに現れた。燭台の灯に照らされたその顔に、私はただただ戦慄するばかりだった。
 紫紺の仮面。真紅の三眼。黒衣をまとう魔弾の射手。

「おいおい……まさかこいつが案内役か?」

 坊や、だなんて呼べるのはこの女帝をおいて他にいないだろう。
 どうして彼がここにいるのかさえ、私には知る由もない。
 七大魔王が一柱、“暴食”のベルゼブモンは私を値踏みするように見据え、はん、と鼻を鳴らす。

「あの……いえ、その……!」

 何一つ聞かされていなかった事態にただただ狼狽する。助けを求めるように視線を泳がせるも、この場にいるのは自分と魔王二柱。うち一柱、リリスモンは私の様子に楽しげな笑みを浮かべ、ひとしきり笑うとようやく助け船を出してくれる。

「そう苛めてくれるな。荒事に関しては坊やの足元にも及ぶまいが、用心棒を探しているわけでもなかろう?」
「は、たりめーだ。そいつぁ俺の楽しみだ」
「ならよかろうて。案内人殿はそちの期待に見事応えてくれるはずじゃ、のう?」
「え!? あ、はい……! ち、地図は頭に入っておりますが……」

 突然振られて慌てて返す。当たり前だが暴食の魔王は呆れたように肩をすくめる。私が逆の立場でもそう思ったことだろう。

「って、おい。お前も行ったことねえのかよ」
「も、申し訳ありません……!」

 頼りないのは自覚している。そんなつもりで来たわけでもないのだが、それを言うのは火に油だろう。私はただただ縮こまって頭を下げる。
 というかこの状況を作った張本人はなぜ今出てきてくれないのか。いや、面白がっているか面倒くさがっているかのどちらかではあろうが。

「行って帰ってきたものを探すのは骨が折れると思うがのう。ほほ、眇たることよ。そなたら二人であれば問題あるまい」

 なんて、何を根拠に言っているのか、リリスモンは他人事のように笑う。まあ、他人事だろうけれども。
 何はともあれこうして、歴史の真実を求める前途多難な旅は、始まりを告げるのであった。





「ところで、リリスモンからルーチェモンの話は聞かなくてよかったのかい?」

 出発の準備をしている最中、今更出てきてそんなことを問う師に、私はただただ非難の目を向ける。
 聞かなかったことを知っているなら聞けなかった状況なのも知っているだろうに。私の中の好奇心は確かに聞きたがっていたが、良識や危機感が鬼の形相で止めにきたのだ。

「ははは、そう睨むな。まあ、後でいくらでも聞けばいいさ」
「……無事帰ってこれて尚且つ話してくだされば、ですよね」
「ふふ、中々ハードルが多いね」

 なんて、この人もこの人で他人事だと笑う。今更だが私の境遇は不憫すぎやしないだろうか。
 肩を落として大きな溜め息を吐く。まあ、落ち込んでいても仕方がない。望み通りと言えば望み通りに事は運んでいるのだ。望んでいない心労は負わされたが、なんのリスクも無しだなんて、それこそ虫のいい話だろう。そもそも自分で言い出したことだ。

「とにかく行ってきます。師匠も少しくらいは手を貸してもらえたりします?」
「勿論だよ。気が向いたらね」
「期待はしないでおいたほうがよさそうですね」

 そんなやり取りを交わし、師の幻影が消えた書を一応懐に仕舞う。ただの荷物にならないことを祈るばかりである。

「おせーぞ、こら」

 駆け足で城を出ると既に準備万端のベルゼブモンが腕を組みながら待ち構えていた。というか特に荷物もなく準備自体してもいない様子だった。魔王の力があれば無策だろうと大抵のことはどうとでもなるのだろうが、どうともならない弱者のことも多少は考えてほしいものである。
 勿論怖くてそんなことは口が裂けても言えないが。

「すす、すみません……!」
「まあいい。とっとと乗れ」

 とにかく頭を下げるが、言葉遣いの割にはそこまで怒ってもいないのか、ベルゼブモンは二輪の乗り物にまたがり、後ろを指差して言う。

「は、はい! 只今! し、失礼しま……」

 二輪の鋼鉄の乗り物。話に聞くデジビートルだろうか。考えながら私の背丈ほどもあるその高さに手間取っていると、不意にふわりと体が浮く。というか首根っこをつかまれて無理矢理引き上げられる。

「ほら、しっかりつかまってろよ。まずはどっちだ?」
「あ、え、えと、とりあえずは西に真っ直ぐです」

 片手で軽々と私を後部座席に下ろし、ベルゼブモンは自分につかまるよう促す。戸惑いながらも私がその腰に手を回すと、途端にデジビートルが唸りを上げる。

「あ、あの、ベルゼブモン様。実は先程リリスモン様から所用を一つ言い付かりまして……」
「あ?」
「道中立ち寄る場所で小一時間ほどいただけれ、ばわわわぁぁぁ!?」

 私が言うのも待たずにデジビートルは動きだし、予想外の速度に舌を噛みそうになる。

「ち、ババアの頼みじゃ仕方ねえか。手早く済ませろよ」
「は、はいぃぃ……! じ、迅速にぃ……」

 城を出る直前、レディーデビモンに声を掛けられ、ついでにとちょっとした用事を言付かったのだ。寄り道というほどでもない簡単なものだったが、ベルゼブモンに何と言われるかだけが心配だった。魔王と魔王のどちらを立てるかなんて私に考えさせないでほしいものだ。
 しかし思いの外にベルゼブモンは聞き分けがよく、正直拍子抜けした。
 血に飢えたケダモノ、戦闘狂……そんな噂ばかり聞いていたが、見ると聞くとでは大違いだ。
 これならちょっとだけ、そう、道中の時間潰しにちょっとだけ、お話を伺ったりしてもよいのではなかろうか。なんて思いながら、とりあえず今はそれどころではないので必死にベルゼブモンにしがみつくのであった。
 荒野というものは、すごく悪路だった。





「腹へった」

 そんなベルゼブモンの一言でようやく休憩に入った頃には、辺りはとうに真っ暗だった。城でリリスモンが用意してくれた保存食の干し肉を火の魔術で炙り、私たちは質素な夕食を取ることにした。

「食いでがねえな」
「すみません、今はこれしか……明日には宿場町に着くと思いますので」
「四聖獣んとこまでは後どんくらいだ?」
「そうですね、このペースなら10日前後といったところでしょうか」
「マジかよ……先はなげえな」

 むしろ普通なら数ヶ月の長旅になっているところだ。それでも辿り着ける保証すらないのだが。

 この世界にはまだ、完全な世界地図というものが存在しない。今いるデジタルワールドの表層、“物理レイヤの荒野”であれば九割方を網羅した地図が比較的容易に手に入るのだが、問題はその下だ。
 “小世界郡レイヤ”――小世界と呼ばれるそれぞれが独立した球状の世界を無数に有するデジタルワールドの中層。小世界の外側はデジタル空間と呼ばれ、無秩序なデータの奔流が荒れ狂う危険地帯となっている。
 我々が目指す四聖獣の領域はそれより更に下、デジタルワールドの深層に位置している。
 小世界郡レイヤを抜け、深層へ辿り着くには大きく二つの方法がある。

 一つは空に浮かぶデジタルワールドの太陽たるリアルワールド球から降り注ぐデータの波、“光の柱”に乗ることだ。光の柱は大地を透過し、中層、深層にまで様々なデータを運ぶ。これに乗ることで一気に深層まで行くことも可能なのだが、問題はどこに辿り着くかまったくわからないということだ。下手をすれば最深層、“ダークエリア”へ落ちてしまう危険もある。
 ダークエリアで生まれたと言われる魔王であればともかく、あらゆるデータを蝕む闇の領域から私が生還できる可能性は限りなくゼロだろう。
 ゆえにもう一つの方法、今まさに私たちが行おうとしていることが、小世界を渡り歩くことだ。
 隣接する小世界同士は繋がっており、これを渡り繋いでいくことで深層を目指そうというわけだ。
 しかしこの繋がりが非常に厄介なものであり、隣接しているからといって必ずしも繋がっているわけではなく、時に随分と離れた小世界同士が繋がっていることもある。
 これが、世界地図を作る上での最大の難関。小世界の全容は、はっきり言っていまだ誰にも把握できてはいないのだ。

 私が渡された地図は、師匠が知る限りの四聖獣の領域までの最短ルートが記されたものだった。
 これですら本来はとんでもなく貴重なものだ。私が自力で作ろうと思えばきっと年単位。こんなものをあっさりくれる辺り、恐らく師匠はその価値をわかっていない。というか、俗世での価値なんてたぶん興味すらないのだろう。

「そいつが地図か?」

 地図を広げて考え事をしていると、横からベルゼブモンが覗き混んでくる。

「ええ、師匠から、あ、いえ、ワイズモンから渡されたものです」
「へえ……つーかこれ地図か? さっぱりわかんねえな」

 なんて言いながら眉をひそめる。
 無理もない。私も初めて見たときは地図であることを理解するのにさえしばらくの時間を要した。何せ立体的かつ複雑怪奇な小世界の構造をウィッチェルニーの大賢者様が凡人の頭への配慮など一切なしに記したものなのだから。

「まあ、道ならベヒーモスに教えといてくれや」
「ベヒーモス? あのデジビートルの名前ですか?」
「ああ? デジビートルなのか、こいつ?」
「え?」
「詳しいこたぁ俺も知らねえよ。どっかの村で暴れてんのつかまえただけだしな」
「暴れて、ですか?」

 乗り手もなしに自律稼働していた、というのか。
 デジビートル――それは疑似電脳核を搭載された半自律稼働型マシンの総称だ。しかし、電脳核といってもあくまで“疑似”、操縦の補助をする程度の性能でしかない。完全な自律稼働など考えられないことだが……元々デジビートルは人間によって設計された対デジモン用の兵器であったともいう。我々が今デジビートルと呼んでいるそれは、人間の技術を真似て我々デジモンが造り出した、いわば模倣品だ。“オリジナル”の技術はこの世界に伝わってすらいない。
 あるいはこの“ベヒーモス”、人間によって造られた“オリジナル”であろうか。

「おい? どうかしたか?」
「え? あ、ああ、いえ、すみません。ええと、その、教えるというのは、普通に話せば伝わるのでしょうか?」
「だと思うぜ。さすがに言葉は話せねえが」

 聞けば聞くほど信じがたい代物だ。言葉を理解するなんて普通のデジビートルでは考えられない。“ARMS”と呼ばれる伝説上の生体兵器すら想起させる。まったく、本来の目的とは違うところでなぜこんな面白いものがついで程度に出てくるのか。

「何そわそわしてんだ、お前?」
「い、いえ、何でも……お気になさらず」
「そうか? はあ、やることもねえし寝るか」
「え? あ、はい、おやすみなさいませ……」

 と、返せばすぐさまいびきが聞こえてくる。なんとも寝付きのいいことで。
 ああ、しかし名残惜しいというかなんというか。
 最初はただただ怖かったが、やはりこうして話している限り、ベルゼブモンは無差別に暴力を振り撒くような狂人ではないようだ。となれば、いろいろ話を聞いてみたくなってくるのが人情というもの。
 七大魔王という存在はとりわけ謎が多い。そんな名でひとまとめに呼ばれてはいるものの、一つの目的を共有し、互いに協力し合うような組織ではないらしい。かつて世界征服を目論んだ“憤怒”のデーモンは選ばれし子供たちによって討たれたというが、他の魔王による助勢や敵討ちなどという話は聞いたこともない。
 ならば彼らはいったい何を目的とし、如何様にして結成されるに至ったのか。
 そんな疑問を持ったのは私が初めてでもないだろうが、実際に調べたものはどれほどいたことか。万の軍勢を率いて世界征服を目論むような相手を下手に探れば命なんていくつあっても足りやしない。ということくらい誰でも思い至る。
 だからこそ、このまたとない機会は逃したくないのだ。
 だがアプローチを間違えれば、最悪ここで私はデータの塵と消えるだろう。
 嗚呼、私はいったいどうすればいいというのか。
 夜も更けていく中、私はただただ頭を抱えるばかりだった。





「あ? 魔王の話?」

 一夜明け、やって来た宿場町の食堂。テーブルいっぱいの料理を手品のように消し去っていくベルゼブモンに、私は息を飲んで問い掛ける。
 一晩と今日の昼まで悩んだ末に出した結論は、「ストレートに聞いてみる」であった。タブーに触れたらその時はその時だ。ああ、潔く諦めようとも。
 なんて、半ばやけっぱちで聞いてみるも当のベルゼブモンは怒った様子もなかった。むしろ、なぜそんなことをと言わんばかりに訝しげな顔をする。

「んなもん知らねえよ。ババア以外会ったこともねえ」
「え? そ、そうなのですか?」

 返ってきた答えに私は目を見開いた。答えてもらえたことへの驚きと、まだ命があることへの安堵であった。

「あの、ではベルゼブモン様はどのような経緯で魔王に?」
「どのような、っつってもなぁ」

 大量の料理もいつの間にかすっかりと平らげ、満足げに息を吐いてベルゼブモンはどこかの彼方を見遣る。

「気付いたら魔王だったな」

 などと、物言いは適当にあしらっているようで、けれど声色はとてもそうは思えない。

 デジタマから生まれたその瞬間、俺は俺だったと、ベルゼブモンはそう語る。
 曰く、幼年期、成長期、成熟期、完全体という進化の過程をスキップし、彼は“ベルゼブモン”として生まれ落ちたのだという。

「自分が“七大魔王のベルゼブモン”ってのは理解してたな。なんでかなんて知らねえけど」
「生まれたのは、ダークエリアだったのですか?」
「さあな、よく覚えてねえ。つーかそもそも地理なんざわからん」
「では、リリスモン様とはどのように?」
「あちこちぶらぶらしてたらレディーデビモンが来たんだっけな。主の使いだとかなんとか。飯食わせてやるっつーからついてった」
「リリスモン様から? 一体どのようなご用件で?」
「顔見たかっただけだと。……お前ぐいぐい来んな」

 なんて言われて、はっとなる。気付けば身を乗り出して詰め寄るような形になっていた。私は慌てて居住いを正す。

「も、申し訳ありません、つい……!」

 ベルゼブモンは溜め息を一つ、立ち上がってこきこきと首を回す。機嫌を損ねてしまったかと、恐る恐る顔を見れば、彼ははんと鼻を鳴らす。

「ま、道中の暇潰し程度なら付き合ってやるよ」

 そう言って彼は小さく笑い、店の外へと出ていった。私は思わず、とても元気よく「はい!」だなんて返事をして、放り出すように代金を置いて慌てて彼の後を追った。





 ベルゼブモンは、知っていることならなんでも答えてくれた。
 始まりの魔王・ルーチェモンとはどのようなデジモンだったのか。十闘士の成り立ちとその顛末は。彼らが封じたとされるサタンとは何者か。魔王が司る七大罪とは世界に何をもたらすものなのか。いまだ動かぬリリスモンの真の目的とはいったい……という辺りまでは全部「知らん」で一蹴されたが、自らに関することなら彼は言い淀むこともなく話してくれる。

「あの、ベルゼブモン様は何のために四聖獣のところへ?」
「あ? ああ、一番つえーんだろ?」
「え?」

 と、思わずきょとんとした顔をする。
 強い? とはどういう意味だろうか。いや、意味は明白なのだが、そうではなくて、なんというか、何を言っているんだこの魔王様は。

「ええと……つまりその、えー……戦う、ために?」

 四聖獣と? 神にも等しい英雄と? 戦うと? そう言っているのか。
 どうか否定してくださいと、そんな祈りを込めて問えば、まだ込め足りてないのに彼は即答する。

「たりめーだろ」

 たりめーだろときたもんだ。

「それは、その……いったいどのような目的で?」

 世界の均衡を保つ支柱とも言われる四聖獣。それを打ち倒すことが何を意味するのか。いったい何を得るがためにそんなものに挑もうというのか。最初の返答で想像は付いたが、そんな訳はあるまいと問う。

「目的? んなもんねーよ」

 そんな訳はあったようだ。
 まさか本当に戦うことそのものが目的だと、そう言っているのか。いや言ってるなこれは。残念ながら。
 “傲慢”のルーチェモンや“憤怒”のデーモン、“強欲”のバルバモンがそうであったように『目的は世界征服』なんてわけではないようだが……これが戦闘狂とも揶揄される“暴食”のベルゼブモンか。あるいは先に挙げた歴々よりよほど厄介かもしれない。
 元より平坦な道のりとは思っていないが、よもやゴールに四聖獣対七大魔王なんて山場が控えていようとは。
 いや、というかこの調子では道中で強そうなデジモンと出会う度、戦闘なんてことにもなりかねないのではなかろうか――
 そんな不安が残念ながら的中するのは、それから程なくしてのことだった。





「魔王・ベルゼブモン殿とお見受けする」

 荒野を進むベヒーモスの前に待ち塞がったのは、人馬一体の騎馬武者・ザンバモンであった。
 その手には抜身の白刃。甲冑とともに身にまとうのは隠しもしない戦意。何の用だなんて聞くまでもない。彼の次の言葉も待たず、ベルゼブモンは銃を抜く。

「御託はいい、来い」

 たったそれだけの言葉が、命を賭けた死闘の開幕を告げる。
 巨獣の咆哮にも似た唸りを上げ、ベヒーモスが爆ぜるように走り出す。同時にザンバモンもまた地を蹴り野を駆ける。つかず離れず両者は斬撃を、銃弾を交わす。
 最初の急加速で振り落とされた私は荒野に転がりながら、出会って5秒で殺し合う二人の姿をただただ目で追うばかり。

 ベルゼブモンは配下も居城も持たない孤高の魔王というが、意外にもその信奉者は多いそうだ。
 闘争こそがデジモンの本質であると、そう考えるものは決して少なくない。そんな彼らにとってベルゼブモンの生き様はある種、理想ともいえるものなのだろう。
 だからこそ、彼の魔王の信奉者はかしずかない。
 平伏ではなく挑戦を。頭を垂れるのではなく牙をむく。それが魔王ベルゼブモンの信奉者。

 その戦いは野心でも、正義でも、憎悪でもなければ、目的もなく、理想もなく、勝算もなく、けれど躊躇もない。
 生のために死を求めるような矛盾。戦いのための戦い。
 だからこそ、彼は生にも死にも執着しないのだろう。

 飛行魔術の最高速で必死に追い掛けて、どうにか辿り着いた時にはもう、戦いは決していた。
 刀は中程で折れ、騎馬は脚を撃ち抜かれ、ザンバモンは倒れ付していた。その眉間に、ベルゼブモンは銃を突きつける。まさに決着の瞬間。けれど――

「中々面白かった」

 その引き金を引くことなく、ベルゼブモンは銃を収める。呆気に取られるザンバモンに、ベルゼブモンはただ一言、

「もっと強くなったらまた殺しにこい」

 それだけ言って、背を向ける。
 ザンバモンは敗北を噛み締めるように息を吐き、けれど小さく笑う。その顔は晴れ晴れとして、敗者の悲壮などまるでなかった。
 これが、“魔王・ベルゼブモン”か。
 なんというか、生きてる世界が違いすぎた。

「よう、生きてたか」
「あ……はい。どうにか……」

 随分と軽い調子で言ってくれる。やはり落ちていたことには気付いていたか。いや、というよりむしろわざと突き落としていったようにも思えたが。巻き込まないため……は、考えすぎだろうか。
 ベルゼブモンは一度伸びをすると再びベヒーモスに跨り、私をひょいと持ち上げ後部座席に乗せる。扱いはまるで積荷か何か、喋る地図とでも思ってらっしゃるのか。

「さて行くか。ここどこだ?」
「少し道を逸れましたね、ええと……」

 と、地図を取り出そうとすると遮るようにベヒーモスが唸りを上げ、僅かに車輪を滑らせる。

「あ? わかんのか?」
「え?」

 問われて答えるように車輪を左右に振る。そうしてベヒーモスは、私の指示すら待たずに再び荒野を走り出す。魔王と、喋る地図以下の荷物を載せて――





 旅は順調だった。
 ザンバモンのような挑戦者や、よくわからない正義感に突き動かされた自称勇者は時々挑んでくるものの、ベルゼブモンはそのすべてを難なく返り討ちにし、四聖獣の領域への道をひた走る。
 その戦いの中、ベルゼブモンは無闇に命を奪うことはしなかった。
 まあ、しつこい相手は勢い余って殺すことも時々、いや多々あったが、基本的には生かしておくのが彼のスタンスらしい。
 理由はザンバモンに投げ掛けた言葉がすべてだろう。動機は挑戦だろうが正義だろうが復讐だろうが何でもいいらしい。

 ともあれ、そんなこんなで我々は中層・小世界群レイヤを渡り歩き、やがて下層レイヤとの境界付近へと到達する。
 それは地面にぽっかりと空いた大穴、そしてその横に立てられた「↓海底トンネル」という看板であった。地図でも確かにここでトンネルを通ることになっているが、はて、トンネルとは上下に通行するものだったろうか。

「ここだな、行くぞ」
「え?」

 だがそんな疑問を持ったのはどうやらこの凡夫一人だったらしい。怖いもの知らずの魔王様はどう見ても垂直のただの穴に向かってなんの躊躇もなくベヒーモスを駆る。
 宙を舞う車体。から回る車輪。しばし心地の悪い浮遊感。そしてベヒーモスは穴の壁面に激突、いや、着地し、螺旋を描いて壁を駆け降りていく。降りているのか落ちているのか判断に迷うところだが、そんなことを考えている時点できっと、私はこの上なく錯乱しているのだろう。
 一寸先も見えない暗闇で打ちつける風だけがその速度を物語る。ぎゃあと叫びたい気持ちだったが、歯を食いしばってひたすらに耐える。

 どれぐらいそうしていたろうか。体感は数時間だったようにも思えるが、師匠の地図を信じるならほんの数分だったのだろう。
 傾斜が次第に緩やかになり、ただの穴から急勾配のトンネルくらいになった頃、辺りの景色が一変する。

 暗闇を抜けた先は、海の中だった。
 陽も届かぬはずが、星空のように輝く神秘なる水の宇宙――“ウォータースペース”。
 海中に伸びる透明なパイプの中をベヒーモスが駆けていく。パイプは緩やかな螺旋を描いて海底へと下り、その向かう先には、不思議な建造物がそびえ立っていた。
 銀の円盤を幾重にも積み重ねたような、歪な塔。それが何棟も並び、繋がり、一つの巨大な建造物となっている。
 それはデジタルワールドのあらゆる書物が揃っているとも言われる幻の大図書館。

「ババアの用事ってのはあれか」
「え、ええ……あれがウォータースペースの大図書館です」

 魔術師なら知らぬものはいないだろう。長年行ってみたかった場所の一つだ。可能であれば数週間ほど籠もりたいところだが……「手早く済ませろ」とのお達しが出ているのでそうもいかない。ほどほどにせねば。帰りにもう一度寄れないものだろうか。
 そんなことを考えているうちにベヒーモスは海底トンネルを抜け、我々はようやくウォータースペースの大図書館へと辿り着く。これで道程の8割強といったところか。四聖獣の領域まで、あと少し。





 図書館に立ち入ると不思議な生き物に出迎えられる。全身真っ白でのっぺりとした人型の何か。デザインは同じだが大きさはベルゼブモンほどの背丈のものから私より小さいものまで様々だった。
 目も鼻も口もなく、一言も言葉は発しなかったが、手を振ったりおじぎをしたり、歓迎してくれてはいるように見えた。これは――

「んだこいつら?」
「おそらく“デジノーム”という原始生命体です。大図書館の司書のようなもの、とワイズモンは言っていましたが」

 我々デジモンの祖先より古くから存在すると言われる原生生物。中層以上でも稀に目撃されるようだが、大半はこの下層に棲息しているという。私も目にするのは初めてだ。
 デジモンにはない不思議な力を持っているそうだが、詳しいことはいまいちよくわかっていない。次から次へと面白そうなものが出てくるな。誘惑が多い。

「司書ぉ?」

 と、ベルゼブモンはデジノームたちを睨み据える。
 そして、司書たちに仕事を言い付けるのである。

「腹減った。なんか食わせろ」

 絶対に司書の仕事ではなかった。なかったが、デジノームたちは顔を見合わせ、笑い合うような仕草を見せると、おもむろにベルゼブモンの手を引いていく。

「お、なんかあんのか? 言ってみるもんだな」

 あるのか、こんなところに。
 そんな様子にはらはらしながら後をついていく。彼が魔王であることもそれがどういうものかも理解していないのだろう。まあ、こんな程度の無礼で怒るとも思えないが。
 そうして程なく歩けば、図書館の一角にカフェが姿を現す。
 そう、カフェである。なぜと言われてもわからない。

「とりあえず肉」

 だがベルゼブモンは気にもしていない様子だった。
 店員らしきカウンターのデジノームに向かって当たり前のように注文をする。カフェで最初に頼むものだろうか。
 なんて思っているとやがて、カウンター奥の厨房からジュージューという小気味よい音と、香ばしい匂いが漂ってくる。肉はあるらしい。
 私はもう、深く考えないことにした。

「ええと……ではあの、私はリリスモン様の用事を済ませて参りますね」
「おう、急げよ」

 ベルゼブモンに一礼し、私はその場を離れる。
 通路を進み、階段を登っては降り、途中で見掛けたデジノームたちに訪ねながら広大な図書館を歩いていく。
 外観で分かってはいたが、とんでもない大きさだ。リリスモンの城より遥かに広い。先程のカフェのような場所も他には見当たらない。どこもかしこもただただ本棚ばかりが並び、所狭しと膨大な書物が納められている。一体何百年を費やせば読み尽くせることか。
 否、デジタルワールドばかりか、電子化されたリアルワールドの書籍もすべて納められているという話だ。世界が滅びでもしない限り増え続けるであろう蔵書を読み終えるだなんて、何千年をかけても不可能だろう。

 この旅の始まり、世界の謎――普通の図書館で調べられる程度のことならあらかた調べ尽くしたが、あるいはここならそれ以上のこともどこかしらに記されてはいるのかもしれない。残念ながらそれを見つける前にベルゼブモンがしびれを切らすだろうけれど。
 口惜しいが今は我慢だ。後で絶対また来よう。

「すまない、探している本があるのだが」

 近くにいたデジノームに声をかける。
 唇をかみしめてぐっと堪え、まずはリリスモンから仰せつかった書物を探すことにした。





 私がカフェに戻ったのは小一時間ほどしてからのことだった。
 ベルゼブモンの前には空の皿が塔のように積み重なっていた。少しこの図書館の外観にも似ていたが、とてもどうでもいいことだった。

「んあ? 終わったか?」
「あ、はい。お待たせして申し訳ありません」

 なるだけ平静を装って顔色をうかがうも、待たされて苛立っていたような様子はまるでなかった。まさか今までずっと食べ続けていたのだろうか。どうやらリリスモンの用事にかこつけて私的な調べ物もしていたことはバレていないようだった。いや、頼まれた書物を交信魔術で送る間の待ち時間を無駄にしないよう有意義に使っただけであり決して“ベルゼブモンがどこまで待てるかチャレンジ”をしていたわけではなく何もせずとも同じ時間は掛かっていたわけなのだが。

「どうした? 変な顔して」
「はっ! あ、いえ、なんでも……!」
「そうか、ならさっさと行くぞ」
「はい、行きましょう、すぐに」

 ぴしりと姿勢を正して答える。
 そうして私たちは、大図書館を後にするのだった。





 大図書館を出て再びトンネルを進んでいく。
 トンネルの向かう先は海底、ウォータースペースの更に下、すなわちこの世界の深層レイヤである。四聖獣の領域は、もう目の前だ。

「そういや、あのババアがわざわざ探す本ってなぁ何だったんだ?」
「え!? あ、いえ、その……」

 しばらく変わり映えのない景色が続いていると、暇を持て余したか不意にベルゼブモンが問い掛ける。
 てっきり興味などないものと油断していた私は、思わず返答に詰まってしまう。

「あ? 俺にゃ口止めされてんのか?」
「い、いえ! 決してそのようなことは……!」

 ただ、どう説明すればあの寄り道を納得してくれるかが分からないだけなのだ。私も頼まれた時には本当に間違いないのかとレディーデビモンに確かめたほど。
 とは言え、聞かれた以上は話さない訳にもいくまい。私は意を決して、

「その、レシピ、です……」

 と、正直に話すことにした。

「あ?」
「リ、リアルワールドの、料理のレシピを、頼まれました……はい」
「……ああん?」

 二度聞き返すか。私は一度で飲み込んだというに。
 ひい、と思わず小さな悲鳴が漏れて、そんな私にかリリスモンにか、ベルゼブモンは大きな溜息を吐く。

「マジかあのババア」

 それは私も本当にそう思う。
 よもやこんな秘境にまで来て、すべての叡智が集うとさえ言われる大図書館にまで来て、求めるのが人間の世界の美味しいご飯? 嘘だと言っておくれよリリスモン、と、私も最初はそう思ったものだ。
 いや、本当にただそれだけの可能性も、まだ捨て切れないのだが。

「はぁ……くだらねえことに時間食わせやがって」
「はは……ああ、でも、終わったら食べにくるようにも言ってらっしゃいましたよ」
「ふん、リアルワールドの料理か……仕方ねえな」

 そしてお腹をぐうと鳴らせる。さっき山ほど食べたろうに。だが、とりあえずは納得してくれたようだ。

 私の推測が正しければ、リリスモンの真意は別のところにある。かもしれない。
 真意と呼ぶには行き当りばったりで、私がそれに気付く保証なんてどこにもない。「まさか」と私が思ったのも、レシピを送る間にたまたま手に取った本を見てのこと。
 だがあの性格破綻者、あ、いや、お師匠様も一枚噛んでいるならあり得ないことでもないだろう。
 私が気付けるかどうかに我々二人の命を勝手に賭けるくらい、やらかしたって不思議はないのだから。

 そしてその推測を肯定するように、最後の岐路が我々の前に姿を表すのである。

「ん? おい、どっちだ?」
「東……右側です」

 進行方向には二叉に分かれたトンネル。問われて私は右側を指差す。地図には載っていない、その道を。

 大図書館で得た知識と実際の地理を見てようやく気付いたが、師匠からもらった地図はどうやら、“四聖獣の領域まで”の最短ルートではないようだった。
 地図には手を加えられた痕跡があった。
 わざわざ大図書館を経由させたのは、ここを通らせるためだったのだろう。
 私が選択を間違えるか否か、ただ面白がっているだけなのか。あるいは私を試しているつもりなのか……。

「この先が“四聖獣の領域”か」
「あ、ええ、そう……ですね」

 ベルゼブモンの言葉に意識を引き戻される。
 気付けば海底トンネルの出口まで差し掛かっていた。
 海底の岩盤の中へと続くトンネルの先は、海底洞窟だった。岩肌にがくがくと揺られながら、真っ暗な洞窟を進んでいく。灯りの魔術で照らしたいところだが、この悪路では杖を振るうことなどできそうもない。ベヒーモスのヘッドライトだけが頼りだ。こんな場所を爆走するにはあまりに心許ない光量だが。
 そんな暗闇をどれほど進んだろうか。次第に道は狭く、下り坂になっていく。緩やかな左曲がりのカーブが延々と続き、恐らくは螺旋階段のようになっているのだろう。さすがのベヒーモスも速度を落として進むこと、しばらく。やがて眼下に明かりが見えてくる。どうやら海底洞窟の出口のようだ。
 そうして私たちは遂に、世界の深層へと辿り着くのであった。





 洞窟を抜けた先は、十メートル四方ほどの岩場だった。辺りを見回せばそこかしこに大小様々な岩が浮かんでいる。支えもなく宙に浮かぶ岩場の端から下を覗けば、そこには炎が轟々と燃え盛っていた。
 いいや、覗くまでもなく、見渡す限りの炎の地平が広がっていた。

「“火の壁”ってやつか」
「ええ、恐らく」

 深層領域と外界とを分かつ隔離障壁、“火の壁”。
 四聖獣の領域へと立ち入るための最後の関門、これをどう越えるかが最大の問題。なのだが……。

「で、ありゃ誰だ?」

 少し離れた岩場の上に佇み、ただじっとこちらを見据えるデジモンの姿があった。我々を認め、小さく頷くと彼はふわりと跳躍する。
 茶色の毛並みと長い耳を持ち、二本の足で立つ獣人デジモン。その外見的特徴からして恐らく、十二神将は“卯”の――

「我、アンティラモンなり」

 我々と同じ岩場に降り立ち、彼はそう、己の名を告げた。敵意はないように見える様子に、ベルゼブモンもまだ銃は抜かない。ゆっくりと近付いてくるアンティラモンをただ待ち受ける。

「我が主、チンロンモン様の命によりそなたらを待っていた」

 眼前で立ち止まったアンティラモンのそんな言葉に、ベルゼブモンは肩をすくめて問う。

「はっ。追い返せ、ってか?」
「否。“火の壁”、危険ゆえ案内するようにと」
「あん?」

 なんて、言われて思わず私たちは顔を見合わせる。
 しかしそんな私たちにも構わず、アンティラモンは“火の壁”へ目をやる。そっとその手を振るえば、炎にぽっかりと穴が空く。と同時、岩場から炎の虚へと向かって魔法陣のような円形の足場が次々と現れ、階段を形作る。

「では行くぞ。我から離れぬよう気を付けよ」
「いやいや、待て待て」
「な、なぜ我々を? 行ってよいのですか?」
「ふむ……?」

 と、アンティラモンは私の問いに思案するように首を傾げ、空を見上げ、また首を傾げる。

「すまない。そなたらを案内する理由をチンロンモン様から聞いていなかった。今聞いてくるゆえ、しばし待たれよ」

 そう言って一人で降りていこうとする。ので、勿論ベルゼブモンが引き止める。

「いやだから待てえ! なんでだよ!」
「む?」
「ああ、ええと、でしたら私たちが直接伺いますので、まずは我々をチンロンモン様のところへ案内してくださいますか?」
「ふむ。了解した」

 そして納得したように頷く。
 なんとも変わったデジモンのようだ。
 通してくれる理由はさっぱりだが、まあ、何事もなく通れるならそれが一番だ。
 選ばれし子供へ助力するため、何度か表舞台に姿を現したことのあるチンロンモンについては、直接会ったというデジモンも僅かながらに存在する。伝え聞いただけではあるが、彼らの話に出てくるチンロンモンはいずれも温厚で友好的、清廉潔白な賢君といったイメージだった。
 これが罠である可能性は、なくもないかもしれないが、ほぼほぼ有り得ないと思っていいだろう。
 どうやら私の選択は、正しかったようだ。

 件の分かれ道は四聖獣の領域から見て南東に位置する。突きつけられたのは、南と東の二択。
 すなわち問答無用で我々を消し炭にしそうなスーツェーモンか、話くらいは聞いてくれそうなチンロンモンかの二択である。
 こんな選択をノーヒントでぶん投げてくるだなんて、いったいどれだけ性根がねじ曲がっていれば思い付けるのだろうか。
 とりあえず前者がお望みであったろうベルゼブモンには、この先も永遠に黙っているとしよう。

「しかしこりゃベヒーモスは無理そうだな」
「え、ええ、確かに……」

 足場ひとつひとつは直径1メートルほど。我々が乗るには十分だが、ベヒーモスではそのうち踏み外して落ちてしまいそうだ。

「仕方ねえ、ちょっと待ってろ」

 と、どこか寂しそうに前輪を揺らすベヒーモスを置いて、私たちはアンティラモンの後について炎の虚へと足を踏み入れる。

「つーか喧嘩しにきたのは伝わってんのか?」
「む? そなたらはチンロンモン様を害することが目的? では、侵入者として排除すべきであろうか」
「いや俺に聞くなよ」
「ま、待ってください。案内するよう言われているのでは……?」

 あと、そなた“ら”ではない。そこだけは本当に間違えないでほしい。どう見ても言い訳のしようもないくらい「ベルゼブモンの手下」なのは自覚しているけれども。

「ふむ、確かにその通りだ。……む? どういうことだろうか?」
「だから俺に聞くな!」

 本当に変わったデジモンである。
 というかここで放り出されたらたぶん私だけ焼け死ぬので勘弁してほしい。念の為に耐火の術式は用意しておこうか。

「何してんだお前?」
「え?」
「否。アンティラモンいれば耐火の術は不要」
「ええ!?」

 駄目だ、一瞬で全部バレてる。
 あ、さてはこれ、私に選択肢一つもないな?

「あ、いえ、怖くてつい。すみません、必要ないですね」

 はははと笑い、途中まで構築していた術式をぱぱぱと手で払う。魔王と神使を相手に私如きの小細工など、やるだけ労力の無駄か。
 いや、むしろこうなったら自衛に思考を割かないでよくなったと前向きに考えることにしよう。
 私は己の命をひとまず横に置き、辺りを見回す。

 燃え盛る炎、炎、炎。まさに“火の壁”か。
 デジタルワールドの最深層・ダークエリアを覆う隔離障壁にして、世界の秩序を乱す闇の眷属を封じる牢獄の檻。だと、聞いていたのだが……。
 私は少しだけ炎に手を伸ばし、石ころほどの小さな風の魔術を放つ。それは僅かに炎を散らし、“火の壁”に飲まれる。

「どうかしたか?」

 そんな私にアンティラモンが問う。私は眉をひそめ、問い返す。

「あの、これは本当に“火の壁”なのですか?」
「あん? 何言ってんだお前?」

 確かにどう見ても“火の壁”だ。なのだが……私の魔術でも多少なり影響を受ける辺り、完全体や究極体ともなれば強引に突破することも不可能ではない程度の炎に思えてならない。こんなもので一体何を封じているというのか。
 そもそもかねてからの疑問だったのだが、ダークエリアが“火の壁”の向こう側に位置するというなら、ダークエリアで生まれたデジモンはすべてこれを越えて表層に上ってきているはず。現にダークエリア出身であるはずの魔王様は、こうして私と一緒に外から内へと向かっているのだから。

 私の問いにアンティラモンはふむと唸り、歩みは止めぬまま炎を指差す。

「これは広義には“火の壁”に相違ない。しかし狭義の“火の壁”にはあらず」
「狭義……というと、本来“火の壁”とはこの炎を指す言葉ではない、と?」
「然り。これは地上のデジモンがダークエリアへみだりに立ち入らぬよう、チンロンモン様たちが作り出したもの」
「これを、四聖獣が……?」

 だとするなら確かに、本来“火の壁”と呼ばれていたものがこの炎であるはずがない。四聖獣は“火の壁”の向こう側より現れた黙示録の怪物との戦いの中で生まれたとされているのだ。“火の壁”は四聖獣誕生以前から存在していなければ辻褄が合わない。

「チンロンモン様たちは黙示録の怪物を“火の壁”の彼方へと追いやったのち、その外側の領域に何重もの封印を施された」
「その一つがこの炎……それらの総称が“広義の火の壁”というわけですか」
「然り」

 アンティラモンは振り返ってこくりと頷く。ダークエリア内部はさらに幾層にも分かれ、深層へ降るほど闇の力は濃く深くなるという。各層ごとの闇の力の強度に合わせて封印を施しているのか。いや、あるいは四聖獣の封印こそがその“層”を形作る隔たりとなっているのかもしれない。

「では、“狭義の火の壁”とは誰の手によるものなのですか?」

 私が問えばアンティラモンは思案するように俯き、腕を組む。そうして、少し歯切れ悪く答える。

「“神”……であろうか」
「神ぃ?」

 アンティラモンの言葉に、これまで暇そうに欠伸をしていたベルゼブモンも思わず問い返す。

「あの……あなたがたにとっての“神”とは、四聖獣なのでは?」

 四方の守護神。神話の英雄。世界の支柱たるもの。四聖獣を神と信仰するものは珍しくない。その腹心の配下たる十二神将がそれ以外の何を“神”と呼ぶのか。

「チンロンモン様たちは我らが“神”に相違ない。だが……ふむ、なんと言えばよいだろうか。“世界の意志”……あるいは世界そのもの?」
「いまいち要領得ねえな。要はてめえらにもよくわかんねえ、四聖獣より上の何かってことか?」
「ふむ……確かにその理解で問題ない。それは姿なき意志。“安定を望むもの”。外界における呼び名は……」
「……“ホメオスタシス”?」

 その名を口にするとアンティラモンはこくりと頷く。

「なんだそりゃ? デジモンじゃねえのか?」
「わからない」
「あん?」
「四聖獣と同様にデジタルワールド各地で信仰されている神の名です。しかし、四聖獣のように実在するのかは定かでなく……」
「我も詳しいことはわからない。チンロンモン様であればご存知やもしれぬが」

 “神”と呼ばれるものは数あれど、とりわけ“ホメオスタシス”は謎が多い。その名がどこの誰から伝わり、神と信仰されるに至ったのか、起源すらよくわかってはいないのだ。
 リアルワールドにおいて“ホメオスタシス”の名が意味するところは“恒常性”。生物が自らの内部環境を一定に保ち続けるようとする性質、だそうだ。
 アンティラモンが口にした“安定を望むもの”の別名通り、デジタルワールドの環境や生態系を維持するための管理システム、というのが私のような信心浅い凡夫の見解だが、当たらずといえども遠からずといったところだろう。

「ふん、戦えるようなもんでもなさそうだな」
「え? そ、そうですね……」

 戦えるなら戦ったのかこの魔王様は。
 アンティラモンが言ったように“ホメオスタシス”はどうやら実体を持たない思念体のようなもののようだが、聞くところによればその意志を代行する“エージェント”なるものも存在するという。まあ、今言う必要はないから一旦黙っておくけれども。
 ベルゼブモンはつまらなそうに鼻を鳴らし、眼下の炎の虚へと目を向ける。

「つーかまだ着かねえのか。あとどんくらいだ?」
「ふむ、いまニ、三合目といったところだな」
「まじかよ、だりぃな……」

 言われて私も足場からそろりと顔を覗かせるが、いまだ下には炎しか見えない。思いの外に“火の壁”は分厚いようだ。この火力と距離では私単独での突破はどのみち無理だったな。
 そんなことを考えているとふと、アンティラモンが顎に手を当てぽつりと言う。

「急ごうと思えばできなくもないが」
「え?」
「んだよ、近道あんのか。ならさっさと行け」

 その視線に、私は言わんとしていることをなんとなく察して最後尾でふるふる首を振る。が、もちろん誰も見ていない。見ていたところで却下だったろうけれど。

「そうか、では少し急ぐとしよう」

 と言ってアンティラモンはそっと指を振る。
 向かう先は下。階段より早く降りる方法なんて、勿論ひとつだろう。
 案の定、足場の魔法陣が溶けるように消えていく。

「お?」

 そうして我々は、落下するのである。

「ひぅぅぅぅ……!」

 予想はしていた。覚悟も急だができていた。なので最小限の悲鳴だけをあげて私は落ちていく。取り乱して大暴れしないだけでも褒めてほしい。

「なるほど、確かにこりゃ早え」
「着地は我に任せよ。しばし楽にしていて問題ない」

 そうさせていただきたいのは山々だが、生憎こちとら魔王様ほど肝は据わっていないのだ。
 いっそ自分で飛びたいところだが、炎の虚が開いているのはアンティラモンを中心に数メートル程度。下手に飛んで離れれば炎に突っ込むことになりかねない。「着地は任せよ」を信じて落ちる以外になさそうだ。
 唇を噛んでひたすらに耐え忍ぶ。どれくらいそうしていたろうか。時間の感覚もわからなくなってきた頃、唐突に景色が様変わりする。

 空だった。
 見渡す限りの炎が嘘のように澄んだ青空が広がっていた。
 ふと上方を仰ぎ見る。けれどそこにはもう火の壁など影も形もない。ただ真っ白な雲だけがあった。

「先も言ったように彼の炎は外界からの立ち入りを阻むもの。外界へ出ていくものには無害な雲海でしかない」

 眉をひそめているとアンティラモンがそう説明をする。されたところでとても「なるほど」とはならなかったが。
 まったく同じ場所でありながらただ入る方向だけで見た目も物理的性質も変わるだなんて、何をどうしたらそんな謎空間ができあがるというのか。
 ますます眉をぐにゃぐにゃひそめて雲を睨む。そんな時、ベルゼブモンがぽつりと言う。この旅の中で初めて聞くような声色だった。

「……いるな」
「え?」

 言われて、ようやく気付く。これまでは分厚い火の壁に覆われ、感知できなかったその存在に。
 いいや、ことさらに意識を向けるまでもなくそれはそこに在ったのだ。
 ただその存在を前に、矮小な私の理解が追いつかなかっただけのこと。
 たとえばそう、空や大地が目の前にあったとして、そこに疑問など抱こうか。それは生命の枠組みを外れた摂理そのもののようで、同じデジモンを神と崇めるなんてどうかしていると、そんな風にすら思っていたこの無神論者さえ、心はとうに平伏してしまっていた。
 それほどまでに、それは次元を異にするものだった。

 アンティラモンの展開した光の輪に身体を支えられながら、羽のようにゆっくりと降り立つ。四聖獣の住まうその大地に。
 視線は空に向いたままだった。
 見据えるのは蒼穹に浮かぶ白雲。その中に、姿は見えねど確かな存在を感じる。我々が一言も発せられずにいると、やがて雲海をたゆたうその姿があらわになる。

 まるで天そのものが動いたと錯覚するほどの巨躯。その身は蒼く澄んだ空のようで、揺蕩う浮雲のようで、閃く雷霆のようでもあった。
 四聖獣は東方の守護者にして、四大竜の一角にも数えられる蒼雷の龍王――“青龍”チンロンモン。

「チンロンモン様、お連れいたしました」
「うむ、大儀であった。下がってよい」

 アンティラモンの言葉に、返す声色は厳かで、けれど穏やかだった。
 アンティラモンは一歩下がり、礼をするとその場から煙のように消える。何をどうやったのか詳しく聞きたいところだが、もちろんそんな場合ではない。
 目的は聞かされていた。こうなることは知っていた。戦いは、避けようもなかった。

「てめえが四聖獣……チンロンモンか」

 問い掛けるベルゼブモンの顔は狂喜に満ちていた。溢れる戦意を隠そうともしない。その爪を構え、今にも飛び掛からんばかり。

「如何にも。そなたが魔王・ベルゼブモンか。なるほど、聞きしに勝る獰猛よ」

 けれど対するチンロンモンはまるで意にも介していない様子。ただ冷静に、ベルゼブモンを見定めているようだった。
 それが、その態度がどうやらベルゼブモンに火を付けてしまったらしい。
 は、と吐き捨てるように笑い、ベルゼブモンは地を蹴った。その爪に黒い焔を灯し、まるで飛翔するかの如く天空のチンロンモンへと迫る。
 そうして――

「……っ!? ぐっ……が……!」

 一条の雷光が閃き、戦いは決着する。

「……え? あ……え……」

 晴天より落ちた蒼い霹靂。その一撃に貫かれ、ベルゼブモンは地に落ちる。全身から黒煙を上げ、ぴくりとも動かぬまま。
 倒れたベルゼブモンをしばし呆然と見詰める。だが立ち上がる気配はなかった。肉体は形を保っているが、所々にノイズが走る。まだ命はある、のだろうけれど、嗚呼……ベルゼブモンは、どうやら負けたらしい。ほんの一撃、ほんの一瞬で。

「べ……」

 あまりのことに思考がまとまらない。駆け寄る? 助ける? どうやって? どうして?
 いや、声を上げてはいけない。動いてもいけない。いや、そうしたところで、何がどうなる?

「怯えずともよい。元より命を奪う気はない」
「はぁ、はっ……え……?」

 ぐちゃぐちゃの頭でただただ震える。そんな憐れな私にチンロンモンは変わらぬ穏やかな声で言う。何もしていない、されていないのに肩で荒い息を吐き、私は天を仰ぐ。その視界の端を、蛍火が過ぎった。
 振り返ればベルゼブモンが淡い光に覆われていた。いや、気付けば私の身体も同じ光に包まれている。チンロンモンが放ったものだろう。言葉通りそれは我々を害するものなどではないようだった。
 乱れた呼吸、高鳴る電脳核。長旅の疲労に、火の壁にちょっかいを出した時に少しだけ焼けた肌。すべてが見る見る間に癒やされていく。ベルゼブモンに至っては焼け焦げた衣服すらも戻っていた。
 私の治癒魔術など足元にも及ばない。時間が巻き戻っているとさえ錯覚する。もはやこれは治癒より復元というべきか。

「直に目を覚ますだろう。それまで、落ち着いたようならそなたの話を聞くとしようか」
「あ……は、はい……」

 宥めるような声色に、次第に私の恐怖心も和らぐ。
 そうだ、害する気があるなら我々はここまで辿り着くことさえなかった。落ち着け。大丈夫。早鐘を打つ電脳核を抑えるように胸に手を当て、呼吸を整える。
 話を聞くと、そう言ったか。
 我々が来ることを知っていたのか? だとするなら誰に……いや、もうこの際そんなことはどうでもいいか。
 怖さが引っ込むと途端に好奇心が顔を出してくる。我ながら現金なものだ。そう、聞きたいことは、山程あった。

「で、では……」

 はあ、ふう、と息を吐く。そうして空のチンロンモンを見上げる。
 私は、私がここへ来たそもそもの理由――デジタルワールドの歴史に散見する矛盾、それに対する私なりの仮説を話す。四聖獣相手に披露するのはおこがましい、凡人が足りない頭を振り絞って必死に考えたその話を、チンロンモンは黙って聞いてくれた。

 四聖獣と黙示録の怪物との戦い、七大魔王と十闘士の戦いは、本当に同じ歴史の中に存在していたのか。矛盾のない時系列などあるのか。世界の在り方そのものを異にするような二つの史実は、二つの歴史・二つの世界に存在したのではないか、と。
 私の問いに、チンロンモンはふと小さく笑う。鼻で笑われたのかと狼狽える私に、しかしチンロンモンは満足気に頷いて、

「実に荒唐無稽。だが、我々の見解も概ねその通りだ」

 そう言って、神話を生きた太古の英雄は語り出す。

「我々が黙示録の怪物――“アポカリモン”と戦った時、七大魔王や十闘士は存在していなかった。そのはずだった」

 最初の“選ばれし子供”とともに、四聖獣は長い長い旅の中、果ての見えない戦いを繰り返した。
 世界中を巡り、沢山の仲間を得た。沢山の死を乗り越えた。
 それは世界の命運を賭けた戦い。世界中の猛者が未来を勝ち取るがために戦った。
 けれどそこに、七大魔王と十闘士の姿はなかった。
 黙示録の怪物を封じたその後にも、そんな戦いが起こることなどなかったのだと、チンロンモンはそう語る。

「だが、彼らはいつの間にか歴史の中に存在していた。我々もまた、いつの間にか彼らを知っていた」

 創世記より世界を見守り続けてきたはずの四聖獣さえ知らない歴史が、気付けば正史となっていたのだ。
 そしてそんな大仰で馬鹿げた出来事が、ほんの僅かな違和感としてしか認識できなかった。殊更に熟考せねば見逃してしまうほどの。事実デーヴァたちは、違和感さえ覚えなかったという。

「まるで歴史が改変されたかのような、いや、そなたの仮説通りであるなら“統合”か」

 統合……二つの歴史、二つの世界が一つに。
 だが、本当にそれが事実だとして、果たしてそれを証明することなどできるのだろうか。
 声にも出さなかった私のその問いを、見透かしたようにチンロンモンは首を振る。

「かつてそなたと同じ仮説に我々も辿り着いた。だがそれを立証するには至らなかった。感覚的に“1”と認識し、物理的にも“1”と観測されるものが、本質的には“2”であると……証明することは容易ではない」

 とうに合一されてしまったものから元の形を見つけ出す。緑色に塗られたキャンバスから青と黄色の絵の具を取り出すようなもの。いや、そもそも二つであるかさえわからないのだ。ウィッチェルニーのような、また異なる世界がどこかに存在し、あるいはすでに統合されているのかもしれない。
 歴史も認識も書き換えられた世界の内側から、その変化を客観的に観測する。なんて、世界の理から逸脱した超常の存在でもなければ不可能だ。四聖獣ですらできないのなら私ごときにできるはずもない。
 だが……

「容易ではない、ということは……不可能ではない、とお考えなのですね」

 私の問いにチンロンモンは、ゆっくりと頷いてみせた。

「取っ掛かりとなり得るものが一つ、否、それこそ無数に存在している。そなたであれば、とうに思い至っているのではないだろうか」

 試すようなその言葉。いいや、本当に試しているのかもしれない。私がここへ辿り着けた理由、チンロンモンが私を招いた理由がそれだとするなら。
 取っ掛かりとなり得るもの――確かにそれは存在している。
 この世界は、既に無数の異なる世界を内包しているのだから。

「“小世界”……」

 もしそれがかつて存在した平行世界の痕跡だとしたら、いまだ小世界の全容が解明されないことにも得心がいく。二つの歴史どころではない。一体我々の知らないところでどれほどの世界が統合されてきたというのか。この無数の世界群を一つの世界として観測しようとすることこそが、そもそもの間違いなのだ。
 だが、この仮説が正しいとするなら、小世界の全容、引いては歴史の真実を紐解く糸口は、無数の小世界の中にこそあるのやもしれない。
 そしてそれが、私が今ここにいる理由――

「チンロンモン様は……そのために私を?」

 問えばチンロンモンは私を見据え、ややを置いて「如何にも」と答えてみせた。

「世界を二分する大戦、神が如き魔王の誕生――世界の守護を与るものとして到底看過できるものではないが……我らは介入するどころか知ることさえできなかった」

 知らないところで起きた世界の危機。
 知らないところで世界が滅んでいてもおかしくはなかったのだ。
 世界をどうこうするような力のない凡夫にとっても無視できるものではない。世界の守護者たる四聖獣にとっては自らの存在意義さえ揺るがすほどの大事だろう。
 だが、彼らが世界を守るがために得た力は、あまりにも強大すぎた。それこそ、守るべき世界を自らの手で壊しかねないほどに。
 ゆえに彼らはみだりに動かない。いいや、動けないのだ。
 だからこそ彼らは代行者たるデーヴァを生み出し、選ばれし子供を選定したのだ。
 そして今、私如き凡夫にも同等の使命を与えようとしているのか。
 世界の謎を、解き明かせと。

「そう身構えずともよい」

 だが、チンロンモンはそんな私の思い上がりを見透かしたように言う。

「本来であれば我らが担うべきこと。その責をそなたに負わせるつもりなどない。ただ、少しばかり手を貸してはくれまいかと、そなたらを招いた次第だ」
「手を……? しかし……」

 私にいったい何ができるというのだろう。
 数百年、あるいは数千年か。
 四聖獣の力と知識を以てしてもいまだ解明へは至っていない歴史の秘密。何をどう紐解いたものか、今の私には想像もできない。
 わざわざ案内人まで寄越した以上、できることがあるとチンロンモンは判断したのだろうけれど。
 眉をひそめる私に、構わずチンロンモンは問い掛ける。

「コードクラウン、というものを知っているだろうか」

 問われて少し思案する。
 心当たりはあった。いつか小世界の不可解な構造に疑問を持ち、調べていくうちに目にした単語。ただ、どんな文献にも詳細までは書かれていなかった。

「は……はい、聞いたことくらいは。小世界の心臓部、核に当たるものだと」
「如何にも。小世界の地質や気候、生態系、更には進化や歴史の方向性をも左右する制御機関だ」
「進化……歴史まで?」

 物理的な基盤、支柱のようなものと考えていたが、我々デジモンでいえば電脳核に近いものか。いや、だとするならそこには……

「歴史の変遷、平行世界の記録が残っている可能性が……?」

 これからどうなるのか、未来の計画があるとするなら、これまでどうなったのか、過去の記録も残っているかもしれない。
 小世界を巡り、コードクラウンを調べて回る。確かにこれは四聖獣やデーヴァにはできないことだろう。
 だが、だからといって私にできるかといえば、大いに疑問がある。これまで様々な小世界を旅してきたが、私は一度たりともコードクラウンの実物を見たことがない。その実態も、今日初めて知ったくらいなのだから。
 そもそも、そんな重要なものが簡単に見つかるはずも、容易く干渉できるはずもないではないか。

「ゆえに、そなたに一つ“力”を貸与したい」

 私が疑問を口にする前に、チンロンモンが言う。

「力?」
「我々はコードクラウンへのアクセス権を持っている。これを、そなたに貸与したいと考えている」
「アクセス権……え? ええ!?」
「無論、一時的かつ限定的なものではある。できることはおおよその位置を探知し、その記録を閲覧すること。多少の天候操作程度も可能ではあるが、そういったことは控えてもらえると有り難い」

 そんなだいそれたことをするつもりはない、が、いやいや、そういう話ではない。

「なに、機会があればで構わない。そなたの旅の“ついで”程度に考えてほしい」

 私の戸惑いを知ってか知らずか、気楽にしてくれとばかりにチンロンモンは言う。
 だが、どう考えてもコードクラウンへのアクセス権など、気楽に受け取れるようなものではない。

「あ、あの……何故、私なのでしょうか?」

 知識、力量、信用。何をとってもこの役目を任されるに相応しいとは到底思えない。先程チンロンモンは「そなたら」と言っていたが、まさかベルゼブモンと二人で、などという話でもあるまい。戦いを求めるベルゼブモンにとっては“ついで”にすらなりそうもなし、私たちが行動を共にする理由、その目的も、つい今しがた果たされてしまったばかりだ。
 私の問いにチンロンモンは「ふむ」と小さく漏らす。どこか返答に困っているようにも見えたのは気の所為だろうか。

「当然の疑問であろう。だが、生憎とそなたが納得のいく答えは持ち合わせていないのだ」
「……え?」
「今のそなたには、と言うべきか。いつか旅の果てに答えを知ることになるだろう。これは……」

 などと言われて、ただただ困惑する。
 まるで意味がわからない。はぐらかされただけのようにも思えるが、チンロンモンの眼差しは変わらず真剣そのもの。だからこそ、続く言葉に私は益々混乱するばかり。

「平行世界以上に荒唐無稽な、未来の話だ」
「み、未来……?」

 は、と息を吐いた。私ではない。吐息の主は小さな声で言った。

「てめえにゃ未来も見えてるってのかよ……」

 その声に振り返る。不貞腐れたようにベルゼブモンは溜め息を吐く。声は弱々しい。意識は戻ったようだが、身体は伏せたまま、いまだ起き上がれない様子だった。

「ベ、ベルゼブモン様……!」
「くそ……まるで相手になりゃしねえ。これが四聖獣か……」

 悔しげに、けれどどこか楽しげに言う。
 負けてもベルゼブモンはベルゼブモンのようだった。

「そなたが生まれる遥か以前より戦いに身を置いてきた。年若きそなたより力を持つのは当然のこと」
「は、そーかよ」
「だが、未来を見たのは我らではない」
「え?」

 チンロンモンは私を見据え、ベルゼブモンへと目をやり、そして瞑目する。

「そなたらの歩む道はいずれ、未来への岐路に至るだろう。それは歴史の分水嶺。そしてその時、そなたらは選択を迫られることとなる」
「ああ……? さっきから何を……」
「“未来”からの警告だ。そなたらはいずれ、世界の命運を賭した戦いに身を投じることとなる」

 世界の、命運?
 言われた私の顔はさぞ間抜けなものだったろう。
 私が? 世界の命運を賭した戦いに? 投じた瞬間に死ぬ気しかしないのだが?
 さすがのベルゼブモンもこれにはしばし返す言葉が見つからないようだった。目をぱちくりとさせ、言葉を探すようにしばし、

「ひとっつもわかんねえんだが……」

 全面的に同意せざるを得なかった。
 そんな私たちにチンロンモンは小さく首を振る。

「今はわからずともよい。ただ、心の隅にでも留めおいてほしい」
「何を留めとけってんだよ……」

 まったくもってその通りである。
 いずれ世界が滅びるかもしれないと聞かされ、この凡人に何をどうしろというのか。
 ベルゼブモンも気だるげに息を吐き、ゆっくりと瞼を閉じる。

「はあ、妙に疲れた」
「しばし休むとよい。まだ喋ることも辛かろう」

 その言葉に返事をすることもなく、ベルゼブモンは寝息を立てる。無理もない。私なら十度死んでもまだ足りないであろうほどの威力を一身に受けたのだ。私の目にはどう見ても致命傷だった。
 チンロンモンは一度だけ目を瞑り、さて、と、私を見据える。

「では、返答を聞かせてもらえるだろうか」

 コードクラウンへのアクセス権を受け取り、歴史の真実を解き明かすために小世界を巡る旅へと発つか否か。まあ、未来云々を一旦横に置いておけば、それ自体は何のデメリットもないわけで、断る理由ももちろんないのだが。

「はい、私でお力になれることがあるなら、謹んでお受けいたします。それで、その……」
「そうか、感謝しよう。ああ、無論、そなたの疑問には可能な限り答えよう」
「あ、ありがとうございます……!」
「だがあまり多くは語れぬ。ここは既にダークエリア前域、そなたが長居できる場所ではない」

 浅層とはいえデータを蝕む闇の領域、不要データの分解槽とも言われるダークエリアだ。今のところ身体に異常はないが、恐らくはチンロンモンの庇護下にあるがゆえ。先程我々を治療した蛍火が僅かながらに残っている。これが防壁の役割をしているのかもしれない。
 私は、取り急ぎ聞くべきことを口にした。それは、私の旅の終着の話。

「チンロンモン様が平行世界を調べる理由、懸念されていることは、やはり黙示録の怪物なのでしょうか」
「如何にも。我々は世界の深淵、ダークエリアの最深層にアポカリモンを封じた。だが、十闘士に敗れたルーチェモンもまた、そこに眠るとされている。であれば……」

 チンロンモンの言わんとしていることは、察しがついていた。世界が統合されたとして、両者は同じ場所に別々に封印されているのか。あるいは……。
 それは考え得る最悪のケース。その邂逅は世界に、破滅以外の何をもたらすというのか。

「アポカリモンとルーチェモンもまた、統合されたのか――」

 世界を滅ぼしうる二匹の怪物。その完全なる打倒は叶わず、英雄たちは封印という手段をもって世界から隔絶した。
 生き残った四聖獣は永遠を生きる神として封印の監視者となった。命尽きた十闘士はその力と意志を後世の後継者たちに託した。再び怪物が、世に解き放たれぬように。
 それぞれの歴史においては間違いなく最善手。他に打てる手などあるはずもなかった。けれどそれが、あるいは最悪手となってしまっていたのかもしれないのだ。誰にも想像だにできなかった、世界の統合という形で。

「アポカリモンとは、何者なのですか」

 黙示録と呼ばれる予言書に記された世界の敵。“火の壁”の向こう側からやって来た異界の魔物。この世の何物とも類似しない異物。調べて分かることはそんな抽象的なことばかり。確かなことは、この世界に生けとし生けるものの敵であるということ。
 チンロンモンはややを置き、誰かの言葉をなぞるようにぽつりと言った。

「過去より来たりて未来を阻むもの。進化の旅路の落伍者たち」
「進化の……落伍者?」
「生存競争に敗れた古き種の成れの果て。その悲哀と憎悪、怨念の集合体と、自らをそう称していた」

 真偽の程は定かでない、とでも言いたげにチンロンモンは語る。それが本当なら確かめる術などあるはずもないだろう。
 生存競争に敗れた種、生き残ることのできなかったものたちの怨念、か。つまりは存在することができなかった可能性の――いや、待て、それではまるで……。

「まさか、アポカリモンとは……」

 思い至った可能性を口にする、までもなく、チンロンモンの表情は既にそれを肯定していた。

「統合されることなく消滅した、平行世界の……?」

 世界が消滅し、にもかかわらずそこに生きるはずだったものたちの怨念だけがこちらの世界に紛れ込んだ、とでもいうのか。否定されたものたちから、肯定されたものたちへの復讐、だと。

「我らもその可能性を考えた。彼らの言葉以外に根拠などないが」
「では、だとするなら“火の壁の向こう側”には……」
「ダークエリアの最深層は我らさえ立ち入れぬ。確かなことは言えぬが……“この世界”で死したもののみならず、平行世界のデジモンたち、ともすれば、“破棄された世界”そのものが行き着く場所なのか。あるいは、ダークエリアの先に平行世界への道があるのか」
「ダークエリアの、先に……いや、しかし、それでは……」

 ダークエリアはデジタルワールドの最深層。物理的にそこより先に大地など存在しない。逃げ場のない世界の最奥。だからこそ、封印という手段が成立したのだ。
 だがもしその先に別の世界があるとしたら?
 抜け穴のある牢獄に閉じ込めて、罪人がそこに留まるはずもない。
 ともすれば、英雄たちの行為はただ、別の世界に厄介事を押し付けただけに過ぎなかったのかもしれない。
 無論、現時点では数ある可能性の一つに過ぎないこと。
 四聖獣たちが生まれるより遥か以前に“この世界”で滅んだデジモンたち、と考えるほうが余程可能性としては高いだろう。生命循環の終点であるはずのダークエリアでなぜそんなものが残存したのか、という疑問は残るが。
 しかしこの仮説は、四聖獣や十闘士を英雄視・神聖視するものたちにとって、心に大きな影を落とすことになるだろう。あるいは、信仰そのものを揺るがしかねないほどに。こんな話、他言できるはずもない。いや、だからこそ私のような不敬者を選んだのかもしれないが。

 そこまで考えたところでふと、手足の先に違和感を覚える。ぴりぴりとした痛み、消えかけた蛍火が何を意味するかはすぐに理解できた。が、とりあえず置いておく。

「さて、まだ疑問は尽きぬと思うが……もうあまり猶予はないようだ」

 だがどうやらそういうわけにもいかないらしい。
 ダークエリアの浸食も四聖獣との問答の代償と思えば安いもの、いやむしろ破格だが、ではどうぞとは言ってもらえそうもない。
 この感覚からして、私がぶっ倒れるまでものの数分だろう。というか、既に思考の邪魔になるくらいには痛くなってきた。

「今一度問おう。コードクラウンへのアクセス権、受け取ってもらえるだろうか」
「はい、勿論です」

 そう返せばチンロンモンは満足気に頷いて、その長駆の周囲を漂う宝玉の一つが収縮しながら私のもとへと飛んでくる。
 私が手を伸ばせば宝玉は瞬き、粒子となって私の中へと溶けていく。己のものではない熱が体内を巡るような、そんな感覚。青龍の体外を廻る十二の宝玉の一つは、私の身体の一部となったようだった。
 うん、いや、というかこれ、チンロンモンのデジコアでは?

「アンティラモン」
「はっ」

 呼ばれて即座に卯の神将がどこからともなく現れる。
 私の戸惑いにもまるで気付かぬ様子で、マイペース兎は魔法陣を展開する。私とベルゼブモンの足元に現れた陣は降りてくる時の階段と同種のものだろう。実体を持った足場は私たちを乗せて浮かび上がる。

「あ、いや、あの……!」
「扱い方は感覚的に理解できるだろう。では、よろしく頼む」

 その言葉を聞き終えるやいなや、魔法陣は瞬く間に上昇する。形も溶けて上から下へと流れる景色、気付けば雲海を抜け、海中を抜け、暗闇を抜けて――このまま行けるはずのない場所も通り過ぎた気もしたが、気付けば私たちは地上へと辿り着いていた。





「では、さらばだ」

 アンティラモンはそれだけ言うと煙のように消える。
 残されたのは私たち……私とベルゼブモンと、いつの間にか連れてこられていたベヒーモスだけ。前輪を傾け、鉄の獣も戸惑っているようだった。見渡す限りの、荒野のど真ん中だった。
 空を見上げれば久しぶりな気さえするリアルワールド球。恐らくは物理レイヤの荒野だろう。私たちが2週間近くもかけた道程が帰りはほんの一瞬だ。原理はさっぱりだがゲートに近いものだろうか。
 そんなことを考えて、ふと思い出す。言われた言葉をなぞり、己の内のそれを、感覚のままに稼働させる。
 見た目に変化はない。ただ、動いてはくれたらしい。地面の下、遠い遠い場所にその存在を微かに感知する。
 チンロンモンから受け取ったコードクラウンへのアクセス権、それに付随する、コードクラウンの探知能力。確かに感覚的に使い方は分かるようだ。ただ、探知といっても大まかな距離と方向くらいが精々か。後は足で地道に探すしかなさそうだ。

「はぁ……」

 と、大きな溜め息を吐く。
 どうにも、まだ少し実感が無い。
 ベルゼブモンと一緒に旅をして、四聖獣と会って、話をして、世界の秘密の一端に触れ、その核心へ迫る手掛かりを得た。
 だなんて、心も身体もどこかふわふわとして、何だか現実味がなかった。
 頬でもつねってみようか。いや痛いな。うん痛い。
 無駄なことはすぐ止めて、これからのことを考えるとしよう。
 差し当たっては……。
 ちらりと横合いへ目をやる。ベルゼブモンはいまだ目を覚まさない。大きないびきをかいて元気そうだが、呼び掛けたくらいではまるで反応がない。つい先程死にかけた相手を無理に起こすのも気が引けて、さてどうしたものかと途方に暮れる。

「ふぅ……ふっ、はは」

 四聖獣の領域からの帰還、コードクラウンに、隣で寝ている魔王様。
 何だかいろいろなことがありすぎて、無性におかしくなって、つい笑ってしまう。駄目だ、頭の整理が追い付かない。
 私は荒野に寝転がり、山積みの問題を脇に置いてしばし空を眺めることにした。
 今日くらいはいいだろう。何も考えない日もたまにはいい。
 優しくそよぐ風に、データ屑・ダストパケットが荒野を転がっていく。

 こうして……一つの物語にピリオドが打たれる。
 荒野を彷徨う根無し草のような、はぐれ魔術師の物語。その、序幕に。
 これは始まり。やがて世界の秘密を解き明かし、その命運を左右する大戦にさえ携わることとなる、小さな魔術師の、その長い長い物語の。
 ここより先に何が待つのか。それを知るものは、まだ僅か。

「賽は、投げられたか……」

 霊木の義肢で岩肌を踏み、白髪の間から覗く紅玉の義眼で魔術師を見つめ、賢者は、詠うように呟いた。
 天理に背くその身の運命を真っ直ぐに見据え、風になびく外套を翻す。
 ふと、なにかに駆られたように魔術師が目を向けるも、そこにはとうに誰の姿もなかった。

 それは始まりと、終わりの物語。
 今はまだ小さく非力な魔術師が、辿り着くのは途方も無い未来。
 だがこれは、その果てなき道程の、確かな第一歩であった――


to be continued...